巡り巡って/赫い彼岸の幻/みんな、ふたり、ひとり。(後編)






 目が開かれる。
 散大していた意識が体の中に吸い込まれていく。
 心臓の脈を打つ音が、はっきりとした音となって聞こえてくる。
 そして、最後に……見知らぬ女が、注射器を自分の腕に刺そうとしていた。

「なっ……!」

 脳に情報が飛び込んでくると同時、危険だと判断した身体が勝手に反応し、目の前の女を突き飛ばしていた。
 女にとっては予想もしていない反撃だったのだろう。派手に吹き飛ばされた女は畳の上を転がり、注射器を手放していた。
 環はころころと転がった注射器を飽和したままの頭で引っ掴み、吐息も荒く女の方へと激昂した瞳を差し向ける。
 何を、何をするつもりだった、こいつは?

 呆然としたままの女を見、やがて全身から伝わるズキズキとした痛みと、暗くなった室内から、環は雄二との戦闘後、気を失った自分を誰かが連れてきてくれたのかということを思った。
 なら、何故目の前の女は自分を殺そうとしている?
 見覚えはまるでないが、自分も何時間眠っていたかわからない身。寝ている間に何があったのかなんて分からない。
 何がなんだか分からないままの頭で、それでも今の状況を判断しようと脳は回転を続ける。

 殺そうとしていた見知らぬ女。何時間も寝ていた自分。知り得る事実はこれだけだったが、そこから最悪の推論を導き出すには十分だった。
 皆殺しにされたのだ。祐一も、観鈴も、他の皆も。この女の手によって。
 絶望感が頭を過ぎると同時に、抗いようのない猛烈な怒りが湧き上がり、恨みそのままの感情が環の表情を彩った。
 怯えたような表情をしているものの、油断を誘うための演技に相違ない。恐らくは、そこにつけこまれて毒を盛られたのだ。

 そして極めつけに自分を、毒を直接打ち込んで抹殺しようと目論んだというわけか。
 嗤笑にも近い笑みが環の口に浮かび、しかしそれが仇となったなとでも言わんばかりの妄執を帯びた目を女に向けた。

「残念だったわね……でも、もう何もやらせない……! 殺す、殺してやるッ!」

 目を血走らせて、女を締め落とそうと指をゴキリと鳴らし、接近する――だが環の怒声を聞きつけ、この場に姿を現した二人がいた。

「なんやっ!? 一体何が……」

 襖を開けて相対した人物の目には、明らかな困惑が混じっていた。
 一瞬の間を置いて、環の頭が情報を引き出す。あれは確か、姫百合瑠璃とか言ったか? その隣にいるのは、姫百合珊瑚。
 主催者に対抗する術を講じ、こちら側に希望を見出させてくれた人物。
 何故、その二人がここに?
 殺されたのではなかったのかという疑問ではなく、どうしてこの女と一緒にいるのかという疑問の方が湧き上がる。

 グルなのか? いや、それは違う。
 覚えている限り、珊瑚は間違いなく主催者に対抗する『ワーム』を完成させつつあった。
 それがいまさら、殺し合いに加担するなど……
 いや、待て。脳裏に響く警告が、今さっき人を騙す裏切り者だと断じた女の姿が、環にもう一つの可能性を出させる。
 自信を満面に滲ませたあの表情が嘘だったとしたら? あのプログラムは出鱈目で、自分達を騙すハッタリだったとしたら?
 プログラムのことなど所詮自分には理解もできない。あれが、内部から切り崩すための罠だとしたら……

 実際に祐一が、観鈴がいないこと、そして空白の数時間というラグが、環の疑心を強めていく。
 己の疑いをそうじゃないと言ってくれる人がいない。そうだと信じられる人がいない。
 孤独の中に結論を出さなければならず、沸騰を続ける頭から判断力が失せていく。

