儚くも永久のカナシ (前編)






 残り人数は三十人弱……か。
 つまり百人近い人の死体がこの島のどこかに転がっているということになる。
 手始めに首輪爆弾のスイッチを試した姫川琴音も、甘すぎた長瀬祐介も、知り合いだった岡崎朋也、春原陽平も。

 熾烈な争いの中、何とかここまで生き延びてきたことを幸運に思いながら診療所内部で、
 宮沢有紀寧は玩具を弄るようにマシンガンを見回している柏木初音をぼんやりと眺めていた。
 有紀寧よりも小柄な初音が無骨で、暴力的な形状の銃(MP5K)を取り回している様を見ると、
 異常さよりも滑稽さの方が先立って見えた。或いは自分の感覚こそが麻痺しているのかもしれない。

 自分を待ってくれているたくさんの人達のため、という義務感で殺し合いに乗っていた当初とは違い、
 今は半ば自然、自衛をするためならばという気持ちだけで人に凶器を向けられる。

 ……慣れとは怖いものだ。嘲るように唇の形を歪めた有紀寧は、だがこれが人の業なのかもしれないと考える。
 惰性という言葉で感覚を麻痺させ、正義の名の下に目を曇らせなければ闘争の歴史を積み上げてこれない一方、
 動物としての本能が争いを望み、支配し、搾取し、屈服させようとする。
 この殺し合いはそれを体現させたものなのだろう。ここまで生き延びてきた人間も、
 所詮は更に大きな人間の手のひらの上というわけだ。もっとも、生きて帰れるのなら自分にはどうでもいいが。

 わたしにはわたしの世界がある。
 自分はあるべき場所に戻り、元の鞘に納まるだけだ。それ以上は望まない。
 そのために出来る最善の手段を為す――それで余計な思考を打ち消した有紀寧はここから先の予定を考える。

 まず基本の方針だが、やはり隠れて試合終了のギリギリまで待つのが上策だろう。
 全くの偶然とはいえクルツ(MP5Kのこと)を手に入れられたのは奇跡ともいえる幸運だが、
 それ単体で三十人近くを相手にするには火力不足……いや実力不足というのは否めない。
 まだ測りかねている部分はあるものの初音は大体自分と同レベルの身体能力と思っていい。
 さして格闘経験があるわけでもなく、柳川のような屈強な男が数人がかりならこちらは簡単にねじ伏せられる。
 よくて二、三人を道連れにするだけだろうし、そんなものは望んでいない。

 別に積極的に殺す必要はないのだ。最終的に生き残っていればそれでいいのだし、最低限以上の武装がこちらにはある。
 攻撃されたときのみ已む無く反撃すればいい。機会が与えられるかどうかは別の話になってしまうが、
 少なくとも問答無用で隠れていた女性二人を襲うくらいの人間なら既にやり合って死んでいるだろう。
 幸いにして、初音はこちらの意向に従順だ。提案は受け入れてくれるはず。

「初音さん。そろそろここを離れましょう。
 柳川さんがわたし達の代わりに戦っている以上、巻き込まれる危険性がありますから」
「うん。分かったよ」

 実に素直な風に初音は頷いた。にこにことした表情は完全に有紀寧に懐いていることを示しており、
 また純粋であったが故の現在の狂気を表したかのようであった。
 こういう人間は使えると思う一方、痛ましいという心情も有紀寧は感じていた。
 何故こんな感情を抱いているのか、自分自身も分からない。殺戮劇という非日常の延長の中にあって、
 もう忘れ去ってしまったものなのかもしれない。

 ただ唯一分かることは、今の初音は家族をあまりに愛しすぎたがためにこうなってしまったということだ。
 どんな生活をしてきたのかは未だ分からないが、これだけは確信できることだった。
 同じ妹という立場として、共に家族を失った人間として、家族を失う喪失感は知り抜いている。
 どんなに後悔したとして、どんなに罪滅ぼしをしたとして、もう戻ってくるはずはない。
 分かり合うことも、喧嘩することも出来ない。
 失った時点で永久に答えは出せなくなり、果てのない堂々巡りの中に自分という存在が置かれる。

 だとするなら、自分は既に狂っていたのかもしれないと有紀寧は思った。
 兄がいなくなり、分かるはずもない兄の幻影を追い求めてかつての兄の仲間の元に身を投じた。
 その中で宮沢有紀寧という存在は薄れ、亡霊を追い続ける宮沢和人の妹という立場の人間に成り下がった……
 だから誰に対しても丁寧にしか話せなくなったし、
 誰に対しても同じような態度を取ることしか出来なくなったのか。

 なるほど、確かに狂っていると有紀寧は納得する。
 『狂気』の定義を、自分の感情をなくした人間、とするとしたらの話だが。
 だがそれを自覚したところで、この病は永久に治せないのだろう。
 亡霊を追い続けるしか生きる術を持たず、またそれ以外の生き方を忘れてしまった自分には……

 思い出す必要はないと断じて、有紀寧は思考を打ち切った。
 今は初音と二人、生き残ることだけを考えればいい。
 戦地となりつつあるここからひとまず離脱し、平瀬村方面へと向かおう。
 当初は灯台に向かうつもりだったが、予定変更だ。

 柳川に灯台という行き先を言ってしまったのでもうあそこは安全圏とは言いがたい。既に手駒の柳川だが、
 情報を漏らさないとは言い切れないのだ。
 何かの弾みで、いやそうでなくとも言葉の端から推理されてこちらの居場所を突き止められたのではたまったものではない。
 隠れるだけではなく、何かの情報操作でも行って撹乱できればなおよいのだが難しい。

 ノートパソコンを起動してロワちゃんねるを確認してみたのだが、死亡者に関するスレッド以外はまるで更新がなく、
 見ている人間は極端に少ないのだろう。ここに書き込んでも効果はなさそうだと考えた有紀寧は見るだけに留めておいた。
 ひょっとするとここの管理者にでも頼めば色々と有益な情報教えてくれるかもしれない。
 しかし一応はここもあらゆる人間が見られるシステムにはなっている。

 例えばいつ、どこで誰が死んだかというのを画像で表示してくれと書き込み、仮にそれが実現されたとしよう。
 その情報を得られるのは自分だけではない。書き込んでいないだけで随時チェックしている人物だっているはずだ。
 匿名で書き込めるため自分が頼んだものだとは分からないはずだが、万が一ハッカーのようなスキルを持つ人間がいた場合、
 書き込んだこちらに警戒される恐れがある。そればかりか書き込みを元に情報をリークされ、
 不利な状況になることさえあり得る。メリットは小さく、デメリット、リスクばかりが大きいのでは使う気にもならない。

 結局は残り人数をリアルタイムで確認できるものだと思うしかない、と有紀寧は結論付ける。
 あってもなくてもいいが、あっても困るものでもない。情報の重要さは有紀寧自身がよく知っているところだ。
 まあ、そこまで深く考えなくてもいいのかもしれないが。所詮は誰とも分からぬ人間からの情報なのだから。

