十四時四十五分/高天原 それは、騎士の鎧のように見えた。 全長五メートル程の上背にゴツゴツとした外部装甲。 殆ど隙間もなく、乗り込んだサリンジャーを完全に防護しているという意味では鎧には違いない。 ただ一方で、それは生き物のようでもあった。 リサを見下ろすカメラアイと思しき部分は常に緑色に発光し、ギラギラと照り輝いており、肉食動物特有の獰猛さのようにさえ思える。 吸気口の役割を果たしているのか定期的に開閉を繰り返す口のような部分は異物の侵入を防ぐためなのか鋭い牙のようなものが備わっており、 あの鋭い眼光と合わせて、今にもリサを食い殺そうとしているようだった。 細かく蠢く巨大な爪はマニピュレーターであると同時に機体の固定にも用いられるのだろう。 しかしそれ以上に機体色である真紅からか、作業に用いられるパーツと言うより獲物を抉り殺す獅子の爪という印象が強かった。 前傾姿勢のアベル・カムルは一昔前のサルに似ていたが、その内情は正しく獰猛な獣。 特有のエンジン音がグルルル、と唸りを上げる様もそれに拍車をかけていた。 趣味が悪い、とリサは感じながらも本能的な慄きを覚えずにはいられなかった。 太古の昔から、人類が身体能力では負け続けてきた獣に対する畏怖がそうさせるのか、正体不明の化け物に対する恐怖がそうさせるのか。 恐らくは両方なのだろう。徹底的に他者を見下し自らの優越感とするサリンジャーそのものを体現したアベル・カムルに、 ならば恐怖を感じなければいいとリサは結論した。 恐怖を恐怖で克服する以外の術を、今の自分は知っている。勝負だけではなく、誰かと触れ合うことで自らの存在を知ることができるのを熟知している。 少し見渡せば、世界はこんなにも広くなるということも、知っている。 鎧に篭ったサリンジャーはそれすらしようともしない、ただの我侭なだけの人間だ。 負ける道理はない。不敵な笑みを浮かべ、リサは自らを押し潰そうとする鎧の巨人と相対した。 人が作った兵器ならば必ずどこかに弱点がある。完璧なものなど、人間が関わっている限りは存在しない。 M4を構え、まずは頭部目掛けて発砲する。アベル・カムルの巨体では外そうにも外しようがなく、 吸い込まれるように銃弾が飛び込んでいったが巨人は身じろぎひとつせず、火花を散らせただけで5.56mmNATO弾全てを弾き返した。 「そんなもの効きませんよ! カメラアイを狙ったつもりでしょうが、生憎こちらも防弾仕様なんですよねぇ!」 ご丁寧に解説までしてくれたサリンジャーが嘲笑と共に爪を振り上げ、下ろしてくる。 図体の大きさとは裏腹にアベル・カムルの動きは意外に俊敏で、悠長に構えていられる暇はなかった。 腕の長さから射程を判断し、転がるようにして避ける。直後、振り下ろされた爪が床を抉り、コンクリートを破砕し破片を撒き散らす。 どうやらパワーも外見に違わぬものであるらしい。あの質量と速度では掠っただけで致命傷になりかねない。 まるで柳川のようだとリサは感想を結んだが、柳川ほどの小回りも効きそうにない分こちらの方が寧ろ楽だった。 素早く立ち上がり、更にM4を機体の各所に向けて乱射する。間接部の隙間を主に狙ってみたのだが、これも悉く弾き返された。 ちっと舌打ちするリサにサリンジャーの感心したとも取れる声が響いた。 「ほぅ。きっちり狙い撃ってくるあたりは流石、と言いたいところですが、弱点なんてものはありませんよ。このアベル・カムルにはね」 何も言わず、リサはM4の弾倉を交換した。反応を返さないことに、不快感を隠しもしないサリンジャーのため息が木霊する。 「感想くらい言ってくれてもいいと思いますがね。どうです、私の鎧は」 「下らない玩具ね。褒めてもらいたいならママにでも褒めてもらえば?」 「生憎、私の父母は既に他界していましてね。最後まで息子を省みない酷い親でしたよ」 「親御さんの気持ち、分かるわ。こんな親不孝の息子を持ったのだもの」 「その減らず口、すぐに黙らせてあげますよ……永遠にね!」 一足に駆けてきたアベル・カムルがそのままの勢いで爪を薙ぐ。 所詮は直線的な動き、軽く避けられるレベルだ。 サイドステップから着地し、M4を構えようとしたリサだったが、すんでの所で動きを中断して再び回避行動に移った。 俊敏なだけではなく、小回りも利くらしいアベル・カムルが巨大な足で回し蹴りを放ってきたのだ。 予想外の動きに翻弄される。図体のでかさを無視するように動き回る巨人に防戦一方の形となってしまう。 果断なく爪が振り下ろされ、足で踏みつけられ、反撃するどころか避けるのに精一杯だ。 これがアベル・カムル本来の動きか。通常兵器が意味を成さない防御力と俊敏な動作とパワーを生かした攻撃能力の高さを兼ね備えた、まさに無敵の鎧。 しかもサリンジャーのような素人でも簡単に動かせる手軽さといい、軍の人間が見れば涎を垂らして欲しがるだろうとリサは思った。 「そらそらどうしました? 逃げてるだけじゃ私は倒せませんよ?」 狩りを楽しむかのような口調で挑発してくる。 先程までアハトノインを失って狼狽していたくせによくここまで露骨に態度を変えられるものだと感心すらする。 しかし依然として不利な状況は変わらずサリンジャーが圧倒的優位な立場にあることには違いない。 懐に飛び込んでみようと接近を試みたが、攻撃射程にもまったく死角はなく、回り込んでも足元に張り付いても攻撃は激しくなる一方だった。 攻撃の精度も少しずつ高くなってきており、爪が髪の毛を掠ることもあった。 当然床に直撃した攻撃の煽りを食って破片が四方八方に飛び、それによっても少しずつダメージを受けてきている。 「これはどうですか!?」 手の出しようがないリサに、絶対的有利を信じて疑わないサリンジャーが隙を丸出しにしているのも躊躇わず、大きく両手を振り上げた。 爪を器用にクロスさせ、ハンマーの形を作る。加えてあの高度から振り下ろされれば威力はそれまでの比ではない。 これまでの調子で避けていては衝撃を食らいかねないと判断して大きく距離を取ろうとしたリサだったが、 逃げるのを待っていたというようなタイミングで腕が振り下ろされた。 巨大な質量が床に激突し、クレーターを形作る。 直撃こそ回避したものの、余波までを避けきることはできなかった。 それまでと比較にならない量と大きさの破片を浴びる結果となり、全身が傷つく羽目になったリサは受身も取れずごろごろと転がり、かはっと息を吐いた。 このままでは嬲り殺しだ。杖にしたM4を支えに立ち上がり、格納庫から脱出する。 「おやおや、もう終わりですか? ですがね、どこにも逃げられませんよ!」 余裕綽々といった様子で、アベル・カムルが追撃を開始する。 吸気口がかちゃかちゃと動き、まるで笑ったかのような動きをする。 笑っているがいい、とリサも負けずに睨み返した。サリンジャーが今見せているのは余裕などではない。 弱者をいたぶろうとする卑屈な性根を見せているだけだ。 確かに通常兵器は効かないし、死角も存在はしないだろう。 なら、通常兵器以外で対抗すればいい。 問題はそれまで逃げ切れるかということだったが、そこは何とかするしかない。いややってみせる。 腐ってもID13、地獄の雌狐の異名を持っている。やってやれないことはない。 この島を生き延びてきた意地を見せてやる。 後ろを追いかけてくるアベル・カムルは通路の狭さもスペースも無視して壁を破壊しながらこちらへと向かってくる。 