「環さん、どうしたんや? 殺す、って……一体……」
「あ、あかん、喧嘩はあかんよ……?」

 不安げに視線を動かし、自分と女の方を見る二人。戦意など感じられない、ただただ戸惑っているばかりで武器も持たない二人。
 これも演技なのか? これも嘘だというのか? 教えて、ねえ、教えてよ、雄二……!
 狂気寸前の疑心が己を苛み、ガラガラと崩れそうになる感覚だった。雄二は、こんな恐ろしいものと戦っていたのか。

 頼れるものなど何もなく、自分自身で判断を下すしかない。しかも、それで人の命が動く……
 環はこのときほど、時間を切望したことはなかった。教えてよ、この数時間に何があったのか……
 しかし揺れ動く環の心を嘲笑うかのように、女の涙声が二人に向かって叫ぶ。

「た、助けて下さい! こ、この人、私を殺すって……! 急に襲い掛かってきて!」
「なっ!?」

 事実無根の罪を突き付ける女に、たまらず環は声を上げる。同時に、しまったという思いが浮かぶ。
 先刻言ってしまったのだ。殺す、と。
 先手を取られた。もし……もし、瑠璃と珊瑚が無関係なのだとしたら、この女が殺し合いに乗っているということを知らないのだとしたら。
 彼女に関わっている時間が皆無だった自分。懐柔される時間を与えられていた二人。圧倒的不利に立たされたのは、私だ。

「環、さん……嘘、やろ?」
「る、瑠璃ちゃん……」

 いや瑠璃にしても珊瑚にしても、自分はそんなに関わり合いになる時間が持てなかった。目的が同じということを確認しているだけで、腹を割って話すような関係足り得ていない。だから自分が疑ったというのに。二人が疑わない道理はない。
 自分がただ一人の敵という状況に晒される。その恐怖を感じた環は藁にも縋る思いで二人に詰め寄る。

「ちが……私は、そんなことしていな……」

 手を伸ばす。先程までの怒気から一転、今にも泣き出しそうな顔で姫百合姉妹に望みを託そうとしたが、その期待はあっけなく裏切られる。
 後ろ足で下がった。手から逃れるように……
 そんな、と絶望が掠めたのも一瞬、ズドン、という鈍い衝撃が環の腹を砕いた。
 真横から巨大な質量をぶつけられ、己の臓物と一緒に何かが飛び出す。
 誰だという視線が、最後の力を振り絞って向けられる。

 そこには……勝ち誇ったように陰惨に笑う、自分を嵌めた女の姿があった。その手にはショットガンを持って。
 やはりそうだったという実感。しかしそれよりも、これが結末かと己を嘲る気持ち、悔悟の念が環を支配していた。

 あの時、雄二を置き去りにしていなければ。
 少しでも、二人を信じていれば。

 天罰だというのか。家族を一人、彼岸の向こうに置いて己を満足させたいがために帰ってきてしまった我侭のツケが、この結果だというのか。
 自分の魂を慰めたい、そう思ったのが――

 ごめん……雄二、ごめんね……

 無念すら口には出せなかった。
 上半身と下半身を真っ二つにされ、全身の血をぶちまけた向坂環は、藤林椋の姿を捉えたのを最後に、闇の底へと落ちていったのだった。

     *     *     *

 環が目覚める、少し前のことだった。
 休憩すると言って奥に引っ込んだ藤林椋の後姿を眺めたのを確認して、双子の姉である珊瑚が「ちょっとええかな、お料理する前で悪いんやけど」と小声と手招きで呼んできた。
 先程から妙に口数が少なかったので、何かあるのかとは思っていたが、本当に何かあるらしい。

 双子の感応というものもこういうものなのかと詮無いことを考えつつ、「どうしたん?」と足早に珊瑚の方に寄る。
 すると珊瑚は有無を言わせぬ勢いで、無言で箱状の物体を取り出す。
 無骨な金属製の箱……しかし一方で機械特有の脆さをも持っているそれは、間違いなく珊瑚が作業していたパソコンのHDDであった。
 どうしてこんなものを、と尋ねる口を、ノンノンというように指で閉じてくる。首輪解除に関わる重要なことなのだろうか?
 続けて差し出された、珊瑚のものと一発で分かる汚い字のメモには、こう書かれていた。

