月下の錯綜模様 〜混戦〜 (2/3)




 ****


 ―――……ぃっ。ぉ……

 なんだろうか。
 身体が揺れている気がした。
 
 ―――……き! ……ろっ

 でも、それは無視することにする。
 この身を漂わせるような安らぎが堪らない。
 全身を包む温もりに、さながら丸くなる猫のように安穏と笑みを浮かべる。

 ―――……きろっ。……ぃ! く、きろ!!

 その声は煩わしく思う反面、何処か心を癒してくれるものであった。
 揺れが激しくなり、貝のように塞いでいた耳は徐々に遠くなって。 
 
 ―――…………
 
 そして、揺れが収まった。
 これで妨げるものは何もない。
 偉大なる欲求に任せて、再び真なる安らぎを得ようと旅立とうとしたところで―――

「―――名雪起きろおおおおぉぉ!!」

 水瀬名雪の頭部に衝撃が走った。
 目から火花が出るほどの痛みに、彼女は飛び起きる。
 名雪は寝惚け眼に涙を浮ばせて、まずは事態の把握に勤しんだ。 
 周囲を見渡すと、綺麗に整頓された室内に、縮こまったように横たわるカエルの縫いぐるみ。さらに、大小様々な目覚時計が錯乱している。
 見違えるべくもない自身の部屋であった。
 そして、何事もなく彼女の部屋から退出しようとする男性の姿。

「ううぅぅ……。酷いよ祐一ぃ……」
「酷いのはお前の寝相だ。朝食出来てるから、準備してさっさと降りてこいよ」

 彼女に容赦なく拳骨を落としたのは、最近この家に引っ越してきた従妹の相沢祐一。
 名雪の非難の声にまったく悪びれる様子のない祐一は、彼女を置いてさっさと下階に降りていった。
 ぶつくさと文句を垂れ流しながらも、名雪は学校指定の制服へと袖を通していく。
 祐一のせい、もとい祐一のおかげで、ある程度覚醒した名雪は寝惚けることもなく準備を終えて下の階へと降りていった。
 リビングの扉を開けると、暖房の熱が名雪を出迎えた。
 香ばしい朝食の匂いに、彼女は頬を緩める。
 そして、第一声。

「おはようございます〜……」
「……相変わらず気の抜ける声出して……」
「おはよう。名雪」
「おはよっ! 名雪さん!!」
「……もぐもぐ」

 既にテーブルで食事を開始していた面々。
 溜め息を零しながら、食後のコーヒーを嗜む祐一。呆れ返った視線を向けていた。
 優しげな微笑を浮かべて、頬に手を当てながら出迎えた秋子。名雪の母親だ。
 最近になって朝食をご馳走になりに来る元気いっぱいの少女、月宮あゆ。
 そして、こちらも最近家族の一員になった沢渡真琴。こんがり焼けたトーストに夢中でこちらに気付いていなかった。

「お母さん〜。わたしのイチゴ〜」
「はいはい。ちゃんとあるわよ」

 秋子が用意した自家製苺ジャムを、それこそ山盛りにパンへと塗りたくる。塗るというより乗せているともいえるが。

「いただき〜ます」

 カプリと食いついた。
 口内に広がる甘酸っぱい苺の酸味が、名雪の舌を楽しませる。
 見えているとも思えない糸目で、彼女は着々と自身の朝食を征服していく。
 苺ジャムでご飯三杯はいけると豪語する名雪の捕食っぷりに、何時もながらに祐一は未知の生物を見るかのような視線を寄せる。

「よくもまぁそこまで喰えるもんだな……」
「ふふ。名雪の大好物ですからね。祐一さん、コーヒーの御代わりはいかがですか?」
「あ、お願いします」
「はい」
「あうー! 秋子さん、真琴にも頂戴!」
「えぇ。二人とも少し待っててね」

 秋子は二人のカップを受け取って、ポットのあるキッチンへとへと向かった。
 真琴は再びパンの攻略に取り掛かり始めるが、手持ち無沙汰な祐一が口を挟んだ。

「おい真琴。パンのカスを落としすぎた。もっと上品に食べられないのか?」
「うっさいのよ祐一の分際で! 真琴がどういう食べ方をしようが関係ないでしょ!」
「片付けるのはお前じゃなくて秋子さんだろうが。お前こそ居候の分際で態度がでかいぞ」
「祐一だって同じクセにーーー!!」

 顔を赤くした真琴は、テーブルに広がるパンのカスを一つに集め始めた。
 珍しく人の言葉に従ったなと感心したのも束の間、収束したパンのカスを掌に乗せ、あろうことか祐一目掛けて吹きかけた。

