終点/Last Resort







十五時〇〇分/高天原格納庫

 崩れ落ちたアベル・カムルは、最後の最後までこちらを殺そうと腕を動かしかけていたが、やがてそれもなくなり完全な物と化した。
 僅かに燐光を発していたカメラアイからも光が消え、生物的な死を想起させたが、ある意味でそれは正しかった。
 アベル・カムルとその同乗者は一心同体であったのだから。

『System,cooldown』

 英語音声と共に排熱がシオマネキから行われる。プシュー、と空気を漏らすその姿は一仕事を終えたといった様子だ。
 お疲れさん。一言労ってやってから、宗一はぺたんと地面に座り込んでいる渚へと手を伸ばした。

「どうした。ヘタれたか?」
「そうみたいです」

 曖昧に笑う渚は全身の力を使い果たしたようで、緊張の糸が切れたのだろう。無理もない話だった。
 普段なら注意しているところだったが、今は全てが終わったのだ。これくらいはさせてやってもいいだろう。
 しばらくは現在を整理するだけの時間も必要だった。宗一は続いて、シオマネキの脚部にもたれるようにして座っているリサに話しかけた。

「お疲れ。カッコよかったぜ、あの狙撃」
「そっちこそ、随分パワフルな攻撃だったわよ」
「世界最高のエージェントが二人揃えばこんなもんよ」
「あら、三人、じゃないの?」

 リサは悪戯っぽく笑って渚を指差す。宗一は肩を竦めた。
 冗談、とは口が裂けても言えない。まず間違いなく、自分達と同等以上の動きを渚はしてくれた。
 それだけではない。アハトノイン、シオマネキ。元は敵であるはずの彼女らがいなければ誰一人として欠けることなく勝利することはできなかった。
 みんなはひとつ、か。ルーシー・マリア・ミソラの言葉を反芻して、宗一はその通りだなと鈍い実感を確かめた。
 スタンドプレーで突っ走ってきた自分が思うことでもないと思ったが、変わったのだろうと考えることにした。
 感慨を結ぶ一方で、ふと疑問に思っていたことが再び浮上してきたので、事の真相を知っていそうなリサへと宗一は問いかけた。

「そういやさ、どうしてこいつらは味方してきたんだ? 何かあったのは分かるんだが」
「私にも正確な所は分からないわ。……多分、あの地震の前後で何かが変わった」

 ああ、と宗一は頷いた。渚と二人で武器を回収して回っている途中、小規模な揺れを感じたのを覚えている。
 感覚的には爆発物による振動だった。あれで、何かが壊された。それによりアハトノインやシオマネキの電脳に異変が生じたというところだろうか。

「ちょい待て。シオマネキは? あれ煙吹いてたよな」
「予備電源があったんでしょう。電脳が辛うじて生きていた、と私は想像したけど」

 正確なところは分からず仕舞いか。
 今一度アハトノインとシオマネキの両方を眺めてみたが、アハトノインは無言で佇み、シオマネキはピクリとも動かない。
 もしかすると、レールキャノンの連続使用によって電源が切れたのかもしれなかった。
 機械らしいと思いつつ、宗一はまだ生きていると思われるアハトノインに対して、試しに命令を行ってみる。

「アハトノイン。案内を頼めるか」
「どちらまででしょうか。捕捉します。私の内部データには高天原内部のマッピングしか存在しません」

 どうやら聞いてくれるようだった。「十分だ」と付け加えて、目的地を告げようとしたが、その前にアハトノインが返事した。

「ジュウブン、と仰る目的地は存在いたしません」

 沈黙が流れる。しばらくしてどこからともなく笑う声が聞こえ始め、やがてそれは三人分のものとなって格納庫に木霊していた。
 不思議そうにアハトノインが首をかしげる様を見ると、やはりほしのゆめみの姉妹機だと思った。
 済まん、ルーシー。俺、こいつ許すことにするよ。
 どうしても彼女の命を奪った機体と同系列のものだと思えなかったからだった。
 皆がどう思っているかは分からない。が、こうして三人分の笑い声が聞こえていることが、自分と同じことを考えている証明だと思いたかった。

「ごめんなさい。もう一度目的地を言うわ。地下ドックとか、ない?」

 未だ笑いを抑えきれないリサに不快感を表すこともなく、淡々とアハトノインは頷いた。

「存在します。ご案内を行いますか?」
「ああ、頼む」

 宗一も笑いが収まらなかった。渚もそれは同様で、隠すようにしながらも体を揺らしている。
 どうやら自力で立ち上がれそうもないと判断して、宗一は渚まで駆け寄り、背中を差し出した。

「乗れ。おんぶだ」

 まだ笑う気配があり、たっぷりそれが数秒ほど続いてから肩へと手が回され、体が預けられる。
 遠慮なく体重を預けてくることと、伝わる渚の体温が嬉しく、宗一は「よっしゃ!」と張り切って勢いよく立ち上がった。

「あ、わっ」

 いきなり立ち上がったためか、バランスを崩しかけたらしく、しがみつくようにして渚の力が強まる。
 当然、彼女の体の柔らかい部分もより密着し、触れている。思わず顔を崩してしまった宗一を目ざとくリサが目撃していた。

「スケベな顔ねぇ」
「……宗一さん?」

 女の勘は鋭い。リサの言葉を聡く悟った渚から、怒るような気配が伝わる。
 心なしか、肩にかかっていたはずの腕が首に回されているような気がしなくもない。
 はは、と誤魔化すように笑いながら、「いや結構ボリュームあった」と褒めるつもりで言ってみたのだが、逆効果だった。

「〜〜〜〜〜〜っ!」
「いでででででで! 痛い!」

 思いっきり頬をつねられる。しかも綺麗に伸びていた爪が食い込んでいたので尚更だった。
 遠方では醒めた顔のリサとアハトノインが、バカ夫婦、とでも言いたげな視線を寄越していた。
 違うぞ。男の性だ仕方がないと言い訳しようとしたところで耳障りな警告音と共に新たな英語音声が聞こえてきた。

 Self-destruction seqence has been activated.
 Repeat.Self-destruction seqence has been activated.
 This seqence is not be aborted.
 Please escape romptly...

     *     *     *

十五時〇〇分/高天原下層

「……」
「……」
「なあ、今なんて言ってたんだ?」
「知らん」
「お前高校生だろ! 英語くらい聞き取れるようになっとけよ!」
「るせーっ! お情けで卒業させてもらった女に何を求めておるかこのばかちんっ! てゆーかそっちこそいい大人の癖して英語くらいできんのかー!」
「あー!? 高卒バカにしやがったなてめぇ! 知るか! 知らん知らん! あんなネイチブな英語聞き取れるかっつーの! ……だけどよ」
「なに」
「途轍もなくヤバいってことは分かる」
「同感だね。あたしもだよ」
「……」
「……」

 逃げよう、という言葉が俺達の間で重なった。
 どこへ行けばいいのかはさっぱり検討もつかなかったが仕方がない。
 肩を抱える格好から、俺はひょいとまーりゃんの体を持ち上げる。今はこっちのが楽だった。

「ちょ、ちょ! 何やってんの!」

 ……問題は、お姫様抱っこなんて恥ずかしさマックス極まりない格好だったことだった。
 明らかに赤面したまーりゃんが今にも噛み付いてきそうなツラで俺を見ていた。
 知らん。大体お前がチビなのが悪い。