「ところで、どこに行くの? 灯台?」
「いえ、逆です。平瀬村の方に行きましょう」

 ふーん、とさしたる疑問を持つこともなく初音は素直に頷いた。
 あまりにも素直すぎて、かえって何かを疑いたくなるくらいに。そう思った有紀寧は「あの」と尋ねていた。

「いいんですか、それで? 何か心配するようなことはありませんか」

 すると初音はけらけらと笑って「あるわけないよ」と有紀寧に極上の信頼を湛えた視線を向けた。
 その中身はあまりに真っ直ぐ過ぎて、却ってなにか、空恐ろしいものを有紀寧に感じさせた。

「有紀寧お姉ちゃんは私とずっと一緒にいてくれるんだもん。私のお姉ちゃんなんだもん。
 だから何も間違ってることなんてない。有紀寧お姉ちゃんの言うとおりにしてれば――殺せるから、皆」

 相変わらず真っ直ぐな瞳のまま、声だけを低く唸らせて初音は憎悪を振り撒いた。
 それに初音の言葉はどこか間違っているように聞こえて……だが、有紀寧にはその言葉が正しいと分かっていた。

 このひとなら地獄の底まで付き合ってくれる。お姉ちゃんだから。
 このひとといればみんなのカタキのところまで連れて行ってくれる。お姉ちゃんだから。
 このひとならきっと助けてくれる。お姉ちゃんだから。

 家族の一語で何もかもを信じきることができる、初音の無垢と狂気がそこにあった。
 それも錯覚や逃避などではない。有紀寧を本当に家族と思い、心の底から慕ってくれているのが分かる。
 そうでなければ……この綺麗すぎる、あまりにも綺麗過ぎて馴染む者以外を排除してしまうくらいの瞳を向けてくるはずがない。

 ある種の畏怖を感じる一方、共感のようなものもあった。
 感情を排し、負の要素を甘んじて受け止め狂気に染まったのが自分なら、
 負の要素を排し、信頼の名の下に倫理を作り変え、狂気としたのが初音。
 言うならば黒い狂気と、白い狂気だ。
 全く違うものでありながら、性質は全く同じ。
 自分が手を下したわけでもないのに……実に奇特な縁だ。こういうものを、運命というのだろうか?

 不思議な感慨を受け止めながら、有紀寧は「そうですか」と相槌を打つ。
 同時に、初音をだんだんと駒と見なせなくなってきている自分が生まれつつあることも自覚する。
 生き残るためには不要なものだと見なしておきながら受け入れようとしている己がいる。悪くはないと考えている。
 ただの情ではないと思っているのだろうか。同情や憐憫を超えた、
 いや言葉では量りきれない何かが初音との間にあるとでも言いたいのか。
 言い訳にしか過ぎないはずなのに、だが決定的に捨て切れていない自分は何なのだ……?

 そこでまた、有紀寧は自分について考えていることに気付く。
 先程打ち切ったはずなのに性懲りもなく悩んだりしている。どうかしている。
 胸中に吐き捨て、有紀寧はもう初音についてどうこう考えるのはやめにしようと思った。
 問題がなければいい。本当に考えすぎた。落ち度さえなければそれ以上深入りはしなくていいんだ。

「分かりました。ならわたしについてきて下さい」
「うん。あ、さっき皆殺すって言ったけど……有紀寧お姉ちゃんは私が守るからね、絶対」
「……ありがとうございます」

 笑顔のままクルツをかざす初音に、有紀寧は平坦な口調で応える。
 元からそんなつもりなどない。誰も信用せず、自分一人で生き抜くつもりだったのに……どうして、こんなに尽くす?
 一瞬、有紀寧の脳裏にはここに来る以前の、資料室のお茶会の風景が浮かんだ。
 毎日のように会いに来る兄の友達。初音はあまりにも彼らに似すぎている。
 誰でもできるような丁寧な物腰でしか対応していないのに、何故こんなに懐くのだろうか。

 家族。またその一語が出てくる。
 家族の亡霊を追いかけているはずのわたしが、家族と思われている。
 皮肉なものだと笑いながら、必要としている彼らの存在を再認識し、戻ろうと有紀寧は思った。

 あの資料室に。

 あの変わらない世界に。

 そうして玄関で靴を履こうとしたときだった。

「待って」

 肩を叩き、小声で呟きながら初音はじっと、どこかに意識を傾けていた。
 既に笑みは消えている。ただならぬ様子に有紀寧も眉根を寄せ、異変が起きているのかと考える。
 妥当な線としては誰かがこちらに近づいているといったところか。
 柳川が仕留め損なったか、或いは兎が迷い込んできたか。どちらにしてもここはチャンスだ。
 有紀寧はリモコンを取り出すと初音の耳元に口を寄せる。

「近くに誰かいるのでしょうか」
「多分……足音が聞こえるから。でも、かなり近くみたい。こっちに来る」

 有紀寧には耳を澄ましても聞こえない。余程初音の聴覚がいいのだろうか。
 クルツを構えかけた初音を、有紀寧が制する。

「待ってください。ここはわたしに。……タイミングのようなものは計れますか」
「なんとなくは……でも、大丈夫?」
「わたしを誰だと思ってるんですか」

 きょとんとした表情になったのも一瞬、すぐに「そうだね」と微笑を浮かべた初音の顔には誇らしさが滲み出ていた。

「うん、じゃあ任せたよお姉ちゃん。大丈夫だと思ったら肩を叩くから、後はお姉ちゃんが」
「ええ」

 頷くのを確認すると、初音は再び外界へと集中を向ける。恐らく、初音が肩を叩くのはすぐだろう。そういう予感があった。
 本日三度目の使用となるであろうリモコンに目を落としながら、有紀寧は初音の合図を待った。
 どくん。どくん。どくん。
 心臓の音を音楽にして時が刻まれる。
 いつだ、いつ来る――?

「……!」

 そうして永遠にも近い一瞬が過ぎ去ったとき、とん、と。
 肩が叩かれたのをスイッチにして、有紀寧は玄関の扉を押し開けていた。
 目と鼻の先。初音の読み通り、そこには。

「えっ……?」

 今、まさにこちらがいた民家に侵入しようとしていた女の顔がそこにあった。
 女の不運と、初音の聴力と、僅かな幸運に感謝しながらも容赦なく有紀寧はリモコンのスイッチを押した。
 十分に接近していたことも相まって、ろくすっぽ狙いを付けずとも首輪は点灯を始めていた。
 いきなり何をされたか分からず、呆然としたままの女に、有紀寧はいつもの笑みを浮かべる。

「はじめまして。驚かせてしまってすみません。でもしょうがないですよね、殺し合いなんですから」
「え、え? あの、あなた、どうして……?」

 よく見れば、女は自分と同じ学校の制服だ。ひょっとするとこちらのことを知っているのかもしれない。
 これでも以前はちょっとした有名人だった。資料室を住み処とするおまじない少女と。
 だがそんなことはどうでもいい。取り敢えずは概要を告げてやろう。有紀寧はこれ見よがしにリモコンを掲げてみせる。

