思惑/Unstoppable Monster (1)





 戦いの火蓋というものは、往々にして何の前触れもなく切られるものである。

 神尾晴子はズキズキと痛む左肩と右手の悲鳴を眉間に皺を寄せながらもそれを無視し、H&K、VP70を両手で持ちながら足早に柏木耕一、柏木梓の元へと忍び寄っていた。
 既にその後姿は確認し、十分に射程圏内まで接近している。後はいつ討って出るか、だが相変わらず右手に力が入らない。肩が震えている。時々意識も霞む。痛い。耐えられないくらい痛い。

 できるならこのまま逃げたいと晴子は考えていた。どうしてわざわざこんな痛い思いを、ともすれば死ぬかもしれない行為をしなくてはならないのか。
 大体、いつだって自分は逃げてきたのではないのか。
 いつか来る別れの時を恐れて娘の――観鈴とも仲良くしてこなかった。相談に乗ってやることも、誕生日を祝ってやることさえしなかった。
 今回もまた逃げればいいのではないのか? 逃げて、観鈴を探して、これまでしてきたことを謝って、残りの時間を二人で過ごせばいい。そうすればいいじゃないか。

 だが――晴子の頭の中にはとびきりの、花が咲くように笑う観鈴の顔があった。

 あの笑顔を失ってはならない。
 あの笑顔を守らなくてはならない。
 あの子は幸せにならなくてはならない。

 これまで晴子の我が侭で不幸せにしかしてこれなかったことへの償い。それだけは晴子の譲れない一線であった。

 ああ、そうだ。何を血迷っていたのだ。
 これまでの連戦で忘れていた。これが、答えなのだ。
 痛い? それがどうした。
 意識が飛ぶ? なら無理矢理叩き起こしてやる。
 死ぬ? いや死ななければいいだけだ。
 晴子には安息の時など許されはしない。地獄から何度でも引き摺り出して過酷な罪を贖わせてやろう。臓物が千切れ飛べば拾い集めて中に戻してやる。目玉が潰れれば悪魔の囁きを分け与えてやる。
 さあ戦え。勝利はない。あるのは闘争だけだ。醜い喰い合いの果てに望むのはただ一つの笑顔と平凡な暮らしだ。
 そのために神尾晴子よ。貴様は死ね。

「自分の名前にでも祈ろうかいな」
 元より晴子は何も信じてはいない。神の存在も、奇跡の存在も。信ずるのは己が血肉。己が名前。ならば自分の名前を神に見立てよう。このために自分の名字は存在してきたのだ。
「アーメン」
 娘の通う学校の、胸の十字架の形に指を切って、晴子は大きく息を吐き出した。まだ肌寒い朝方の森に水蒸気の粒が柔らかく溶けていく。

 背負っていたデイパックを手に持ち、それを円を描くように頭上で振り回した。
 回数を重ねる度、空気を切り裂く音が徐々にだが増していく。数度振り回したところで、晴子はカウントを開始した。
「いち、にぃーの、さんッ! うらあぁぁぁっ!!!」
 唸るような怒声と共に、晴子のデイパックが柏木耕一の背中へと向けて飛来した。

「!? 耕一、危ないっ!」

 真っ先に気付いたのは梓だった。素早く懐から警棒を取り出すと、バットでボールを打つように横薙ぎにデイパックにぶつける。
 女とは言えども鬼の一族の血を宿す人間の一撃である。あっさりとデイパックは白旗を上げて地面へと落ちていった。しかしそんなことはどうでもいい。これは陽動。何かしらの行動を取らせることが晴子の狙いであった。
 H&K、VP70を携えると晴子は一直線に二人へと突進していった。

「お前……!? いきなり何を!?」
「答えるとでも思ったか、アホンダラっ!」

 VP70のトリガーに指がかけられた瞬間、二人が同極の磁石を合わせたかのようにそれぞれ逆の方向へ飛び退く。次いでその間を銃声と共に9mmパラベラム弾が通過していく。またも襲う激痛に唇を歪ませる晴子だったが、すぐにそれを笑みの形に直した。なぜなら、それが晴子のまだ生きている証だから。

