アイニミチル (8)





 
「―――全部をなくして、あなたは何がほしいの」

雨が降っていた。
さあさあと、絹の糸が天から幾筋も垂れ落ちるような細い雨を受けながら、少女は立っている。
夜空に浮かぶ満天の星のように雨粒を黒髪に纏わせて静かに問う少女の名は、観月マナ。
世界のどこにでもいるただの少女であり、世界のどこにでもいる、世界を変えるたった一人。
それは思い込みという小石と狭い視野という服とに身を包んで歩を踏み出し、いつしかそれを
決意という刃と覚悟という鎧とに塗り替えた、世界を変革するただの少女だった。

「勿論、何もかもがなくなった世界ですよ」

雨が降っている。
ぱたぱたと揺れる水面に蜂蜜色の豊かな髪を映し、微笑んで返した少女の名を里村茜。
世界のどこにでもいるただの少女であり、世界のどこにでもいる、世界を認めぬただ一人。
それは悔恨を喰らい慙愧を啜り、妄執と宿怨とを丹念に練り込んだ化粧を施し、
無色透明の意志で自らを縛り上げた、世界を殺すただの少女だった。

「全部をなくして、あなたは何をするの」

マナの手には剣がある。
青く透き通った剣だ。
滄海の青を一片の歪みもなく伸びた刀身に宿し、淡く発光している。
叩きつければ折れてしまいそうなほど細く真っ直ぐな諸刃を振るえば、軌跡には光が舞い散る。
春の朝を思わせる光は中空を漂うと、雨に融けるように消えていく。

「赤の遣い手が絶無を望むのは、それほどおかしなことですか」

茜の手には刃がある。
赤く煌く刃だ。
焔の中から産まれた宝玉を削り出して造ったような、真紅の刃。
装飾の施された柄から伸びる優美に反った刀身は、触れたすべてを切り裂くような鋭さに満ちている。
ゆらりと掲げられたそれだけで、雨粒が爆ぜた。

「あなたのことを訊いてるんだよ、茜さん」

す、と歩を進めたマナの眼前には、真紅の剣を向ける茜の姿がある。
刃の先を軽く打ち合わせるように、マナもまた滄海の刃を掲げる。
硝子の砕けて散るような、硬質な響き。
それが、始まりの鐘だった。

「―――人が」

つ、と踏み出す茜の繰り出した刃を、マナが躱す。
雨粒が散ってきらきらと光を反射した。

「人がその生の最後に恐れるものは、いったい何だと思いますか」

二人が立つのは、舗装された道である。
薄暗い岩窟であったはずのそこは、様相を一変させていた。
色とりどりの石がモザイク様に並べられた遊歩道。
とめどなく降りしきる雨が幾つもの水溜りを作っている。

「生き終わること? 喪うこと? もう誰かと逢えなくなること?
 いいえ、いいえ、違います」

遊歩道の両脇には色彩豊かな看板とショーウインドウ。
飾られているのは可愛らしい服であり、安っぽく煌くアクセサリーであり、少し大人びた靴であった。
目を移せばパステルカラーで装飾された大きなメニューがある。
季節のフルーツがあり、何種類ものアイスクリームがあり、クリームのたっぷり入ったクレープがあった。
硝子とフリルとジュエリーと革とエナメルと甘い香りと鮮やかな色彩が、見渡す限り軒を連ねている。

「忘却です。忘れ去られることですよ」

言って振るった茜の刃が、その内の一軒を切り裂いた。
沢山のパッチを施した古着を軒先に並べていた店が、ぐにゃりと歪んで消える。
消えたそこには、何も残らない。
所狭しと吊るされていた服も、柱の一本も、空き地すら残ってはいなかった。
そこには古着屋の右にあったはずのアクセサリショップと左にあったはずのランジェリーショップが、
静かに軒を並べていた。まるでその間には、隙間など存在しなかったかのように。
最初から、何一つとしてありはしなかったかのように。

「その生を懸けて何かを遺そうとするのが、生きとし生けるものの本質です。
 命は次代へ、自らを継ぐ何かを遺そうと走り続ける」

蜂蜜色の髪がふわりと舞い、その向こうから真紅の刃が伸びてくる。
滄海の剣で受け止めたその反った刀身を、マナは更に力を込め、弾き返す。
光と音が、花のように散った。

「けれど、人がそれを最後まで見届けることは叶わない。
 当然です。続き続くこの世の終わりまでを知ることなど、誰にもできはしない。
 だから怖い。だから不安になる。だから、その生の最後に恐怖するのです。
 自身が継がれぬことを。誰かに、何かに遺されることなく、忘れられることを」

