巡り巡って/赫い彼岸の幻/みんな、ふたり、ひとり。(前編)






 パソコンの前では、まさに最後の仕上げと言わんばかりに姫百合珊瑚が目にも留まらぬ速さでキーボードを打ち、プログラムを組み上げていた。
 まるでピアノの演奏だ、と向坂環の看病を続ける姫百合瑠璃は思った。

 これが完成すれば、ひとまずは首輪の脅威から逃れる事が出来る。それを足がかりにこの悪夢じみた島から逃げ出すことだって……
 だが、そう簡単に事は運ばないのは瑠璃にだって分かっている。
 自分達が首輪の事について話すときにはいつだって筆談。盗聴器がついているからだ。
 加えて、島のあちこちに仕掛けられた監視カメラ、それに参加者を区別するための発信機。

 首輪を外すということはそれを付けた人物が死亡したことと同義だ。
 発信機がたちまちのうちに死亡のシグナルを出し、それを管理している側が不審に思わないわけがない。
 最悪兵士でも送り込んできて、首輪を外したこちらを抹殺にかかる可能性もある。
 狭い島の中だ、主催者側の技術力ならば簡単に見つけ出されるだろう。
 だから首輪を外すときは、この島から脱出するときだ。

 船か、あるいはヘリでも確保し、動かせる状況になってから首輪を解除。何事かと主催が事態を把握する間に外海に逃げ出す。
 恐らくはそういう筋書きを、珊瑚は立てている。
 だがこの問題点は、果たして脱出の要となる船、ヘリを首尾よく確保できるかというところだ。
 この島にそんな都合のいいものが用意されているわけがなし、そうなると畢竟、主催側の懐に飛び込まなければならなくなる。
 主催者側にだって、ここに来るまでに用意した移動手段が、必ずあるはずなのだから。

 そのとき、果たして自分は珊瑚を守りきる事が出来るのか。
 未だ戦闘経験のない自分が守るためとはいえ、人を殺す事が出来るのか。

 迷いが不安となって津波の如く押し寄せ、それでもやらなければならないのだという焦りを生み出す。
 いつまでも安穏としてはいられない。自分だけ綺麗でいようだなんて虫の良すぎる話だ。
 分かっている。分かっているけれども、戦うという未知の事態に覚悟の支えが揺れる。
 靄を掴むような感触が、確信を持たせてくれない。

 じっとりと手のひらに汗が滲み、落ち着こうと一つ息をついて、瑠璃は作業を続けている珊瑚の横顔を見る。
 パソコンのモニタ以外は何も目に入っていない、真剣な顔。
 イルファを設計したとき、自分とイルファを仲直りさせようと奔走していたときもこんな顔だったのだろうか。
 想像しているうちに、自分の中に再び、萎えかけた決意が膨らんでいくのを感じる。

 そうだ。この顔があるから、まだ生きている珊瑚の顔を見られるから、まだ自分だって頑張れる。
 沈黙の内に瑠璃は決意を新たにし、環の看病に集中する。
 とはいっても、濡れた布巾で汗を拭い、体を冷やさないようにしてやることくらいしかしていないのだが……
 苦笑のうちに、それでもやらないよりはマシか、と思い直し柔らかな頬をそっと拭う。
 気のせいか顔色はそれなりに良くなり、呼吸も安定してきている。峠を越え、取り合えず命に別状はなくなったというところだろうか。
 安心は出来ないと思いつつも確かに命が戻ってきているという実感が瑠璃の頬を緩ませる。

「瑠璃ちゃーんっ!」

 と、そこに盛大に声を張り上げ、どたどたとこちらに駆け寄ってきた珊瑚が背後から抱きついた。
 勢いのあまり環の腹部にダイビングヘッドしそうになった瑠璃だったが、ギリギリのところで堪えて大惨事になるのだけは回避する。
 ここに隠れているという事実を理解しているのか、そして環が大事になったらどうしてくれるのかと二つの文句をぶつけようと珊瑚の方に振り向いた瑠璃だったが、声を出す間もなくその眼前に突きつけられたメモ用紙には、辛うじて日本語だと認識できるくらいの汚い文字で文章が書かれていた。