 一方の梓と耕一は、いきなりの襲撃に戸惑いながらも話し合いが出来る相手ではないとすぐに認識し、それぞれの武器を構えて晴子の前に立ち塞がる。
「無駄だと思うが……俺達は殺し合いには乗ってない! 無駄な争いはやめてくれ!」
「ほーか、ならさっさと死んでくれると嬉しいんやけど」
 照準を耕一の方へ向けた瞬間、梓が警棒を振りかざして飛び掛かる。
「無駄だよ耕一! 問答無用で襲ってくるやつに……説得の余地はないよっ!」
 梓の持つ特殊警棒は金属製であり、しかも鬼の力によって威力は増強されている。晴子は既にそれを知っていた。デイパックを投げたのはただ単に陽動のためではない。敵の力量を確かめるための言わばテスト。そして先程の銃に対する反射神経。いつか戦った天沢郁未と来栖川綾香に匹敵する実力であると晴子は感じていた。

 故に受け止められるなどとは微塵も思っていない。木を盾にするようにして回り込む。二撃目が来たのはその瞬間だった。
 めきっ、という幹の一部分が潰れる音が聞こえ、破片が飛び散る。もはやそれは殴打ではない、一撃で相手を葬る必殺の攻撃だ。
 ちっ、と舌打ちする梓が耕一の元までバックステップして戻る。晴子はVP70を構えてはいたが、発砲することはなかった。
 当てられるかどうか分からないし、何より残弾数が少なすぎる。既に一発撃ち、残り六発で敵二人を仕留めねばならない。加えて、その実力は晴子を遥かに凌駕する。何か奇策を講じねば晴子に勝機はなかった。
 視線を移して周囲の地形を確認する。木々がところどころに点在し、落ち葉の積もった柔らかい地面に緩やかな傾斜。多少隠れるに適した場所はあるものの射撃戦に持ち込むには先述の通り弾薬が少なすぎる。晴子に有利に働きそうなオブジェクトもない。どうする、どうする、さぁどうする?

「耕一、あいつ動かないね……」
「ああ、それに怪我もしてるみたいだ。拳銃も支えるので手一杯って感じだな」
「どうする? 今の調子だと二人でかかれば簡単に倒せると思うけど」
「いや俺達は殺人が目的じゃない。銃だけ奪って無力化すれば……」

 甘いよ耕一、と梓は思った。こういう完全に乗ってしまった人間はどう無力化しても再度武器を調達し何度でも殺そうとしてくる。だが自分達も殺人鬼ではない。それは同意できることではある。何にせよ、まずは目の前の敵を打ち倒すのが先決だ。
「分かった。あたしから先に行くよ。隙を作るから耕一が何とかして」
「ああ、任せてくれ」
 耕一が頷くのを確認して、梓は警棒を再度強く握り締め猛然と晴子に向かっていった。

「ちょっと痛いけど、お灸を据えさせてもらうよ!」
「はんっ、小娘が偉そうにしよって! ジャリはジャリらしく大人の言う事を聞いとればええねん!」
「悪い大人の言う事を聞く必要は……ないんだよっ!」

 梓の役目はあくまで耕一が止めを刺す為の隙を作ることであり、無理して倒すことではない。反撃を受けない程度に距離を詰めて体力を消耗させればいいのだ。
 相手が避けられる程度のギリギリのラインから警棒を振り回し、ギリギリのラインで避けさせていく。
 晴子もなんとか反撃を試みようとVP70を用いて殴ろうとするが振り下ろす前に梓の次の攻撃が来るため反撃に踏み切れない。縦から横から振り回される警棒を掠るか掠らないかの程度で回避していくのが手一杯であった。
 それどころか激しく動いているせいで傷が疼き、飛び跳ねて着地するだけでもVP70を取り落としそうになるほどの激痛が晴子を襲う。これでは引き金を引くことさえままならない。事態は悪化していく一方だった。

「やぁっ!」
 梓が大きく腰を落とし、晴子の脛へと向かって警棒を振る。傷の痛みに意識を向けていたせいで一瞬だが、晴子の反応が遅れた。
 回避する直前、警棒の先が腿を掠り、電流を流されたような痛みが晴子の身体を駆け巡った。「くぁ……」と思わず呻きよろよろとバランスを崩してしまう。