『このなかには、ウチのつくったワームと、それをおくりこむてじゅんを書いたせつめいしょがあるねん。るりちゃんにあずける〜』

 おくりこむ、とてじゅん、の間には割り込むようにして小さく書かれた『だれでもおっけー』の文字も見えた。
 つまり、これは、珊瑚以外の誰でもワームを送り込めるように改造し、手順までを書いてくれた言わば初心者版にしたものと言えた。
 今までの短時間でそんなことを、と驚嘆する一方、どうしてこんなことをしたという不安が瑠璃の中で大きくせり上がってくる。

 確かに誰でも使えるようにしてくれたのは在り難い。
 だが、それは自らの役割は終わった。もう自分はいついなくなっても大丈夫だと言っているようにしか思えなかったのだ。
 やるべきことはやった。思い残すことはない。凛として微笑み、HDDを押し付けてくる手が、そう語っている気がして……

 死んでもいいだなんて思ってへんやろな……!

 胸倉を引っ掴んで問い質したい気持ちに駆られ、喉元まで出かかったがこの事を誰にも知られてはならない、珊瑚の期待を裏切る真似はしたくないともう一人の自分が押し留め、結局唇を震わせただけでどうすることもできなかった。
 それに、そんな笑い方をされたら……自信満々な、不敵な笑みを見せられたら、応えるしか出来ないではないか。
 己の一挙手一投足が確かな希望を紡ぎ、切り拓いていくと実感している、その様子を見れば。

 ずるいよ、と瑠璃は胸中に吐き捨て、未だ己の未来を信じられない不甲斐なさを拳の形にして、力いっぱい握り締める。
 だが力みすぎていると言えるに十分な拳をたおやかに包み、内包してくれるものがあった。

「大丈夫や。瑠璃ちゃん、ウチは大丈夫。ずっと一緒やて約束したやん」

 珊瑚が瑠璃の手をとり、相変わらずのにこにことした笑顔で諭してくれる。
 どこまでもおおらかな、ふわふわとした柔らかなやさしさ。それに触れているだけで落ち着き、安心させられる。
 大丈夫だと、珊瑚が言っている……それだけで、自分にも大丈夫だという予感がしてきた。

 この手のぬくもり……人が誰しも持っているぬくもり。人を信じる原動力というのがこれなのか。
 手を取り合えば、分かることができる――確信に近い、そんな感想を抱いたときだった。

「殺す! 殺してやるッ!」

 恐ろしいほどに殺気を帯びた、金切り声に近い怒声が隣の部屋から響く。
 向坂環のものだということはすぐに判別がついたが、先程まで彼女は寝ていたはずだった。
 目覚めたのだとして、何故いきなりそんな――
 頭で考えるより先に、体が動いていた。武器も持っていない、居間の隅に置き去りにしたままだというのに。

「なんやっ!? 一体何が……」

 襖を開けた瞬間、瑠璃は己が目を疑った。
 鬼のような形相で、環が椋に掴みかかろうとしている。椋はただ震え、恐怖に慄いている。
 先刻聞こえた『殺す』をそのまま体現したかのような光景に、瑠璃は体の節々が硬直するのを感じた。

 どういうことだ。これは、一体?
 傍から見れば環が一方的に椋を殺そうとしているかのように見える。いや事実、瑠璃にはそう見えてしまった。
 祐一、浩之と共に弟との因縁をつけるために出て行った環……それが瑠璃の覚えている姿。

 だが、帰ってきたときにはボロボロで、意識も混濁していた。弟という者との間で何があったのか、知りようもなかった。
 起きたら、きっと話してくれるだろう……そんな希望的観測のもとに、環の精神がどうなっているのか想像だにしていなかった。
 それでもまずは、話を……珊瑚もそう思っていたのか、瑠璃と珊瑚はほぼ同時に口を開いていた。