『ワームかんせいや〜』

 ホンマか! と文句を垂れようとしていたことも忘れて思わず叫びそうになった瑠璃だったが、それは機密中の機密ということも思い出し、慌てて口を閉じる。

「ど、どうしたん、さんちゃん?」

 とはいえ、抱きつかれた勢いのままギュウギュウ締め上げてくる珊瑚の体をいつまでも受け止める事が出来るわけもなく、堪忍してとばかりに珊瑚を邪険にならない程度の力で引き剥がし、改めてやり遂げた珊瑚の表情を見る。
 笑顔とは裏腹に、珊瑚の表情にはやや疲れの色が見えた。そうだろう。何しろ何時間もぶっ続けでパソコンの画面と向かい合っていたのだから。

 自分の何倍の苦労を成してきたのかという疑問を持たせる間もなく、珊瑚は「お腹空いたー」と恐らくはこれも本音であろう言葉を続けた。
 小食なはずの珊瑚だが、流石にあの様子では空腹にもなるだろう。
 ならば、自分の出番だ。家事を得意とする姫百合瑠璃の本領発揮というわけだ。

「……しゃーないなぁ。ウチがなんか作ったるから、さんちゃんはちょっと大人しくしててや」

 この家にあるのは携帯食ばかりではない。持ち運びできないというだけでちゃんと冷蔵庫には食材もあった。
 調理する音が気にならないではないが、この家の真横を誰かが通るのでもない限り聞かれる心配はない。
 はーい、と行儀よく応じた珊瑚を置いて、瑠璃は腕まくりをしながら台所に向かおうとした、その時であった。

「皆様、いかがお過ごしでしょうか。大変心苦しい事とは存じ上げますが、どうか心を鎮めてお聞きください。――では、第三回目の放送を、開始致します」

 放送……その単語を脳が理解したときには、既に一人目の名前が告げられていた。

「祐一……!? さ、さんちゃん……!」

 驚くというより、信じられなかった。つい一時間前まで顔を合わせて笑いあっていたはずの仲間。
 思わず珊瑚の顔色を窺った瑠璃だったが、何か言葉を紡ぐ前に、さらなる犠牲者の名前が呼ばれる。
 神尾観鈴。川名みさき。……数少ない知り合いの、河野貴明まで呼ばれていた。

 そんな、馬鹿な。
 ショックが大きすぎて、その程度の感想しか抱けなかった。
 ここ一時間の間に、藤田浩之を除く外出組は全滅したというのか?
 一体何があって、三人も死んだ?

 放送でそれらの名前を告げていた人物は、まだ何事かを呟いていたが、冷静に聞き取るだけの余裕はなかった。
 珊瑚も相当のショックがあったらしく、ひろゆき、と唇が動いたのを最後に呆然と立ち尽くしたままの姿になっていた。
 何か言わなければと思いつつ、口は開くことなく、逆に頭の中ではどうしてこんなことになったと思考がぐるぐると回転している。
 一時間足らずでここまでの人数が死んだ、ということは容赦なく人を殺せるだけの凶悪な人物が近辺に潜んでいるということを指す。
 だがここには何も聞こえてはこないし、相変わらず静かなままだ。
 何より、怪我しているとは言え、浩之や祐一がいてそれほどの死者を出したというのが在り得ない。

 一体どうして、と考える瑠璃の頭に、もう一つの可能性が頭をもたげる。
 浩之が裏切って、皆を殺しにかかったという可能性。
 油断している皆の背中に銃を突きつけて、容赦なく撃ち抜いたのではという可能性。
 ……それなら、辻褄は合う。こんな短時間で仲間が次々に死んでいったということも。

 しかしそんなのは在り得ない。常にこの殺し合いに疑問を持ち、傷つきながらも立ち向かい、守ってきた浩之が……殺し合いに加担するなど。
 背中を合わせて守りたい人を守ると話し合ったあの夜。
 仲睦まじくみさきの手を取って歩いていた背中。
 あれが全て演技だったというのか。皆を信用させ、無防備な背中をさらけ出させるための策だったというのか。

 嘘に決まっている。こんな根も葉もない思い込みを信じてどうする。
 疑心暗鬼にかかり、仲間を裏切りかねないのは自分じゃないか。
 己の周囲に靄が立ち込め、まるで周りが見えなくなっていく。
 一度根を張った疑いの芽は既に萌芽を始め、しっかりと足元に絡みつき瑠璃の身動きを封じてしまっていた。
 どんなに断ち切ろうとしても、すぐにまた成長を始めて……