「耕一! 今だっ!」
「おうっ!」

 気付かぬ間に側面から迫ってきていた耕一が拳をぐっと握り締め晴子の顔を狙っていた。逞しい筋肉から繰り出されるその一撃を貰えば、いかな覚悟を決めた晴子と言えど気絶は免れないだろう。勝敗は決したかに思えた。

「!?」
 晴子に殴りかかろうとしていた耕一が、急に目の色を変えて梓の方へと向かう。
「梓っ!」
 え、と呆気に取られる梓を押し倒すようにして耕一が覆いかぶさる。その真上を――
「な……」
 ――飛んでいったボウガンの矢が木の幹に突き刺さっていた。

「新手かっ!」
(新手やと……?)

 耕一も梓も、晴子もしばし目の前の敵を忘れて乱入してきた第三者の居場所を掴もうとする。敵か、味方か。事と次第によってはそれはこれからの状況を大きく変えさせるものだったからだ。
 数秒の後、ガサッ、という不自然な音を梓の耳が掴む。弾かれるようにして振り向くと、そこにはボウガンを持って走り去ろうとする一人の少女――朝霧麻亜子――の姿があった。

「耕一、あいつだ!」
 すぐに方向転換し、麻亜子の姿を追おうとする梓。
「待て梓、迂闊に……」
 静止に入ろうとした耕一の後ろから悪意のある気配が身体を貫く。とっさに転がるようにして、耕一は緊急回避に入った。ぱん、という軽い音と共に再び敵意を向けた晴子のVP70が火を噴いたのだった。
 幸いにしてそれが命中することはなかったが、既に梓は新たに現れた人間を追って森の奥へと消えていた。鬼の持つ力は脚力にも影響を及ぼす。全力の梓が視界から消えるのには数秒の時間さえあればよかったのだ。く、と歯噛みする耕一の前に、不敵に笑う晴子の姿があった。

「うちを差し置いて逃げようやなんてええ度胸しとるやないか。これで一対一や。ゆっくり楽しもうや、なあ?」
 それは妖艶な、油断した冒険者を海中へと引きずり込むローレライの魔女であった。脂汗をかき、肩を上下させる姿さえも耕一を幻惑させる魔法のように思える。
「……悪いが、すぐに終わらせてもらう。歌のアンコールは所望じゃないんだ!」
 今度はハンマーを持って、耕一は晴子を見据える。一撃。足に叩き込んで骨を砕いて御仕舞いだ。
 耕一の目の色が、赤き狩猟者のそれへと変わった。

     *     *     *

 襲撃をかけるかかけまいか迷っていた朝霧麻亜子の視界に神尾晴子が飛び込んできたのは、彼女にとって幸運だった。
 それがゲームに乗っていない人物ならば話し合いの最中に奇襲をかけられるし、乗っているなら乗っているで存分に利用し、双方戦って疲れたところに止めを刺しにいけばいい。麻亜子は漁夫の利をとれば良かった。
 しばらく様子を見たところ拳銃のようなものを持って攻撃の機を窺っているようにも見えたから八割方乗っていることには間違いなさそうだった。なら、いつでも止めを刺しにいけるようにもっと耕一と梓の近くに接近するべきだった。

 麻亜子は誰にも気取られぬよう、静かに移動を始めようとした、その時だった。
「動かないで下さい」
 後頭部に固いものが押し当てられる感触と、骨の髄まで凍るようなトーンの低い声。麻亜子の心臓が、一瞬だが跳ね上がった。
 麻亜子の後ろを取った女、篠塚弥生は麻亜子の手に握られているボウガンを一瞥すると、地面にうつ伏せになるよう指示する。

「え〜、あちきも一応女の子なんだしさ、汚れるのは嫌なんだけどなー」
「なら言い方を変えましょう。血で汚れるのと、土で汚れるのと、どちらがいいですか」
「……はいはい、分かりましたよ。ジョーダンの通じないひとだなぁもう」
 やれやれという感じで大人しくうつ伏せになる麻亜子。相変わらず弥生は銃口を押し付けていて、まるで隙がない。やりにくいタイプだ、と麻亜子は思った。