「環さん、どうしたんや? 殺す、って……一体……」
「あ、あかん、喧嘩はあかんよ……?」

 口にした瞬間、キッと血走った目がこちらに向けられる。
 鬼。そう錯覚させるような、あるいは目の前の信じられない光景から来る恐怖が、環から滲み出ていた。
 足が震えているのが、自分でも知覚できた。
 環のことは、あまり知らない。出会ったばかりで、ろくに話もしていない。……椋と、同じくらいに。

 無自覚のうちに、瑠璃は二人を天秤にかけていた。椋と環、どちらが信じられるか。そしてそれは、椋の方に傾きかけている。
 殺す、という環の声が脳裏にこびりついて離れなかったから。
 それに追い討ちをかけるかのように、椋が涙声ながらに叫んだ。

「た、助けて下さい! こ、この人、私を殺すって……! 急に襲い掛かってきて!」
「なっ!?」

 思いも寄らぬ声だったのか、環は驚愕の視線を椋に向ける。その真実味を帯びた声は、瑠璃の天秤を傾けるのに十分な効果をもたらした。
 まさか、本当に……?
 珊瑚も信じられないという面持ちで、ふるふると首を振る。

「環、さん……嘘、やろ?」
「る、瑠璃ちゃん……」

 動揺が自分にも、珊瑚にも発生している。
 殺すと叫んだ環。会ったときからのイメージそのまま、震えたままの椋。
 どちらも真実味を帯びていて、いや、だからこそ……

「ちが……私は、そんなことしていな……」

 咄嗟に環が腕を伸ばしてくる。それを視界に捉えた瞬間、自分も珊瑚も、反射的に後ずさってしまっていた。
 無意識の天秤が、警告を発し危険だと判断した体が動いてしまったのだ。
 そんな、という形で環の唇が動く。絶望に打ちのめされ、瞳が光を失った。
 あっ、と珊瑚が、声にならない声を出す。なんていうことをしてしまった――そう言うように。それは瑠璃も同様だった。

 人のぬくもり。つい先程知ったばかりだというのに、自分は、なんということを……!
 激しい悔悟の念が瑠璃を、そして恐らくは珊瑚をも貫き、それでもまだ遅くないと恐怖を断ち切り、今度こそ信じる手を伸ばそうとした。
 だが一瞬でも拒絶してしまった……その天罰を与えたかのように、環の脇腹からびしゃりと赤い肉片が飛び出した。
 割れた西瓜のように臓物を飛散させ、絶望の瞳を硬直させたまま、環の体がくずおれた。

「ぅあ……環さぁぁぁあぁぁあんっ!」

 珊瑚の悲鳴は届くことはなかった。瑠璃も体が硬直しきったまま、何も反応することができない。
 取り返しのつかないことをしてしまった。味方でいられるはずだったのに、迷ってしまったばかりに撥ね退けて……!
 自責と罪悪感の二つがないまぜになり、瑠璃は膝を折って懺悔の海に沈みたくなった。
 が、それだけの余裕も、時間も与えられるはずはなかった。何故なら……

「邪魔な女は消しました。次は、見ていた……あなた達です」

 環の屍を踏み越えて現れ、ベネリM3を携えた殺人鬼。藤林椋が殺気の篭もった陰惨な笑みを浮かべながら現れたからだった。
 この女が、全ての元凶。
 自分と珊瑚を騙し、油断したところを内側から一太刀に殺そうとした、悪魔の女。
 迂闊に過ぎた。その一言では片付けられない結果となり、二度と動かぬ環の遺体を手土産に、自分を殺そうとしている。

 逃げなければ。珊瑚を引き連れて早く逃げなければ……
 頭ではそう思っていても、環の死が引き起こしたショックは体の神経を千々に引き裂き、まるで命令を聞こうとしなかった。
 こんなことになるのなら、追い返しておけば。