「瑠璃ちゃん?」

 放送が終わってからも何も喋ろうとしない瑠璃に、一抹の不安を感じたのか、珊瑚が心配そうに顔を覗きこんでくる。
 そこで靄は離散し、芽の成長も一旦止まる。
 違う可能性だってあるじゃないか。例えば、あらかじめ誰かが張っていた罠に浩之以外が引っかかってしまったとか……
 けれどもそれだって憶測でしかない。確信に至るだけのものが存在しない。

 今すぐに浩之に会いに行きたかった。この疑いを馬鹿となじって横っ面を張って欲しい。
 光の差す方へ進もうとした、藤田浩之として、愚かな妄想を持つに至った自分を――

「……さんちゃん、さんちゃんは、どう思ってるん?」
「え?」
「浩之……」

 体は、今すぐにでもこの家を飛び出して真実を確かめたいと主張していた。
 しかし珊瑚を放っていくわけにはいかない。自分と珊瑚は一心同体。それ以前に掛け替えのない姉妹であり、家族なのだ。
 己の一存で勝手をして、珊瑚を困らせるわけにはいかなかった。
 大体、自分に何かを決める権限などない。ここではいつだって珊瑚の背中にくっついているだけで、何の役にも立っていない自分になど……

 またぞろ嫌悪感が己の中に広がり、どうしようもない無力感が瑠璃の中を支配する。
 みさきとはまるで違う。みさきは、しっかりと浩之の心の支えでいてくれていたのに。

「……ウチは、浩之を信じるよ。きっと、何か良くないことがあったんや。多分、ものすごく辛い思いしてる……だから、今度はウチらがしっかりして、浩之を支えたらんと」

 当たり前すぎる言葉だった。……そうだ。今誰よりも悲しみに打ちひしがれているのは、三人も仲間を失った浩之ではないのか。
 浩之は裏切り者かもしれない。でも今まで見てきた、自分達の信じてきた浩之なら、きっと悲しみに暮れているはずなのだ。
 珊瑚の言葉に強烈な衝撃を受けた瑠璃は、自分がどうしようもない屑に思えてきたが、珊瑚は「そんなこと言うてる、けどな」と続けた。

「でも、怖いねん。ひょっとしたら浩之が裏切ってるかもしれんって考えて、すぐに探しに行けばいいのに、環さんがここにいるから、やらなあかんことがあるからって理由つけて、動きたくないウチがおるねん。ウチ、のろまで、ドジやもん。襲われたら何もでけへん……誰も守れへん。だから瑠璃ちゃんが羨ましい。本気出した瑠璃ちゃんは、強いねんもん。でもウチは何もできへん……ただの機械オタクやもん。それに……殺されるのだって、怖い。瑠璃ちゃんの言うてた守る覚悟なんてあらへん。……あるのは、ここから早く逃げ出したいって気持ちだけや」

 自嘲するように珊瑚は言って、俯く。そこにあるのは同様に、疑心の芽に絡め取られた姉の姿だった。
 珊瑚も同じだったのだ。プログラムを組むこと以外では何も取り得のない、無力な己に辟易し、嫌悪する。
 そればかりか保身にさえ走ろうとしている自分が、果たしてここにいていいのか……そんな問いを、瑠璃に向けているような気がしていた。

 そんなことはない。自分だって同じだ。ウチだって浩之を信じてる。でも、ちょっとだけ不安なだけなんや。

 口を開きかけた瑠璃だったが、カラカラになっていた喉から言葉が出る前に、珊瑚は「せやから」と笑って、付けっぱなしになっていたパソコンの前まで走り、何事か作業を始めていた。
 言葉をかける機会を逃した瑠璃が呆然と立ち尽くす中、珊瑚は黙々と、真剣にパソコンの画面に見入っていた。
 どうしよう……そんな感想が頭の中を過ぎ、そう言えば自分は料理をしようとしていたのだったと思い出した瑠璃は、せめて食事だけでもと冷蔵庫まで行こうとしたのだが、玄関から聞こえてきた、ガンガンという音に全てをかき消された。

「……っ!? だ、誰や!?」

 叫んでから、しまったと瑠璃は思った。これではこちらの存在を相手に知らしめてしまったのと同義ではないか。
 黙っているということは、浩之では在り得ない。もし浩之なら、まず真っ先に何か声をかけてくるはずだからだ。
 敵――そんな言葉が脳裏を掠め、咄嗟にレミントンM700を持ち、玄関へと向かう。