最早無茶苦茶という領域を遥かに通り越して馬鹿げているという感想すら浮かんだが、動きは多少鈍い。 速度さえ落とさなければまだまだ逃げられると考え、そのまま走り続ける。 「逃げても無駄だと……言ったはずですよ!」 距離は詰められないと判断したのは向こうもだった。 腕を振り上げたアベル・カムルに嫌な気配を感じ、咄嗟に前転した瞬間、連続した火線がリサの横を通り過ぎた。 機銃らしきものまで装備している。普通に考えれば当たり前のことだとすぐに思ったが、格闘ばかりしていたことと特異な形をしていたために見落としていた。 露骨に舌打ちをしたサリンジャーが続けて方向を修正し、爪と爪の間にあるチェンガンを撃ってくる。 足元を掠めるチェンガンを巧みにかわしながら、リサはT字路の奥へと逃げ込む。 直線上に位置しなければ狙われることはない。音が途絶えたのはその証拠だった。 曲がれる道があれば即座にそちらへと方向を変え、リサはチェンガンを撃たせないまま逃げ続ける。 それでも振り切ることは難しく、後ろを振り返る度にぬっとアベル・カムルが姿を現すのだ。 お互い執念深いようだ。さてどこまでこの鬼ごっこを続かせるかと考えながらリサは走る。 逃走を続けながらも、リサは反撃できる場所を探して周囲を見渡すことを忘れていなかった。 ミサイル、火薬。何でもいい。とにかくアベル・カムルの装甲にダメージを与えられるものが必要だった。 「見つけましたよ!」 「く!」 チェンガンを構えたアベル・カムルが斉射してくる。ギリギリで次の曲がり角に飛び込み、辛うじて蜂の巣になるのを避ける。 どうやら徐々に距離も縮まってきたらしい。もう猶予はなさそうだ。それに狙いも正確になってきている。射撃する度に機械が修正をかけているのだろう。 全く何でもアリのトンデモ兵器だと感想を結びながら、リサは笑っていた。 懲りないことにまた、戦いを楽しむ軍人としての性分が頭をもたげてきたらしい。 或いは観察すればするほどその強さが明らかになってゆくアベル・カムルに対して笑うしかないと感じているのか。 慣れとは厄介だと考えながら目を走らせたリサが一つの案内板を見つける。 時間がない。半ば賭けになると思いながらもこれ以上の選択の余地はないと判断して、リサはその部屋へと転がり込んだ。 「ほう……ここを死に場所に選びましたか」 続けてサリンジャーのアベル・カムルが侵入してくる。 振り向き様にM4をフルオートで連射し、吸気口目掛けて狙い撃つ。 多少は破壊できるかと考えたが、素早く口を閉じられ、遮断される。お返しとばかりにチェンガンの掃射が飛んでくる。 緩慢な動作であったため致命的ではなかった。やはり遊ばれている。 「ふふふ、シオマネキを奪おうとしたようですが、無駄ですよ。シオマネキには侵入者の自動撃退システムが搭載されて……ん?」 何かを発見したらしいサリンジャーの動きが止まり、緑色のカメラアイが部屋の奥へと向けられる。 目まぐるしく動き回っていたためリサもはっきりとはシオマネキの機影を確認してはいなかった。 「馬鹿な、動きが止まって……いや、破壊されている……? 貴様、何をした!」 「知らないわ。誰かが勝手にやったんじゃない?」 じりじりと後ずさりしつつ、リサはサリンジャーのヒステリックな声を受け止める。 元よりシオマネキそのものを奪うつもりはない。その武装が目的だった。 Mk43L/eの構造は多少リサも知っており、機体内部にあるコンピュータから各種武装へと命令を伝え、遠隔操作による攻撃を行うものだ。 武装は各種取り替え、取り外しが可能になっており、武装の交換も行える。 要は現行の兵器を自由につけたり外したりして目的に合わせた運用ができるという思想だったが、裏を返せば武装はこちら側でもコントロールできる。 現にシオマネキに搭載されている機関砲やレールキャノンは外部からの操作も可能だ。 当然多少の妨害はあると踏んでいたのだが、誰かが取っ払ってくれたらしい。 改めて確認したシオマネキはハッチからもうもうと煙が吹き上がっており、とても動ける状態ではなさそうだった。 逆に武装にはほぼ損傷がなく、こちら側としては好都合極まりない状況だ。 が、不利益を被ったサリンジャーは怒り心頭という様子だった。 「ふざけるなっ! たかだか人間ごときにシオマネキがやられるわけがあるか!」 「でも、事実としてこんなになっちゃってるわよ? それに、もう一つ言いたいことがあるの」 チャンスは少しずつこちらに巡りつつある。 笑いを含んだ表情でサリンジャーを見上げながら、リサはある推測を言い放った。 「貴方言ったわよね、リミッターをかけた状態で私達を三人殺せたのは上出来だって」 「それがどうした……!」 「言っておくけど、いくら120人分武器があるからってそうそう強力なものじゃない。精々がアサルトライフルくらいだし、現に私達の主力は拳銃。 貴方のところの玩具は防弾防爆のドレスに痛みも感じない。……普通に考えて、貴方の方が有利極まりないのよ。いくら撃とうがそのまま斬り殺せばいいわけだしね。 でも私達は勝ちつつある。無茶な突撃作戦なのに、貧弱な武装なのにね。つまり……弱いのよ。貴方の言う神の軍隊とやらは。 私達にすら勝てない。貴方は負け犬。頭でっかちで誰にも勝てない負け犬よ!」 『……殺してやる』 言い返せるだけの理性も失ったらしいサリンジャーが感情を丸出しにしたドイツ語と共にアベル・カムルの爪を振り下ろす。 相当頭に来たようだ。爪の先にくず折れたシオマネキがいるにも関わらずの攻撃だった。 実際は違うのだろう。周到な作戦を立て、精一杯の武装をかき集め、ここまでの殺し合いを生き残ってきた人間を合わせても、三人もの犠牲を出してしまった。 今もなお戦っている連中には、ひょっとするとまた新たな犠牲が出ているのかもしれない。 しかし、犠牲を犠牲で終わらせてはならない。 命を弄び、己がためだけに力を振るう化け物に対抗するために、もう一度だけ力を貸して欲しい。 散ってしまった誰か。今はまだ名前も分からない誰かへと向けて、今も生きている者達を守るために。 自分自身もまた、生きるために。 リサ=ヴィクセンは祈りを捧げて、アベル・カムルとの第二ラウンドに臨んだ。 爪を避ける。正確にはシオマネキの外部装甲に阻まれ、弾かれたのだった。 『邪魔をするな、屑鉄が!』 無理矢理シオマネキを爪で押し退け、リサへと迫る。 もうなりふり構わぬという調子で攻撃してくるアベル・カムルの攻撃を必死で避けながらリサはシオマネキをちらりと見る。 押し退けられはしたが、体勢は崩れていない。優秀だ。なら、まだ生きている武装があるはず……! シオマネキの元に駆けようとするリサにアベル・カムルが追い縋る。 『終わりだ! 死ねえぇぇぇぇぇ!』 「くっ……!」 驚くべきことに、アベル・カムルは跳躍まで行えた。 飛び上がると同時に爪が大きく振り上げられる。 冷たく輝く金属の色が、一瞬の後に自分を押し潰す―― 「させるかっ!」 ――その未来は、絶妙のタイミングで現れた、少年と少女によって阻まれた。 凄まじい爆音と共にアベル・カムルの額に何かが命中し、兜の形にも似ている頭部を押しひしゃげた。 空中でバランスを崩し仰向けに倒れるアベル・カムル。 その前に立ちはだかったのは、二人で対戦車ライフル、九十七式自動砲を構えていた、那須宗一と古河渚だった。 * * * 十四時五十分/高天原格納庫 呆然とこちらを見返すリサの顔を拝めたのは久しぶりだったかもしれない、と宗一は思った。 