「まずは自己紹介をしましょうか。わたしは宮沢有紀寧と申します。あなたのお名前は?」
「ふ、藤林……りょ、椋、です、あの、い、いきなり、私になに、したんですか」

 困惑と恐怖をない交ぜにしたように視線を泳がせ、歯をカチカチと鳴らす椋。
 自分の取った行動だけでここまで怯えられる要素はない。だとすると、ここに来るまでに何かがあったと見るべきだった。
 まったく存在を忘れているようだが、その手にはショットガンらしきものも握られている。警戒はするべきだ。
 頭の隅にショットガンの存在を置いておきながら有紀寧は「藤林さん、ですか」と話を続ける。

「端的に言えばあなたの首輪の爆弾を作動させたんです。鏡を見れば分かると思いますよ?
 藤林さんの首輪は、赤く点滅しているんですから。24時間後には……ぼんっ、と爆発するでしょうね」
「え、え、え……え?」

 ありえないとでもいうように表情を硬直させ、目の前の現実も分かっていない風であった。
 こんな調子でよくここまで生き延びられたものだ。……それとも、予想外の事態には何も対応できないだけなのか。
 或いは、これも演技かもしれないと思いながら有紀寧は大袈裟に嘆息する。

「このリモコンで作動させたんですよ。このボタンを押したが最後、24時間後にはあなたは死んでしまうわけです。
 無論解除する手段もわたしが持っていますが――」

 そこまで言ったとき、恐怖に慄いていたばかりだった椋の目元がスッ、と細められるのを有紀寧は目撃した。
 同時に、だらりと垂れ下がっていたショットガンが持ち上げられ有紀寧に照準を合わせようとする。
 やはり演技……! ここまで生き抜いてきた本能が彼女を衝き動かしたのか、それともここまで狙っていたのか。
 舌打ちしながらリモコンのスイッチを押そうとしたが、椋の方が明らかに早かった。
 やられる――思ってもみなかった自身の反射神経の鈍さを呪いかけたときだった。

「そこまでだよ」
「っ!?」

 椋の側頭部にぐりっと銃口が押し付けられる。いつの間に移動していたのか初音が椋の動きを止めていたのだ。
 有紀寧同様微塵の容赦も感じられない、ただ暴力的なクルツを押し当てて初音は今にもトリガーを引かんとしている。
 意外な初音の俊敏さと行動力に安堵と驚嘆を感じながら、有紀寧はホッと一息ついた。
 流石にここまで生き残っただけはある。無意識だったとしても今の行動は見事だと言わざるを得ない。

 有紀寧は再びにこやかな顔に戻すと「お見事です」と拍手を向ける。
 椋は完全に途方に暮れて情けない表情に移り変わり、「や、やめて、殺さないで」と泣き言を呟いている。
 悪態のひとつでもつけばいいものを。強いのだか弱いのだか分からない椋に苦笑しつつ、
 有紀寧はデイパックから粉末と支給品の水を取り出す。

「さて、ちょっとしたお仕置きですね。藤林さん? この薬、飲んでいただけますよね?」
「な、なにするんですか? それ、何なんですか」
「状況分かってる? 有紀寧お姉ちゃんの言う事聞かないと……」

 怯えて受け取らない椋の頭にめり込ませるかのような勢いで初音はクルツを押し付ける。
 本当に言葉の清らかな音色とは程遠い。殺戮の天使ともいうべきなのか。
 人殺しなんてダメだと言っていた初音と同一人物だとは思えない。
 愛情も転化すれば凶暴性へと早変わりするということか。表裏一体とはこういうことなのだろうと思いながら、
 有紀寧は椋が自ら薬を手に取るのを待った。完全に屈服させるために。

「わたしの妹は、とても優しいですけど彼女にも我慢の限度というものがありますよ?
 多分、わたしにここまでしたからにはただでは殺さないでしょうね。確か鋸がまだ手元にあったはずですから、
 あなたの手足をぎこぎこと……」
「ひ、ひっ!」

 半ばひったくるようにして、椋は勢いもよく薬を水で流し込んだ。苦かったのかそれとも恐怖の故か顔は歪んでいた。
 よく耳を澄ますと、「助けてお姉ちゃん助けてお姉ちゃん」とうわ言のように繰り返し繰り返し呟いている。
 この藤林椋も妹か。実に奇特な縁だと思わずにはいられない。なら存分にその立場を利用してやる。
 人を幾度となく陥れてきた有紀寧の狂気が鎌をもたげ、言葉の形に変えて椋に振り下ろされる。

「種明かしといきましょうか。それは特別な毒でして……爆弾と同じ、約20時間前後で死に至る遅効性の毒です。
 解毒剤はちょっとしたところに隠してあります。分かりますよね、わたしの言ったことの意味が」

 こくこくと必死に頷く椋に「結構です」と有紀寧は微笑んだ。
 既に顔は青褪め、二つの死に追い詰められていく己を自覚しているのか目元には涙まで浮かんでいる。
 これは演技か、素の彼女か……どちらでもいい。隙を突かれさえしなければ。

「そうそう、藤林って名字で思い出したのですが……会ってるんですよ、あなたのお姉さんと」
「……え?」

 絶望に俯いていた顔がふっと上げられる。思ってもみなかったのだろう、この名前が自分の口から出てくるとは。
 ノートパソコンからロワちゃんねるを見ていたから分かる。藤林という名字の人間は名簿に二人いた。
 そして椋が妹だと言っている以上、必然的に姉はもう片方ということになる。これを利用しない手はなかった。

「さて、わたしは殺し合いに乗っています。あなたのお姉さんとわたしは会いました。さて、どうなっているでしょう?」

 光を見出しかけた椋の顔が、再び色を失う。それも、先程よりも深く。
 カタカタと唇を震わせながらそれでも先を聞きたいのか、椋は口を開いた。

「ま、さか」
「そう、あなたにしたこととまったく同じことをあなたのお姉さんにもね、してあげたんですよ。
 ……今頃はわたしの命令に従ってどこかで人殺しをしているでしょうね」

「そんなっ! どうしてお姉ちゃんがっ! う、嘘をつかないでっ!」

 身を乗り出そうとした椋だったが、初音によって阻まれる。腕を引っ張られ、
 直後クルツの銃把で強く横顔を殴りつけられる。短く呻いた椋はそのまま地面に倒れる。

「本当、物わかりの悪い人だね……有紀寧お姉ちゃん、殺していい? 邪魔だよ、この人」
「ダメです。こんなのでも利用価値はあるんですよ」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、お姉ちゃんが、こんなくだらない悪い人たちなんかに負けるはずが……」

 初音を宥めている最中も椋はひたすらに有紀寧の言葉を否定し続けていた。
 病的なまでに繰り返すその姿は、ありもしない神に縋っているようだった。

 椋はここまで一人だった……
 だから、姉を神格化し己の罪を姉の名の下に免罪符にし、こうして生き延びてきたということか。
 推測に過ぎないが、概ね間違いはないだろう。でなければこんなに取り乱すことはない。
 いくらなんでもここまで錯乱するとは思えない。この女もまた、狂っているということなのだろう。

「……いいんですよ? 信じないなら信じないで、それでも」

 蔑むように向けられた有紀寧の声に、椋の呟きが止まった。

「あなたのお姉さんの死がちょっと早まるだけです。恨むでしょうね、あなたのせいでお姉さんは殺されるんですから。
 家族殺しになる度胸があるならそうやって否定していればいいでしょう。結果はすぐに分かりますよ、放送で」