「た、助けてください! 追われているんです!」

 返答など期待していなかった矢先。息を弾ませ、いかにも怯えたという風な声が、玄関扉の向こうから聞こえてきた。

     *     *     *

 さて、島の中の参加者の人数が分かるというフラッシュメモリを手に入れたはいいものの、これを安全かつ確実に使えるようにするにはどうするべきか。
 小走りで動きながら、藤林椋は氷川村の南を行っていた。
 姉の藤林杏と再会することが最大の優先事項であり、それ以外のことは椋の頭の中にはなかった。
 現に椋は一刻も早くこのフラッシュメモリを使いたいがばかりに自らの脅威となり得る柳川裕也や藤田浩之、長瀬祐介殺害目撃の可能性がある宮沢有紀寧などがまだここに潜んでいるにも関わらず、氷川村を抜けることなく留まっていた。

 浅はかと言えば浅はかに過ぎる椋の思考だが、逆を言えばそれだけ杏に対する思いの丈が強いという証拠でもあった。
 誤解され、裏切られ、人間の醜い心理模様をこれでもかと目撃してきた椋にとって、杏だけが唯一信じられる絶対的な存在であり、救いの手を差し伸べてくれる救世主(メシア)であったからだ。
 無論椋は杏に一度たりとも再会してはいないし、杏が狂っているかもしれないという憶測を立てたこともない。家族だからという理由だけで、杏は自分を救ってくれるのだと愚直なまでに信じきっていた。

 だが家族という言葉の重みはこの島においては誰もが知っていることだろう。
 血を分かち、共に暮らした家族が、同族を襲うなど在り得ない。そう無条件に信じてしまうだけものが、家族という言葉の中にはある。
 その点において、椋はこれ以上になく『純粋』でもあった。

 家族以外は信じず、全てを排除する。
 白と黒の二色に塗り分ける、単純にして絶対の倫理。

 だが椋とて、目的のために全てを見失っているほど愚かではない。
 達成するまでは身の安全を確保し、最上の手段で経路を導き出す。そうするだけの頭脳が椋の中にはあった。
 そこで考え出したのが、またもや誰かの中に紛れ込み、盾として利用しつつパソコンに繋ぎ、このフラッシュメモリを差すという戦略だった。
 要は姉の位置が分かって、それまで安全でありさえすればいい。そのための盾をここで見つけ出そうという算段だった。

 当たり前だが、誰でもいいというわけにはいかない。自分の存在を知らない存在であることが第一の条件。
 自分より弱いということが第二の条件。
 第二の条件を設定したのは万が一、自分の正体がバレたとき迅速に殺害するための措置。
 ただし自分が運動を苦手としているのは他ならぬ自分自身が良く知っている。同時に相手できるのは二人が限度、それも男が含まれていないのが絶対条件。……さらに言うなら、川名みさきや倉田佐祐理のような、誰の目にも明らかな弱者であるのが望ましい。
 だが先の放送で呼ばれた45人という死者の数から考えて、そのような人物はもう殆どいないだろう。あまり期待はしない。

「そうだ、放送といえば……ふふ、分かってるじゃないですか」

 放送において追加された『生き残りを二人まで許す』という言葉。
 やはり天運は自分達姉妹についているのだと椋は確信する。
 きっと姉のために奮闘する自分へのご褒美に違いない。残念ながら殺した数が足りなかったのか、そのままここから出させて貰えるというわけにはいかなかったが、上出来に過ぎると言えるだろう。きっと姉だって褒めてくれる。
 早く会いたい、会いたい――

 無垢な少女のように微笑む椋は、いつしか海岸の方まで走ってきていた。
 軽く息を切らせつつ、深呼吸のために大きく息を吸い込むと、海独特の潮の香りが鼻腔を刺激し、胸の辺りがスッと冷えていくのを感じた。
 さて、もうそろそろ行動に移ってもいいだろう。
 軽く周囲を見回し、どこかにパソコンが置いてありそうな家はないだろうかと見回すと、うってつけとでもいうように一軒の民家が目に留まる。
 あそこにあるだろうか。軽く期待に胸を膨らませながらそちらへと向けて走る。