「―――ぶわっ!? おいこら何しやがる!!」
「べーーだっ」

 慌てふためく祐一の姿に、ざまあ見ろといわんばかりに愉快気に笑う。
 勿論、祐一とてここまでされた以上、友好的手段など既に皆無。 
 不気味な笑みを浮かべながら、あゆが食べていたパンの受け皿へと手を伸ばす。

「借りるぞあゆ」 
「うぐぅ? そんなパンのカス何に使うのさ?」
「いやいや、馬鹿娘に怒りの鉄槌を少々……」

 パンを咥えながら怪訝そうに見詰めるあゆは祐一の動向を見守る。
 彼は口笛を吹き鳴らし、自然さを装って真琴の背後に立つ。
 邪魔な奴がいなくなったとばかりに幸せそうにパンを齧っていた真琴だが、後方で愉悦に顔を歪める祐一の姿に気付いていなかった。
 余りの邪悪な笑みに、あゆは頬を引き攣らせながらも祐一の行動を制止するつもりはないようだ。
 正面に座るあゆの微妙な視線に気付いた真琴は、なんだろうと思った瞬間、彼女の長い頭髪が一気に舞い上がる。
 高速に動いた祐一の指が真琴の首元の襟を引っ張って、さらに一方で持った受け皿の溜まりに溜まったパンの屑を情け容赦なくその隙間に投下した。

「ひぃぎゃあああああ―――!!」

 素肌を通過するざらざらとした感触に鳥肌が粟立ち、真琴は溜まらず悲鳴を上げて飛び上がった。

「なになになに!? なんなのよーーーっ!!」
「盛者必衰……悪は滅んだ」
「うぐぅ……祐一君酷すぎるよ……」

 苦笑しながらリビングに戻ってきた秋子から、冷静にカップを受け取って何事もなくコーヒーを啜る祐一。
 真琴にパンのカス云々と言っていた祐一の方が、極めて傍迷惑であった。
 そんな騒がしくも、平和な朝食風景。
 だが、今日はまた一味違った。
 ピンポーンと、家内に間延びした呼び出し音が鳴り響く。

「あら、どなたかしら……」
「俺が行きますよ」
「そうですか? それじゃ、お願いしようかしら」
「お願いされました」

 立ちかけた秋子を制して、祐一が来客の対応をすべく玄関へと向かう。
 真琴は依然と服から抜け落ちぬパンの屑に四苦八苦しており、あゆにまで手伝わせる始末。 
 まったくのマイペースで食べている名雪に、玄関の方を気にしている秋子。
 そんな四人の耳に、驚いたような祐一が届いた。

『うおっ。どうしたんだお前ら……』
『たまには一緒に登校しようと思ってね』
『へぇ。……で? 何でお前までいるんだ?』
『酷っ!! この対応の差はなに!? とまあ、来てやった俺達を持て成せよ』
『なに言ってんだか。とりあえず上がれよ』

 リビングに戻ってきた祐一は二人の来客を引き連れてきた。

「ん〜。香里に北川君だ〜。おはようございまふ」
「……水瀬、完全に寝てないかこれ?」
「やっぱりこの子は食事中も寝てるのね……」

 名雪と祐一の同級生、美坂香里と北川潤だ。

「あらあら。二人とも、いらっしゃい。コーヒーと紅茶どちらがいいですか?」
「あ。秋子さん、おはようございます。紅茶をお願いします」
「おはようございます! ロシアンティーを一杯」
「また微妙なものを……」

 秋子の朗らかなお持て成しに、香里と北川は遠慮なく甘えることにする。
 無難な香里に比べて、調子のいい北川の采配に呆れた視線を寄せる祐一と香里。
 だが、秋子の瞳が妖しげに光った気がした。

「あ、ならいいジャムがあるんですよ」

 ロシアンティーを所望した北川へ、秋子は秘蔵の一品とも言えるジャムを取り出した。
 北川を除く面々が凍りついた。
 秋子が本当に幸せそうに取り出す瓶に詰められた特性ジャム。まさしくオレンジに輝いていた。

「あー!! 香里よく見れば時間がやばそうだな!?」
「え、えぇ。そうね早く行きましょうか!」
「え? え……?」
「ちょ、待ってよ〜。置いてかないで置いてかないで〜」
「馬鹿。食事はゆっくりと噛みしめて味わうものだぞ? 大丈夫! 先生には事情を説明してやるから」
「そうよ。抜かりはないわ」
「ご、極悪だよぉぉ……」
「え、いや。お前ら何をそんなに慌てて……」