「で? 狙いは何かな?」
「……」
 答えない弥生に対して麻亜子が「理由、説明してあげよっか」と不敵に笑いながら続ける。
「単純に殺したいだけなら後ろを取った瞬間パーンと一発ハイそれまでよ、だーよね? でもチミはそれをしない。ならあたしに利用価値を見出したワケだ。違うかな?」
「……聡いですね」
「まーね。ベルリン陥落させたのがジューコフだってことくらい知ってるまーりゃん様にかかればチョチョイのチョチョイなのさ」

 ふざけた口調だが、バカなわけではない。弥生は銃口を放すと茂みの向こう側を指して言う。

「話は単純です。あの向こう側にいる三人を何とかしてきて下さい」
「単純すぎるなぁ。交渉とはもっと礼儀と作法をもって行うものだぞっ」
「交渉ではありません。要求です」
「その要求、果たして通るかなぁ?」

 何を、と再び手持ちのP-90の銃口を向けようとしたとき、怒声と共に銃声が響き渡る。とうとう向こう側で戦いが始まったのだ。
 三人の男女の声が混ざり合い、蠢き合い、絡み合って死の匂いを帯び始める。麻亜子はそれを悠然と聞き流しながら弥生に告げる。
「まーたぶんアンタも優勝を狙ってるクチなんだろーけどさ、なら分かると思うんだけどここで勝手に戦って死んでってくれる……『乗って』る人が殺されるのはあたしにもチミにもまずいんじゃないかな? 様子を見てたんなら分かると思うけどあたし達と同種はあの大阪のおばさん。反対はあの二人組。ゲームの進行を考えるとどっちが生き残った方が効率がいいか分かるでしょ? でしょ?」

 答えない弥生の様子を肯定と取ったか、麻亜子はふふん、と得意げに鼻を鳴らしながら続ける。
「あたし達がするべきことはさ、お互いに助け合うことだと思うんだなコレが。助け合いの輪、不戦の誓い桃園の誓い。ああ美しきかな友情よ。どう? ここは連携してさ、あの二人組、やっつけてみない?」
 弥生の表情は変わらぬままだったが、麻亜子は確かな手ごたえを感じていた。当初の予定と違って独り占めは出来なくなったがこのように状況に応じて敵味方を変えるような人間は手懐けておいた方がいいと考えていたし、遠目からでも分かる好戦的な神尾晴子も恩を売っておけば後で役立つとも考えていた。

「内容に拠ります。危険な行動は出来ません」

 来た。乗ってきた。
 麻亜子はほくそ笑みながらいやいや、と手を振る。
「どっちかったら危険なのはあちきの方だからさ。まあ聞きなよ奥さぁ〜ん」
 ヒソヒソと内緒話でもするように弥生に耳打ちする。弥生はその内容を聞いていたが、確かに危険はこちらの方が少ない。いざとなれば見捨てて逃げればいいし、麻亜子からしてみても裏切れる余地はない。上手く行けば全員が利益を得られる。
「……分かりました。あなたの作戦に力を貸しましょう。やって下さい」
 弥生は麻亜子から離れると、少し先にある茂みの向こうへと姿を消した。麻亜子はその姿を少し見つめながらふぅ、と安堵のため息を漏らす。

「やー、良かった良かったぁ。流石は口先の魔術師と言われるあたしだね。んっふっふ、将来外交官にでもなっちゃおーかなー」
「やぁっ!」
「おっと、決着がつきそうかな?」

 素早く姿勢を整えると、僅かに茂みから身を乗り出しながらボウガンを構え、今にも止めを刺そうとしている柏木耕一……ではなく、柏木梓の方へと照準を向ける。
 別に攻撃するのはどちらでも良かった。それに当たっても外れてもそれほど作戦に問題はない。どうせ撃つなら当てやすい止まっている標的に撃ちたかったからだ。
「まーりゃんバスター……シュートっ!」
 ボウガンから発射された矢が、一直線に飛んでいく。ラッキーなことに、それは柏木梓の頭部目掛けて飛んでいた。命中すれば脳を貫き即死させること間違いなかった。が……