 そもそも、どうして椋がここに人がいることを察知出来たのか疑うべきだった。
 本当に恐怖を感じているなら、本当に追われているなら、人がこの家にいるだなんて想像もしていないはず。
 それを、椋はさも分かっているかのようにドンドンと玄関の戸を叩き、こちらが動揺したのを見てあのような無害を装って、侵入したのだ。
 最初から計算ずく。それもこれも、全て自分のせい、自分のミスが招いたツケ――

 今更ながらに浮かんだ、本当に疑うべきもの。真実を見据えてかかるべきだったことを思い、瑠璃はもう一度己に絶望した。
 さんちゃん、と口に呟いた次の瞬間、まずはこちらというように椋のショットガンがこちらを標的と捉え、黒い銃口の穴を差し向けた。
 死ぬ……その予感が立ち込め、この結末に納得している自分と、珊瑚を助けられなければ死んでも死に切れないという思いを過ぎらせたが、頑として体は動かなかった。肉体が恐怖しているのだ。こんな、情けない最期なんて……!

 その時だった。ショットガンの弾が瑠璃に突き刺さるより早く、体を押し出すものがあった。
 姫百合珊瑚。彼女の手が、ぬくもりを思い出させてくれた手が、瑠璃を突き飛ばす。さんちゃん、という言葉に応えたかのように。
 何が起こったのか、瑠璃が理解する間もなかった。
 突き飛ばされたと分かった瞬間、ズドンという重く、低い音が響き渡り、次いで珊瑚の脇腹が弾け飛び、肉片の一部を瑠璃の体に叩きつけた。

「……ぁ」

 もう、何も搾り出せなかった。
 守れない。守れなかった……
 薄い笑みを浮かべる珊瑚の姿が、あまりにもやさしくて。

 突きつけられた過酷な事実は、瑠璃から何もかもを奪うのに十分なものであった。
 体の芯から脱力し、肉体も生存を諦めたか、腰が折れ、ぺたんと尻餅をついた。
 三度弾を装填し、冷酷な表情で見下ろす様は初めて椋と出会った時の構図を瑠璃に思い出させた。

 終わる。これで、何もかも――
 もう何度目か分からない諦観と、絶望。

「下がれッ、瑠璃ッ!」

 だがまたしても、それを遮るものがあった。
 瑠璃の中を突き抜ける、鋭くも叱咤するような声。
 あれだけ萎えきって、一歩として動けなかったにも関わらず、体が反応し低く体勢を伏せる事が出来たのは、あるいは心のどこかで、今度こそ信じなければならない。今度こそ取り返しのつかない過ちを犯すまいとどこかで思っていたからなのかもしれなかった。

 瑠璃の頭上を何かが飛び越え、一直線に椋へと向かっていく。さながら、矢のように。
 飛び越えた弓矢……藤田浩之は、勢いをそのままに椋に包丁を振り下ろし、その肩へと深くめり込ませ、切り込むことに成功した。さらに浩之は蹴りを繰り出し、小柄な椋の体を吹き飛ばす。
 包丁での攻撃は力任せに切り下したためか、バッサリと切り裂くほどのダメージには程遠く、二、三センチ肉を抉る程度の損傷になったが、椋に対する効果は絶大だった。いきなりの闖入者に慌てふためき、ベネリM3を向けなおす暇も与えられず切り裂かれ、ほぼ半狂乱の状態で肩を押さえ、悲鳴を上げ、苦痛を訴えていた。

「てめえっ……こんな、こんなっ……! ただで済むと思うなッ!」

 烈火の如く猛り狂った浩之の怒声が、血に染まった民家を震わせた。

     *     *     *

 昨日に比べ、今日は随分夜が早い。
 いや違う。これは……雨だ。
 夜天が空を覆う中、雲の一団が一面に鎮座していることに気付いた藤田浩之の頬に、ぽたりと一つ雫が落ちた。

 自分の予測が間違っていなかったことが証明され、浩之は空白でぽっかりと穴が開いた心が、さらに沈むのを感じた。
 これだけ心を痛めつけられてもまだ落ち込めるという己の頑丈に過ぎる精神に苦笑せざるを得ない。
 死に対して希薄になったとは思わない。でなければこんなに足取り重く瑠璃、珊瑚、環の下へ戻ろうとしていない。