タイミング的にはギリギリだったとはいえ、それが結果としてこの副産物を生んだのだから儲け物だ。 ニヤと意地悪く笑ってみせると、リサは肩を竦めて「ヒーロー登場?」と皮肉混じりの言葉を返してきた。 「いいや違うぜリサ。ヒーローと、ヒロインだ」 渚を指し示してやると、リサの興味はそちらへと向いたようだった。 案の定、渚の窘めるような視線が突き刺さったがこればかりは性分なので仕方がないところだ。 「そうなの? ヒロインさん」 「……そういうことにしてあげてください」 そっけなく返す渚は無茶振りにも慌てることなく冷静に対処しているようだった。慣れてきたのかもしれない。 してあげてください、という表現からしても適当にあしらっているようにも感じる。 この牙城を崩すのには手間がかかりそうだと考えながら、宗一は床に倒れ伏している巨人へと話題を変えた。 「で、なんだよありゃ」 「最新鋭のパワードスーツ、ってのが一番簡単な表現ね。アベル・カムル。聞いたことあるかしら」 「噂だけは。でもそれ、冷却装置に不備があるとかなんとかで開発も見送りになってたんじゃなかったっけか」 「ところがどっこい、脅威の篁財閥の科学力」 「……なるほどな」 宗一は篁化学技研で研究していたサンプルについてのリストを頭から引っ張り出した。 『ラストリゾート』、『シオマネキ』を初めとする次世代の兵器群。 実現は当分先だと思っていたのだが。篁財閥は未来に生きているらしいと認識を新たにして、 宗一は隅に押しやられた鋼鉄の塊に目を移した。 「あれ、『シオマネキ』だよな」 「ええ。私が来たときには既に破壊されていたみたいだけど。ついでに言うと、『ラストリゾート』の披露試写会にも参加させてもらったわ」 ここはトンデモ兵器博覧会か、と宗一は頭を抱えたくなった。 それに一人で対抗してみせるリサも十分化け物染みているのだが。 話の流れについていけないらしい渚は困ったような表情でアベル・カムルの方を見ている。 未だ動かないとはいえ、完全に機能が停止したと思っていないのだろう。 当然宗一もそう考えていた。たかが対戦車ライフルの一発で動かなくなるほどヤワなものであるはずがない。 それにこの九十七式自動砲だって骨董品のようなものだった。ここに来る途中で何かしら武器を拝借しようとしたのだが、 道中で発見したのはこれを初めとした、『忘れられた兵器』とも言うべき古臭く実用性にも欠けるものしか見つからなかった。 恐らくは篁の趣味もあったのだろう。使えただけマシだと思うことにしたのだが、 実用性の高いものばかり使ってきた宗一にとってこの不便な感覚は慣れるものではなかった。 「そういえば、どうしてここが?」 「そりゃあ派手な音がしてたからさ」 「はい。しかもぐらぐら揺れてましたし、崩れる音がひっきりなしに聞こえてきましたし」 「……でしょうね」 さもありなん、という表情でリサはアベル・カムルを見ていた。 ようやく動き出した巨人はひどくゆったりとした動きで起き上がる。 あれだけの巨体だ。動かすのにも相当のエネルギーを使っているのに違いない。 緑色のカメラアイが、いきなりやってきた闖入者である自分達に対して向けられる。 機械の目であるにも関わらず、それは明確な悪意を含んでいるように思われた。 『許さんぞ……皆殺しだ……猿共……』 スピーカー越しに聞こえたくぐもった声は、聞きなれない国の言葉だった。ドイツ語だっただろうか。 日本語に翻訳しようとする前にリサが「死ね、ジャップ、だって」と言ってくれた。 ドイツ語など習ってもいないだろう渚は、それでも声色だけで悪意を感じ取っていたらしく、「分かりやすい言葉です」と反感を露にしていた。 怒っている。突き刺すような視線は今までに宗一も見たことのないものだった。 恨みでもなければ憎しみでもない、怒り。この島に敷衍し、様々な人間の運命を狂わせた狂気の根源に対する怒りだった。 「どうすれば倒せますか」 それでいて、やはり渚は冷静だった。目の前の敵を倒すために自分ができることを求めている目がリサと宗一に向けられていた。 まるで俺みたいだ、と宗一は今の渚を自分に重ね合わせた。 感情に任せて進むのではなく、自らを把握した上で目的を達成するために最大限やれることを探ろうとしている。 案外エージェントにも向いているのかもしれないと思ったが、すぐにそうではないと思い直した。 俺を取り込んだんだ、と宗一は感想を結んだ。ほんの数日にも満たない間で、渚は宗一の本質を理解し、その身に強さとして宿した…… いや自分だけではない。渚の結った髪の根元で揺れる銀の十字架を眺めて、彼女が得たものの大きさを認識し直す。 様々な出会いと別れを経て、渚は変わった。変わった上で自分自身を見失わない強さを身につけた。 羨ましいと感じる一方で、だからこそもっと渚を近くで見ていたいという思いが強くなるのも宗一は感じていた。 こんなに素敵で、興味深くて、愛しいものを手放せるはずがない。 どうやらエージェント駆け出しの頃に持っていた貪欲さはまだ健在だったらしいと確認して、宗一はこれから起こる全てを受け入れてみせようと覚悟を決めた。 俺も渚に精一杯ついていかなくてはならない。そのために、これからぶつかる困難、絶望、理不尽、そして今ある現実を受け止めてみせる。 その上で選び取れる最善の道を、自分が望む道を進んでみせよう。 今はまだ後ろ暗い道でしかなくても、自分を導いてくれる暖かな光はすぐそこにあるのだから。 ‘All right, then, I'll go to hell’ わかった、それなら俺は地獄へ行こう。 「やりようはある。ただ、あれを足止めできるかが問題だ」 そうだろ、リサ? 自分と同じ推測を立てていると信じて見やると、リサはしっかりと、大きく頷いた。 やはりリサも同じ結論を出していたようだ。なら問題はない。 世界最高峰のエージェント二人が立てた作戦だ。これ以上の何がある。 「『シオマネキ』のレールキャノンが使えれば、勝てる」 「となれば……何分かは足止めが必要だな。やれるか、渚」 「はい。やってみせます」 頼もしい言葉だった。この一言さえもらえれば、細かい指示をあれこれする必要はない。 今までと同じように、二人で力を合わせて九十七式自動砲で撃ち続ければいい。 後はリサがどうにかしてくれると信じよう。 完全に立ち上がったアベル・カムルへと向けて「撃つぞ、渚!」と言ったと同時に九十七式自動砲の巨大過ぎるトリガーを引く。 20mmという口径を誇る九十七式自動砲の反動は到底一人で支えきれるものではなく、宗一の全力と渚の助力があってこそ運用可能なものだった。 凄まじい発砲音と共に、砲弾にも近い弾丸がアベル・カムルの肩を打ち据え、重低音の鐘を鳴らす。 アンバランスな人型であるアベル・カムルは大きく体勢を崩し、巨体がたたらを踏む。 続けて連射。毎分七〜十二発の連射速度は決して早いとは言えなかったが、巨大過ぎる相手に対しては十分なものだった。 胸部の装甲に直撃した弾丸が巨人の足を数歩後退させる。貫通こそしないものの、地球上にいる限りエネルギーの法則からは逃れられない。 業を煮やしたように、遠方からだというのに爪が構えられる。だが既に手は打ってある。 「持ち込んだのがこれだけだなんて思うなよ」 凄まじい閃光と爆音が格納庫に充満した。九十七式自動砲を撃った直後、宗一はスタン・グレネードを放り込んでいたのだった。 目を閉じ、耳を塞いでもなお頭が揺れるほどの衝撃を感じたが、元より耐性をつけている。