「おい貴様今チビとか抜かしおったか! 成敗!」
「いでででででで!」

 思い切り頬を引っ張られる。全然ラブコメの香りがしないのは俺とまーりゃんという組み合わせだからに違いない。
 とはいえバカをやっているような状況じゃないと冷静に判断した俺は手をさっさと払いのける。
 ムッとした顔を向けられたが、構わず俺は走る。どこかって? もうどうにでもなれだ。
 早くもランナーズ・ハイになってきたらしい。色々と感情が出てくる。まーりゃんがぎゃーぎゃー言い続けているのもあったが。

「うるせぇ、ガタガタ抜かすな。悔しかったらおっぱい大きくするか身長伸ばしてみろ」
「また言うかこのモジャ頭」
「……てめぇ」
「……何だよ」

 いつもならここらで止めてくれるゆめみさんはいない。
 お互い収まりがつかなくなっている俺達は、ヒートアップを続けていた。

「大体、てめぇは最初から気に入らなかったんだよ。五月蝿いわ、突っかかってくるわ」
「同感だね。あたしもあんたなんか気に入らなかったんだ。ぶっさいくな癖に、さーりゃんと一緒にいやがって。んでいざ会ってみたら性格まで最悪」
「抜かせ。俺はその百倍も気に入らなかったんだ。俺は今でも怒ってんだぞ」
「……なに?」

 一瞬、まーりゃんの声が詰まった。
 分かるはずもないだろう。これは男にしか分からない屈辱だった。
 普段なら理性を働かせてここで思いとどまるはずなのだが、この時ばかりは口が滑った。
 ゆめみもいないし、茶化すポテトもいないし、何より今はランナーズ・ハイだった。

「初めて会ったとき、俺の股間思いっきりぶっ叩きやがったろ。痛かったんだぞ。チンコ勃たなくなったんだぞ。どう責任とってくれんだこの……」

 俺は最後まで言い切ることはできなかった。くっくっく、と低く喉を鳴らしてまーりゃんが笑い続けていたからだった。
 笑うんじゃねえ、そう言おうとしたが、収まることのない笑いに俺もつられて笑ってしまっていた。
 二人の体が揺れ、何度かまーりゃんの体を抱え直すうちに、色々なものが抜け落ちてゆくのを俺は感じていた。
 大真面目に言ったつもりなのに、ただのバカ話、笑い話としか思えなくなってしまった。
 何の遠慮もなく笑い続けているまーりゃんを見ていたら、尚更そう思った。
 もう反感も何もあったもんじゃない。まーりゃんが一番嫌いだった理由がこれなのに、笑い話にされちゃどうしようもない。
 こういうものなのかもしれない、と思った。一度口に出してしまえば笑って済ませられる。
 世の中のケンカなんて大体そんなもんなんだろう。そうして、俺達は仲間を持ち、仲間意識を持ち、一蓮托生の中に身を置いてゆくのだろう。

「バカじゃないの、ホント」
「うるっせえな。マジに怒ってたんだからな」

 今はもう違うのだが。
 はいはい、とくっくと笑うまーりゃんにもうこの話題を続ける気は起きなかった。
 初めて仲間意識を自分から持てたと感じた人間に、もう少し自分をさらけ出してみたいと思う気持ちの方が今は強かった。

「……麻亜子」
「あ?」
「朝霧麻亜子。あたしの、本当の名前」

 笑い疲れた顔のまま、今度はまーりゃん……いや、麻亜子がそう口にしていた。
 初めて聞いた奴の名前は、驚くほど地味で女らしかった。

「地味で、変な名前でね。なんか嫌いだった。好きになれなかった。だから、まーりゃん、って名乗ってきた」

 言う割には、麻亜子はすっきりした顔をしていた。殆ど、本名は誰にも明かしてこなかったのだろう。
 それをこうして言ってくれたのは、同様の仲間意識を持つようになってくれたから、なのだろうか。

「悪くない名前だ。俺に比べりゃな」
「そういや、あんたの名前はなんて言うの?」

 俺も嫌いだった。自分の名前が。
 女みたいな字面で、ガキの頃から散々バカにされ続けてきた。
 名前なんてクソ食らえ、なくなってしまえばいいと思っていたが、今は寧ろ穏やかな気持ちで自分の名前を言うことができた。

「……そっか。いい名前だと思うよ。まあモジャ頭には似合わない名前だけど」
「うるさい。そっちこそサイドポニーが似合わない名前してんじゃねえよ」

 また笑いが漏れた。些細なことでも笑い合える空気が、今の俺達にはあった。
 似たもの同士。嫌いな奴ばかりだったが、ようやく好きになれそうな気がしていた。

「高槻さんっ!」
「ぴこぴこー!」

 すると、ずるずると箱型の何かを引っ張ってゆめみさんが現れた。
 おい。確かに杖になりそうなもの持って来いとは言った。
 言ったが、あんなバカでかいもん持って来いとは言ってないぞ。
 っていうかアレロケランじゃねえか! んなクソ重いもん持ってどうしろってんだ!
 突っ込みが追いつかないことに頭を抱えたくなったが、生憎両手に麻亜子だった。
 しかもなぜか、今の麻亜子はしっかりと両腕を首に回して抱きついている。ふざけんな。ニヤニヤすんな。
 もう突っ込みは諦めろといつものようにポテトが頭に乗っかり、俺の夢の時間は終わった。そして現実が始まる。

「さっきの英語、なんて言ってたか分かるか」
「自爆装置が作動して、もうすぐ爆破されるそうです」

 言って、ゆめみさんは「お待たせしました」とロケランの箱をプレゼントしてくれる。やっぱ重い。
 しかし自爆装置か。まるでアクション映画のラストシーンだな。
 問題は雄たけびを上げながら逃げる場所が見つからんということなんだが。

「いつ爆発する」
「三十分後、と……」
「げっ」

 時間がない。間に合うのかこれ。この島と一緒に心中なんてゴメンだぞ。
 とにかく今は走るしかない。ゆめみがいるから時間の確認は大丈夫だろう。

「あの、杖は……」
「いらん。お前が持ってろ」

 はあ、と生返事するゆめみに麻亜子が調子に乗って「あのねー、この子がどーしてもあたしでお嫁さんごっこしたいとか言うもんでさー」とか言いやがったので一発殴った。
 お前が言うと犯罪になる。割と本気で殴ったので麻亜子は悶絶の呻きを上げていた。これでよし。

「よくないっ! よくも乙女の頬を! 親父にもぶたれたことなかったのに!」
「何が乙女だ幼女体型! これ以上余計な口きくと今度は修正するぞ!」
「えっあたしの貞操の危機?」
「あ? お前処女だったの?」
「貴様ーっ! よよよよりにもよってこのあたしをビッチ呼ばわりかー! 本気で傷ついたぞあたしは!」
「いやまあ、頑張れよ」
「くっそーっ! なんか同情されたーっ! むかつくー!」
「はいはい、ちょっとようござんすか」
「「うわあっ!?」」

 いきなり出てきたのは妖怪眼帯女……ではなく、一ノ瀬ことみとか言う女だった。
 一体どこから現れたのか、全く気配を察知できなかった。と思ったら向こう側でゆめみさんがにこにこ笑っていた。あいつか。
 あまりにビックリしたのか、麻亜子は固まった表情のまま俺にさっきより密着していた。骨ばっててあんまり嬉しくない。
 それよりさっきの会話はどこまで聞かれていたのだろうか。下ネタを頻発していた気がする。
 頼む神様、最後の一言だけ聞いてたとかそんな感じの運命をお願いします。