「梓っ!」
 神尾晴子に攻撃を仕掛けていた柏木耕一が間一髪、梓の体を押し倒して矢の命中を避けたのだ。標的を見失った矢は空しく明後日の方向へ飛んでいく。
「あーっ! 盛り下がることしてからにーっ! ええい、モードBに移行だぁ!」
 ぷんぷんと怒りながら、麻亜子はわざと敵に居場所を知らせるようにがさがさと音を立てながら逃げるように移動を始める。その後ろに、篠塚弥生の気配を感じながら。
「耕一っ、あいつだ!」

 案の定こちらに気付いた梓が茂みから飛び出した麻亜子を追って走り出す。その形相たるや、般若を思わせる鬼のものである。
「うわっこわっ! 鬼こわっ! てか足速いよあの娘さん!」
 こればかりは麻亜子にとっても計算外だった。麻亜子自身も足の速さには自信はあったが梓の脚力はそれを大きく上回っていた。だがおびき寄せることには成功し、麻亜子の狙い通り耕一は晴子と戦いを続けていてすぐに救援に向かうことはできない。分断には成功した。ここまでが、麻亜子の計画の第一段階。

「待てっそこのチビ娘! アンタ一体何様の……つもりだっ!」
「うは!?」

 まだある程度距離は離していたつもりだったのに、気がつけばすぐ後ろで、梓が警棒を頭上に振り上げていた。
「ちょ、タンマ!」
 振り向きざまにバタフライナイフを抜き、特殊警棒を受け止めようとするが巨大な圧力を有する一撃を抑えきることなど出来るわけがなく、無様にナイフを取り落として尻餅をつく麻亜子。
 地面に落ちたナイフを慎重に拾い上げて懐に仕舞うと、梓はそのまま警棒を向けて言葉を発する。

「悪いけど、あたしは耕一と違ってそんなに心が広くないんだ。おとなしく武器を全部捨てて投降しな。そうすれば悪いようにはしない」
「やーだもんね」
 一歩詰め寄る梓に、麻亜子は慌てながら手を振る。
「って言ったらどうするの、って言おうとしただけじゃんかー! 早まらない!」
「そん時は骨の二、三本折らせてもらうよ。で、答えはどうなんだい」
 おっかないねぇーどいつもこいつもスイスもオランダもー、とぶつぶつ言いながら手元のボウガンを梓に向かって投げ捨てる。
「ほいよ。あたしだって命は惜しいからね。ごめんなさいあれは一時の迷いだったのです許してくれろ」
 梓はボウガンに矢がセットされてないのを見ると「矢は?」と尋ねる。
「ああ、矢ね。ごめんごめん、今出すからさ――」

 麻亜子が持っていたデイパックの中に手を突っ込む。その仕草に、梓は一種の予感めいたものを感じた。

「プレゼント受け取ってぇ〜、ちょーだいっ!」
 梓がバックステップからのサイドステップで離れたのと同時に、麻亜子の手に握られていたボウガンの矢が梓の脇腹すれすれを通過していった。当たったとしても致命傷にはならなかっただろうが、それは明らかに殺意のこもった行為であった。間髪入れず、梓は腰を低く落として麻亜子へと肉薄する。
「やっぱ警戒しといて良かったよ。嘘つきには相応の罰が必要だね、チビ助!」
「ぬぬ……でもまだまだ……」

 最大の切り札であるデザート・イーグル50AEを取り出す麻亜子だが、それよりも早く梓の左腕から繰り出される正拳が麻亜子の腹部の真正面を衝いた。
「ぐへ……っ!」
 攻撃の中心点から電撃のように蔓延する鈍い衝撃に呼吸が一瞬止まり、思わずデザート・イーグルを取り落としてしまう。目がチカチカして視線が定まらない。

「や、やば……一旦離脱……」
 足元をふらつかせながらも、しかし麻亜子は倒れることなく梓との戦闘を中断し、逃走を試みようとする。だがそんな行為を梓が許すはずもない。
「逃がすか! ……ぶっ!?」
 走り出そうとした梓の顔面に大きな布のようなものが覆いかぶさる。それは麻亜子がスクール水着の上に着ていた自身の制服だった。さらにおまけのように、デイパックが梓に投げつけられる。
「こ……のっ! 悪あがきを!」