 無論椋の姉、杏と出会ったこともない。
 殺せるわけもなかったが、こう言えば追い詰められるだろうと有紀寧は確信していた。
 神格化しているとするなら、自らの手で神殺しに等しい行為をさせるのはあってはならない禁忌のはず。
 ここで糸を垂らせば、間違いなく食いついてくるはずだった。

「ですが、何もわたしだって悪魔というわけではありません。お姉さんも随分心配してましたよ。
 美しい姉妹愛というものでしょうか。それに免じて、お二人を助ける機会を与えます。
 勿論、あなたも賛成してくれますよね? 藤林椋さん?」
「……どうすればいいんですか」

 何の迷いもなく飛びついてきた。読み通りだと有紀寧は内心に嘲り笑いながら、
 希望に縋ろうとする椋の顔を見下した。所詮は途中で切れる糸だというのに。

「今からわたしの指示に従ってください。言うまでもないと思いますが、
 もし逆らったり勝手な行動を起こせば、あなたのお姉さんの首が弾け飛びます」
「わ、分かって……分かって、います」

 椋が完全に屈服した瞬間だった。哀れなものだと憐憫、侮蔑の混じった感情を覚えながら、
 それでも椋は使えると思っていた。不意を突ける能力は恐らくは本物だ。この地獄を彷徨ううち、
 自然と身についた彼女の特技といったところだろう。ただ単に矛として使い潰すのは惜しい。
 とはいえ、有紀寧の頭にある作戦は当面の敵がいないと使い辛い作戦でもある。
 さてどうしたものかと頭を捻ろうとしたとき、遠くから断続的に弾けるような甲高い音が響き渡った。

「銃声、かな」
「柳川さんでしょうかね……」
「や、柳川さんっ!?」

 椋が口を挟んでくる。おどおどとした卑屈な雰囲気のまま、明らかに畏怖している感情が読み取れる。
 そういえば、と有紀寧は思い出す。確か柳川が探していた女の名前が藤林椋だった……
 なるほど、柳川をあそこまで激昂させた犯人がこの女ということか。
 ここまで生き延びられたわけだと有紀寧は内心に感心しながら、やはり使える、と今度は確信した。

「ええ。柳川さんも私たちの手駒です。まあ安心していいですよ、柳川さんとかち合わせるようなことはしませんし」

 実際、二人を合わせるのはリスクも高い。二人が殺し合うだけでこちらには手駒が減るというデメリットしかないのだ。
 それより、今の銃声で当初組み立てた作戦が使えそうだった。実行するなら今だろう。
 有紀寧は最上の笑みを浮かべながら、椋に概要を伝える――

     *     *     *

「何があったのか、私は知らない」

 降り続く雨の中、一匹の狐と一匹の鬼が静かに向かいあっている。
 眼前に見据えた男――柳川祐也の目は暗く、冷たく……悲しいものがあった。
 この世の全てを憎み、またそうしなければ生きてこられないと知った男の瞳だった。

「知ろうとも思わない癖に……やはり、そうか。俺は所詮ひとりでしかない。
 お前は覚えていると思ったんだがな……結局は、救われないままか」
「倉田佐祐理のことでしょう」

 今更、という風に柳川の目が鋭くなる。
 そう、自分には何があったのか知る事が出来なかった。柳川の言う通り知ろうともしなかった。
 自分にことにだけ精一杯で、今まで自分のことしか考える術を持たず、分かる努力もしなかった。

 少し想像を働かせれば分かることだった。
 柳川とずっと一緒にいたはずの佐祐理がいないこと。それ以前に放送で呼ばれていた彼女の名前。
 恐らく、柳川は修羅へと足を踏み外したのだという結論くらいはすぐに導き出せたはずなのに。

 全くだ。今更に過ぎる。己の馬鹿さ加減を思い知る一方、夢から醒めた思いで周囲を見る事が出来ている。
 復讐に身を任せ、己以外の全てを憎むことでしか自分を保てなくなった柳川の姿も、
 未だ自分のやることに確信が持てず、どこへ歩いていけばいいのか分かっていない自分の姿も。
 どちらも愚図で、どうしようもない人間の姿には違いなかったが、それでもリサは柳川とは違うと思っていた。

「貴方の言う通り、私は何も分かっていない。何があったのかも知らない。
 ……けれど、分かるつもりもないなんて言ってない。貴方とは違って」
「何?」
「私はここからでも進んで行きたい。先を行く人たちに追いついていきたい。遠すぎるけど、
 それでもいつかは肩を組んで進めるんだって思いたい。……でも貴方は違う。誰も信じられず、
 信じるものや守るものがなくても全てを憎み続けて戦ってさえいれば生きていけると頑なに思い込んでいるだけ。
 そんなのは餓鬼の道に過ぎないのに。ただ殺しあうだけの獣に過ぎないのに」
「お前に何が分かる。いや、人間に何が分かる」

 リサの言葉、存在すら拒絶し、否定する柳川の一声が場の空気を冷え込ませた。
 拳を握り締め、世界の全てを憎み続ける柳川の身体全てから底無しの虚無を感じ取れる。
 だがこの虚無に巣食われては終わりだ。呑み込まれたが最後、自分の言葉は否定され希望を失ってしまう。
 目を反らしては駄目だという思いに衝き動かされて、リサは柳川の闇を真正面から受け止めた。

「あらゆる希望に裏切られ、あらゆる運命から見放された俺の事など誰も分かるものか。
 信じるだと? そんなものは俺を騙そうとする偽善だ。
 守るものだと? それが俺の腹を食いちぎろうとした。
 自分は自分でしか信じられないし、守れない。恐怖を克服するためには、自分が恐怖になるしかない。
 ただ支配すればいい。自分を喰う者さえいなくなれば、もうなにも恐れなくていい」

 人の全てに失望し、また自らも全てを諦めてしまった男の結論だった。
 だが力を手にした一方、言葉の奥底に押し殺した怯えがあるのをリサは感じ取っていた。

「……子供ね。貴方は、本当に子供。思い通りにいかなかったからって駄々をこねる子供と同じ」
「なら貴様はエゴイストだな。前へ進みさえすれば思い通りになると思っている。自分が何をしてきたかを棚に上げて、な」
「そう、私がエゴイストなら貴方は子供。もう一度言うわ。貴方はここで誰よりも弱い子供。
 ――もう御託は要らないし、時間も惜しい。決着をつけましょう。
 かかってきなさい。私の全存在をかけて……貴方を、倒す」

 ふわり、と長い髪を靡かせてリサが地面を蹴った。
 次の瞬間、それまでリサがいた空間を拳が薙ぎ払う。
 既に動いていた柳川が攻撃を仕掛けてきていたのだ。回避したリサはトンファーを身体の前でクロスさせる。

 直後、拳圧が叩きつけられた。とても素手とは思えない圧力でリサは数歩後退させられる。
 柳川は休む暇を与えない。更に踏み込むとガードしていない箇所を狙って殴りかかってくる。
 だがリサも格闘戦についてはあらゆる分野をマスターしている。
 拳の連打を受け流すかのようにトンファーに掠らせ、直撃させない。

 さらにリサは攻撃後の隙を突き肩からタックルでよろけさせ、追撃の足払いを差し込む。
 足をも崩され、背中から地面へ落ちそうになる柳川。
 すかさずトンファーを柳川の身体に打ち込もうとしたリサだったが、柳川の膂力は尋常ではなかった。
 倒れながらも手を伸ばし、追撃体勢に移りかけていたリサの腕を取ると、
 そのまま巴投げの要領でリサを投げ飛ばしたのだ。

 普通なら在り得ない芸当である。倒れながらリサの身体を引き寄せる力、投げに移れるだけの瞬発力。
 どんな人間でも不可能に近いはずだ。……これが、『鬼』だというのか?
 片鱗を見せ始めた鬼の実力に戦慄しながらもリサは空中で体勢を整え無事足から着地する。
 柳川と向き合ったときと同じだ。恐れたら負ける。退くな――!