 顔を青褪めさせる名雪と、事態が掴めず混乱する北川。
 真琴は隅で震え上がり、あゆに至ってはダッフルコートを羽織って既に帰り支度は万端だ。
 滅多にない試食を行ってくれる人材に、心底嬉しそうな笑みを浮かべる秋子の姿に、祐一と香里は顔を引き攣らせる。
 
 ―――騒がしくもあり、平和である日常の一端。

 何時でも笑みを浮かべて、親友達と過ごす毎日にご満悦な自分。
 慌てながらも、それでも悪くないと思いつつ、名雪は母親である秋子へと口を開いた。

「ねぇおか……さん? え? な、なにやっているの……」

 ―――それは唐突に瓦解する。

「ふふ。名雪もいっしょにどうかしら? 楽しいワヨ?」 
「ひぎっ! ぎぃ! がっ! あぅ!!」

 秋子は楽しそうに名雪へと笑いかける。
 ―――真琴の指を一本一本包丁で千切り飛ばしながら。

「あ……な、にこれ? え?」
「―――どうしたの名雪さん?」

 椅子からずり落ちた名雪の頭上から、あゆの言葉が掛かる。
 ポタリ。ポタリと。彼女の座り込んだ膝に水滴が零れ落ちてきた。
 仰ぎ見る。

「―――ひっ!!」

 そこには異様なあゆの姿。
 後頭部から眉間に掛けて抉られたような真っ黒な穴が広がり、踝からぱっくりと横に裂けて両の眼球が今にも零れ落ちそうだった。    
 鼻から上は原形を留めておらず、ドス黒い血液は笑みの形を浮かべる口許から滴っている。 

「―――やぁぁぁ!!」

 頭を振って後退る名雪だが、ドンっと何かにぶつかった。
 恐る恐る振り返ると―――

「もう。気をつけなさいよね? 世話がヤけるンダかラ」
「あ、あぁ……」

 首根が異常に捩れ曲がり、口の端から舌が垂れ落ちて、ギョロリギョロリと忙しなく動く眼球が名雪を様々な角度から覗き見ていた。
 香里だった。
 リビングは、何時の間にか血みどろの空間と化していた。
 おかしい。おかしい。確かに自分は食事をしていたは筈。秋子の朝食を頬張っていた筈。

「うふふ。ツギは、足かしらネ?」
「は、ぎぎ……っが! がげぃ! きぃぁ! っぁ、ぅぁ!」

 おかしい。おかしい。おかしい。何時もみたいに真琴が悪戯をして祐一は怒っていた筈。

「アハハハハは!! アハはハハ!! 目玉もどるかなもどるかな」

 おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。珍しいことに香里と北川までもが迎えに来てくれた筈。

「あぁ……あぁぁぁ……う、あぅあァウぁァァァ」

 絶対におかしい。いや、おかしなことはなかった筈なのに、絶対におかしい。
 そうだ。こんなのは違う。おかしいんだ。そうだ夢を見ているのだろう。そうにちがいない。
 後ろからしな垂れかかってくる香里だって幻に違いない。
 意を決して振り向いた瞬間。
 ズドンという轟音とともに、あらぬ方向に歪んでいた香里の後頭部が吹き飛んだ。
 髪の毛が付着した肉片が周囲を打ちつけた。
 ピチャリと、名雪の顔面を真っ赤な塗料が降りかかる。
 ―――考えるな。

「どーん! どーん! とりあえずふっとべー。ふっとべー。水瀬もやろうゼ? どーんどーん」

 よく分からない形状で、辛うじて銃だと思えるものを持った北川。
 彼は、香里だけに留まらずに秋子やあゆに真琴を思うままに吹き飛ばしていく。自分さえも吹き飛ばしていく。
 赤黒いドロのようなものが飛び散り、千切れた手首や手足が吹き乱れ、笑みで固定された顎が飛び交い、風船のように眼球が弾け飛び。
 捻じ切れた腸が地を踊り、鼓動する生臭いものが抉れて潰れ、ピンクのぶよぶよした肉がめくれ上がって。
 ―――もう訳が分からない
 部屋は名雪を残して真っ赤に染まり、ぞわぞわと人間―――否、肉の塊が蠢いていた。
 ―――足りない。まだ足りない。

「―――ぃち? ゆ、いち? 祐一? 祐一、ゆういちっ!!」

 祐一がいない。まだいない。まだ見てない。
 右に左と、下に上にと首が千切れそうになるほど視界を回転させる。
 ―――いない、いない、いない!!
 何故か祐一がいない。どうしてか分からない。どうしていいかわからない。
 みんな肉に変わった。みんな泥に変わった。みんなゴミになった。
 ―――祐一もゴミ? 違う違う違う!!
 腐乱した肉を掻き集める。掻き漁る。