「……ん?」

 まずは様子を窺おうと、じっくりと家の様子を観察しようかと思った椋だったが、その必要はなかった。
 地面に足跡がいくつか。さらに土が玄関前にいくつも広がり、明らかに誰かが入ったと思しき形跡があったのだ。
 人がいる。一瞬家に侵入すべきか迷った椋だったが、ここの立地条件を鑑みるに、安全である確率は高いはずだった。
 人気のない海岸沿いな上、もし柳川のような凶悪かつ狡猾な殺人鬼が潜むとしても、こんな分かりやすい形跡を残しておくだろうか。
 少なくとも自分が柳川の立場であれば、奇襲に必勝を期すため、極力人の気配は絶っておく。

 ならば、ここにいる……かもしれない人間は、自分同様の素人然とした参加者なのではないか。
 襲い掛かってきたとしても、このショットガンなら勝てる。
 ベネリM3をデイパックから取り出し、注意深く手に持った椋は、ありったけの必死さを演出しながら激しく玄関の戸を叩く。

「だ、誰や!?」

 途端、声に驚いたらしい女のものと思われる声が家の中から聞こえてきた。
 やはり、隠れていた。それも予想通りの人間。
 好都合だと笑った椋は顔を歪ませながら、ここを自らの苗床とするべくさらに演技を続ける。

「た、助けてください! 追われているんです!」

 誰に、とは言わない。
 ここが氷川村の近くである以上先程殺した観鈴やみさきの知り合いとも限らないのだ。
 下手に情報を出して窮地に追い込まれるのだけは避けたかった。
 それはこの島で椋が人を殺していくうちに学び得た、知恵の一つだった。
 自分の怯えた声を信用したのか、特に追及の言葉が来ることもなく簡単に鉄の門は開けられた。
 心中でほくそ笑みつつ、椋は盾となる人物と対面する。

「……」

 が、流石に警戒を全て崩しているわけではなさそうだった。出てきた女は自分同様にショットガンを持ち、その銃口を向けていた。
 椋はひぅ、と掠れた声を上げ、さも相手が自分を殺そうとしているかのように振る舞う。

「あ、あ、あ、そ、そんな、ちが、こ、殺さないで……」

 ぺたんと尻餅をつき、弱者のように演技する。もう椋にとって、それは慣れたものだった。
 この島において学んだことはもう一つ。
 弱者は確かに駆逐されるが、あまりに弱すぎる者は生かされる。いつでも倒せると認識するからだ。
 餌として、飼い殺すために。
 故に相手よりも遥かに弱いということを認識させれば、すぐには殺されることはない。椋はそう確信していた。

「勘違いせんといてや。ウチはそんな誰彼構わず殺す気はあらへん。手ぇ出さへんのやったら、こっちも何もせぇへんよ」
「あ……は、は、はい……」

 まずは第一関門突破。ショットガンの銃口を上に向けた女は、取り合えず敵意をこちらには向けていないようだった。
 尻餅をついたと同時に地面に落としたベネリM3を拾いながら、椋もよたよたという調子で立ち上がる。

「立ち話もなんやから……というか、ここにいたらウチらだって危ないから、取り合えず中に入るで」

 ウチ『ら』という言葉に、ここにいるのは一人だけではないらしいと悟った椋は、まずこの女を排除するという思考を捨てる。
 手を出さなければ手を出してこないとも言っていたし、危険性も今はなさそうだ。
 椋は頷いて、女に続くようにして家の中に侵入していった。
 廊下を過ぎ、居間に出ると、そこではまた新たに机に向かって……いや、パソコンに向かって作業している女がいた。
 椋は喝采を上げたいのと、すぐには使えないのかという落胆の、両方の気分を味わう。

 ベネリM3を乱射して皆殺しにするのは簡単な話だったが、それではパソコンも壊しかねない。
 何よりここに誰かいて、争っているとの格好の目印になってしまう。
 しばらく待つしかないと作業をしている女に憎悪の視線を向けつつ、椋は「あの」と話を切り出す。

「皆さんはここで何を?」

 まずは情報収集。最終的に二人が生き残れると決まった今、利用し合う関係から有用なパートナーとなり、共に生き残りを図ろうとする人間は多いはずだ。ここにいる二人もそうだろう。容姿も似ていることから、ひょっとすると姉妹かもしれない。
 ともかくまだ安心はしない。ここで自分は弱者であり、今すぐ殺す価値もない人間だということを存分にアピールすればいい。