宗一が動き出したのは早かった。 まだ目を閉じたままの渚を尻目に、宗一が跳躍し、だらしなく伸ばされたままのアベル・カムルの腕に飛び乗る。 すぐさまウージーとクルツを構え、同時に掃射する。顔面目掛けて降り注いだ銃弾の雨は、しかし全て弾かれる。 やはりサブマシンガン程度ではカメラアイは破壊できない。ならばと宗一はアベル・カムルの腕を駆け上がり、 さらに隠し玉として持っていたショットガン、ストライカー12『ストリートスイーパー』を取り出した。 12のその名が示す通り、ドラム式の弾倉には十二発連射可能な12ケージショットシェル弾が詰め込まれている。 「これならどうだっ!」 空中に舞い、ギリギリまで接近してから、宗一はフルオートでストリートスイーパーを乱射した。 拳銃弾とは比較にならない威力の12ケージショットシェル弾が、先程よりもよほど濃い密度を以ってカメラアイへと殺到した。 超至近距離から凄まじい数の散弾を受けたカメラアイがついに耐え切れず、ピシリと音を立ててひび割れる。 目を潰した。これで奴からは何も見えなくなるはず……! そう確信した宗一の目の前で、アベル・カムルの口元が不気味に蠢いた。 この程度想定の範囲内とでもいうように、巨人は嗤ったのだ。 『散弾程度ではなぁ!』 頭部にあるシャッターが開き、再び緑色のカメラアイが姿を現した。 予備があったのか!? ストリートスイーパーに残弾はない。再びカメラアイを潰すことは不可能だった。 空中に浮いたままの宗一を刈り取らんと爪が振り下ろされるが、世界一を誇る男の身体能力は伊達ではない。 こなくそと無理矢理体を動かし、アベル・カムルの胴体を蹴った反動で移動する。 宗一がいた場所をアベル・カムルの鋭い爪が通過した。鍛えておいて良かったと安堵しかけた宗一の前に、今度は反対の腕の爪が突きのモーションを繰り出しかけていた。 やばい。冷や汗を感じた直後に、「目と耳閉じてください!」という救いの女神の声が聞こえた。 二も三もなく指示通りに目を閉じ耳を塞ぐ。瞬間、再びスタン・グレネードの爆音と閃光が走った。 『また目くらましか……!』 今度は目を防御することで難を逃れていたアベル・カムルだったが、お陰で致命打を受けずに済んだ。 地面に降り立った宗一の傍では、まだ頭痛が残っているのか渚が苦悶の表情を浮かべていたが、宗一の顔を確認するととびきりの笑顔を見せてくれた。 どうやら自分の扱い方まで心得てきたらしい。笑顔を目の前にして、やる気が出ないわけがないのが那須宗一という男だということを知り尽くしている。 全く大した恋人だと思いながら、渚と二人で九十七式自動砲を抱えて移動する。 『馬鹿め、逃げられると思うな日本人!』 突如、アベル・カムルの爪と爪の間からチェンガンの砲身が顔を出した。 あんな武器まであったのか! 60kgもある九十七式自動砲を抱えたままチェンガンの掃射に晒されるのは自殺行為に等しい。 やむを得ず回避に徹するように努める。分離するように二人が反対の方向に別れた瞬間、チェンガンの火線が床に穴を穿った。 そのままアベル・カムルは宗一の方向へと銃身を向ける。どうやらカメラアイを潰されたことを根に持っているらしかった。 いいぜ、そのまま俺を追って来い。 宗一は敢えて懐に飛び込むように移動する。あの腕の巨大さからして、チェンガン自体の射程には限度があると考えたからだった。 代わりに打撃の応酬を貰うことになるが、早過ぎる弾速を相手にするよりは幾許かまともな選択肢だった。 再び接近してきた宗一に、流石のアベル・カムルも警戒したらしい。一度カメラアイを壊されている以上好きにさせるわけにはいかないと感じたのだろう。 すぐさま狙いをこちらに絞り、肉薄を許さまじと振り払うように爪を薙いでくる。 機敏な動作で、宗一は前後左右上下から迫る爪を巧みに躱す。元々単独行動の多かった宗一は対多数の戦闘を強いられることも多く、 あらゆる方向からの敵の攻撃を読み対応することに慣れていた。 いくら巨大なうえ素早い動作であるとはいっても宗一にとっては所詮一対一に過ぎない。次の次まで予測し、アベル・カムルの攻撃を避け続ける。 「どうしたデクノボー! 当たってないぜ!」 挑発の言葉も忘れない。感情起伏の激しい相手は回りに対する視野も狭い。怒らせて攻撃対象を絞らせるのは囮の定石だった。 今度は足で踏み潰そうとしてきたが、爪より面積の狭い足に当たるわけがない。攻撃方法も精彩を欠いてきていた。 いける。そう期待しかけた宗一の意志を読み取ったかのように、突如アベル・カムルが向きを反転し、チェンガンを構えた。 狙いは言うまでもない――宗一とは距離を取るようにして、反対方向へと移動していた渚だった。 完全に裏目だった。回避の邪魔になるまいとしていた渚の配慮が。 まさか最初からこれが狙いだったのか? 今までの激しい言葉は演技だったというのか? 冷たい汗が流れる宗一をせせら笑うように、アベル・カムルのスピーカーから『日本語』が聞こえた。 「挑発されるのは慣れていましてね……お陰で冷静になることができましたよ。お礼に貴方の大切な恋人を殺して差し上げますよ」 それが一番嫌なことなのだろう? 端に卑屈なものを滲ませ、陰惨さを含んだ声に、宗一は演技でも何でもないと確信した。 ただの仕返しだ。この男は、やられたらやり返すということしか頭にない。それも、相手が最も傷つく方法を敏感に察知して。 どこまで性根が腐った男なんだと毒づきながらも、エージェントとしての冷めた部分が間に合わないと告げていた。どだい、距離がありすぎた。 それでも宗一は叫んだ。僅かな可能性を信じて。目の前の男にだけは負けないように、「逃げろ!」と。 「もう遅い! 死――」 『Rail-Cannon has been activated』 火を吹くはずだったチェンガンから、弾丸が発射されることはなかった。 機械的な英語音声に、アベル・カムルが信じられないといった様子でそちらを向いたからだった。 間に合ったか……! 宗一も同様にアベル・カムルの向いた方角を見た。 そこには、シオマネキのレールキャノンを起動させた、リサ=ヴィクセンがしてやったりという表情で佇んでいた。 敵だけではなく、恐らくは、宗一にも対して。 やってくれるぜ、ヒーローさん。 肩を竦めてみせると、リサは上等のウインクを返してきた。やはり確信犯だったようだ。 「……リサ=ヴィクセン。どこまで私の邪魔をしてくれる」 「どこまでも」 「く……だが、そのレールキャノン、果たして撃てますか?」 「貴方が一番分かってるんじゃないかしら、こいつの威力はね」 物怖じするように、アベル・カムルは後ろへと下がった。 そう、通常兵器は全く意味を成さないのならば、こちらもトンデモ兵器で迎撃してやればいい。 自分と渚を囮に、シオマネキに接触したリサが接続されているレールキャノンを起動させ、撃ち込む。 物体を電磁加速して撃ち出すレールキャノンの弾速はそれまでの兵器群とは比べ物にならない。 エネルギーは質量と速度によって決定される。即ち、超加速力を誇るレールキャノンの弾丸はHEAT装甲でさえも紙のように貫く。 開発当事者であろう、アベル・カムルの操縦者がそれを分かっていないはずはなかった。 「……お願いしますよ。どうかここは見逃して頂けませんか。私だって好きでこの殺し合いに加担してきたわけじゃない。仕事で、仕方なくだったんですよ」 唐突に始まった命乞いに、リサは元より宗一も絶句を通り越して一切の感情がどこかへと飛んでいった。 