「大声で処女とかビッチとか、言わない方がいいと思うの」

 神は死んだ。分かってはいたが。

「まあそれはさておき」

 涼しい顔で一ノ瀬は流してくれた。ありがたい。包帯は怖いが。

「脱出口なら既に知ってるの。ここをずっと降りていけば、潜水艦のあるドックがあるから」
「マジか!」
「マジも大マジなの。地図で確認したから」
「ってことはお前についてけばいいわけだな? 何分でつく?」
「急げば五分くらい」
「善は急げだ。早速道案内頼むぜ」

 そういや、リサ=ヴィクセンの姿がないのが気になったが、まああの女なら大丈夫だろう。
 簡単にくたばるような女ではないはずだ。
 ……とはいっても、俺はもう三人死んでるのを確認してるんだけどな。
 せめて楽に死ねたならいいんだが。
 それ以上考えても仕方ないと思い、一旦思考を中断して脱出に専念することにした。
 先導する一ノ瀬に従って俺達も後に続く。
 ゆめみさんは片腕一本でロケランを抱え上げていた。ぱねえ。
 捨ててしまえと言おうかとも思ったが、機会を逃した。「早く走れー! 万馬券はすぐそこよっ!」と麻亜子が五月蝿いからだった。
 俺を馬扱いするんじゃないと怒る気はなかった。というか、競馬に当てはめているのがおっさん臭くて少し悲しくなった。

「なんか失礼なこと考えてた?」

 女の勘は鋭い。

     *     *     *

十五時三分/高天原連絡橋

「なあ、今の英語……」
「最後のだけなんとか……逃げろ、って」

 何か良くないことが起こっているのは明らかだ。
 国崎往人は歩く足を早めた。それで痛みが増そうが、死ぬよりはマシだった。
 隣にいる川澄舞が、大丈夫と不安げな視線を向けてきたが、笑って応じる。思った通りの表情になれているかは自信がなかったが。
 幸いにして、アハトノインを倒して以降あちこちを駆け巡りマップらしい見取り図を確認していたので逃げ場所は確保してあった。
 問題はその場所が潜水艦ということであり、はっきり言って自分達には動かせる可能性もないということだった。
 どうにかなる、と思うしかない。期待の星はリサだ。別れたままだが、きっと生きていると信じている。

 通路を抜け、潜水艦のドックへと通じる連絡橋へと至る。
 ドックと高天原は離れている構造になっているのか、連絡橋の道幅は広くはなく、橋の間はがらんどうがぽっかりと口を開けていた。
 ここから落ちれば高天原の最深部……上がってこれるかも分からない場所に直行だろう。
 明かりは見えず、取り合えずそこまで行くのは遠慮しておきたいところだった。
 上を見えればもうひとつ連絡橋があり、ここからも梯子を伝って行けるようになっていた。
 往人達は割と下までやってきていたらしく、上の連絡橋は中層くらいまでありそうだった。
 他に人間の姿はない。自分達が一番乗りだったのだろうか。
 それはそれでいい。遅刻よりは遥かにマシだ。寧ろゆっくり行けると判断して速度を緩めかけた往人達の目の前、連絡橋の奥から一つの影が現れた。
 距離にして、約50m前後といったところだろうか。闇から現れたその影は、異様な風采をしていた。いや。

「……マジかよ」

 壊れていた。
 それはかつて藤林杏と芳野祐介が命を懸けて突き落としたはずの機体だった。
 頭部は半壊し、剥き出しになった金属の頭蓋と異様な光を放つカメラアイがある。
 腕は片腕が落ち、ボキリと折れてしまったのか骨格が鋭く槍のように突き出している。
 もう片方の腕もボロボロで、手から先の部分の皮膚が削げ、フレームのみになった指がうねうねと蠢いている。
 足も同様であり、赤い冷却液まみれになった太腿がてらてらと輝く様子は化け物染みていた。
 がちゃ、がちゃと歩くたびに音がする。内部にも異常があるらしく、どこか眩暈を起こしたようにふらつく歩き方だった。
 往人達を捉え、敵と見定めたアハトノインが歪んだ笑いと共にノイズ混じりの音声を発した。

「あな、たを、……し、ましょう」

 天を見上げ、神を崇めるような仕草をして……直後、ゾンビのような足取りからは考えられないようなスピードで突進してきた。
 狭い通路。逃げ場はない。「下がって!」と即座に叫んでいた舞が日本刀を抜き放ち、同時に『力』を展開する。
 槍のように先端が尖った金属骨格が突き出される。凄まじい速度だったが、何とか受け止めて反らす。
 それと同時、陽炎のように現れた『力』がアハトノインに突進し吹き飛ばす。
 機械などでは測りようもない正体不明の力に巻き込まれながらも、既に電脳がイカれきっているらしいロボットは風と受け流すだけだった。
 続けて舞は『力』を前進させ押し込めようとするが、迫る攻撃の正体を掴んでいたようだった。
 大きく跳躍し、突っ込んできた『力』を回避。その上特製の槍を背中と思しき部分に向けて突きこんだ。

「ぐ……!」

 苦悶の表情になり、舞がガクリと膝を折る。
 あれは舞の身体と直接連動しているらしいと気付き、往人は「下がらせろ!」と叫んだ。このまま無茶をさせていい状況ではなかった。
 既に奇襲は通用しない状況になっている。ここは弾幕を張るべきと結論し、今度は往人が自らの力を解放する。
 ふっ、と『力』が消えたのを確認したと入れ替わるようにして、往人がフェイファー・ツェリスカを連射する。
 本当ならば人間の力などでは連射など不可能な反動があるツェリスカを連射することなど不可能だ。
 しかし往人は物を自分の意志で好きなように動かすことのできる法術の応用で、
 動かすための力を反動の相殺に使うことで自らにかかる負担を最小限にし、連射を可能にしていた。
 元々の反動が凄まじい分、往人の消費する力の度合いも大きかった。一発撃つ度にズキリと頭が痛み、銃口がブレそうになる。
 意識を失わないのは我ながら根性があると思ったが、当たらないのでは意味がなかった。
 壊れている癖に銃撃を鋭く察知したアハトノインは手すりを器用に飛び回り、その銃撃を悉く回避していた。

「くそっ!」

 とても半壊しているとは思えない動きだった。先程戦ったアハトノインとは違う。
 いや、学習したのかもしれない。あの壊れ方は恐らく、他の連中と交戦したときに生じたダメージなのだろう。
 戦闘から行動パターンを読み、どのような動きを行えばいいのかシミュレートまでしていたに違いない。
 その上このしぶとい生命力。以前のように根元から壊しきってやらなければ完全に動きを停止させることは不可能と思ってよさそうだった。
 接近したアハトノインが、上から槍を突き出す。早い。想像以上のスピードにツェリスカを向ける動きが間に合わない。

「お願い、もう一度!」

 そこに飛び込んだのは舞と彼女の『力』だった。空中で槍を弾き、更に突進した『力』がそのまま格闘戦に持ち込む。
 転倒したアハトノインだったが、追撃する間を与えない。のしかかろうとした『力』を回避し、そのまま蹴り飛ばす。
 手すりにぶつけられ、ぐったりとして動けなくなる。当然舞にもダメージが及んだが、少し顔を歪めただけでそのままアハトノインに突っ込む。
 日本刀を一閃。アハトノインも槍で受け止め、そのまま鍔迫り合いの格好となった。