「どこ祐一、どこ? いじわるな祐一どこなの? ねぇどこ? どこ、どこにいるの? いるの? ねえやだねぇ?」

 巨大な肉団子としか思えない塊に顔を突っ込ませて覗かせる。
 でもいない。いるわけがない。でも探さなくてはならない。
 いる。絶対いる。何処かにいる。必ずいる。見つけるまでやめはしない。
 ―――漁る。彼女は漁る。赤が付着していない場所などないぐらい全身を濡らして彼女は漁る。
 見つからない。でも見つからない。
 でも、横から息遣いが感じれた。おかしい。さっきまでは聞こえなかったのに。
 ―――でもいいや。おかしくてもいいや。

「―――祐一!! さがして……た、んだ、え?」
「名雪」

 振り返った名雪の目は、確かに祐一を捕らえた。ゴミなどではない、確かな祐一の姿。
 嬉しい。嬉しい。やっと見つけた。でも―――

「あ、ぁぁ。―――あぁぁあああぁぁあああ!!」

 肩口に刺さるナイフはなんだろうか。
 能面のように微笑えんでナイフを刺している祐一はなんだろうか。
 名雪の名前を小さく囁いて、彼はナイフを動かした。
 スーッとナイフを縦に動かすと、これは不思議。
 ポトリと、名雪の腕が落ちた。

「―――わ、たしの……うで、は?」
「名雪」

 噴水のように迸る自身の血液を唖然と眺める。
 ―――あ、きれいだな……
 放物線を描いて噴出する真っ赤な血に、心を震わせた。
 そんな名雪の頬へと、祐一は手を伸ばす。

「名雪」
「―――あ」

 ナイフが、胸を貫いていた。一緒に、下半身も抜け落ちていた。
 上半身のみとなる名雪を、祐一は優しく抱きとめる。
 そして、高く高く。それこそ父親が子供に高い高いをしているが如く。
 祐一は名雪を持ち上げた。

「名雪」
「え、え。まって。まってよ祐一。潰すの? また潰すの。わたし、潰されるの? え? あの時と一緒? 違うよね? うん、ちがう―――」

 グシャリと、名雪の身体が地に押し潰された。
 ―――いつかの雪ウサギのように。

 ****


「―――っ!!!!」

 ガバリと跳ね起きた。
 異常と思えるほどに身体を震わせながら、水瀬名雪(104)は全身汗だくで目覚めから覚醒する。
 喘息のように荒い吐息を吐き出して、彼女は混乱した思考で辺りを見渡した。
 見渡すが、名雪の視界は漆黒で閉ざされている。自分が柔らかいベットに横たわっているという感触しか現実を把握できなかった。

「あ、あぁぁ……や、やだ。お母さん何処? 祐一? 何処にいるの……!!」

 視界が定まらないと、思考を整理させないと。
 ―――嫌が応にも先程の悪夢を思い出さずに入られない。
 もう一度思い出してしまうと、彼女の精神は恐らく保ちきることはできないだろう。
 言い知れぬ不安に、名雪は真っ黒な闇を狂乱したように練り歩く。
 何度も同じ場所を行ったり来たりしながら、幸運なことに電気のスイッチを発見する。
 躊躇なく押した。

「―――ぅ」

 途端に広がる電気の灯火。
 急速の光量に中てられて、堪らず目を瞑る。
 そして、恐る恐る見開いた先には、自身の部屋など存在していなかった。

「ど、どこ……ここ。わたし、知らないよ……」

 生活に必要な用品は揃っているものの、使われた痕跡のないモデルハウスのような小奇麗な一室。
 ―――そうして彼女は思い出した。
 混乱の極みに達する映像を見せられ、そこから続けざまに狂った人間達に襲われたことを。
 人をそれこそゴミのように見下ろす国崎往人に、哂いながらナイフを突き立てた伊吹公子(007)の姿が思い起こされた。
 公子はともかく、往人に関しては完全に冤罪だが、あの状況での彼の顔立ちは名雪の混雑した主観をさらに狂わせる。
 そんな悪漢と思っていた二人から命辛々逃げ延びた名雪であったが、確かに意識があった最後の瞬間、朧げながら母の温もりに包まれた記憶が残っていた。
 
「そうだ。お母さん、お母さんがいたんだ……」

 期待の視線を周囲に寄せるものの、秋子の姿は一向に見当たらない。
 
「え……どうして? 隠れてるの、やだよ……酷いよ、酷い……」

 カチカチと噛みあわない歯茎を揺らして、名雪は正気を失ったかのように髪を振り乱す。
 自覚なく涙を散らせ、彼女は崩れ落ちるように縮こまった。
 目を力いっぱい瞑って、耳を力いっぱい塞ぎこんで、広がる現実を否定するべく殻に篭もろうとする。
 だが、甲高い音が鳴り響いた。びりびりと窓が震える。
 