 ただ使命感だけが体を動かしている。
 死んでいるのかもしれないな、と浩之は思う。
 意思を持っていた『俺』が『おれ』になって、自分を留めている。

 歩けと命じた誰かの声が聞こえたから、歩いた。
 諦めるなと誰かが言ったから、死んでいない。

 魂が死に、肉体だけとなって留まり続ける自動人形(ロボット)。言い得て妙だと自分でも納得する。
 自分を清算できる出来る場所を探して、彷徨い続ける自動人形……きっと、もう輝きもない瞳になっているのだろう。
 暗い瞳……光を喪った瞳。だがみさきは、自分とは違った。
 世界を見えなくした目でも、正しく自分を、真実を見つめて、希望を捨てず――

「……そう言えば、今日、夕焼けじゃないんだな……」

 夕焼けが好きだと言った彼女。まだその理由も聞いていなかった。100点満点の夕焼けも教えてあげられなかった……
 明日も見れるように、頑張ろう。
 昨日、みさきに向けて言った言葉に、そうだったなと浩之は再度苦笑する。
 おれたちはまだ夕焼けも見ていない。本当の日の落ちるとき、夜が巡り、次の朝を迎える瞬間も……

 心の残滓をかき集め、まだ人形にはなりきれないらしいと嘆息して鈍い足取りを駆け足に変える。
 何も守れていないおれを、今度こそ誰かを守れるおれにするために。
 走れ、走れ、走れ……!

 雨で燻る木々を抜け、湿ってぬかるみかけている地面を蹴り、海岸にある、皆の待つ家へと向けて走る。
 たくさん説明しなければならないことがあるかもしれない。
 なじられ、どうして一人でおめおめと戻ってきたのかと罵倒の言葉の一つでも飛んでくるかもしれない。

 彼女たちの、恐らくは放置されたままの遺体も転がったままだ。
 目を閉じてさえもいない。埋葬もできるかどうか分からない。
 でも、いつか……本当の夕焼け。それも乗り越え、本当の朝を迎えることが出来たのなら、そのときはきっと……いや、必ず。

 目標を一つこしらえ、人形になりきれない心に一条の光を見出して、浩之はひた走る。
 海岸沿いに走り、砂浜を抜けて、出発点となったあの家に……
 当初の目的だった聖は見つけられないままになってしまった。環の命を縮めてしまった、その責任も降りかかった。
 けれども伝えなければならないことがある。この近辺に、祐一を殺害したと思われる眼鏡の男がいることを。
 ふと、浩之の心に何か引っかかるものがあった。何かを見落としている、大切な何かを……

 思索に耽りかけた浩之の耳につんざくような銃声が聞こえたのはその時だった。
 海岸沿いで、遮蔽物が何もなかったからだろうか。清々しいほどにその音は明朗に、確かに銃声だと判断できた。
 しかも、その音はもう目の前にある出発点であった民家から……!
 刹那、忘却の彼方に置いてきてしまった『大切なこと』が電撃のように浩之の頭に走った。

 そうだ、あの男……あの男と祐一が、争う原因となったのはなんだった?
 一人の女を巡って、おれたちは争うことになったんじゃなかったのか?
 ざわと泡立つ自分の感覚を予感と捉え、浩之は放送の内容を思い出していた。

 争いの原因になった女……藤林椋。そいつは、まだ生きている。
 その一方で死亡が確認されたみさきと観鈴。椋と合流していない現状。
 嘘をついて、お前らを内側から殺そうとしている――柳川の言葉が脳裏に反芻される。
 奴の言っていたことが、真実だったのか……?