 無論パワー勝負となれば不利。それを分かっている往人は舞の肩越しに、今度はコルトガバメントカスタムを力の限り連射する。
 再び反動を無理矢理法術で押さえ込んでの射撃。そうでもしなければこの傷ついた体でアハトノイン相手に戦うにはいささか分が悪過ぎた。
 しかしこの連携も読まれていた。鍔迫り合いをするふりをして、アハトノインはサッと後方へ離れる。
 だがそこまでも往人達は織り込み済みだった。今は二人ではない。三人だ。
 更にアハトノインの後ろに回りこんでいた舞の『力』が橋から突き落とそうとする。
 今度こそ、と往人は思ったが、あのアハトノインは考える以上の実力を有していた。
 しゃがんでまず攻撃を空振りさせ、足元を槍で突き刺す。
 『力』がぐにゃりと揺れ、その存在を弱めたと同時、連動してダメージを受けた舞に逆に突っ込んでいた。
 すかさずガバメントカスタムで援護するが当たらない。舞も無防備な姿を晒すことだけは避け、日本刀を横に構えて防御したものの、
 上向きに振った槍の圧力に耐え切れず刀を手放してしまった。そこに肩から突進され、吹き飛ばされた舞に巻き込まれ、往人も横転する羽目になった。
 刀が橋の底、暗闇の彼方へと消え去る。舞の武器がなくなった。
 舞を支え、立ち上がりこそしたものの、圧倒的不利に立たされた。強い。
 だが、まだ終わってもいない。以前の戦いだってそうだったはずだ。
 全身が痛み、法術の力も殆どなくなりかけている。ガバメントも、ツェリスカも弾は全くといっていいほどなくなっている。
 とはいえ、戦法の一つや二つ残ってはいる。後は実行できるかどうか。遂行しきれるかどうかというところだ。結果はついてくるはずだった。

「済まんが、また動かせるか?」
「少しなら……あの子も、疲れてきたって言ってる」
「お互い限界のようだ」

 文字通りの総力戦。この体も、精神も、とうに限界を超えて磨り減ってはいるが、後から後から気力が湧き出て体を動かしてくれる。
 支えている舞の体温を確かめる。彼女の存在があるからここまでやってくることが出来たのだし、自ら目を背けてきたこと、忘れていたことを思い出すことが出来た。
 自分の生きてきた軌跡。目的。やりたかったこと、やりたいと思っていること。
 大切な家族がいたこと。家族に誇れる自分になりたいと思ったこと。そして、作ってみたいと思ったこと。

 俺の旅も、そろそろ終着点にしなくてはならない。

 一人旅ではなく、新しく連れ添う人と始める旅に出るために……
 アハトノインが身じろぎしたのを見計らって指示を出そうとしたとき、二人の頭上を駆け抜けた存在があった。
 人間では考えられない跳躍力と速度。長い金髪をはためかせながら往人達の盾になるように前に出たのは、立ちはだかる敵と全く同じ存在だった。
 グルカ刀を引き抜き、『アハトノイン』が、アハトノインへと斬りかかったのだった。
 損傷の度合いこそ違うとはいえ、同じ顔、同じ身体である二体が同士討ちの様相を呈していることに呆然とする。
 どういうことだ? 理解しかねている間に戦闘は始まった。
 それまで往人達と戦っていたアハトノインが新たに現れたアハトノインのグルカ刀を槍で受ける。
 先程までとは違い、力は完全な互角。今度こそ鍔迫り合いをする形となり、両者が押しも押されぬ無言の攻防を繰り広げる。
 どう判断していいのか分からず、顔を見合わせるしかなかった往人と舞に声がかかったのは、両者の戦闘が始まって少し遅れてからのことだった。

「大丈夫、二人とも!?」
「リサか? それに那須……」
「渚もいる」

 連絡橋の向こうから小走りに寄ってきたのはリサ、宗一、渚の三人だった。
 どうやら苛烈な戦闘を潜り抜けてきたようで、リサも宗一も満身創痍といった様子で、渚に至っては歩けないのか宗一におんぶされている。
 止血する暇もなかったのか、破れた服の隙間から出血が見られた。かなり激しい戦いだったようだ。
 武器もリサが抱えているM4以外はほぼ空っぽ、いや持ってもいない様子からほぼ使い切る程のものだったのだろう。
 しかし今はそれより、自分達の背中越しに切り結んでいるアハトノイン達の方が気になった。

「ありゃ何だ。なんで同士討ちしてる」
「あっちは味方だ。寧ろ俺らからすればあの壊れかけの方が敵対してるのが不思議だよ」

 どういうことだ、と舞共々首を傾げる。言葉を窺う限り、駆けつけた方は間違いなく味方だというのは分かるのだが。
 ん、とリサは少し考える素振りをした後、「これは推測なんだけど」と前置きして続けた。

「あっちは壊れてるからじゃないかしら。命令の変更が行き届かなかった」
「命令の変更……」

 舞の呟きで、往人は一つの事実を察した。
 吉報も吉報、これ以上の果報は現在考えられないものだ。

「倒したのか? ここのボス」
「ええ。最も、あの子はそれ以前から味方してくれてたんだけど……とにかく、倒したのは事実よ」

 リサの言葉に、ようやく本当の意味で往人は顔を綻ばせることができた。
 倒した。それはつまり、完全に敵対している者はいなくなったということ。

「……だけど、まだ終わりじゃない。あれが最後の敵」

 緩みかけた往人の気持ちを引き締め直したのは舞だった。
 アハトノイン同士の対決は未だに続いていたが、損傷は先程戦闘していた方が明らかに酷いにも関わらず、援軍として駆けつけた方を徐々に押し始めていた。
 学習能力の差が響いてきている。最後の最後まで敵として立ちはだかるアハトノインは、半壊していてもなお禍々しさを増しているようにも思えた。

「……サリンジャーの亡霊ね」

 援軍に駆けつけねばならないと分かっているリサは既にM4を構えていた。
 サリンジャーと呟いた名。それがここを牛耳る敵の名前であり、死亡しても自分達をここに押し込め、殺し合いを強要させようとする怨念の名前だった。
 しかし不思議と恐怖は沸かない。「しつこい奴だ」と一言言い直した往人はツェリスカの残弾を確かめた。
 その数、一。まだ見捨てられてはいないらしい。何度も助けられたなと感慨を結びながら、往人はツェリスカに向かって問いかける。
 最後まで俺を助けてくれるか?
 ズシリと手のひらにかかる銃の重さが答えだった。いい女房だ。舞には劣るが。

「今動けるのは他にいるか」

 宗一と渚は首を振る。当然だ。傍から見てもあれはもう限界だ。判断は流石に那須宗一といったところか。
 舞は首を縦に振りかけたが、往人が制した。まだやってもらうことがある。それは舞にしかできないことだった。
 察してくれた舞が「頑張って」と手を握ってくれた。「ああ」と一言応じて、ぐっと力強く握り返す。
 柔らかく、暖かい鼓動が手のひらを通して伝わってくる。それは命の重み。現在も生き続けている存在の証だった。
 確認したと同時、守ってくれていたアハトノインが蹴りで吹き飛ばされ、こちらのすぐ側まで転がってくる。選手交代だった。
 そのまま槍を突き出して走ってきた『亡霊』にまず向かったのはリサだ。
 M4による正確無比な射撃が殺到する。傷ついてもなおその精度は変わらなかった。
 当たるのは不味いと判断している『亡霊』はツェリスカを避けたとときと同様、手すりから手すりに器用に飛び回り殆ど命中させない。