「ひっ!!」

 立て続けに連なるその音は、彼女がこの島で幾度となく耳にした音。
 ―――即ち銃声だ。
 それも限りなく近い距離で。それこそ、自身が点在する民家の真正面で。
 そして、聞こえる怒声と苦しむような呻き声までもが名雪の耳へと届く。
 衝動的に立ち上がり、ベットに敷かれた布団に身を隠そうと手を伸ばすが、目前の光景に喉を引き攣らす。

「―――っぁ!?」
「……?」

 何時の間にいたのか、設置されたもう一つのベットに上体を起こした少女が存在している。
 視野が狭まる名雪は、今の今までまったく気付かなかった。
 少女―――上月澪(041)は蕩けた瞳を擦りながら名雪を茫然と見詰めていたが、はっと気が付いたように傍に置いていた自身の所持品へと手を伸ばす。
 慌ててスケッチブックに何かを書き込む様を、名雪は何事か悲鳴を洩らしながら後退り始めた。

「なに、なにこの子? 知らない、こんな子知らない……っ」
「…………」

 もどかしそうに筆を動かしていた澪だが、すべきことを終えたのか、名雪へ向けて勢いよくスケッチブックを差し出そうとする。
 ―――それがいけなかった。
 名雪の脳裏が、返り血を浴びた一人の女性が襲い掛かってくる場面を反芻させた。
 何かを突き出そうとする公子の姿と、何かを突きつけようとする澪の姿。満遍なく一致した。

「―――ああああああぁぁ!!」
「っ!?」
 
 澪のスケッチブックを叩き落とし、彼女の小さな身体を思いっきり突き飛ばした。
 体重の軽い澪は容易く吹き飛んで、ベットの角に頭を打ちつける。
 苦痛に顔を顰める彼女の額からは、偶然切れたのか一筋の血が滴り落ちた。
 勢いで危害を加えた名雪は、それこそ悪気など皆無の様子で舌足らずに言葉を繰り返す。
 
「違う、ちがうよ……悪くない私は悪くない―――!!」

 客観的に見て、それは自己正当化にしか聞こえはしない。
 だが、それこそが彼女の自我を保つ唯一の方法。
 自分は決して悪くないと、何度も口に出して肯定しながら笑みを浮かべ始める。
 泣き笑いともいえる表情で、彼女は今も騒がしい外の喧騒へと目を向けた。

「そうだよ……お母さんがいないはずなんてない。いるんだよね、そこにいるんだよね?」


 浮浪するかのような千鳥足で、名雪は扉へと歩み寄る。
 家の外には確かに母親がいて、従兄の祐一までもが共にいるという妄想を抱いて。
 希望に縋る凄惨な笑みを浮かべて、彼女はゆっくりと扉を開け放つ。
 
 ギイッと開閉音を響かせて、室内の光が漆黒の闇へと飛び出した。
 そよぐ夜風に晒されて、名雪は日常を探すべく目を凝らす。
 
「―――おか……」

 広がる光景に絶句した。
 血溜まりに沈んだ幾多の人間に、その身に血を濡らせて笑う幾人の人間。
 ―――それは役者の違う、先程の正夢といえる地獄絵図が展開されていた。
 瞳孔が広がり、彼女の自我がとうとう弾ける。

「いやあああああああああぁぁぁ!!」
『―――っ!?』

 地の底から滲み出るような狂乱の雄叫びに、相対していた四人、そして春原と渚は例外なく肩をビクリ震わせた。 
 警戒に緊迫した空気を唐突に破って現れた名雪に、皆は心臓を掴まれたような驚きを見せる。
 そして、この中で刺激を与えた時に過剰な反応が返ってくる人間は二人。
 ゲームに乗った綾香に晴子だ。
 綾香が手段を持たず、持つのは拳銃を所持する晴子。名雪の目障りな甲高い声に、晴子は煩げに拳銃を発砲する。
 
「っ」

 だが、晴子の行動も予見でき、尚且つ名雪の直ぐ傍へと控えていた春原が彼女を間一髪押し倒した。
 自身の目の前で人が殺されるのは、これ以上耐え切れなかったからだ。
 二人で縺れ合いながら地面を転がり、銃弾は開いた扉を抜けて室内に飛び込んでいった。
 ガシャンと、何かが崩れる音が聞こえる。室内の家具に命中したのだろう。
 晴子は小さく舌打ちをして、追い討ちをかけるべく倒れこむ二人へと拳銃を向ける。
 ―――場が再び動き出す。