あれだけ死ねだの何だのと言っておいて、ここまで殺し合いを放置しておいて、 素でこの台詞を吐いているのだとしたら余程の度胸の持ち主か、或いは恥知らずか、もしくは多重人格者であるかのいずれかであろう。 リサと宗一だけではない。渚でさえ、己の所業を恥じていない言動に対してかける言葉もなかったようだ。 もう、あの男に価値はなかった。言葉を交わす価値も、いや人間としての価値も。 ふ、と一息に笑ったリサはもう何の感情も有してはいなかった。 『Charge,completed』 「ま、待ってくれ! お願いだ! 脱出の手配ならする! だから――」 「さよなら」 リサの声と、Fire、という音声が重なった瞬間、レールキャノンから凄まじい閃光が発し、まるでレーザーのような光がアベル・カムルを捉えた。 鼓膜まで破れるような衝撃波が宗一達にも降り掛かり、思わず目を閉じる。 これがレールキャノンの威力。発達し過ぎた最新鋭の兵器を目の当たりにして畏怖を覚えずにはいられない瞬間だった。 数秒に渡って暴風が吹き荒れ、立っているだけで危うい状況が続く。 バチバチと雷が爆ぜるような音がしばらくして、『System,cooldown』という音声と同時に、宗一はやっと目を開くことができた。 これで全てが終わったと、そう確信して―― 「だから言ったのに……やめておけ、とね」 ――だが、悪夢は終わっていなかった。 レールキャノンが大気を引き裂いたことにより、超高熱に当てられた空気中の水分が蒸発したことによって生まれた靄の向こうから、その声は聞こえた。 ショートしたコードを、左腕からしたたらせながら、腕を跡形もなくしながら……それでもアベル・カムルが、悠然と立ち尽くしていたのだった。 馬鹿な、という言葉が宗一の口から漏れていた。レールキャノンの直撃を受けて無事だったというのか? リサも信じられなかったらしく、悔しさを滲ませた表情を浮かべていた。完全な、誤算だった。 「無駄話に付き合ってくれて感謝しますよ、リサ=ヴィクセン。お陰でレールキャノンの弾着ポイントを計算することができました」 そう、開発当事者であるこの男が、レールキャノンを知悉していないはずがなかった。 予め防御できることを知っていたのだ。アベル・カムルの腕を犠牲にすれば耐え切れるということを。 その性質上、レールキャノンは冷却に多大な時間を要するため連射は利かない。 一発耐え切ってしまえばもうこちらにはどうしようもないと知り尽くした上での行動だったのだ。 「腕は一本犠牲になりましたがね。まあいいでしょう、腕は一本さえあれば貴方がたを駆逐するのは簡単です」 喜色を隠しもせず、アベル・カムルの主は笑った。もはや抵抗する力が残っていないと知り、蹂躙する悦びを覚えた人間の卑屈な笑いだった。 だが、まだ抵抗の手段が残っていないわけではない。 腕は破壊した。つまり、強固な殻は既に破っている。だったら―― 目を合わせた渚と頷き合い、二人で一緒に落ちたままの九十七式自動砲の元まで駆け寄ろうとした。 破壊した部分に弾丸を撃ち込めば、まだいける。そう判断してのことだったが、自らが有利と知りきっている男は冷静だった。 「ちょこまか五月蝿いですよ、日本人!」 動きを察知して、もう片方の腕にあったチェンガンが宗一たちを捉えた。 狙いが浅かったのか、渚共々火線に晒されはしたものの、細かい怪我を負うだけで済んだ。 しかし、所詮は死ななかったというレベルでしかなく、銃弾が擦過した部分が焼け付くような痛みを訴え、渚は耐え切れずに倒れた。 「渚っ!」 「……大丈夫、です」 意識は完全に保っていたが、痛みに耐えるので手一杯という表情だった。 性急に過ぎた。だが後悔する間も惜しいと渚を抱えるようにして移動しようとした矢先、頭上に影が差した。 アベル・カムルの腕だった。二人丸ごと叩き潰す腹積もりらしい。 「宗一っ! 渚っ!」 リサの悲鳴が聞こえた。その声もどこか遠い。 一人で逃げようと思えば逃げられただろう。しかし、男として、パートナーとして、渚を置いて逃げ出す選択肢など最初から存在していなかった。 走ればまだ間に合う。渚をお姫様抱っこの要領で抱え上げ、逃げられると断じて走り出す。 「やれやれ……逃げられるわけがないでしょうに」 虫を見るような目がアベル・アムルのカメラアイを通してこちらにも伝わってきたが、何とでも言えばいい。 ひとつ言えることは、俺は、俺達は絶対にお前の思い通りに動くことはないということだけだ。 カメラアイを見返しつつそう伝えてやると、若干不快げな雰囲気が返ってきた。 「つまらない……では、さようなら日本人」 唸るような音を立てて腕が振り下ろされる。 最後まで目を逸らすまい。キッと睨んだ宗一の視線の先に……何かが、飛び込んできた。 「な!? 貴様は……!」 アベル・カムルから、またもや信じられないという声が聞こえた。 振り下ろされた腕を、人間の倍以上もある巨大な腕を、同じく片腕で受け止めた存在があった。 「早く退避を」 ――それは、流れるような金糸の長髪を携え、漆黒の修道服を着込んだ、人ならざる者。 かつて交戦し、仲間の命を殺め、今なお敵対しているはずの。 「アハト……ノイン……」 宗一の声を受けて。 こくり、と。 無表情な彼女の頭が、たおやかに動いた。 * * * 十四時五十四分/高天原格納庫 「貴様ぁ! 何をやってる! イカれたかこのポンコツが!」 ヒステリックに叫ぶサリンジャーの声を聞きながら、リサはアベル・カムルの腕を支え続けているアハトノインへと目を移した。 間違いない。あれはラストリゾートを装備していた、サリンジャーの護衛だったはずの機体だ。 それが自分達を守ってくれているばかりか、当の主に対して牙を剥いている。 何が起こっているのか、詳細なところまでは分からない。 だがなんとなく検討はつく。恐らく、あの時に電脳に異変が生じたのだ。 ラストリゾートが利かなくなり、地震が起こった際に動かなくなったアハトノインの内部で、命令が切り替わった。 人間を守れ、或いはサリンジャーを倒せ。そういったところだろう。 もしかすると、悪魔の対象が自分達からサリンジャーに切り替わっただけなのかもしれないが。 真実はどれでもよかった。今重要なのは、アハトノインが味方についているという事実だ。 偶然で機械は動かない。この一体だけが異変を起こしているとは考えにくい。 チラ、とリサは沈黙したままのシオマネキを見る。 もしも自分の想定が当たっているとしたら。 既にシオマネキは一度破壊されている。ある意味では、これから起こす行動は賭け。あやふやな推測に基づいたものでしかない。 そうして一度失敗した。アハトノインが現れなければ、まず間違いなく宗一と渚は死んでいた。 過去の失敗か、自分の経験か。どちらを選択するべきか迷ったリサは、目を閉じて深呼吸する。 リサ=ヴィクセンは完璧ではない。失敗してきたことは何度もある。 フォローしきれず、仲間を死なせたことも一度や二度の話でもない。 それは、この島でも。 ねえ、英二。 私は…… 暗闇の中に応えてくれる者はいない。今暗闇の中に感じられるのは自分自身だけだった。 今ここに自分がいる。何度過ちを重ねても、未だに生き延びている自分がいる。 ――それが、既に答えだった。 死神なんかでも、まして悪魔なんかでもない。 人間は人間。それで結果がどうなったとしても、自分達は人間でしかいられない。 