「源義経の八双飛びね……だけど!」

 先読みして虚空へとM4の射線を変えたリサだったが、読まれた。
 今度は飛ぶことなくストンと地面に降り立つ。だがそれこそが狙い。地上戦なら誰よりも強い味方がここにいる。
 アハトノインだった。既にグルカ刀を構えている彼女に槍で攻撃させる間は与えない。
 大きく踏み込んで袈裟に斬りかかる。『亡霊』はまだ無事な方の腕を咄嗟に掲げ、ガードする。
 キンと火花が散るも、強固な硬さを誇る骨格を切り裂くことはできなかった。大振りであったために生じた僅かな隙に、アハトノインが再び蹴りを食らってしまう。
 吹き飛ばされたのは手すりの向こう側。奈落へと通じる穴だったが、ギリギリで縁を掴んだアハトノインは何とか落下を免れる。戦闘への復帰は不可能。
 だが、構わない。切り札はまだ残っているのだ。

「行けっ!」

 叫んだのは舞だった。いつの間にか背後に忍び寄っていた『力』が羽交い絞めにする。
 抑えていられるのは少しの間だが、動けなくなれば十分。法術を振り絞り、ツェリスカに詰め込んだ往人が最後の射撃を行う。

「終わりだ!」

 しっかり狙っての射撃。今度こそ避けようもないと思った往人だったが、カメラアイを紅く光らせ、こちらを睨んだ『亡霊』の執念は凄まじかった。
 羽交い絞めにされたまま、足だけを振り上げてツェリスカへの盾としたのだ。
 象ですら一撃で仕留めるツェリスカの.600NE弾をそれで押さえきれるわけもなかったが、吹き飛ばされたのは片足だけだった。
 衝撃を受け、ごろごろと転がりはしたものの、むくりと起き上がり、手すりを支えにして起き上がる。

 ここは通さない。この島と一緒に死ね。

 声にならないノイズ音に紛れて、しかし確かにその声が往人には聞こえた。
 殺し合いを強要させ、己の欲望のために他者を踏みにじることも恥じない人間の声。
 往人はようやく、アハトノインの奥に潜んでいた真実の敵を確認することができた。
 そして強く言い返す。機械越しとでしか俺達と向かい合えないお前に負けてやるか、と。
 だがツェリスカは弾切れ。M4も撃ちきってしまったらしく、リサも動けない。
 後一撃なのに。もう動けず、その場で仁王立ちしているしかない奴にトドメを刺せるなにかがあれば……!

「さっさとくたばってろ、化け物!」

 それは遥か後ろから聞こえ、遥か後ろからやってきた。
 往人達の間を高速で何かが通り抜け、煙を引きながら『亡霊』へと迫り、体の真正面、胸へと直撃した。
 避けようのなかった機械の体が文字通り木っ端微塵に砕け散る。
 ロケット弾による爆発が起こした膨大なエネルギーが体を押しひしゃげ、火球が『亡霊』そのものを包み込んだからだった。
 爆発に飲み込まれる直前、口が何事かを発したように思えたが、少なくとも往人は確かめる術を持てなかった。
 呪詛の言葉でさえ爆発の大音響に飲み込まれ、最後まで従った、壊れたアハトノインと共に『亡霊』もその姿を消した。
 一瞬の静寂。我を取り戻し、勝利の時間を確かめている間に、トドメを刺した連中の明るい声が響いた。

「……どーだっ。ざまあみろ!」
「あっ、あっ、手を離さないで! 重たいの……!」
「バカ肩落とすな! 俺の負担が大きく……ぐおお!」

 高槻達だった。麻亜子、ことみと共に三人一組でロケットランチャーらしきものを持っていたが、
 今は喜んでいる麻亜子が手を離してしまっているために二人で支えている状態だった。

「ごめんなさい。ギブ」

 そしてことみが戦線離脱。「ぎゃー!」と悲鳴を上げた高槻はロケットランチャーに潰されたかに思われたが、すんでのところでゆめみに助けられていた。
 片腕のみという状態のゆめみだったが、平然とした顔で支えているのを見るとロボットだなという感想が改めて湧き上がってきた。
 なくなった腕の部分からはみ出している機械の部品が見えたというのもあったのだが。

「ありゃ。ごめんよ」
「アホ! 危うく俺の選手生命が閉ざされるところだっただろうが!」
「ごめんって言ってるじゃん心の狭い奴め」
「殴る」
「うおっキレたっ! 逃げろー!」

 怒涛の勢いで走り出す麻亜子。いきなり始まったケンカに皆呆然とした面持ちで眺めている。
 当然だろう。往人は頭を抱え、この緊迫感のない状況を嘆いた。
 それとも、これが生きて帰れるということなのだろうか。

「ぴこ」

 気にするなという風にポテトがてしてしと膝を叩いていた。
 この毛玉犬、いつの間にやら知性を身につけてきたのは気のせいではあるまい。
 久々にその体を抱き上げ、撫でてみる。嫌がるかと思えば案外素直にポテトは身を任せてくれていた。
 全く、ここの連中は変化が多過ぎて飽きない。
 それでいて嫌味を感じさせないのだから尚更だ。

「てめー怪我してんじゃなかったのかよ! ずっとお姫様抱っこしてた俺の時間を返せ!」
「わっバカなにカミングアウツしておるか!」

 思わず反応してしまったらしいところを高槻に掴まれ、頭をグリグリされている。いつもの光景だった。

「……お姫様? 抱っこ?」
「何でもないよまいまい別に楽したかっただけとかそんなんじゃあいでででででで!」

 照れ隠しなのかそれとも真実そう言っているのか。どちらにしても往人の感想としては「どうでもいい」だった。
 往人は随分前に高槻に出会ったときのことを思い出していたが、麻亜子と同じくらいやかましかったのを今思い出した。
 この二人が絡むとロクなことにならなさそうだった。
 風子と似ている……そう、本人に伝えようとしたが、いなかった。
 それだけではない。芳野、杏、浩之、瑠璃、ルーシーの姿もない。出遅れているとは思えなかった。
 事実を静かに察して、往人はほんの少しだけ黙祷を捧げた。それが彼らへの慰めにもなるとも思えなかったが、
 僅かにでも時を共有した仲間として、そうしなければならないと思ったからだった。
 人形劇でもできれば。そう思って手のひらを眺めてみたのだが肝心の人形はないうえ、力を感じられなかった。
 先程の戦闘で、力を出し切ってしまったのかもしれない。旅芸人を続けられた証である法術を失ってしまったと直感したが、こみ上げてくるのは苦笑だけだった。
 真実、ここからは本当に新しい一歩を踏み出さなくてはならない我が身を確認したからだった。

「どうしたの?」

 笑っていることに気付いた舞がそう尋ねてくる。
 往人は「いや」と前置きして、自らの力が失せてしまったことを伝えた。

「人形劇は店仕舞いだ」
「そう……」

 残念そうな顔だった。もっとしっかりとした形で人形劇を見せてあげられたらと思ったが、仕方のないことだった。

「私も……あの子の気配が感じられない。もういいよ、って、最後に聞こえたまま……」

 力を失ったのは、自分だけではないようだった。
 手のひらを天に掲げ、どこかへと消えた自分の力、或いは半身を追い求めるようにしていた舞だったが、手はすぐに下ろされた。
 往人と同じような苦笑が浮かべられる。
 こうなってしまっては仕方がないと、どこかで諦めに似た感情を持ちながらも、新しい一歩に期待しているひとの姿だった。