 後退しそうになる足を抑え、リサは既に肉薄していた柳川を迎え撃つ。
 先程と同じく、受け流し主体で防御し攻撃後の隙を突く。速度は早いが見切れないレベルではない。
 着実に攻撃を受け流し、隙を見てトンファーで一撃、一撃を叩き込む攻防が暫く続く。

 が、木製とはいえ鉄芯のトンファーを何度も打ち込まれているというのに、
 まるで応えていないようなのはどういうことだ? 顔色一つ変えず何度も何度も攻めてくる。
 ……なら、頭を叩けばいい。『鬼』は肉体も強靭なのだろう。この程度の攻撃なら何とも思わないのかもしれない。
 だが頭部なら話は別だ。そこだけはいくら鍛えようと、鬼であろうと耐久力は人間と変わらないはず。
 一撃必殺。やってみせる。そう考えて狙いを定めようとしたとき、リサの思惑を感じ取ったかのように柳川が退いた。

「っ!?」
「なるほど……確かに強い。だが、『覚えた』」

 ゾクリとした悪寒を覚えた瞬間、再び柳川が突っ込んできた。
 速度は変わらず。悪い予感を必死に押さえ込みつつトンファーを構える。
 が、柳川が繰り出してきたのは直線的な拳ではなかった。肘を押し出すようにしての突進だ。
 受け流しきれない。それに避けきれない……!

 切磋に防御体勢へと切り替え、直撃だけは防いだリサだったが、次の瞬間には巨大な手が胸倉を掴んでいた。
 圧倒的な力で引き寄せられたかと思うと、柳川が身体ごとぶつかってくる。
 質量からくる力に耐えられず、身体を浮かせてしまう。やられると思ったときには、既に拳がめりこんでいた。

「がはっ……!」

 あまりに的確かつ最速で打ち込まれた攻撃に、腹筋に力を入れる暇さえなかった。
 肺から空気全てを搾り取るかのような威力に呼吸することすら出来ない。
 無様に地面を転がり、泥が鼻や口から入り、じゃりじゃりとした感触を味わう。
 激痛に呻いている暇はない。立ち上がらないと……

 己の意思のみに衝き動かされ、リサは何とか立ち上がりトンファーを握り直す。
 直撃を受けてさえ武器を手放さなかったのは自分でもファインプレイだと言える。大丈夫、なら戦える。
 必死に呼吸を整え、構えるリサに柳川が接近を開始する。

 柳川はまたもや肘を繰り出し、リサに受け流させない。『覚えた』とはそういうことか。
 こちらの戦術の更に上をいく柳川に驚嘆しつつ、何故か意識が高揚していくのも感じる。同時に、空しさをも。

 これだけの力を持ちながらどうして人が守れないなどと思える?
 これだけ強いのにどうして虚無に喰われてしまった?
 こんなにも……貴方は強いのに。なんで、こんなにも弱いのよ。
 回避を主体にし、攻撃を紙一重で避け続けるリサ。拳が交わされる度にいたたまれなさだけが上乗せされていく。
 悲しすぎるじゃないか――研ぎ澄まされた想いが突き上げ、自然と言葉になって飛び出していた。

「……貴方だけは、強いと思っていたのに」

 ぽつりと吐き出された言葉は、しかし確かな言葉となって柳川へと向けられた。
 言葉の意味を図りかねたのか、柳川はただ眉根を寄せて体当たりを仕掛けようとする。
 リサは大きく身体を反らしつつまたも紙一重で避け、すれ違いざまにトンファーを突き刺す。
 ぐっ、と僅かに呻きが聞こえ、僅かに苦渋の顔を見せた柳川と真っ直ぐなリサの顔とが相対する。

 手ごたえはあったということか。ちょうど脇腹の柔らかい部分を突けたのが良かったのだろう。
 柳川も決して征服されざる怪物ではないということを実感しながら、リサは続ける。

「私は貴方の言う通りのエゴイストで、自分のことしか考えられない。それは事実よ。
 でも、努力は続けたい。そんな自分から少しでも脱却できるように、明日にはもう少しマシな私になれるように。
 私より強いはずの貴方が、どうしてそんな子供に成り下がったのよ……!」
「そうしなければ生きられないと知っただけだ。
 何も出来ない奴は出来ないままに支配されるだけ……貴様こそ、何故それが分からない」

 絶望に取り込まれ、何も信じず、何も映さない瞳をリサは見据え続ける。
 柳川の味わったものがどれほどの闇なのか想像も出来ない。何を知ったのかも。
 だがリサにはこれだけは言っておかねばならないことがあった。
 柳川の言葉は、柳川を支えていたものでさえ否定しているということを。

「だったら……倉田佐祐理はどうなのよ。貴方を信じて生きてきた、あの子も貴方は愚かだと見下げるっていうの!?
 冗談じゃない。そんなの、あの子は絶対に許さない。絶対に……!」
「思い上がるなっ!」

 リサにも負けない怒声が大気を震わせる。
 紙のように白くなり引き攣った表情へと柳川は変わっていた。
 一瞬感じた押し殺した怯えが今は顕になっている。絶望とは別の感情が柳川の内から溢れ始めている。

 ただ、それはやはり全てを拒絶する類のものだった。
 恐怖を恐怖で支配しようとしている男の弱みに近いものが顔を見せているだけだ。
 説得はやはり出来ない、とリサは確信してしまう。もう彼に残っているのは人の持つ負の力。
 人なら誰しも持つものに搦め取られ、圧殺されかかった男の姿だった。

「貴様が倉田を語るなっ! 倉田をダシにして自分を正当化するなど!」

 横に動いた柳川が側面からの蹴りを放つ。素早く身を引いて躱すが、続けて後ろ回し蹴りが飛ぶ。
 連続した攻撃。なら一発あたりの威力はそれほどでもないと当たりをつけ、あえて無理に避けずトンファーで受ける。
 避けるだろうと想定していたのか、リサの意外な挙動に一歩行動が遅れた柳川の隙を見逃さない。