 殺人鬼へと転化したように思え、凶暴ともとれる雰囲気でかつて出会った人でさえも殺そうとした柳川。
 それゆえ信じる事が出来ないでいたが、嘘ではなかった……
 皮肉なものだと吐き捨てる一方、だとするなら、今の銃声はおれたちを出し抜いた『奴』の仕業の可能性がある。
 当たっているという予感が浩之の中にあった。ざわめきたっている体がそうだと言っている。

 デイパックから包丁を取り出し、走ってきた勢いをそのままに玄関のドアにケンカキックをぶつける。
 鍵がかかっていようがお構いなしの強行突破。この向こうに、奴がいる……!
 靴のまま玄関を上がり、狭い廊下を走り抜け、居間に続くドアも強引に蹴り開ける。
 銃声が聞こえてから、一連の行動は僅か数秒だった。それが間違いでなかったことを……悲しいことに、浩之は実感してしまった。

「っ!?」

 絶句する気配が、へたり込んでいる瑠璃の向こう……ショットガンを構えた、奴――藤林椋――から伝わってきた。
 ちくしょう、ちくしょうッ……! こんなのってあるか……! こんなのが、現実だなんて……
 騙していた椋の存在にも、疑うことなく目の前の言葉に踊らされ続けていた自分も、猿芝居の駄賃に殺された二人も……
 全てが茶番のように思えて、ただただ嘘のようにしか思えなかった。

 けれども……
 体の内から燃え広がる暗い炎、圧倒的な怒りだけは真実だった。

 目の前に嘘つきがいて、助けるべきひとがいる。
 猿芝居を終わらせるだけの舞台が整っている。
 客であることはもう終わらせよう。出入り禁止になろうが、クソ喰らえと踏みつけて台無しにしてやろう。
 悲鳴のない舞台。今度こそ真実を見据えさせてくれる、虚偽のない舞台にするために……

「下がれッ! 瑠璃ッ!」

 猛然と突進し、即座に応じてくれた瑠璃の頭を飛び越え、浩之は力の限り包丁を振り下ろす。
 刃が肉にめり込み、鈍く切り裂いた感触が伝わってきた。

「あああああああっ!」

 悲鳴を張り上げ、肩を押さえてよろよろと後退する椋。続け様にその体を蹴り飛ばし、瑠璃から距離を取らせるように、そして立ちはだかるように位置を整える。その足元では珊瑚が、環が、血の海に沈んでいる。

「てめえっ……こんな、こんなっ……! ただで済むと思うなッ!」

 憎むべき対象を目の前にしては、人形になりかけた心も沸騰し、沸き立っている。
 間に合わなかったという痛恨と、一人でも助けられたという実感。
 その二つが化学反応を起こし、力となり、憤怒となって敵に向けることが出来ている。

 痛みからか、邪魔されたからか、ありったけ憎しみを込められた視線を向けられても浩之は動じることもなかった。
 殺人に対して迷いはなかった。ひょっとすると、あの柳川と同じ道を辿っているのかもしれない。
 しかしそうだとしても、自分は間違ったことをしていないという確信が浩之にはあった。
 立てと命じた友人たちが、諦めるなと立たせたあかりとみさきが、自分を支えてくれている。
 人形であっても、成すべきことを成す為に。僅かに残る、心の残滓にある願いに従って……

 包丁を逆手に持ち、切り込めるように体勢を整える。
 ショットガンを構えられてもその間に懐に飛び込み、必殺の一撃を叩き込む自信はあった。

 だらりと垂れ下がった腕が持っている椋のショットガンを見ながらも、集中して油断しない。
 とはいえ武器間の射程差、威力の差は歴然として存在し、こちらから踏み込むことも躊躇われた。
 他に椋が即時応射可能な武器――例えば小型拳銃――などを所持していれば、反撃されるのは浩之だった。
 じりじりと間を詰め、有利な間に持っていく。それが浩之のとった戦法だった。

 だがそれは結果として致命的なミスにはならなかったものの、好機をも逃した。
 椋はショットガンを構えることも、他の武器で応戦し続けることもなかった。
 浩之に蹴られ、後ろへ下がった後。痛みを堪え肩を押さえるのを我慢し、椋が手に取っていたもの……それは瑠璃が持っていた火炎瓶だった。