「やめやがれっ!!」

 二人を狙う晴子へ向けて、秋生は上体を屈めて疾駆する。
 握りこんだ薙刀を翻し、峰打ちを狙って彼女の頭部へと振るった。 
 一刀は晴子の前髪を浅く揺らすだけで、彼女は既に後方にステップを踏みながら回避している。
 追撃しようと秋生は踏み込むも、眼前に銃口の先端と対面した。

「―――逝ねや!!」

 秋生は踏み込んだ足を即座に横方へと力を込めて転がり、勢いを止めるために薙刀を地へと突き刺した。
 直後に銃弾で弾ける地面を確認することもなく、晴子の視線は正確に秋生の姿を捉えている。
 転がり先を予想していた晴子は、これで仕舞いとばかりに拳銃を放つ。
 だが、秋生とてそれが格好の的だと理解しているのだから、当然対処を考えている。
 地へと突き刺さった薙刀を両手で強く握り、さながら器械体操のように薙刀を起点にして身体を持ち上げた。
 秋生に直撃することなく通過する銃弾を、晴子は目を見開きながら驚きに顔を歪める。

「ちっ! なんちゅう奴……っ」

 地に足つけることなく上半身の腕力だけで身体を支えきり、そして両腕に更なる力が篭めて脚部を晴子へ向けて旋風する。 
 秋生の振り切った踵が晴子の頬を抉り、彼女の視界は強引に転換させられた。
 たたらを踏むが、それでも倒れない晴子は即座に秋生を補足するべく目線を走らせるが、彼は既に懐に潜り込んでいる。
 自身の腹で揺れる他人の頭髪に気付いた時には、勢いの乗った強烈な秋生の肘鉄が鳩尾に沈んでいた。

「―――!!」
「―――くっ」
 
 晴子の身体は吹き飛んで一瞬足が地を離れるが、唯では転ばないとばかりに倒れ間際に銃弾を発砲した。
 すぐさまサイドへステップを敢行するが、それでも数発は秋生の身体を掠らせる。
 痛みで着地に失敗しそうになる秋生の隙を狙って、晴子は吐き気を催す身体を制して距離を取った。
 秋生は追撃を諦め、突き刺さった薙刀を回収してお互いで睨み合う。

 正しく一瞬の攻防だが、その隅では拳銃を持たない敬介と綾香が隙を窺い、さらに春原も奮闘していた。

「お、おい! ちょ、暴れるなよ!! 中に避難したほうが―――」
「いやぁ! いやあ! 離して離して!! ああああああああ!?」

 狂ったように暴れる名雪を、春原は軋む身体に我慢を利かせて羽交い絞めにする。
 彼女の無茶苦茶に振り回す両腕や両足が、彼の腹や顔面を容赦なく叩く。
 春原は怒鳴りつけたくなる衝動を堪えて、何とかして彼女を民家の中へと非難させようと四苦八苦していた。
 正気じゃない彼女を混戦の場に置いていたとしても、良くて殺されるのが落ちだ。
 下手にこの場に干渉させて、春原からしたら唯一の味方とも言える秋生の邪魔を仕出かした日には目も当てらない。
 自身の衰弱した体力では、既に戦力とは成り得ないのだ。
 なればこそ、無防備な名雪や渚、そしてるーこ達を率先して保護するのは自分の役目。
 いや、役目以前にそうすることで彼もまた矜持を保とうとしていた。
 考えを綾香に否定され、るーこを止めきれず、挙句の果てに死人までも出してしまったがために、不甲斐無さという苦悩が彼を苛んだ。
 少しでもいい。
 少しでも、理緒のように理想的な終焉を迎えるために出来ることをして満足がしたい。
 今現在で、春原はまだ何も成し遂げてはいない。
 手始めといってはなんだが、まずは狂気に身を任せた名雪をどうにかするべきなのだ。 
 
「ぐぁ! 痛っ、痛いって……。クソ、大人しくしろよ!!」
「やああぁ! やああ!! 助けて! 助けて!」
「―――名雪っ!!」 

 だが、偶然は春原の都合を嫌うのか、名雪の母親である水瀬秋子(103)が凄まじい形相で現れた。
 秋生の件といい駆けつけるタイミングに何とも都合が良い。
 しかし当の本人からしたら、それは誤解を生み出す状況というほかなく、余りにも間が悪いといわざるを得なかった。
 
