沢山の光が浮かんでいる。 光はまるで、広い海を泳ぎまわる魚のように自由に漂い、触れ合って、また別れていく。 しばらくじっと、それを見ていた。 見ている内にやがて、自分もまたその光のうちの一つなのだと、気付く。 気付いたら急に、身体が軽くなった。 どこへでも行ける気がした。 どこへでも行ける気がして、どこかへ行こうとして、どこに行きたいかが、わからない。 考えようとして、思い出そうとして、理解する。 ―――ああ、私には、記憶なんてものが、ないんだ。 記憶がないから、希望もない。 何ができるのかもわからないから、何をしたいかもわからない。 みんな、そうなんだ。 周りの光を見て、思う。 わからない。 どこへ行きたいかも、何をしたいかもわからない。 だからああして、ずっと漂っている。 触れ合って、別れて、漂って、ずっと、ずっとそうしている。 私もきっと、ずっとそうして、 ――― 。 そうして、 ――― ナ。 漂って。 ―――マナ。 名前を呼ばれることなんか、なく。 *** 青一色の世界の中で、死んだように眠る少女を囲む、三人の女がいた。 その全員が青く透き通るような体をした三人の女はじっと少女を見つめ、その名を静かに呼んでいる。 一人は泣きながら、一人は茫漠と、そして一人は微笑んで、少女の名を呼んでいる。 *** 涙を流す女が、赤く泣き腫らした眼で、語る。 ―――たとえばの話をしよう。 *** たとえば今、愛する人の隣にいたとして。 私を蝕むのは喜びでも幸福でもなく、恐怖だ。 今この手にある幸福が、明日は失われているかもしれないという恐怖。 それは私を常に脅かし、この足を竦ませる。 誰かが耳元で囁くのだ。 今日という幸福は明日という不幸の端緒に過ぎないと。 甘い菓子の後の苦い薬のように、それは喪失を際立たせるための淡い幻想だと。 だから私は愛する人の隣を歩きながら、その手を取れずにいるのだ。 ずっと、ずっとその手の温もりを夢想しながら、ほんの少しの距離を飛び越えることもできずに怯えている。 それは幸福を掴むことへの躊躇だ。 今日から続く明日への畏怖であり、今この瞬間への怯懦であり、幸福への根源的な違和感だ。 私は幸福を掴むことに怯え、幸福であることを実感できず、だけど幸福であることを願っている。 それは二律背反だ。 虹を掴めないと泣くような、子供じみた愚かしさだ。 だけど、それでも、私は願ったんだ。 虹を掴みたいと。 愛する人の隣を歩きながら、それを幸せと感じたいと。 私の出した答えは、何だと思う? 簡単なことだ。 記憶さ。 思い出だよ。 昨日という時間が、私を支えてくれることに気づいたんだ。 それは本当に単純で、簡単な答えだった。 思い出の中の私は何も失わない。 それは紛れもない幸福の中にいて色褪せない。 それはどこにも続かない。 昨日は今日へと続かない。 思い出は、記憶は、昔は、今日の私と断絶している。 私の振り返る記憶の中の私は、今日という日を知らない私。 思い出という結晶の中に封じられた私は、だから未来へ続かない。 それは、本当の幸福という意味だよ。 幸福の中に結晶する私に喪失は存在せず。 それは常に、輝く時間を謳歌している。 たとえば恐怖。 たとえば変化。 たとえば未来。 それらのすべては、昨日の私を侵せない。 その幸福は私を支えていてくれる。 今日という不幸を、明日という喪失を、思考の埒外へと押しやってくれる。 私は幸福の結晶に縋って立っている。 だから、私には今日という時間も、明日という時間もいらない。 いらないから、君にあげよう。 明日という喪失を、今日という伏線を、君にあげよう。 ―――マナ、君は喪失を恐れるかい? *** 茫漠とした女が、霧に煙る夜明けの湖面のような茫漠とした瞳で、語る。 ―――たとえばの話をしましょう。 *** たとえば昨日を悔やむとき。 たとえば明日を願うとき。 何も為せなかった昨日に泣くことも、届かない星に手を伸ばすような明日を嘆くこともなく、 私は今日という日を慈しむでしょう。 これは、一つの諦念の話です。 たとえばある日、大切にしていた美しい宝物が壊れてしまったとして。 夜が明ければ、新しいそれを買ってもらえるとして。 だからといって愛おしむことを、やめられましょうか。 割れてしまったその欠片を、宝石の小箱に入れて夜ごと抱きしめることを、誰が笑えましょうか。 綺麗な紙に包まれて届く、新しくて美しいそれは、柄は同じで傷もなく。 だからそれは、私の大切な宝物ではないのです。 だからそれが、誰かの不注意で壊れてしまっても。 私は欠片を集めない。 私はそれを悔やまない。 私がそれを惜しいと思うことなど、ありはしないのです。 拾い上げられない沢山の偽者の欠片が散らばった大広間の真ん中で、 小箱に詰めた大切な本物の欠片だけを抱きしめて、私は眠るのです。 それを笑う人がいて。 それを責める人がいて。 私は彼らを認めません。 私の眼は彼らを映さず、私の耳は彼らの声を通さない。 彼らという雑音はだから、私の世界に踏み入ることさえ叶わない。 私が大切な小箱を抱きしめるのに、そんなものは必要ないのです。 私は昨日を悔やみません。 壊れてしまった大切な宝物を、それでも私は抱きしめている。 