 いつの間に、と椋の周到さに驚愕したのも刹那、投げられた火炎瓶から退避するため、咄嗟に瑠璃の腕を掴むと、隣の部屋へと引っ込み、体が許す限りの速さで襖を閉める。間に合うかと危惧したが、炎の舌が浩之と瑠璃を絡め取ることはなかった。
 火炎瓶から吐き出された炎は酸素を求めて居間を駆け巡ったものの、急激に燃え広がることはなく一瞬膨張したに留まった。
 だが、この間の時間は浩之にとって痛恨のラグであった。数秒待ってから襖を開け椋の姿を求めてみたが、既に居間はもぬけの殻と化し、ちろちろと小さな炎が揺らめくだけの赤い空間と化していた。

「……くそっ」

 必ず後を追う。どこまでも追い続けてやると心に誓い、一方で床に転がり、炎の煽りを食って酷い有様になっている、二人の仲間を、何とかしなければという思いを働かせていた。これでは、あんまりすぎる。

「さんちゃん……」

 呆然として虚ろな瑠璃の声は、まるで人形のようで……浩之自身と重なって、ずきりとした痛みを与えた。

     *     *     *

 こんな偶然、予定外です……!

 自分の作戦に無駄はなかった。ミスだってなかったはずだった。
 たった一度の偶然で、なんでこんなことに……
 出血を続ける肩を押さえながら、椋は民家を脱出してどこへともなく走り続けていた。浩之から逃げるために。
 実際、途中までは上手くいっていたのだ。いや正確には、最初の段階で一つミスはあったものの、結果として上手くいっていた。

 最初は環を毒で屠るつもりだったが、刺す瞬間環が目覚め、反撃されたことで失敗。
 だが取り乱してくれたことで敵同士の疑心暗鬼を誘い、隙を作り出すことでショットガンで狙いを付け、殺害することに成功。
 続け様に奇襲で、動揺していたあの姉妹に攻撃。これは当初の予定通りで、順番こそ違えど珊瑚を撃ち殺すことに成功し、瑠璃もあの様子なら苦もなく殺すことが出来たはずだった。

 天は私に味方してくれているはずではなかったのか。理不尽な仕打ちに対する怒りは、派手な行動を起こしてはならないと決めていたにも関わらず環の登場で恐慌をきたし、あっけなく自戒を破ってしまった椋自身に向けられる……わけもなく、いるはずもない神様に対して向けられていた。

 どうしよう、どうしようという焦りも生まれつつあった。
 柳川に続いて浩之、瑠璃まで敵に回った。このままでは周りがどんどん敵だらけになる。
 姉に会えるのが遠のいたということと、死の危険に晒されるということが目的のない逃走を続けさせていた。
 その先には、氷川村があり――逃げてきたはずの柳川裕也がいるはずだった。

 だが椋はそんなことに気付くこともなく……前からは柳川、後ろからは浩之に囲まれる形となっていることにも気付かない。
 確実に、確実に……椋にも『ツケ』が回り始めていた。




【時間:二日目19:10頃】
【場所:I-5】

姫百合珊瑚
【持ち物:デイパック、水、食料、工具箱】
【状態:死亡】
【備考:主催者の仕掛けたHDDのトラップ(ネット環境に接続した時にその情報を全て主催者に送る)に気付き、対策はしていた】

姫百合瑠璃
【持ち物:デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数3、レミントン(M700)装弾数(5/5)・予備弾丸(12/15)、包丁、救急箱、診療所のメモ、HDD、支給品一式、缶詰など】
【状態:放心状態。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

向坂環
【所持品:なし】
【状態:死亡】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、殺虫剤、火炎瓶】
【状態:絶望、でも進む。守腹部に数度に渡る重大な打撲(手当て済み)】


【時間:二日目19:10】
【場所:I-5・I-6の境界】

藤林椋
【持ち物:ベネリM3(5/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾2発)、吹き矢セット(青×5:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【状態:マーダー。左腕を怪我(治療済み)、右肩に深い切り傷、半錯乱状態】
【備考:赤×1は民家内に放置】
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