 だが所詮は時間稼ぎにもならないほどの微かな抵抗に過ぎなかった。すぐにそれを取り払うと、梓は再び麻亜子の背中を追う。不意の抵抗で僅かに距離はあいたもののそれはたったの二、三メートルほどだ。梓ならば一秒も経たずに詰めることが出来る。
 その思惑通り、梓が走り出してから一秒と経たない間に麻亜子は警棒の射程内に入っていた。これでとどめと言わんばかりに梓は警棒を今一度振り上げる。

「残念だけど……ここまでだよっ!」
「その通りです」

 梓の耳に届いた声は麻亜子の幼さを残す声ではなく、大人が持つひどく抑揚のない声だった。
 けたたましい音が聞こえたかと思うと、梓の真横から大量の銃弾が槍のように身体を貫いた。何が起こったのか分からず、目の前を飛び散る自分の血飛沫を呆然と見つめる梓。
「え、あ……?」
 振り下ろされるはずだった警棒は梓の手を離れて地面に。捉えるはずだった足は止まり、今にも崩れ落ちそうにがたがたと震えている。
 動かない――いや動けなかった。

「人というものは」

 また聞こえてくる抑揚のない無機質な声。コンビニとの店員との間で交わされるような味気ない声だ。かろうじて首を動かした梓の視線の先には、P-90を持って悠然と向かってくる篠塚弥生の姿があった。

「後一歩で獲物に手が届きそうになると周りのことなど見えなくなるものです。私の移動にも気付けなかった」

「あ……あん、た、は」
 構えようとした梓の体が、ぐらりと傾く。均衡を失った肉体は無様に崩れ落ちる。
「正直ね、チミらの反射神経は大したもんだよ。あちきのボウガンは避けるし、銃を構えられても余裕で射線を外してくる。勘も鋭いときたもんだ。集中されてーちゃーこっちに勝ち目はないっての。だから小細工したんだなコレが」
 次に梓の視界に現れたのは勝ち誇ったように笑う朝霧麻亜子。

「仕組んで、いたのか……最初から、全部」
「いいえ、全ては偶然です。私とこの人が出くわしたのも、手を組んだのも。今貴女の連れと戦っている人も同じです」
 また、弥生が顔を見せる。麻亜子とは対照的に見下したような表情。
「後一歩。こいつが油断だったのさね。目の前のあたしに心奪われたが最後、嫉妬に狂った元恋人が復讐の包丁を突き刺す。中々いい舞台だったでしょ、ん?」
「ち、ちくしょう……ごめん……耕一、千鶴姉、はつ」

 梓の遺言がそれ以上紡がれることはなかった。弥生が懐にあったバタフライナイフで梓の喉をかっ裂いたのだ。破裂した水道管のように、梓の喉から血のシャワーが注ぐ。
「終幕です」
「ぱちぱちぱちっと。でもまだもう一つ舞台があるんだなー。人気俳優は忙しいよ」
 制服を着込みながら麻亜子はボウガンやデザート・イーグル、デイパックを回収していく。
「貴女のナイフです。返しておきましょう」
 弥生は梓の所持していた警棒を回収すると、バタフライナイフを折り畳んで麻亜子に投げ返す。それを空中で器用に受け取りながら感心したように麻亜子が呟く。

「おりょ、てっきりネコババするかと思ったのに。律儀だねぇ」
「重要な事です。仕事でも、人間関係でも」
 ふむぅ、と麻亜子は笑いながらバタフライナイフをポケットに仕舞い、デイパックを背負い直す。
「さてもう一舞台参りますかね。二人の役者さん、まだ生きてるといいけどねー」
「どちらにしろ決着はつけます。行きましょう」
 弥生が走り出すのに続いて、麻亜子もその後を追う。
 血の華に彩られた舞台の最終公演が、始まろうとしていた。



⇒NEXT・思惑/Unstoppable Monster (2)

BACK