「でも、もういい。送り出してくれた、って思うことにする」

 そうだな、と往人も同意した。
 事実がどうであれ、受け止め方を決めるのは自分でしかない。
 目を反らさず、しっかりと自分の中で咀嚼し、我が物としていた舞は思った以上に大人の女だった。

「はいそこまで。バカやってないで、とっととずらかるわよ」

 がしっ、とまだお仕置きを実行していた高槻を止めたのはリサだった。
 その近くでことみが「もう少しでここ、自爆する」と付け加え、
 まだ完全に安心はできない状況であるということを伝えると、それでようやく麻亜子も釈放されたのだった。

「くっそー、覚えてろよ」
「俺の台詞だそれは。アホ麻亜子」

 聞きなれない名前が高槻の口から飛び出していた。
 皆が新しく出てきた名前に興味の視線を寄せると、当の本人は急に焦った表情になり、

「何またカミングアウツしてるかな!? うわー、まーの貞操がー!」

 と彼女にしては珍しい赤面顔を見せていた。
 そういえば本名は知らなかったと今更ながらに思った往人だったが、
 まーりゃんと名乗っていた少女の本名が分かったところで、これまた「別にどうでもいい」だった。
 ゲラゲラ笑っている高槻と愕然とした麻亜子を見て往人が新しく思ったことといえば、この二人はやかましいという感想だけだった。

     *     *     *

十五時十七分/高天原連絡橋

 ほしのゆめみは、縁から登ろうとしていたアハトノインへと手を伸ばす。

「大丈夫ですか」

 片手だけだったが、彼女の力を計算すれば十分だろうと頭脳が導き出した結果だった。
 差し出された手が仲間のものであると認識したアハトノインが「感謝します、お姉様」と言った。
 お姉様。言葉の意味を姉妹機であるからという事実からそういう意味かと認識して、ゆめみは微笑んだ。
 連絡橋に舞い戻ったアハトノインは、しかしすぐに直立不動の姿勢のまま次の命令を待っているようだった。
 感情プログラムは簡易的なものしか搭載していないのかもしれない。元は戦闘用のロボットであるから、当然の話だった。
 お互い殺しあったかと思えば、命令一つで仲間にも転じる。ロボットの宿命だった。自分達は、そういう存在でしかない。
 けれどもこうして、アハトノインを受け入れてくれている人間がいる。
 様々な思惑はあれど、今こうして味方の立場に立っている彼女に恨みと思しき感情を抱いている人間はいない。
 そんなものに振り回されない強さを抱えているのが、彼らという存在だった。
 この姿を強くメモリーに焼き付けておこう、とゆめみは思った。自分がこの筐体にいる限り、役目を終えない限りは。
 命令されもしないのにこんな行動を起こしているのはロボットとしては壊れているのかもしれない。
 しかし、ゆめみは知っている。そんな壊れた自分でさえも受け入れるだけの大きさを人間は持っているのだ、と。

「アハトノイン、案内の続きを頼むわ」
「了解しました。皆様、こちらへどうぞ」

 場をようやく収めたリサの言葉に即座に反応して、アハトノインが先導を始めた。
 ことみが言っていた潜水艦のあるドックまでは、ここを抜ければすぐだった。
 爆発までの時間は、残り十分強。間に合うはずだ。
 まだ無事な人間は怪我をした人間を支えながら歩いているため、動きは少し遅い。
 助けられればとゆめみは思ったが、片腕が欠けている状態のゆめみにできることは少なかった。
 仕方がないので、ロケットランチャーを抱えて走ろうと思ったところにことみの声がかかった。

「もういいから」
「……そうですか」

 残念だ、と思う気持ちが生まれていた。
 命令通りロケットランチャーを下ろし、ことみに並んで走る。怪我の度合いから言えば彼女が一番酷いように感じられたが、本人は飄々とした様子だった。
 人間は見た目では判断がつきにくい。自分達は明瞭なのに。
 創造主たる人間の、最も分からない部分の一つがこれだった。生命力というのだろうか。

「ところで」

 不意に尋ねる調子のことみの声に「何でしょうか」と返す。

「ゆめみさん、帰ったらどうするの?」
「修理が必要です」
「いや、まあ、それはそうなんだけど」

 また要領の得ない返事をしてしまったらしい。
 とはいえ言葉の意図が分からないのだから、ゆめみとしては困るしかない。

「ゆめみさん、試作品だよね。どこに戻る家があるのかな、って思ったの。どこかの研究機関?」
「……分かりません」

 ゆめみは、ゆめみの生まれたところを知らなかった。
 どこで製造され、誰が電脳をプログラミングしたのか。
 アハトノインの姉妹機であることを考えれば、ここで生まれたのかもしれない。
 しかしそれも、もうすぐなくなろうとしている。
 つまり……家はない、ということだった。

「皆さんにお任せしようかと思います」

 だから、ゆめみは我が身をここにいる人達に預けることにした。
 そうすれば安全だからと感じたわけでもなく、そうすれば未来に進めると思ったわけでもない。
 命令上の優先事項として、目的が分からなくなった場合は指導者に委ねるという機能がついていただけのことだった。

「そうなんだ。まあ、たぶんリサさんなら良くしてくれるんじゃないかと思うの」
「はい」

 リサを多少なりとも知悉していることみはそう呟いた。
 自分達が量産品である以上またどこかで生産される可能性はある。
 リサはその辺りに詳しい人間であるし、その筋の研究機関に回されるのが当然の処置だと言えた。
 連絡橋を抜けて、少し階段を下った先にドックが見えた。
 移動するための小型潜水艦もそこにあり、見張りもいない。
 恐らくは侵入してきた自分達に対応するため、駆り出されたのだろう。
 もう戦闘を続行できるだけの体力もないこちら側にしてみればありがたいことだった。
 リサを始めとして、宗一、高槻といった機械に詳しい面々が内部へと乗り込み、起動できるかどうか確認しているようだった。

 残りは五分ほど。爆発までには間に合う。
 もうすることが残っていない人達はそれぞれに時間を過ごしている。
 何が起こっていたのか確認し合う者。
 脱出行において、命を落とした人間について話している者。
 ぼんやりと周囲の景色を、或いはたゆたう水面を眺めている者。
 ゆめみとアハトノインは、そんな人間の姿をじっと眺めていた。

「……あの」
「はい、どうかされましたか」

 ふと一つのことが気になり、ゆめみはアハトノインに話しかけていた。
 無表情、色のない瞳で応える彼女は何を考えているか分からなかった。

「これからあなたは、どうされますか」
「私はここの職員です。お客様をお送りした後に職場に戻ります」

 そういう設定になっているようだった。はっきりとした職場が決まっていないゆめみと違い、彼女は定められた場所がある。
 何をおいてもそこで働かなければならないというのがロボットの立場だった。
 しかし、もう戻るべき場所はない。ならば彼女は崩れる建物の中、一人で佇んだままなのだろうか。たった一人で……

「ですが、ここはもうすぐなくなります」
「おっしゃることの意味が分かりません」
「ここは爆発し、なくなります。それはあなたも理解しているはずです」
「ここを離れることは職務違反になります」