 他を寄せ付けない名雪の聴覚だが、待ち望んでいた安息の声にとうとう動きを止める。
 今までの抵抗が嘘であったかのように身体が弛緩し、ずれた焦点が徐々に秋子の姿を捉えていく。 
 お母さん、名雪はそう小さく呟いて、そして希望に満ち溢れた顔で絶叫した。

「―――お母さん助けてっ!!」

 今までで甘えに縋ったことは多々あれど、それでも秋子は名雪の頼みごとを無碍にしたことはなかった。
 だから、自身の精一杯の懇願を、彼女が受け入れないはずがない。
 何時もの生活風景のように、何の迷いもなく秋子は口にする筈だ。

「了承」

 ―――了承と。
 笑顔で頷く秋子の視界が切り替わる。
 助けを求める娘を羽交い絞めにする存在。
 ただ、それだけ。
 老若男女関係なく、それこそ識別の必要もない。
 名雪を襲っている、排除すべき人間。ただそれだけだ。
 娘に見せた微笑から一変。その一線を隔した冷酷な表情が、春原を射抜いた。
 
「―――ひぅ。う……」


 純粋なる殺意を一身で受けてめて、春原は潰れた悲鳴を喉から洩らす。
 絶対に逃がさないという凄惨な視線が、彼をその場に恐怖で縫い付けた。
 ゆらりと、秋子の腕が持ち上がる。言うまでもなく拳銃が握られていた。
 ―――拳銃の先端から、躊躇なく銃弾が発射される。
 気が付けば、春原の頬を抜けて背後の民家へ着弾していた。
 焼け焦げたような匂いと痺れるような痛みが頬から伝わってくる。春原の頬を、銃弾が掠らせていた。
 それは、威嚇なのか。もしくは牽制か。
 秋子の眼光を直視している春原は、何れも違うということに気が付いていた。
 ―――先の一発は、単なる誤差修正。
 秋子は銃口をほんの少し横にずらして、無常な黒い穴と春原の視線が交差した。
 数秒後、彼の眉間へと鉛玉が突き刺さることだろう。
 口をポカンと開けて、何処か他人事のように身を硬直させていた。
 瞬き一つしない秋子の双眸に中てられて、足を動かそうという概念は根元から消失し、抗う気力さえ沸き起こらなかった。
 嗚呼ここで死んじまうんだろうな、ぼんやりとそう思っていた春原に、それでも救いの手が差し伸べられる。

「―――春原さん!! 逃げて! 逃げてください……!!」
「っ!?」

 渚の必死な呼び掛けに、春原は我に返ったように現実へと戻る。
 急速に浮上した明確なる意思が改めたように思考を混乱させるが、それでも最優先事項だけは即座に弾き出す。
 彼は一も二もなく即座に屈みこんだ。
 チンッと銃弾が民家の壁を削り飛ばす。

「行ってください!」
「で、でも……」
「―――早くっ!!」

 滅多に出さない渚の大声に背を押され、彼は感情が追いつく間もなく衝動的に駆け出した。

「なに逃げてんのよあんた!! 待ちなさいよ―――!!」
「ちっ」

 弱弱しく逃走する春原の背を、それこそ烈火の如く感情を爆発させて怒る綾香。
 散々好き勝手戯言を吐きかけておきながら、なんの落とし前もなく逃げ遂せるなどと許せるはずがない。
 相対する敬介を放って、彼女は春原へと引導を渡すべく駆け出そうとする。
 だが、それでも冷静さを保っていた綾香の視界の隅で、一人の女性の腕がぶれた瞬間を目撃した。
 嫌な予感が脳裏を巡り、その直感を信じて彼女は走行を急停止させる。
 眼前を、一発の銃弾が通過した。
 忌々しそうな態度を隠すこともなく、弾の発射点を睨みつける。
 
「うざいわね……。アイツはわたしの獲物なのよ、引っ込んでなさいって言ってんでしょ」
「はんっ。あないな奴どうでもええねん。自分こそとんずらかいな」
「―――誰が。大人しくあのオッサンと戯れてなさいよ」

 離脱を見逃さない晴子は、秋生を警戒しつつも綾香へ牽制の意味合いを込めて銃口を向ける。
 晴子からしたら春原の存在などどうでもよい。
 当然、この場に残るようなら排除するが、追ってまで殺そうとは思わない。彼女は面倒なことが嫌いなのだ。
 そして、一々癪に触る綾香は易々と見過ごせないから、ここで白黒と決着をつけるつもりだ。