光の散華の中、茜の言葉にマナは思い返す。
三人の女。身勝手の挙句にその生をマナへと押し付けた三人の女のこと。
怯懦と妄執と、理不尽に抗う理不尽とを強いた、女たちの生を。

「忘れられること。何かを遺せないこと。根源の恐怖。―――けれど」

女たちは生きた。
生きて、生き終わった。それだけのことだった。
三人が最期に何かを遺したつもりでいられたのか、それは分からない。
カラオケボックスが、携帯電話のデコレーションショップが、斬られて消えた。
後には何も残らない。

「けれどその恐怖を、根源の本能をすら越えて尚、何かを望む人が、いるのです」

弧を描く赤の刃を、滄海の剣が弾く。
光が散り、小さな流星となって瞬いた。

「忘れられることよりも、ここに在り続けることをこそ恐れ、拒絶する人。
 変化を、或いは変遷を、或いは変質を、或いは変貌を、明日が来ること、それ自体を拒んでしまう人。
 そういう人が、この世界には確かにいるのですよ」

流れた星が雨粒に融けて、雨が光を纏う。
光の雨に打たれた店が音もなく消えていく。

「だから私は待つのです」

極彩色の看板が消えた。
パステルカラーのロゴが消えた。
色とりどりの飴が、安売りの頭痛薬が、小さな鉢植えが、消えた。

「来ない明日を、終わらない今日の中で、誰にも邪魔されることなく」

小麦粉の焼ける匂いが、砂糖の焦げる匂いが、卵の甘い香りが、光に打たれて消えていく。
最後に残ったベルギーワッフルの店の、小さな手書きのメニューが、消える。

「永遠に、永遠に」

遊歩道が、崩れる。



******

 
 
雨が降っている。
何も無くなったはずの世界は、しかし降りしきる雨だけをそのままに、再びその様相を変えていた。

少女二人を映す窓硝子についた水滴が時折、流れていく。
しんと静まり返った空気はまるで外界とは隔絶されているかのように重く、息苦しい。
雨は窓の外に降っていた。
外に見えるのは整地された広く平坦な土の地面。
石灰で書かれた大きな楕円が、それが陸上競技のグラウンドとして使われていることを主張している。
とん、と硬く軽い音が響いた。
マナの革靴がリノリウムの床を叩いた音である。

「……今度は学校?」

見渡す限りの教室の扉はどれも固く閉ざされ、静まり返っている。
長い廊下の真中で呟いたマナの声だけが、小さく木霊していた。

「他に必要ですか? 私に、私たちに?」

かつ、と響いた足音と同時。
一瞬でマナの眼前にまで間を詰めた赤光の刀身が、縦一文字に空を裂く。
躱して振り抜いた太刀筋には既に茜の姿なく、光の軌跡だけが残った。

「そうだね、買い物のできる街と、学校と、それから……私の部屋と。
 それが私の殆どで、私たちの殆どだ。だけど……だけど足りない」

ふわりと跳んだ茜を追って、マナが跳ねる。
横に薙がれた剣風に巻かれ、掲示板に貼られたプリントが一枚、はらりと落ちた。

「それが私の殆どで、だけど単なる殆どだ。
 うん、それじゃまだ、私には、ぜんぜん足りない」

滄海の剣が宙を舞い、退がる茜を捉える。
手応えは硬質。
赤光の刃が噛み合わされる牙の如く、迫る刀身を受け止めていた。
中空、一瞬だけ至近で睨み合った少女二人が、鳳仙花の実の弾けるように距離を開け、着地する。

「―――何が足りませんか。
 傲慢を満たす学び舎と、不遜をくすぐる店先と、それから何が、貴女に足りませんか」

音もなく駆け、透き通る刃を重ねて、赤の少女が鋭く言い放つ。
重ねられた刃から幻想に舞う花弁のように光が散り、煌いて、消えていく。
光の花束の中心で、しかし青の少女は静かに首を振る。

「足りないよ。あなただって同じでしょう、茜さん」

鍔迫り合いの中、気色ばんだのは茜であった。
吐息のかかるほどの距離にある少女の表情が、変わっていた。
里村茜の眼前、観月マナは微かに、しかし確かに、笑んでいたのである。
それはひどく穏やかで、ひどく倣岸で、ひどく儚げな、春を待つ白い花の蕾のような、笑み。