「ダシにしてるつもりなんてないっ! 貴方は逃げてるのよ! 分かった風になって自分の過去から逃げてる!」

 それはまさしく篁を追い続けていたときの自分だった。
 目的だけを追い、己を殺し、途方に暮れるしかない未来が待っていると分かりながらもどうする術を持たず、
 今ある現実にだけ目を向け、こうするしかない、ああするしかないと諦め続け無力さを晒すばかりの存在だ。

 自分が見てきた柳川はこんなつまらないものじゃなかった。
 ギラギラした目にいつも勝機を宿し、可能性を模索する男だったはずだ。
 そんな男だったからこそ倉田佐祐理も、栞も、自分もついていこうと思ったのではなかったのか。

 本性は違うと言えば、そうなのかもしれない。柳川の生い立ち、人生。
 何も知っていない自分が作り上げた柳川像というものはあるだろう。
 だが彼が強い男だったというのは間違いないはずだった。それだけはリサが信じて疑わない柳川の姿だった。
 なのに、今は。

「貴方じゃ誰も支配なんて出来ない。貴方自身が、一番恐怖に支配されてるから!」

 一気に懐に潜り込み、まるで天を突くかのような勢いでトンファーをかち上げる。
 反応することのできない柳川はモロにトンファーの筒先を顎に受けた。
 頭がかくんと後ろを向き、身体が宙に浮く。リサはとどめというように鋭い前蹴りを刺突のように繰り出す。
 踵の先が腹部にめり込み、柳川の長身が吹き飛ばされた。身体の二箇所に直撃させる決定打だ。

 派手に地面を転がる柳川を見届けたリサはフッ、と短く息を吐き出した。
 この程度で気絶したとは思わない。まだ立ち上がってくると見るべきだ。

 ……だが、柳川に負ける気はしなかった。実力的には拮抗していても、彼は昔の自分でしかない。
 正確には数時間前の自分と言えるが。皮肉なことだとリサは思う。
 柳川と相対したことで自分は強くなろうと決め、柳川は弱くなった。
 どうして、貴方はこんなに……
 複雑な心境にとられかけた刹那、重低音が聞こえてきた。

「!?」

 振り返ると、そこには猛スピードで道を駆け抜けて行く一台の車があった。
 こちらに直接突っ込んでくるというものではなかったが、明らかに挙動が異常だ。
 車が向かう先は、栞と英二が離脱した場所を指している。

 まさか、という予感が脳裏を巡り、まずいという思いに駆られて一時柳川との決戦を中断しようと考える。
 栞は怪我をしていて、とてもじゃないが戦える状態ではない。そこに車という武器を持ち込まれては状況は最悪だ。
 柳川を放置しておくのもまずいが、今は仲間の命が最優先だ。武器だけ奪って駆けつけようと、
 道の端に放置された柳川のデイパックに向かって走ろうとリサが背を向ける。

「まだだっ!」

 唸るような声が聞こえたと同時、咄嗟にリサは前転していた。
 身体中から発せられる『危険だ』というサインに従っての行動。完全な勘に任せての行動だったとも言える。
 だがそれは結果として不意打ちからリサを救った。視線を横に走らせた先では、
 自分に向かっていたラリアットを避けられ――身体の一部を異形に変化させた柳川の姿があった。

「ぐっ、逃がしたか……!」

 獣のような、今までとは違う声音を伴って柳川が振り向く。
 右腕から先は赤黒く変化し、爪は鋭く尖り、まるで槍のように変化している。
 また血管の一部も肥大しており、明らかに柳川の身体には異常が起こっているのが見て取れる。

「貴方、そこまでして……!」

 叫びながら、リサはあれが『鬼』の本体なのかと想像する。
 不可視の力、翼人伝説、毒電波。様々なオカルト、異能の力について仕事で調査したこともあったが、
 まさか実物を見る羽目になるとは。まるでSFアクションの世界だ。
 そして、この力を発揮させたのだとしたら……もう柳川は、なりふり構わずに攻めてくる。

 とても救援に行ける状態ではなくなり、焦りと緊迫感がリサを駆け巡る。
 だがやるしかない。仲間達を救うためにも、自身が生きるためにも。
 凛とした表情を取り戻しトンファーを構えたリサを、鬼の爪を生やした柳川が見据える。

「……教えてやる」
「何?」

 瞳を真っ赤に染め、鬼そのものへと移り変わりつつある柳川はひびの入った眼鏡を打ち捨て、全貌をリサに見せた。
 紅色でありながら、どこまでも暗い目。彼の虚無は寧ろまだまだ大きくなっているかのようにリサは思えた。
 底無しの闇を含んだ目が細められた。来る、と思ったときには既に腕が振り上げられていた。
 腕が肥大化したことによりリーチも伸びているはずだ。避けきれるか? 僅かに迷った末、リサは防御を選ぶ。
 万が一目測を誤り致命傷を負っては意味がない。ならば多少のダメージは負っても命を確保できる方を選んだのだ。

 トンファーで爪を抑えにかかったリサだったが、やはり全開の柳川を受けきることなど無理な話だった。
 めきっ、とトンファーが悲鳴を上げたのと同時、リサの腕が軋みを上げた。ダメだ……!
 持たないと判断して、あえて力に逆らわず吹き飛ばされる。だが十分に受け身の用意をしていたリサは、
 さしたる損傷もなく少し転がっただけですぐに立ち上がった。そこに柳川の踵落としが待ち構えていた。
 足はどうだ? これも判断しかねたリサはまた受けに回る。トンファーを眼前でクロスさせ、
 しっかりと防御したところにガツンという衝撃が走った。

「ぐっ!」
「俺は……俺は、裏切られたんだよ! あまりにもたくさんの人間になッ!」

 何とか受けきったかと思ったが、別の攻撃が繰り出されていた。器用にもう片方の足を使って、
 下から蹴り上げてくる。がら空きにさせるための攻撃。気付いたときには遅く、身体につま先が刺さる。

 今度はどうすることもできず無様に転がる。だがダメージは思ったほどでもなくすぐに体勢を立て直す。
 が、トンファーに異変が起こっていることに気付く。爪に強く打ち据えられた部分に深い爪痕が残り、
 鉄芯の部分が僅かに剥き出しになっている。そればかりか、鉄にさえひびが入っているではないか。
 ゾクリとした怖気を感じる。もしクリーンヒットすれば骨折どころではない。もし頭部に爪の一撃を貰えば……

「まず最初に裏切られたときは倉田を殺されたッ!」

 ハッとしてリサは柳川に意識を戻す。彼の身体は既に射程圏内にあった。
 反射的に飛び退いてしまう。それが不味かった。槍のように突き出された爪がリサの脇腹を掠る。
 突き刺さりこそしなかったものの鋭い痛みに身体がぐらついてしまう。そこに柳川が猛ラッシュを仕掛けてくる。

「それだけじゃあないッ、次に俺を裏切ったのはな……血の繋がっていたはずの家族だったんだよッ!」

 ここから先はまるで猛獣が一方的に小動物を襲うかのようなものだった。まさしく、『狐狩り』だ。
 ろくに防御する暇も与えられず爪が身体中を裂き、合間に出された拳が体力を削り取り、
 みるみるうちに出血が増大してゆく。ギリギリで躱しているため決定打こそなかったものの、
 上半身は傷だらけで、トンファーを握る腕からも力が抜けていくのをリサ自身も感じていた。