私の胸の中に、その小箱に、変わらずあるのです。 それだけを見つめて、だから私は昨日を思わない。 私は明日を願いません。 明日は今日と変わらぬ日。 抱きしめた小箱をいとおしむ、それだけの日。 たとえば明日が来ないとしても。 私は大切な宝物を抱きしめて、眠るだけ。 ―――だからマナ、観月マナ。 私の失った今日の続きを、貴女に分けて差し上げましょう。 これは一つの諦念の話です。 微睡む私は、夢を見る私は、今日以外の何も願わぬ私には明日は訪れず。 諦念と幸福の間でそれを甘受する私に、ならば今日という時間は永遠という意味を持ち。 だから、久遠に続く私の今日の欠片を―――貴女に。 *** 微笑む女が、底知れぬ老いと疲れとを孕んで、それでも微笑んだまま、語る。 ―――たとえばの話をします。 *** たとえば明日、世界が滅びるという日に。 それでも林檎の木を植えることを、私は赦しません。 私には力がある。 理不尽を覆すだけの力が。 私たちにはあるのです。 運命に抗うだけの力というものが。 私に力があり、私たちに力があり、ならば私は命じます。 己が刃を振りかざし、抗い、抗い、抗い続けよと。 明日という理不尽に抗えと、私は私以外のすべてに強いるでしょう。 夜に怯えるすべての我と我が子らに、私は命じます。 抗えと、打ち破れと、薙ぎ倒し叩き伏せよと、夜を越えよと私は命じます。 陽は沈み、夜は長く、それでも朝は来るのです。 ならば打ち続く剣戟の、その飛び散る火花で目映く夜を照らしなさい。 地を震わせる鬨の声で眠ろうとする者を揺り起こしなさい。 貴女の願う明日を切り開くその足音を、微睡む世界に響かせなさい。 いつか来る夜明けを、歓喜をもって迎えるために。 その朝を、続き続く明日を、ただ幸福が支配するように。 涙を打ち払う剣を取って夜に抗いなさい。 かつて幼子であったものの義務として、明日の幼子のための道を切り開きなさい。 昨日を踏み拉き、今日を振り払って明日へと至りなさい。 顔を上げ、声を限りに叫んで歩を進めるその先に、夜は明けるのです。 誰も届かなかった明日に手をかけ、抱き寄せてその唇を奪いなさい。 既に昨日は喪われ、今日という日は終わりを迎え、それでも明日は来ると、貴女が叫びなさい。 夜の向こうへ轟く声で、まだ見ぬ朝陽を引きずり出しなさい。 明けぬ夜の頑冥を突き崩す剣を、遥か稜線の向こうに輝く日輪へと届く刃を、 私は、私たちは、その腕に、その心に、その声に、その命に、持っているのです。 命持つ私は、ならば命持つ貴女に命じます。 越えなさい、何もかもを。 その道の果てに―――明日を築きなさい。 *** 青一色の世界の中で、死んだように眠る少女を囲む、三人の女がいた。 その全員が青く透き通るような体をした三人の女はじっと少女を見据え、もう何も話さない。 一人は泣きながら、一人は茫漠と、そして一人は微笑んで、ただ少女を見つめている。 *** 眼を開けることなく、その声を聞いていた。 勝手なことばかりを言うと、そう思った。 三者三様の吐露は三者三様の身勝手でしかなく。 それは狂人じみた独り語りだ。 色々なものを押し付けられた。 どうしようもなく、腹が立った。 沢山の知識と、沢山の想いと、沢山の時間とを持ちながら、身勝手な大人たちは 何もせずに退場していく。 まるでそれを継ぐことが私の義務であるかのように、身勝手なことばかりを言って。 そのことにひどく腹が立つ。 腹立ちのまま、暴れるように身を揺すると、光の海に変化が現れた。 きらきらと輝く海に、ごぼりと泡が立つ。 熱を持った海のうねりに、漂う光のいくつかが弾けた。 眼を閉じたまま輝く海を見る私は、弾けた光を吸い込むように、口を開ける。 雪の街があった。 夏の長閑さがあった。 桜舞う季節が、秋の匂いのし始める庭があった。 色々な景色があった。 幸せな時間があった。 沢山の言葉があった。 伝わる想いがあった。 少しだけ、哀しい恋があった。 そのすべてがいとおしかった。 そこに、愛があった。 *** 観月マナの中から、身勝手への憤りは既に消えていた。 そんなものはもう、どうだってよかった。 それはただ、幸福を希求する無数の声の一つに過ぎなかった。 それらの声に突き動かされたわけではない。 ただ、マナは許せなかった。 このまま終わってしまうことが、このまま途切れてしまうことが、このまま続いてしまうことが、 とにかく何もかもが、世界がこのままであることが許せなかった。 何もかもを蔑ろにして、何もかもを中途半端なままにして、それで終わり途切れ続くことが、許せなかった。 それは小さな怒りと、沢山の光へのいとおしさと、それからわけの分からない、 心の奥のもやもやしたものがない交ぜになった、どこにでもある、誰にでもある感情だった。 それはごく普通の少女が、世界の弁護に立つ決意だった。 力でも知識でもなく、ただその決意によって何かを成し遂げる、それはそういうものだった。 眼を開ければ、そこは世界の終わる場所だった。 【時間:2日目午前11時半すぎ】 【場所:B-2海岸より続く岩窟最奥】 観月マナ 【状態:復活】 霧島聖 天野美汐 水瀬秋子 【状態:非在】 - BACK