 さらにもう一人。
 名雪の敵を仕留めるべく、秋子も春原を追走しようと地を蹴るが―――
 
「彼は無実だ。行かせてやってもいいだろう」

 その直線状に、綾香のマークが外れた敬介が無謀にも立ち塞がる。
 無表情の秋子の眉が、訝しげに垂れ下がった。

「―――どういうつもりかしら?」
「悪くない者を咎めるのは筋違いだろう? 彼は危害を加えるつもりはなかった筈だ」

 そんな彼らの問答を尻目に、春原は民家の一角に飛び込むようにして姿を隠す。
 綾香が舌打ちしながら地を蹴る音は、既に彼の耳には入らなかった。

 光が灯った一軒の民家から持てる力を振り絞りながら走り込み、徐々に距離を離していく。
 彼は痛みに悲鳴を上げる全身を完全に無視して、無我夢中で平瀬村を駆け抜けた。
 今更ながらに、身体が恐怖で震え上がってくる。
 秋子の色の灯さない無常な眼光を思い出すだけで、彼の足踏みは今にも止まりそうだった。
 信じていた者からの冷酷な仕打ち。
 そういえばと思う。
 ―――るーこも同じ気持ちだったのだろうか。
 彼女の交わした最後の視線は、正しく今の春原と同じである。
 だが、鏡を見てしまえば、るーこの視線の意味に容易く気付くことだだろう。
 ―――彼女の瞳は傷付いていた。信頼していた者からの仕打ちに。 
 ―――そして、彼女の瞳は鋭かった。信頼していた者へと向ける怒りの視線が。
 さらにこの状況。
 るーこを守ると誓ったはずではなかったのか。
 そう心で決めておいて、肝心の彼女をあの場へ放置するという体たらく。
 これだけではない。馬鹿みたいに硬直していた自分を叱責してくれたのは、他でもない渚だ。
 春原は無意識に思っていたのだろうか。
 渚は保護されるべきの脆弱な存在で、自分が守らなければ生きていけないという強迫観念にも似た思いを抱いていたのだろう。
 むしろ、自身が人を救うべく立場ということを支えにして、彼は自我と矜持を保っていたのだ。 
 そんな彼が、渚達を救済する役目を負っていると考えていた彼が、あろうことか保護対象者に守られる始末。
 且つ、自分を危機から救った二人へ、何の気配りも浮ばずに無様に背を向けた行為。 
 もう、何を支えにしていいのか分からなかった。

 彼は走った。直視できない光景から目を逸らして。
 どのぐらいの時間を走ったのか。数分か、数十分か。
 秒刻みの間隔ですら、今の春原には判別できなかった。
 半場錯乱する思考を持って、それでも駆けていた彼は地面に足を取られて無様に転げる。
 地に衝突したときに鼻を打ったのか、じんじんとした熱が鼻先を中心に広がっていく。
 春原はうつ伏せに倒れ付すも、起き上がることはしなかった。
 土に爪を立て、一筋落涙させる。

「―――うぅ、うぐっ……。ちくしょう、ちくしょう……っ」

 決壊したように、彼の両の眼から幾重の涙が流れ落ちる。
 自身の不甲斐無さに。余りの惨めな性根に、彼は身体を震わせた。痛みか悔しさか、恐らく両方だろう。
 
 あの場に舞い戻ろうという蛮勇は既に一時も考えなかった。否、考えないようにしていた。
 信頼していた少女が、躊躇なく人を殺す姿を思い浮かべて。
 否定した少女に、好き勝手嬲られた姿を思い浮かべて。 
 仲間と思っていた女性から、殺意の視線を寄せられた姿を思い浮かべて。
 それが怖くて恐ろしくて、身体が鉛のように吸い付けられた。
 思い起こせば、自身はこの島で何かを成し遂げることは愚か、無様な失態ばかりを踏んでいた。
 姿見ぬ襲撃者には浩之とるーこの機転が功を成して逃げ延びて、此度は第三者の介入で命を拾ってはまた逃げ延びて。
 そして、彼はようやく自覚した。

「ヘタレ、ヘタレか……。岡崎や杏の言う通り、か……」

 平和であった日常で、常日頃親友達から言われたからかい文句が、今の現状と一致して皮肉気に哂う。
 島に着てからは逃げてばかりだった。 
 綾香に正論を告げていた手前、逃げているのは自分だけだった。
 仲間や知人、今も戦っているはずの彼らを放って逃げ遂せる。
 結果的に春原を救った渚までも放ってきたのだから、朋也に合わせる顔もなかった。
 見苦しい後悔に苛まれ、今の自分の醜い姿を他人に目撃されることだけは耐え切れないから、彼には身を縮こませるしか手段はなく。
 
 ―――これから、何をすればいいのだろうか。
 消えた目的に、決まらぬ目的を抱いて。
 春原は地面に顔を埋めて咽び泣いた。

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