 気付いたときには、猛毒の牙が喉元に噛み付いているんですけどね。
 冷笑を押さえ込み、ここまで案内してきた女へ視線を移す。

「ん……まぁ、なんというか、怪我人がおるねん。今は隣の部屋で寝てんやけど……それで、医者を連れてきてもらおう思うて、別の仲間が探しに出てんやけど」

 怪我人、という情報よりも、医者を連れてくる仲間がいるという情報の方が椋の耳朶を打つ。
 そんな連中に、つい先程出会っていたからだ。

 藤田浩之と、その一行……しかもそのうちの二人は椋が自ら殺害したのだ。
 ヒヤリとしつつも、先のこの情報を手に入れられたことに、椋は己が絶対的に有利な立場を獲得したと確信する。
 連中とは氷川村に一度向かう過程でそれなりの情報を持っているし、どのような嘘をつけばいいのかは見分けがつく。
 彼らから奪った支給品は絶対に出さない。彼らの存在を知っていたことも話さない。
 この二つを念頭に置きつつ、「そうですか……」とさも初めて知ったような風を装う。

「……そういや、アンタは追われてるって言うてたけど、誰にや? 良かったら教えて欲しいんやけど。……っと、その前に名前教えとくわ。ウチが姫百合瑠璃、あっちのがさんちゃん……やなくて、姫百合珊瑚や」

 紹介された作業女……姫百合珊瑚がこちらを向き、ぺこりと一礼する。
 しかし特に何も言う事もなく、すぐにパソコンのディスプレイに向かって作業を再開する。
 何をしているのかに特に興味はなかったが、早くこちらが使えるようにして欲しいものだ。
 思いつつも、不審がられるわけにもいかない椋は文句を堪え、瑠璃との会話に神経を傾ける。

「えっと、藤林椋っていいます。あの、それで、私、お姉ちゃんを探していたんです。藤林杏って名前の……」

 杏という名前を出し、まずは反応を窺う。これで居場所が掴めればわざわざフラッシュメモリを使わなくて済む。
 リスクが減るという意味で、そうなれば理想だと考えたが、二人から特に反応が見られなかったことから外れか、と結論付ける。

「それで、この辺りまで探して歩いてきたんですけど、村に入った途端突然男の人に襲われて……ここまで必死に逃げてきたんです」
「男……誰かは分からへんの?」

 分かりません、と首を振る。柳川の情報でも伝えようかと思ったが、あまり精緻すぎても疑われる可能性もある。
 外見の簡単な特徴だけ言うことにする。男は基本的に共通する特徴も多いから、誤解を招いて混乱させられればという狙いもあった。

「でも、目つきが怖くて、後は……眼鏡をかけていました」
「眼鏡……」

 どこかホッとしたような表情を見せる瑠璃。当てが外れたのだろうか。期待していなかったとはいえ、誤解を持たせる策に失敗したかもしれないことに、椋は内心歯噛みする。もっとも、実害はないからどうということもないが。

「大変やったんやね……けど、よく無事で逃げてこられたね。怪我してるようやけど、大丈夫?」

 不意にかけられた声に、椋の心拍数が上がる。
 背中を向けたままの珊瑚が尋ねていた。のんびりとした声の調子はただ疑問に思っただけだったのか、それとも疑いの声か。
 椋は裏返った声で「だ、大丈夫です」と答えた。動揺がありありと出ているのが自分でも分かったが、珊瑚はそれを怖い記憶を呼び覚ましたと勘違いしたのか、「あ、聞かれたくなかった……? ごめんなー」とようやく顔をこちらに向け、頭をぺこりと下げた。
 だが心の底で疑っている可能性はなくはない。嘘をついているかもしれないと思われたが最後、こちらを排除しにかかる恐れもある。
 どうする、こちらから先手を打って攻撃するか。未来の危険より、まずは目の前の危険を……

 デイパックに意識を飛ばしかけて、早計だとギリギリのところで理性がストップをかける。
 今ここでベネリM3を乱射したとして、銃声を撒き散らすばかりか目の前のパソコンまで破壊してしまう。
 目的は姉の居場所を掴むことであり、敵の排除はその後。焦ることはない。この二人は手に武器も持っていなければデイパックも近くにないではないか。こちらが常に武器を保持しておけば、有利なのはこちらだ。
 まだ動くのは早い……しかし先程の緊張のお陰か、足は少し震え、デイパックを持つ手は汗ばんで滑り落ちそうになるほどだった。