「―――私には、好きな人がいるんだ」

少女のそれは、この世すべての価値を蹂躙する、笑みだった。
およそ少女を少女たらしめる、星月夜のようにありふれた、不可侵の幻想。
がつりと音を立てたのは、その笑みを前にした茜である。

「……」

がつり。

「同じ」

がつり、がつり。

「同じ、ですか。私と貴女と、それが同じですか」

がつり、がつり、がつり。
茜の手にした赤光の刀、精緻な華の文様に装飾されたその透き通る柄頭が、傍らの壁に叩きつけられる。

「不愉快です。これ以上の限度なく、これ以降の極まりなく、不愉快です」

がつり、と。
打たれるたびに、壁に罅が入り、その表面が錆を落とすように剥げ落ちていく。

「貴女に好きな人がいて。それが貴女に足りなくて。それが私と同じですか」

がつり。ぼろぼろ。
がつり。ばらばら。
がつり。がつり。がつり。

「違うでしょう、それは。私は貴女とは違う。貴女は私とは違う」

落ちた欠片が消えていく。
割れた壁が消えていく。
がつりがつりと音は止まらず、とうとう教室の一つが、消えた。

「同じだよ」

す、と。
滄海の色をした直剣の細い刃が、雨粒を溜めた窓硝子に突き立てられる。

「甘いものや、綺麗なものや、そういうものじゃあ、足りないんだ。
 本当の素敵なものが足りなくて、だから手を伸ばしてるんだ。
 私は。私たちは、ずっと」

刃が、一気に引き下ろされる。
音も立てずに断ち割られた硝子が床に落ちて、砕けることもなく消えた。
硝子の落ちた窓の隣で、もう一枚の硝子が落ちた。
ドミノ倒しの仕掛けのように、長い廊下の硝子が次々に落ちて、消えていく。

「……だから!」

雨は降り続いている。
硝子もない窓の外に、変わらず降り続いている。
声を上げたのは、茜だった。

「それがどうしたっていうんです! それがどうして同じになるっていうんです!
 私は私で、貴女は貴女で、こうして世界の明日を賭けて、それで全部でしょう!?
 他の何も、何もかも、関係ないじゃないですか!」

吹き込んだ雨が、リノリウムの廊下を濡らす。
里村茜の革靴を、白い靴下を、臙脂色のスカートを、ベージュのベストを、蜂蜜色の髪の毛を、濡らす。

「戦って、闘って、相手の胸に剣を突き立てて、それで終わりでしょう!?
 終わらせましょうよ、この物語を!」

赤光の刃を叩き付けた先で、また一つ教室が消えた。
次第に短くなっていく雨の廊下で、

「これは戦いの話じゃない」

マナが、静かに首を振る。
吹き込む雨に濡れ髪が額に張り付くのをそのままに、見開かれた瞳が真っ直ぐに茜を射抜き、言う。

「―――違うよ。私たちはずっと、何かを愛していくんだ。
 これは、そういう物語なんだ」

言葉と共に振り下ろした滄海の刃が、薄い壁を、残った窓枠を、石膏の柱を、緑色の掲示板を切り裂いて、
そうして最後に、廊下の端にあった鉄製の傘立てを、がらんどうの傘立てを、真っ二つに断ち割った。

学校が、歪んで消えた。



******

 
 
雨が降っていた。

いつから降り続いているのかも知れぬ細い雨に、無造作に生えた雑草が濡れて頭を垂れている。
剥き出しの地面は泥濘となり、そこかしこに水溜りを作っていた。
水溜りに落ちる雨粒は幾つもの波紋となり、波紋は重なり合い、打ち消しあって無限の円環を形成している。

人の手から離れて久しいとわかる、荒れた空間。
どこにでもある民家に挟まれた、それは鉄条網に囲われた別世界。
そこに、

「……」

豊かな髪をしとどに濡らして、瞳には昏い焔だけを宿し。
傘も差さずに、立ち尽くす少女がいた。

書き割りの背景は既になく。
雨は少女に降りしきる。

透き通る刃の他には、何一つも持たず。
小さな雨の空き地に、里村茜は立っている。

「これがあなたの―――本当の世界」

眼前に立つ少女の、観月マナの声に、茜が静かに顔を上げる。
さあさあと、絹の糸が天から幾筋も垂れ落ちるような細い雨に打たれながら、茜はマナを見据えると、
無言のまま、唯一つその手にした赤光の刃を、灰色の空へと掲げた。

少女たちの見る夢の最後の、それが、始まりだった。


 
 
【時間:???】
【場所:???】

観月マナ
 【所持品:青の刃】

里村茜
 【所持品:赤の刃】
-


BACK