 この威力は柳川の肉体によるものだけではない。
 仲間を失った恨み、家族にさえ裏切られ、拠るべきものを全て失い憎しみに身をやつすしかない者の怨嗟。
 それらが渾然一体となって世界の全てにぶつけられている。

「俺が信じていたものをッ! あいつらは嘲笑いながら見下し、利用して捨てようとしていたんだ!
 なら俺だってそうする。痛みには痛みを、侮蔑には侮蔑を、恐怖には恐怖でなッ!
 家族にさえ裏切られた俺が、他に何を信じろってんだよ! 何を守れってんだよ!
 守れるのは、信じられるのは……俺自身だけなんだッ!」

 憎悪を言葉に乗せ、柳川が拳を腹部に押し込む。
 かはっ、と息を吐いた直後赤黒い爪が振りかぶられた。
 半分抵抗する力を失い、拳だけで吹き飛ばされかかっていたのが幸いしたか、
 爪はリサの肉を少々抉るだけで済んだ。……けれども、もはや戦えるだけの体力も気力もとうに無くなっていた。

 圧倒的な暴力と殺意。その上虚無に塗り込められた揺るがぬ怨恨を前にして、一体どうすればいいのか。
 策は小細工でしかなくなり、技術を駆使した戦法など巨大なゾウの前のアリでしかない。
 どうあっても勝てない。合理的な軍人であるリサの頭はそう叫び続け、戦闘を放棄しかかっている。

 だが、と奥底に芽生え始めた、人間としてのリサは必死に語っている。
 柳川は結局弱い。家族が裏切ったからといって、自分も誰かを裏切っていいと思い込んでいる。
 家族が裏切ったから、自分以外の全員が裏切ると思い込んでいる。
 確かに誰よりも信頼していた家族に手のひらを返されるのは絶望の一語だろう。
 自分でさえ柳川のように呑み込まれ、虚無を含んだまま悲嘆に暮れ、生きてさえいけなくなるかもしれない。

 だがそれは他の誰かを裏切って、無為にしていい理由にはならない。
 それまで築き上げてきたものを壊す理由にはならない。
 自分自身しか信じられないといいながら、己を構成するものを壊してそれで何が残るというのか。
 たとえ残ったとしても、そこにあるのは自分のではなく、ひとの悲しみだ。ひとを虚無の闇に引きずり込むものだ。
 皆が皆そうなってしまえば世界からは誰もいなくなってしまう。

 そんなものを認めるわけにはいかない。
 こればかりは否定しなければならない。
 宙ぶらりんの自分でさえ前に進ませようとしてくれている、大切な仲間達のためにも――!

「……そんな下らない理屈で、これ以上誰かが殺されるなんてまっぴらよ」

 ゆらりと幽鬼のように立ち上がり、抜けかけていたトンファーを強く握り直すと、鋭い視線を柳川へと向ける。
 目つきを険しくした柳川は無言で構えを取る。一切の油断はなく、ただ向かってくる敵を倒すという風情だった。
 だらだらと身体のそこかしこから血が溢れ、雨と混ざり合って肌を伝ってゆく。

 けれども不思議と力が湧き出てくる。流れた血も再び身体の奥底から沸き上がり、また己の血となっていくのを感じる。
 自分が決して間違っていないという思い、自分はひとりじゃないという思いが己を支え、気力が満ちていくのを感じる。
 敢然と立ち向かう。リサの気持ちの全てが満ち溢れ、柳川にも伝わったようだった。
 無言の気迫に押されたらしい柳川が一歩退いたのを、リサは見逃さなかった。

「攻める!」

 トンファーを真正面から打ち込む。柳川は予想外の勢いに慌てたか、変化した鬼の腕で受けようとしたが、
 それはフェイントだった。急激に力を抜き、滑らかな動きで横から後ろに回る。
 裏を取った。そう確信したリサはトンファーと共に肘鉄を打ち込む。

「ぐっ!」

 更に勢いに任せ、ダンスをするようにくるくると回りながらトンファーを用いた打突と回し蹴りの組み合わせの応酬。
 数発打ち込まれてようやく柳川も防御に回ったが、守勢なのは変わらず。
 腹部を中心に攻撃を叩きこんだ後、仕上げの体当たり……いわゆる、『鉄山靠』を当てて吹き飛ばした。

「Have nothing to go with me...」
「貴様……!」
「これで互角といったところかしら? ……次で決めるわよ」

 後から後から気力が満ちてくるとはいっても、体力的には限界に近い。
 いやむしろ沸いてくる気力で己を持たせているといったほうがいい。
 それは柳川も同じだろう。ここにきて鬼の力を出しているということは、本人にも相当な負担がかかっているはず。
 でなければ最初からこの力を出してかかってくるに違いないからだ。彼も同じく、気力で己を持たせている。

 次の打ち合いで全てが決まる。
 自分は柳川の頭部を狙い。
 柳川は己を刺し貫くのを狙い。
 正真正銘、最後のダンスとなるだろう。
 果たして勝つのは妄執に囚われた鬼か、諦めの悪い雌狐か。

「上等だ。……行くぞッ!」
「Come on!」

 柳川が駆けるのと同時に、リサも駆け出す。
 一撃で全てが決まるとは思わない。
 勝敗を決するのは相手の動きを見切り、いなした上で最後の攻撃を叩き込んだ方だ。
 柳川も自分の中で技の組み立てを終えているはず。

 力と知恵と技術、そして想いの丈をぶつけ合う一騎打ちの始まりだ。
 初手。
 リサは勢いをつけていたはずの足を止め、急ストップをかける。

「っ!」

 間合いを見誤ったらしい柳川は既に爪による突きを放っていたが、届くはずがない。
 カウンターの要領でここから側面に回ろうとしたリサだったが、柳川も対応は早い。
 突きによる慣性をそのままに利用し、勢いに乗っての回し蹴りがリサを襲う。
 咄嗟にジャンプして空中へ逃げたが、そこに空いた柳川の拳が待っていた。

「空中では身動きが取れまい!」
「そうかしら!?」

 殴りかかろうとする柳川の拳を、足を思い切り突き出し靴の裏で柳川の手を踏みつけることでそれ以上の追撃を許さない。
 さらに反動を利用し、リサは柳川の後ろへと飛び降りる。
 着地ざまにトンファーを振るが、素早く遮った鬼の腕によって阻まれる。
 そのまま数度打ち合う。お互いに間を計るように、隙を作り出す機会を確かめるように。
 その間、リサは仲間のことを思う。

 どんなに鈍くてもいい、自分のことを考え、未来を想像しろとアドバイスをしてくれた英二。
 恨みに呑まれることも悲しみで塗り潰されることもなく、ただ自分を助けようと健気に慕ってくれている栞。
 自分は人として立派であるはずがないのに、どうしてここまでしてくれるのだろうか。そう思ったときもある。
 だが今なら分かる。彼らは自分を捨て置くのではなく、引き上げて寄り合いながら歩こうとしているのだと。
 確かに、決して幸福へと向かっているわけではないのだが『今』を歩く一歩一歩は苦にならない。
 たとえその先で地獄が待っているのだとしても、積み上げた『今』が自分達にはある。
 それが自分の強さになる。闇に立ち向かっていける力の源となる。