柳川は、英二は、栞は、最後まで人として当たり前の行動をしようとし、人が人らしく生きていたくなるような行動を起こしてきた。 自分だってそう。どうなったとしても、彼らに恥じない人間でありたいから。 リサは、自分の信じる自分を選択した。 M4を構え、シオマネキの体から飛び降りる。 もう戻れないし、レールキャノンの操作も行えないだろう。 だがそんなことより、目の前で苦戦している仲間の援護に向かわずにはいられなかった。 徐々に爪の圧力に押し負けているアハトノインが逃げられるように、リサはアベル・カムルのカメラアイを狙撃した。 「ちっ!」 リサの動きを素早く察知したサリンジャーが腕を戻し防御に専念する。 どうやら以前のものに比べれば防御せざるを得なくなるほど脆いらしい。予備だから当然と言えば当然だった。 フルオートで撃ち続けていたからか、M4の弾が切れる。 素早く弾倉を交換しようとしたが、その前にアベル・カムルのチェンガンが突き出された。 「くたばれ雌狐が!」 自分の方が遅いと判断して逃げようとしたが、その目前に守るように立ちはだかったのはアハトノインだった。 グルカ刀を抜き放つと、目にも留まらない速さでチェンガンを弾き返し、弾丸をリサに届かせない。 ロボットならではの神業だった。味方にすると、こんなにも頼もしい存在だとは。 『貴様ァ! 邪魔をするな! ロボット風情が……!』 またもやサリンジャーの声がドイツ語へと戻る。相当頭に来ているらしい。 弾倉を交換し終えたと同時、チェンガンの掃射が途切れた。どうやら弾切れになったらしい。 俄かに焦りの様相を呈したアベル・カムルへと向けて、リサは嘲笑混じりに言葉をかける。 「ロボットにまで裏切られるとは、ホント小さい男ね」 ギッ、とアベル・カムルの目がこちらへと向いた。 今までの何よりも激しい憎悪と、負け犬根性むき出しの意志が窺える。 とどめとばかりに、リサは決定的な一言を付け加えた。 「かかってきなさいよ、負け犬」 『私を……私を馬鹿にするなあぁぁっ!』 完全に怒りに我を忘れたサリンジャーが、ハウリング混じりの叫びを上げながら突進してくる。 これで策は使い果たした。後はやれるだけやるしかない。 リサはアハトノインと目を合わせ、「あの女の子と男の子を守ってあげて」と優しく命令した。 ロボットも、ロボットでしかない。命令ひとつで殺し合いだってするし、こうして味方にもなる。 それでも自分達を救ってくれた。ならば信頼を預けてみせるのが人間というものだろう。 「了解しました」 ただ一言、機械的に返事をしたアハトノインは少しの躊躇いもない機敏な動作で動き出した。 リサもリサで、片腕を振り上げてくるアベル・カムルを睨み上げ、不敵な笑いを浮かべた。 さあ、ラストゲームよ。 * * * 十四時五十七分/高天原格納庫 「いけるか、渚」 「何とか……」 顔の周りの汚れを拭いながら、渚は自分の力で立ち上がる。 視線の先ではリサとアハトノインが縦横無尽に立ち回り、巧みにアベル・カムルの攻撃を回避している。 今まで戦ってきたはずの敵が味方をしてくれている理由は分からない。 鞍替えをされている、とは思わなかった。 早く退避を、と語ったアハトノインの表情は今までと変わらず、無機質な目をしていた。 命令を受け、忠実に任務を遂行するだけの機械。それは今までも、現在も変わりはないのだろう。 そこまで考えたとき、渚は自分がアハトノインそのものに対して憎しみを抱いてはいないということに気付いた。 友人が殺されたのに? しかしその問い自体が間違っていると渚はすぐに思い直した。 ルーシーが殺されたときのアハトノインと、自分達のために戦ってくれているアハトノインは違う。 命令ひとつでこちらの味方をするような代物でしかなかったのだとしても、 あのアハトノインは無慈悲に人間を殺戮するだけの機械でないと信じたかった。 アベル・カムルの主とは違う、本当に正しい命令を与えられ、人間のやさしさに従って動くロボットなのだと…… 「すまん、俺のせいで」 「大丈夫です。生きてますから」 そう、まだ皆無事だ。まだ誰一人として欠けてもいない。 髪の結び目で光っている十字架が、自分を支えてくれている。 大切な人を守れるだけの力を与えてくれている。 力を貸してくれているのは、自分が弱いからでも、無力だからでもない。 自分の意志を受け止めるだけの人間になれたことを認めてくれているからだ。 ……だけど、まだ、もう少しだけ力が欲しい。 渚は隅に追いやられた九十七式自動砲へと目を移した。 現時点で唯一、アベル・カムルを倒せる可能性のある武器だ。 まだツキは落ちきってはいないらしく、破壊されてはいない。まだ使える。 「宗一さん。もう少しだけ仕事です。行けますか」 変に気遣いをさせないよう、強気に言ったのだが即座に返ってきた「当たり前だ。俺を誰だと思ってんだ」という不敵な声に、抱いていた心配は吹き飛んだ。 流石に、世界一のエージェントは簡単にへこたれるほどヤワではない。 出過ぎた真似だったかと苦笑を漏らしたところで、「しっかし」と感心した宗一の言葉が続けられた。 「変わったな。余裕じゃないか」 「そんなつもりは……」 「昔だったら、まず渚自身を責めて落ち込んでたぜ」 虚を突かれた気分になり、渚はそうだったかもしれない、と昔を思い出していた。 自分自身を信じられず、退くことも進むことも怖く、ただ呆然と立ち尽くすだけだった昔。 人に頼ることさえ怖かった。そうすることは負担になるだけだと頑なに思い込んでいて、自分の存在は重石でしかないと考えていたから…… だから、渚が一番憎んでいたのは自分だった。 人に優しいわけではない。他人を気遣ういい子などではなかった。 自分が嫌いで、なくなってしまった方がいいとどこかで考えていたから自分以外に対して羨望を覚え、尽くそうとしていただけのことだった。 消えていなくろうとしなかったのだって、両親に対する呵責があったというだけの話だ。 茫漠と漂っているだけの人生。生きているのか、死んでいるのかも分からない生。そうなるのだろうと思っていた。 だが、少しずつ変わった。ただの偶然でしかない、この場で知り合っただけの人達の持つ不思議な力によって。 霧島佳乃。 ううん、何でもない……ただ、あたしはあの中に知り合いの名前が一人もいなかったから……喜んでいいのかな、って。 両親が死んだ後の放送。死の大きさよりも、今ある命の大切さを確かめていた言葉。 生きていることを喜んでくれるひとがいる。渚はそこで、初めて命に対する執着を覚え始めたのかもしれなかった。 遠野美凪。ルーシー・マリア・ミソラ。 ――済まない。 己の勝手故にあった溝、隔たりを、この言葉で解決してくれた。 そして、本当に強くなりたいと心から思うことができた。 あらゆる物理法則を越えて、私も、渚も、なぎーも、皆はひとつだ。 強いだけの人間なんていない。どこの、誰だって、必ず弱さを抱えている。 重要なのはその弱さをどのようにして解決していくのかということだ。 ルーシーは弱くてもいい、弱いまま強くなればいいと言った。 弱さも強さも『ひとつ』の中に内包して、己自身と向き合うための材料にする。 自分を信じ、確固たる己を持っているから強くなるわけではない。 どのような現実にも対処し、受け止められる術を身につけたからこそ自分を確かめられる。自分がどんな人間なのか、知ることができる。 その上でどうしたいかを決めればいい。自分が信じたい自分の姿を決めればいい。 