「調子、悪そうやな」

 様子を見ていた瑠璃が、ぽんと椋の肩を叩く。ビクッと竦み、振り払いたくなる衝動を押さえ、「は、はい」と笑顔を作って応じる。
 演技ではなかった。小心者である椋は常に安全を確保しておかなければ余裕を持てず、動揺をありありと浮き立たせてしまうのが常だった。

「まあ話はまた後でええよ。今は隣の部屋で休んどきや。もう一人おるねんけど」
「もう、一人?」

 聞いてない。それとも、あえて言わなかったのか。
 考えを巡らせる間に、瑠璃は閉じていた襖を開け、その奥で眠っている一人の人物の姿を見せる。
 部屋自体が暗くてよく分からないが、どうやら眠っているらしい。怪我もしているようだ。
 現状の脅威ではない、と判断を下しかけた椋の頭に、けれどもそれをひっくり返す情報が入ってきたのはすぐだった。

「向坂環さんって言うんやけど、ちょっと、酷い怪我でな――」

 こう、さか?
 名字を聞いた瞬間、先のものとは比較にならないほど心拍数が跳ね上がるのが分かった。
 向坂という名字は聞き覚えがあるだけでなく、椋にとってトラウマにも等しい、忌むべき名前であったからだ。
 佐藤雅史を騙して殺し、凶悪で底無しの虚無の如き瞳を携えた男……向坂雄二の名を思い出してしまった。
 いや、実際布団で眠っている彼女と、雄二とは姉弟の関係には違いない。
 だとするなら……この女も、雄二同様人を騙し、背後から襲い掛かり殺していくような凶悪な人物だ。

 なんの確証もない憶測だったが、椋はそれだけが真実だと断じて考えを進める。
 今の椋は精神が崩壊しかけており、自分と姉以外の人間は全員が全員他の人間を殺して生き残ろうと図っている、そうとしか考えておらず、尚且つかつて自分をひどく裏切った雄二の親類だというのなら、尚更凶悪な人物だと見なすことはある意味で当然の心理だった。
 放置しておいては、危険を伴う……己のことを棚に上げ、椋は内心でどうしてこんな奴を招きいれたのかと吐き捨てた。
 排除しなければならない。早急に。

 それまで環に何があったのか、どんな理由があってここに招いたのか、その事を探ろうとする思考は持ちえようがなかった。
 向坂という名字の人間なら、それだけで危険分子。
 既に椋の頭には穏便に事を済ませようという意思はなく、どのようにして環を……いや、この家に巣食う人間を全滅させるかだけを考えていた。

 真っ先に確保すべきは今の自分の安全であり、命。
 突き詰めれば保身の一語で説明が成り立つ藤林椋という人間の、脆弱な人間性を表していた。
 しかし誰も椋を責めることなど出来はしないだろう。
 幾度となく裏切られ、精神の安寧を保つためにここまで身を落とさなければならなかった椋を、誰も……

 椋はまず、環を例の毒で葬ることを考える。
 ショットガンでは銃声で気付かれ、逃げられるか戦闘になる恐れがあるし、椋自体も一度たりとも発砲していない。
 勝てる見込みが少ない状況で、最善の戦法は一人ずつ、確実に仕留めていくことだった。

「えっと、じゃあ、お言葉に甘えて、そちらで休憩させてもらいます、ね」

 表面上は穏やかな表情を崩さず、話を終えた瑠璃にそう伝える。
 作戦は早くに完遂されなければならない。スピードが勝負だった。

「うん……あ、だったら、出来たらでええんやけど、環さんの様子、見ててくれへんやろか? ウチ、ちょっと料理したいから……」

 願ってもない。一も二もなく椋は頷く。ただ一人、珊瑚だけは何か言いたげな目で瑠璃の方を見ていたが、椋にそれを気にするだけの余裕はなかった。
 ともかく、早く、環の排除を。半ば逸る気持ちで椋は足を動かした。
 殺さなきゃ、殺さなきゃ、はやく、はやく――