 だが柳川はどうなのだろう。今戦っているこの時でも彼はずっと一人のままなのだろうか。
 今も、昔も、未来さえ信じられず、足場の見えない暗闇を歩きながら何を考えているのだろう。
 いや、だからこそ柳川は闇に身をやつし自分さえも消して恐怖になろうとしているのかもしれない。
 周りが真っ暗で満たされているなら自分がその一部になればいい。そう断じて。
 けれどもそれでは誰もいなくなってしまう。無音の恐怖だけが満ちた暗闇だけになってしまう。
 それではあまりにも寂しすぎる。
 だから、私は――

 リサが柳川の素手の方の拳を弾き、一歩分の距離を取ったとき柳川が動いた。
 大きく鬼の腕を振りかぶり、本気の突きを繰り出す体勢を取る。
 懐に入り込むには足りない。防御できるような攻撃ではない。ならば避けるしかない。

「く!」

 大きく横へ跳躍して回避しようとする、がそれは柳川の読み通りであった。
 動きを一瞬溜めて突きを放とうとしたのはフェイントだった。
 跳んだのを確認した柳川は手を開いてリサの首を掴みかかるように腕を振るう。
 首を掴み、絞め殺そうというのだろう。あの腕に捕まれば逃れようがない。

 ……けどね、こっちだって考えなしに跳んだわけじゃないのよ!
 ニヤリと笑みを漏らしかけていた柳川に、リサも笑い返した。

「プレゼントよ、柳川!」
「!?」

 腕を振った柳川の前には、リサが着ていたジャケットが宙に浮いていた。
 当然のようにジャケットは振っていた爪に引っかかり、さらに柳川によって傷つけられ、
 ボロボロになっていたお陰で破れかかっていた箇所から爪が刺さり、激しく絡まり合う。
 その上視界をジャケットが遮っていたせいで腕を振り切れず、勢いを失ってしまう。
 再度リサが力を溜めて柳川に跳躍しかかったのと、完全に柳川が勢いを殺されたのはそのタイミングだった。
 柳川の回避動作は間に合わない。


「柳川ああぁぁああぁぁぁあぁああぁっ!」
「リサ……ヴィクセンッ! うおおぉぉぉぉおぉぉぉッ!」


 最後まで諦めまいとしてジャケットが刺さったままの腕を振り上げようとする。
 しかし、やはり早かったのはリサの方で。

 空中から全力の勢いで振り下ろしたトンファーが柳川の側頭部を打ち抜き、頭蓋骨を砕き、
 彼を戦闘不能へと落とさせていった。

「か、はっ……」

 呻き声が一つ。致命傷を与えられ血を吐き出した柳川は、意地の一撃も届かせることなく崩れ落ちた。
 リサは激しく胸を上下させつつ、額にはりついた髪の毛をかき上げる。
 何とか勝てた。本当に殺しに掛かるなら身動きさせずに絞め殺すだろうという読みが当たり、
 対応策を講じておいてよかった。もし突きをトドメにと考えていたなら、また違った結果になったかもしれない。

「く……」

 低く搾り出す声が聞こえた。まだ柳川は生きてはいるらしい。
 鬼の強靭な生命力ゆえなのだろうか。だとしても、痙攣するようにしか動いていないことから、
 もう時間の問題だろう。リサは息を整えながら柳川の元で腰を下ろす。

「俺にだって……俺に、だって、守りたいものくらい……」
「知ってるわ」

 目を閉じたまま、うわ言のように呟く柳川にリサは静かに答える。
 強かった柳川には確かにあった。だからこそ、リサは悔しくてならなかった。
 この男から何もかもを奪ってしまった沖木島の狂気と、島全体に今尚敷衍し続ける、
 恐怖を恐怖で支配する力の倫理を。

「だから……おれは、信じて欲しかった……こんなどうしようもない、
 屑だった殺人鬼の、おれでも、だれかと一緒に歩いていけるんだ、と……
 おれは、ひとごろしを楽しむ……悪魔なんかじゃ、ないんだっ……」

 雨などではなく、柳川自身から溢れ出る雫が彼の顔を濡らした。家族にさえ裏切られた無念と、
 最後の最後まで言い出せなかった自分に対する悔しさがない交ぜになったものかもしれなかった。
 信じて欲しい。ただそれだけを願い続けていたやさしい鬼。
 彼が生きていくには、ここはあまりにも残酷で過酷な場所だった。
 だから、せめてその最期は。想いを込めて、リサは柳川の手を取った。

「今からでもいい? 今からでもいいなら、私が貴方を信じる。本当の言葉で語ってくれた貴方を、信じる」
「……リサ……」

 信じられないという疑念と救いはあったのだと安堵するものを含んだ柳川の目が薄く開かれる。
 だが手を取り、しっかりと握っているリサの手を見て、ふっと柳川は微笑を浮かべた。

 すぐにそれも消え、目も再び閉じられる。受け入れまいと思ったのか、己に対する贖罪なのか……
 やはりリサには分からなかった。ただ、開かれたときの柳川の目は、
 虚ろな中にも安らぎがあったかのように見えた。

「宮沢、有紀寧……」

 ぽつりと出された言葉は、聞き覚えのない名前だ。何なんだろうと思っていると、
 今度は強く手が握られ、残った命さえ搾り出すような声で続けられた。

「宮沢有紀寧……奴を……奴だけは、必ず殺せ……あいつ、だけは許しちゃならないんだ……!
 奴は……ひとを、どこまでも、陥れる、あく、ま、だ……頼む……やつ、を……!」

 ぐっ、と一際強く握り締められたのを最後に柳川の手がするりと抜け、地面に落ちた。
 者が、物に変わった瞬間。ひとつの命が散った瞬間だった。

「柳川」

 思わず手を取りかけたリサだったが、すぐにそれを取り消した。
 柳川から力が抜けたのではない。柳川は自ら手を放したのだ。握っていては、邪魔になるから。
 宮沢有紀寧という名を伝え、意思を託したリサの邪魔をしてしまうから。
 故に……弔いは必要ない。言い遺した柳川の意思を確かめ、リサは崩れかけていた表情を戦士のそれへと戻した。

 行こう。さっと立ち上がると何事もなかったかのように自分と柳川の持ち物をかき集め、
 キッと車が走り去っていった方角を見据えた。雨に紛れているが時折銃声のようなものが聞こえてくる。
 間に合わないかもしれない。もしかすると、皆死んでいるのかもしれない。
 この先には絶望しか待っていないのかもしれない。

 だがそれでも、積み上げてきたものに恥じないために。今しがた己の一部となった柳川に恥じないために。
 どこまでも進む。どこまでも戦う。
 残った者たちに、翳りのない未来の在り処を教えていくために。

 限界だったはずの身体はまだまだ動く。柳川が己を支えてくれている。
 その思いが胸を突き上げるのを感じながら、リサは全速力で走り出した。



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