 頑なに、遮るようにアハトノインは言っていた。
 いやそれがロボットの姿だ。命令には忠実に従う。たとえその場所には破滅しか待っていないのだとしても。
 愚かしいほどに、彼女もまた人間に付き従う存在だった。全く同じ存在であるからこそ、ゆめみは納得してしまっていた。
 しかし、なお抗弁を続けようとゆめみは口を開いた。彼女の敬愛する高槻ならば、そういう行動を取っただろうから。

「では、命令があればここを離れるのでしょうか」
「命令ならば」
「分かりました。もし命令が下るのでしたら……その時は、一緒に来てくださいますか」
「はい。ご同行させて頂きます」

 確認したゆめみは、一礼してその場から離れた。
 一番高い確率でアハトノインを説得できるであろうリサに会いに行くためだった。
 真っ直ぐに潜水艦へと歩いてゆくゆめみに気付き、座って体を伸ばしていた渚が声をかけてくる。

「どうしたんですか?」
「ヴィクセンさんにお目通りを、と思いまして」
「でもまだ……」
「どうしたの?」

 タイミングよく、ハッチを開けて甲板にリサが出てくる。
 渚が変わりに自分が会いたがっているということを伝えてくれた。
 あの、と前置きして、ゆめみが用件を伝えようとしたとき、激しく足元が揺れた。

「わっ!?」

 渚がバランスを崩し、転倒しそうになるのを慌ててゆめみが支えた。
 海面も激しく波打ち、振動がこの高天原全体に伝播していることを示している。
 爆発が始まったのだ、とゆめみは理解した。まず上部が崩れ、大量の瓦礫が落ちてきた結果に違いなかった。
 甲板に掴まっていたリサがちっと舌打ちして、険しい表情へと変わる。どう見繕っても話ができる状況ではなかった。

「準備ができるまでもう少しかかる! けどもうすぐ終わるから、皆今のうちに乗って!」

 梯子は既に下ろされている。ゆめみはまず渚を連れて甲板まで上がることにした。
 今は何よりもまず人間の命を優先する必要があったからだ。
 アハトノインも自らの職務に従って、登りやすいように梯子を固定してくれていた。

「あなたも、早く」

 腕がないからか、心配して声をかけてくれた舞だったが、ゆめみは笑って応じた。

「問題ありません。わたしなら一足に……」

 登れる、と続けようとしたところで、ドックがまた一段と激しく揺れ、入り口が落ちてきた瓦礫によって塞がれた。
 もう戻る道はない。しかしアハトノインは構わず作業を続けていた。目の前にある職務に没頭するかのように。

「あの……」
「あなたも、早く。あなたが最後です」

 気がつけば潜水艦に乗っていないのはゆめみだけで、他は全員乗り込んでしまっていたようだった。
 説得できる人間は見えなかった。説得はできない。そう判断していたが、口を開かずにはいられなかった。
 同族だからではなく、ここに一人残してしまうことへの不安がそうさせたのだった。

「そちらも来て下さいませんか?」
「ご心配ありません。さあ、早く」
「……お願いします! こんなところに、お一人でなんて……」

 梯子を登らせようとするアハトノインの手を解いて、ゆめみは頭を下げた。
 所詮ロボットの言葉。プログラムされた感情では思いを表現しきれず、ゆめみは最後まで言い切ることができなかった。
 困ったように微笑んだアハトノインは「どうか、お気になさらず」と、柔和な表情とは裏腹の冷たい言葉で応じた。

「私は、ロボットです」

 人間のために。何があろうとも決して揺るがない信念を前に、作り物の感情しか持てないゆめみではどうすることもできなかった。
 更に地面が揺れ、ドックのそこかしこに亀裂が走っていた。もう乗らなければ手遅れになる。分かっていても、ゆめみは離れられなかった。
 やはり、とゆめみは思い直した。同族だから助けたいのかもしれない。妹を見殺しにしてはいけないというプログラムがそうさせているのだとしても。
 その妹を手にかけてきたのに? 矛盾していると思いながらも、「お姉様」と語ったアハトノインの声色が離れなかった。
 ……これが、家族というものに抱く感情の正体なのだろうか。
 理屈も何もなく、ただ家族であるからというだけで助けられる、自分達には絶対分からないと思っていた人間の不可思議。
 家族と認識してしまったアハトノインの個体がいる今、見捨てられないと感じたのはそういうことなのかもしれなかった。

「……たとえロボットだとしても、わたしは……!」

 無理矢理にでも連れてゆく。家族を助ける。それを優先事項として処理しようとしていたゆめみの前に、心配して出てきたらしい渚と舞が叫んでいた。

「ゆめみさん、早くっ!」
「もう時間がない!」

 二人に振り向いた瞬間、一瞬ぎょっとした表情を浮かべていたのは、どうしてだろうか。
 自らの表情も、今は認識できていない。ただ、アハトノインを連れて行きたいという自分の感情は強く伝わったようだった。
 或いは信じていたのかもしれない。この二人なら、彼女を動かせる命令を伝えられるかもしれないと。

「そっちの修道女さんも来て下さい!」
「貴女にはまだ何もしてない……! 借りを作ったまま、いなくなるなんて駄目!」

 くいと首が動き、アハトノインの目が渚と舞を捉えた。
 視線をそれぞれに動かしたかと思うと、今まで逆らっていたのが嘘のように、抵抗する力がすとんと抜け落ちた。

「了解しました。脱出を優先事項の命令と致します」

 思いが伝わったわけではなかった。あくまでも機械的に、命令を受け取ったアハトノインが梯子を上り、甲板から潜水艦内部へと降りてゆく。
 だが、ここに残らずに済んだ。ここに一人で残らずに、済んだのだ。

「ゆめみさんも!」

 気付けば床が割れ始め、海水が広がりかけていた。
 壁が断続的に崩れ落ち、殆ど瓦礫と化しかけているドックに残る理由はなかった。
 跳躍し、一足に梯子を駆け上ったと同時、潜水艦が振動を始め、ゆっくりと前進を開始する。
 渚と舞は一足先に内部へと戻ったようだった。潜水艦も潜航しかけているのか、徐々に海面が迫ってきている。
 ゆめみはもう一度だけ振り向いた。海中に沈み始めている高天原。
 自分が生まれたかもしれない場所。家とも分からない場所。
 涙は流せなかったが――もし、そのような機能があるのだとしたら、泣いているかもしれないとゆめみは思った。
 もう、天国にはいられない。
 わたしが戻るのは……今ここにある、現実でしかないのだから。
 崩れゆく光景は敢えてシャットダウンすることにした。覚えている必要はない、そう判断したからだった。
 ハッチを閉める直前に、ゆめみは別れの言葉を口にした。それは正しいのかどうかも、分からなかったけれど。

「さようなら」

     *     *     *

十五時三十六分/潜水艦内部

「……つまり、渚ちゃんのそれが原因なの」

 ビシッ、と髪留めの十字架を指差して、ことみは自信満々に語った。
 どうやらアハトノインの命令を無理矢理変更するためには、何らかの形でいい、十字架が必要なのだと言っていた。
 間違いない。命令変更プログラムの条件のひとつにそう書いてあったと言って、ことみはえっへんと胸を反らした。
 当の命令された本人であるアハトノインは隅にうずくまってじっとしている。顔つきこそ無表情で大人そのものだが、姿だけ見れば子供のようでもあった。
 ゆめみの言うところによると、ここに残ると言い張り、頑として動かなかったらしい。
 ロボットはそのように命令されているから、無理矢理にでも優先事項を変えなければ動けないと説明してくれた。
 そこに補足を加えてきたのがことみだった。何故急に命令を聞いたのかは先述の通り、渚の髪留めが原因だったようだ。