己を信じるとは、そういうことなのだと教えられた。 ここで出会った人達ばかりではない。 学校での友人。藤林杏、一ノ瀬ことみ、伊吹風子。 それぞれに少しずつ化学変化を起こし、それでいて己自身に内包しているものを受け入れ、好きになっていこうとしていた。 再会して初めて、渚は自分と同じものを皆が抱えているのだと分かった。 何もかも、変わらずにはいられない。 楽しいこととか、嬉しいこととか、ぜんぶ。 ……ぜんぶ、変わらずにはいられない。 それでも、この場所が好きでいられますか? はい、と今なら自信を持って言える。 現在の自分がどんな人間であるのか分かっているから。 そしてどんな人間になりたいのかも決めているから。 わたしは、一番大切な宗一さんを守れる人間になりたい。 そうして我武者羅に進んできた結果が宗一の言うところの自分なのかもしれなかった。 「全く、誰がこんなにしたんだか」 「わたしの一番好きなひとのせいですね」 何の含みもなく言ってやったので、真正面から言葉をぶつけられるのには慣れていない宗一が僅かに赤面して表情を険しくする。 だからこの人は好きだ、と渚は内心に呟いた。 全てに正直で、誠実で、抵抗なく背中を預けられる人。 その上で宗一は未だに渚の憧れでもある。 本当の意味で誰かを守れる強さを持っている。 その秘密、力の源はどこから来たのかを、まだ自分は知らない。 だから渚は知っていきたかった。少しでも彼に肩を並べられるように。 そのためにもまず、ここから生きて帰る必要があった。 宗一は気を取り直すようにして会話を続ける。 「隙を見計らってライフルまで走るぞ」 「タイミングは任せます」 「いいのか? 俺さっき失敗したぜ?」 「一度くらいの失敗で怒ってるようじゃ宗一さんの彼女は務まりませんから」 試すような口調には冗談交じりに返す。 それも慣れてきている自分がいることに気付き、なるほど変わったなと渚は思った。 冗談が言えるようになるとは、思ってもみなかった。どうやら彼氏の影響は相当に大きいようだった。 敵わないな、と宗一が溜息を零すのを笑顔を迎え入れたのを最後に、渚は意識を戦闘へと傾けた。 レールキャノンの直撃を受け、左腕が丸ごとなくなっても戦いを止めようとしないアベル・カムル。 中にいる搭乗者は、恐らく決定的な勝利を掴むまで、徹底的な敗北を味わわせるまで殺し合いを続けるのだろう。 ただ己が優越感を得たい、その一心で。 何がそこまで駆り立てるのかは分からなかったが、ひどくつまらなく、寂しく、人間であることさえ見失ったものであるということは理解していた。 勿論、自分達が綺麗で正しい存在だと主張するわけではない。 自分だって同じだ。どんな形であれ、殺し合いに加担してきたのは変わりない。 それでも渚は目の前の男とは違うと思いたかった。 だからといって、人の命や生き様をないがしろにしていいはずがない。 少なくとも、渚が知っているここの人達は誰かに対して、誰かの生き方に対して誠実だった。 踏みつけ、見下そうとして恥じないあの男とは違う。 正しい戦いで、正しい殺人だと言うつもりはない。これも人間として、ひとつの過ちであるけれど…… その過ちから目を逸らさず、我が物としてみせる。 走り出した宗一の後に続いて、渚も走る。それと同時、渚に続いてなにかが集まってくる感覚があった。 正体は分からない。考えるだけの時間もなかった。 それでも、敵ではなく、寧ろ味方であるという感覚だけは離れなかった。 『くっ……! 死に損ないの日本人か……!』 接近に気付いたアベル・カムルから心底憎悪する声が届き、回避を続けるリサとアハトノインへの攻撃を中断してターゲットをこちらへと変更したようだった。 右から来る。声が聞こえ、避ける方向を直感して、渚は力の限り走った。 走り抜けたすぐ後ろを爪が通過してゆく。不思議と体力の限界は感じなかった。それどころかどんどん力強くなるようだった。 いける。疑いなく確信して、渚は続く回し蹴りもしゃがんで回避することができた。 攻撃を外したアベル・カムルから戸惑う雰囲気が漏れる。 『何故当たらない!?』 「気を取られすぎよ!」 リサとアハトノインが接近していた。まず素早く跳躍したアハトノインがグルカ刀で頭部目掛けて飛び掛かる。 邪魔だと言わんばかりに腕が薙ぎ払われ、アハトノインに直撃したが、パワー負けする彼女ではなかった。 腕に片腕一本でしがみつき、振り切ったのを見てから腕へとよじ登り、関節部にある隙間へとグルカ刀を突き刺した。 爪が一瞬の間ビクリと痙攣して、そして動かなくなる。 『爪の制御が……! 貴様ぁ!』 振り払おうとするが離れない。当然だろう。あのロボットの超人染みたパワーはこちらでもよく知っている。 その隙を見逃さず、リサがしっかりとM4で狙撃の構えを取っていた。 「気を取られ過ぎと……言ったはずよ!」 M4から弾が吐き出され、カメラアイへと殺到する。アハトノインに集中し過ぎていたアベル・カムルは反応が遅れた。 補助右目に次々と弾丸が命中し、小さく爆発したのが見て取れた。 左目こそ残ってはいたものの、続くアベル・カムルからの悲鳴に、視覚系統に重大な異変が生じたのは疑いがなかった。 その隙にアハトノインも飛び降り、安全を確保したようだった。 『くそっ、くそっ、くそっ! 無駄なことを……もう殆ど武器もない貴様らに何ができる! 諦めない正義の味方気取りか!』 喚く声の主に対して、リサが、宗一が冷静に反論する。 「こっちは勝算があってやってるのよ。それに、貴方はもっと間違ったことを言ってる」 「俺達は正義の味方じゃない」 九十七式自動砲に、手が届いた。 まだ使える。そう信じて、トリガーを宗一に預け、渚は後部を支える。 素早く、正確に、銃口をアベル・カムルの欠損した左腕部分へと向ける。 意図に気付いてこちらを振り向いたが、もう止められはしない。宗一に続くように、渚も叫んだ。 「わたし達は……あなたの敵です!」 九十七式自動砲から放たれた、大砲染みた弾丸が爆音と共にアベル・カムルの肩口を捉えた。 着弾した瞬間、ぶらさがっていたコードや配線が爆発とともに吹き飛び、巨人の体を大きくグラつかせた。 間違いなく内部で爆発した。甚大なダメージを負ったはず。 それなのに、アベル・カムルは倒れることなくギリギリで踏ん張り、片目だけになったカメラアイでこちらを睨み返してきた。 『ふざけるな……私は負け犬なんかじゃない、負け犬なんかじゃない……殺してやる……殺してやるッ!』 怨念、呪詛を想起させる声が響き渡り、腕が大きく真上に掲げられた。 「まだ動くのか!?」 何が何でも殺そうとすることに宗一が驚きの声を上げる。 細かい制御が利かない分、シンプルな動きで叩き潰す心積もりらしかった。 防御も何もない、こちらに対する憎悪だけで動いているといってもいいくらい、直線的な動きだった。 ロクに準備もなく九十七式自動砲を撃った反動で体は痺れていたが、まだ大丈夫。 腕が真上に達し、渚も回避行動に移ろうとしたその瞬間、無機質な英語音声が格納庫に告げていた。 『Charge,completed』 * * * 十五時〇〇分/高天原格納庫 サリンジャーは色を無くした表情で、音声が発された方向を見ていた。 ノイズ混じりのオールビューモニターの向こう側では、レールキャノンの真っ黒な銃口がサリンジャーを捉えていた。 なぜ、と呟く。アハトノインだけではなく、シオマネキですらも裏切ったことに対する『なぜ』。 