 始めは姉のためと銘打っておきながら、今は自らの保身のためだけにしか動けない……哀れなまでに臆病な椋の姿が、そこにあった。

     *     *     *

 靄のかかった霧の中で、向坂環はたゆたっていた。
 ふわふわと浮いて、体の安定も覚束ない感覚……一番近しいものに例えるなら、プール……そう、プールに浮かんでいるような感触だった。
 もっとも、意識が覚醒しているのか、それとも夢を見ているのかさえ環本人には分からない。
 何も見えないし、聞こえない。索漠とした、水の満たされた空間でただ一人彷徨っている。
 ぼんやりとした感覚の中で、ひょっとすると自分は死んだのかもしれない、と環は思った。

 いくら動揺し、体力も限界に近い、満身創痍の雄二だからといって、頭に金属バットを振り下ろされて無事であるはずがない。
 脳細胞が徐々に消滅し、死という破局をもたらす、その過程のうちに己はいるのだろうか。
 だとするなら、この水は川の流れで、行き着く先は彼岸……
 詮無いことを想像して、しかし馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすわけにもいかず、困ったように目を伏せるしかなかった。
 だが家族殺しの汚名を自ら被った自分にはお似合いの終焉なのかもしれない。
 雄二の心を取り戻すことが出来ず、狂った歯車を最後まで直そうと足掻くことを諦め、叩き壊してしまった自分には。

 このまま、流れに身を任せて彼岸の先に辿り着くのもいいかもしれない。
 やるだけのことはやったつもりだし、後は藤田浩之や相沢祐一に任せてもいいはずだ。
 いい加減、頼れる姉貴というポジションからは卒業しないと。
 私だって、女の子なんだし。
 でも、と心残りなこともある。

 学校で別れたきり音沙汰のない河野貴明の存在がちらと脳裏を過ぎる。
 弟同然の存在。雄二と同じくらい大切な貴明は、タカ坊はこの事実を聞いてどう思うだろうか。
 怒るに決まっている。疑問は一秒と経たずに解決され、そうだったわねと得心する。

 少し優柔不断のきらいはあるが、やるときはやってくれる男。
 学校でカッコつけさせてくれと不敵に笑った横顔を、どれほど頼もしいと思ったことか。
 そんなタカ坊が、不実に奔った自分を怒らないわけがない。まして、流れの先にある彼岸に安穏として辿り着こうとしているのでは。

 まだ楽になるわけには、いかないか――
 いつか死んでしまうのならば、せめて怒られない程度には、安心して逝きたい。
 それにこのままくたばるというのも、向坂家の女として面白くないじゃない?

 長い間、まるで使っていなかったかのように凍り付いていた指先にじんわりと熱が戻ってくるのを感じ、動くという意志が伝わってゆく。
 戻ろう。泳いで、戻ろう。
 環の視界から靄が消え去り、戻るべき場所がはっきりと見えてきた。
 それと同時に、彼岸の向こうの光景も……

『行っちまうのかよ、姉貴』

 そう、ずっと向こうで待っていたひとの存在も、対岸に浮かび上がらせていたのだった。
 雄二だ。待っていてくれたのか。
 最後に交し合った互いの和解。赦しを受け入れ、今は所在無く立ち尽くす弟の姿が、寂しそうな笑みを浮かべていた。
 俄かに惜別の情が込み上げ、雄二のもとまで泳いでいきたい感覚に囚われたが、口を固く結んでその衝動に耐える。

『いいんだ、もういいんだよ姉貴。こっちに来たって……』

 悔恨と労いを携えて、雄二が手を差し伸べてくれている。また仲良くしようと言ってくれている。
 これ以上、姉貴に背負わせたくないと精一杯謝罪してくれている。
 環の目元から一杯の雫が溢れ、でも、と動きを止めかけた手を再度動かす。

「まだ、楽になるわけにはいかないのよ……ごめん、折角、誘ってくれてるのに……私は」
『……そうかよ』

 敵わねえな、やっぱり……と呟いた雄二の声を最後に、もう何も聞こえることはなくなった。
 不意に、こんな別れ方をして良かったのか、もっと言うべきことがあったのではないかという思いが環を駆け抜けた。
 結論を変えるつもりではないが、それでも……
 振り向いて、雄二がいたはずの方向に視線を走らせようとしたが、それは別の存在によって阻まれた。

「っ!?」

 ぬう、と突然どこからか伸びてきた手が環の足を掴み、水底へと引きずり込んでいく。
 悪しき意思を伴った、どこまでも暗い、深淵からの闖入者――
 何を思う暇もなく、向坂環は現実の世界に身を引き戻されることになった。
-

NEXTBACK