「神の国の、住民の証明ってわけなの」
「神の国?」

 興味深そうに話を聞いていた舞が尋ねると、「そんな感じの説明が」とことみは捕捉する。
 なるほど、修道女の格好をしているのは伊達ではなかったということだろう。
 つまるところ、彼女達にとってはここも教会の一つでしかなく、彼女らに最終的な命令を下せるのも十字架を持つ神父だけということか。
 シオマネキが援護してくれたのも、そういうことなのかもしれなかった。

「とにかく、わたしの妹が助かってよかったと思います。……ありがとうございました、古河さん、川澄さん」

 深々と、真心が篭った挙動でゆめみは頭を下げた。
 渚や舞にしてみればそこまでのことをしたつもりはなく、
 寧ろアハトノインも当然乗り込むものだと思い込んでいたので素直に受け止められないものがあった。
 とはいえ蔑ろにするほど無神経ではなく、二人してそれなりの返事をすることにしておいた。

「妹、かぁ。どっちかってーとゆめみさんの方が妹の方に見えるけどねー」

 壁にもたれ掛かるようにして座っていた麻亜子が意地悪く笑う。
 確かに、見た目が大人っぽく凛としたアハトノインに比べれば、どちらかというと童顔であるゆめみの方が妹と言って差し支えなかった。

「分かるけど、麻亜子の言うことじゃない」
「うぐ……しばらくまーりゃんにしてくんないかなあ……恥ずかしいんだけどさ、まだ」

 本名を知られてしまった麻亜子は舞が読んだ名前にも照れている。
 調子に乗り、明るさを前面に押し出してきた彼女にしては珍しい姿であったので、それをいい事に名前で呼ばれっぱなしなのが今の麻亜子だった。
 無論渚もそうである。本当に迷惑がるようならやめるつもりではあったが。

「まあまあ。可愛い名前だと思います。ね、麻亜子さん」
「そうそう。麻亜子ちゃんもこっち来てなの」
「だーっ! 分かった分かった行くよもう! おのれら後で覚えておれよーっ!」

 ドッ、と笑いが起こった。
 ことみも、ゆめみも、舞も、麻亜子も、そして自分も含みのない笑いを浮かべていた。
 過酷な数日を生き延びてきた体は疲弊しきっていて、失ったものの大きさがなくなったわけではない。
 いるはずだった人達はいない。芳野、杏、風子、浩之、瑠璃……ルーシー。
 きっと忘れられない。この痛みも、悲しみも、自分が死ぬその時まで残り続けるものなのだろう。
 それでも、失ってしまったものの大きさに比べれば取るに足らないものではあるのかもしれないけれど。
 一番大切にしたいと思うものが、自分の中で生まれた。
 それは渚だけではなく、他の全員が持っているものなのだろう。
 だから笑える。嬉しいと思える自分がいる。
 痛みも悲しみも、味方に変えられる人達がいるのだから。
 渚はゆっくりと、手のひらを閉じた。
 小さな手のひらの中にあるものを――

     *     *     *

十五時五十四分/潜水艦

「ふっふっふ、済まんねリサに高槻に国崎さんにその他の諸君」

 ラッタルを上がり、宗一は甲板を目指していた。
 今頃潜水艦は浮上を終え、海上を走行している頃合だろう。
 特に身を隠す必要も、湿気が篭りやすくなる密閉された空間にいる必要性もないということからだった。
 宗一は海上に出たことを確認すると一目散に走り出し、まず自分が太陽を拝もうとしていた。
 今頃操舵室のあたりは自分に対する文句が流れている頃合だろう。
 特に往人は様子を見に来た瞬間、バトンタッチだと言い放って無理矢理交代してきたのだから怒っているに違いなかった。
 だが、これだけは譲れない。海に対してこれまでいい思い出がなかったから、ここでひとつくらい作っておきたいというのがあった。

「あの時は泳いで帰る羽目になったからな」

 篁財閥に関して調査を試み始めたころ、リサの乗るF−15に追い回され、海を泳いで帰ったという事件がある。
 あれ以来どうも海は嫌いと言うか、あまり見たくなくなっていた。
 そんな気持ちを変えたいというのがひとつ。そして、これから新しく始める自分の道を見ておこうというのがひとつだった。
 エージェントという仕事はこれからも続ける。
 理由は色々ある。習い性になってしまったから、それでも好きだから、自分の力を必要としてくれている人達がいるから。
 そして何よりも、自分を包み隠さず渚に見ておいて貰いたかったからというのがあった。
 無理をしていると言われたのなら、そのときにまた考え直せばいい。
 似合っている、それでいいと言ってくれたのなら、今度こそ本当に誇りを持ってエージェントを続けることができる。
 これからは渚という、最も身近に頼れるひとができたのだから、二人で色々と考えていきたかった。

「二人、か」

 昔の自分なら考えられなかったことだと思い、宗一は苦笑した。
 一人でなければ、様々なものが周囲の人を押し潰してしまうと信じきり、誰かの側にいることだって怖かった昔。
 一人に慣れるために様々なものを忘れ、虚構の自分を作り上げてきた昔。
 今となってはただのやせ我慢だと思えるようになってはいたが、それで忘れてしまっていたものを全て思い出せるわけではなかった。
 思い出せないものは多い。
 梶原夕菜という姉との同居生活の記憶でさえ曖昧で、
 伏見ゆかり、湯浅皐月たちクラスメイトと過ごしていた日常でさえ、細かいことは思い出せなかった。

 ハッチを開けると、眩しいほどの外の光が宗一の網膜を焼いた。
 高天原に侵入したのはつい数時間前だったというのに。もう何日も見ていないような感覚に襲われ、宗一は少したじろいだ。
 ただ、それ以上に吹き込んでくる空気、潮の香りが宗一を外へと導いた。
 ゆっくりと体を動かし、縁に腰掛け、目の前に映る風景をじっくりと目に刻んだ。
 沖木島は見えなかった。沈んだのかもしれないし、遠くまで来たのかもしれない。
 それよりも鮮明に映る空の青が印象的だった。
 驚くほど明るく、それでいてどこまでも透き通っている、雲ひとつない空。
 塗り込められた壁のようでありながら、その実どこまでも広がっている。
 どこへ行くのも自由、何をしても自由なのだと全てを受け入れるものがそこにあった。
 空とはこういうものだっただろうか。任務のときはいつでも夜空で、高層ビルが蠢き、人口の光が照らし出す世界しか思い出せなかった。
 しかし、宗一は感じていた。頭の奥底、殆ど忘れ去ってしまったはずの記憶の引き出しに、家族や友人達と見上げた明るい空があったことを。
 そうだったな、と宗一は一人ごちた。自分達が暮らしていた世界はこういうものだった。
 夕菜の作ってくれたレモネードの懐かしい味、とびきり上等だった皐月のお弁当、それを平らげる自分を眺めていた優しい目。

 ようやく、少しだけ昔のことを思い出すことのできた宗一は、手を空へと掲げる。
 開かれていた手が、何かを掴むように閉じられた。
 空にたゆたう、その小さな手のひらの中にあるものを――


 希望と、いう。


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