このタイミングでレールキャノンの冷却が完了し、再砲撃が可能になっていたことに対する『なぜ』。 まるで世界が自分を負け犬に仕立て上げようとしていることに対しての『なぜ』だった。 『ふ、ふざけるな、まだ私は負けるわけには……』 操縦桿を握り、フットペダルを踏み込んでレールキャノンの射程から逃れようとするが、動かない。 故障かと思い、半ば恐慌する気持ちでシステムをチェックしてみたが異常はなかった。 馬鹿な、と震える声で言ってみたが、どう動かしてもアベル・カムルは動かない。 試作品だったからか? いや、テストならば十分にこなした。 設計ミスではないことも自分自身が知り尽くしている。 ではどういうことなのかと巡らせた頭が、ひとつの答えを導いた。 裏切った。 アハトノイン、シオマネキに続いて、電脳まで持たないはずのアベル・カムルでさえ裏切った。 何の抵抗もなく侵入してきた結論にそんなことがあるはずがない、とサリンジャーは喚き散らした。 『機械風情が私に逆らうな! 動け、動け、動け! なぜ動かない!?』 無茶苦茶に操縦桿を動かしても、 力任せに拳を叩きつけても、 緊急脱出装置のボタンを押してでさえ、 何も反応することはなかった。 まるでサリンジャーの周囲だけ時間が止まったかのようだった。 ただひとつ、シオマネキが死の宣告を告げる以外には。 『Five』 カウントダウン。 ゼロになったその瞬間、電磁加速によって驚異的な破壊力を得た弾丸がボロボロになった機体を撃ち貫き、自分を肉片ひとつ残さず消し飛ばすだろう。 いやだ、いやだ! 死にたくない! 最早恥も外聞もなく、スピーカーを通して命乞いの声を張り上げたサリンジャーだったが、反応が返ってくることはなかった。 リサ=ヴィクセンも、日本人の少年少女の二人も、アハトノインでさえも。 『Four』 サリンジャーは立ち上がり、ガリガリとオールビューモニターを爪で削る。 無駄と分かっていながら、無常に告げられる死の宣告に耐えられなかった。 どうしてこんなところで死ななければならない? ずっとみじめで、見下されるだけの毎日が続いて、悔しくて、見返そうとしていただけなのに。 天罰だとでも言うのか? 沢山の人間を殺してきた裁きが降り掛かってきたということなのか? ならばどうしてあの日本人共には天罰が下らない? 殺し合いをしてきたのは、生きるために他者を犠牲にしてきたのは向こうだって同じではないか。 『Three』 不公平だ。最後の最後まで、負け犬は負け犬でいろということなのか。 身につけていた、『神の国』への入国許可証である十字架を投げ捨てる。 そして神を呪った。こんな世界、私は認めない、と搾り出しながら。 「それは違うな、デイビッド・サリンジャー」 『……篁、総帥……!?』 モニターの向こう、茫漠と浮かぶようにして現れたのは死んだはずの篁総帥その人だった。 いつもと変わらない、全てを見透かしたような老人の瞳に、どういうことだと問い返す気力も失せていた。 「貴様は負けたのだ。連中の想い……変えたいという気持ちにな」 「所詮小物よ。那須宗一の相手が貴様に務まるか」 隣に現れ、嗤ったのは醍醐だった。 こうなって当然、想像通りの結果だと告げる顔に、サリンジャーは言い返せない。 「見ろ」 篁がアベル・カムルの周囲を指差した。 「これが貴様の敗因よ」 気がつけば、そこには百人以上もの人の姿があり、アベル・カムルにまとわりつくように佇んでいる。 無様な死だと笑ってきたはずの人間。 勝手に参加者同士で潰しあってきたはずの人間。 呪詛を撒き散らすだけ散らして死んでいったはずの人間。 この島で死んでいったはずの、全ての人間の魂がアベル・カムルに取り付き、その動きを封じていた。 最早幻覚だと思うことも出来ず、サリンジャーは何故だ! と問いかけた。 『なぜ私に楯突く! 殺すなら向こう側のはずだろう! あいつらは、お前達を殺してきたんだぞ!』 人間達が、一斉に振り向いた。 つまらなさそうにサリンジャーを見上げる顔達に、一瞬気圧されたものの、納得のいかない気持ちは変わらなかった。 自分の何が悪い。殺した人間の方が遥かに憎いのではないのか。 『Two』 サリンジャーの疑問に答えたのは、天沢郁未と呼ばれた少女だった。 「あんたさ、往生際が悪いんだよね」 続いて来栖川綾香と呼ばれた女が後を引き取る。 「あれだけ勝ち誇った顔をしておいて、いざ危なくなると命乞いをする。あんたには失望した。一人の格闘家としてね」 宮沢有紀寧と呼ばれた少女が、柏木初音と呼ばれた少女と一緒に現れる。 「勝ちを期待していたのですが……正直、見込みがなさそうなので向こうの味方をすることにしました」 「わたし達が憎いのはあいつらだけじゃない。あんたもだよ。お姉ちゃん達を殺した恨みだよ。……死ね」 吐き捨てるように言い、振り向きもせず元の場所へと戻っていった。 入れ替わりに現れたのは、篠塚弥生と呼ばれた女と、神尾晴子と呼ばれた母親だった。 「そのくせ、役立たず呼ばわりしてあっさり切り捨てた連中の多いこと。そら見限られるわ」 「少なくとも、私達はお互いを裏切らなかった。残念と思う気持ちも起きません。貴方は三流役者ですらなかった」 殺しあっていたはずの連中にすら、蔑まれた目で見られる。 或いは勝ちを期待していたはずなのに、篁の言う想いが足りなかったから、見捨てられた。 それでもサリンジャーは綺麗ごとだ、と搾り出した。 そんなもので世界が変わるか。世界を変えるのはいつだって力だ。 力を得た自分は正しかったはずだ。悪い偶然が重なり合って、たまたま敗北を喫したに過ぎない。 「まだ分からねーのか」 現れたのは、藤田浩之と呼ばれた少年。 『One』 姫百合瑠璃、ルーシー・マリア・ミソラ、藤林杏、芳野祐介、伊吹風子。 高天原で命を落とした面々がサリンジャーに最後の言葉を突きつけた。 「あんたは、一人になっただけだ」 一人? 虚を突かれたサリンジャーは、夢から醒めた面持ちで周囲を見回した。 篁も、醍醐も、傍観者の目でしかなく、自分の味方ではない。 周囲の参加者達は、既に全員が自分を敵と見る目をしていた。 さらに視線を周囲に移す。 味方は、誰もいなかった。 あれだけ数を揃えていたはずのアハトノインも、一人として姿はない。残骸でさえも。 サリンジャーの周りにいるのは、全てが敵だった。 そのことを実感した瞬間、ふと一人で死ぬという言葉が飛び込んできて、わけもない恐怖が湧き上がってくるのをサリンジャーは感じた。 一人で死にたくない。 誰からも見捨てられたままなんて、嫌だ……! 真実の死。本当の意味での死を理解した頭が拒否する叫びを発したが、誰も聞いてくれる者はいなかった。 『Fire』 「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」 どうして日本語になったのかは、分からなかった。 考える間さえ与えられず、シオマネキから発射されたレールキャノンの光がデイビッド・サリンジャーの体を押し潰し、 意識ごと消し飛ばしたからだった。 直撃を受けたアベル・カムルの体が半分から真っ二つに割れ、吸気口から末期の声が木霊した。 格納庫の壁まで吹き飛ばされた上半身はしばらくの間痙攣し、やがて振り上げていたはずの腕をだらりと下げ、そのまま動かなくなった。 一人の人間の存在が、跡形も残さず、消えた。 - PREV:終点/《Mk43L/e》 NEXT:終点/Last Resort BACK