アイニミチル (5)





 
暗い洞穴を明るく照らすものがあった。
光。青い光である。

そこに海があった。
深い、深い滄海の湛える色があった。
そこに空があった。
果てなく高い、透き通るような天の色があった。

空と海とが交じり合い、絡まり合って、ひとつの光となっていた。
観月マナという少女の発しているのは、そういう光である。

その中心にいるはずの少女はしかし、空と海とに挟まれて薄ぼんやりと、
影のような輪郭だけを光の中に浮かべている。

あ―――、と。

音が、響いた。
それが少女、マナの発した声であるとその場にいた者たちが気づいたのは、
その音が急激にボルテージを上げ、岩窟全体をびりびりと震わせはじめてからである。

―――ぁぁぁぁああああああアアアアアアアアアアァァァァァぁぁぁぁぁ―――

鼓膜を裂くように高く、臓腑を抉るように低く、少女が哭いていた。
到底ヒトの声帯から生み出されるものとは思えない、それは常軌を逸した音量と音程の、絶叫である。
唐突に現れた光と音が、観月マナという少女が、岩窟という狭い世界を瞬く間に塗り替えていた。
囁き声も、すすり泣く声も、淫臭も、水音も、赤い色も、すべてが蹂躙され、その存在を押し流されていた。
そんな目を灼くような光と耳を劈くような音の波の中で、笑む者がある。

「唸れ、滾れ、美しき青の子―――」

天野美汐であった。
堪えきれぬといった風に笑みを浮かべ、誰にも聞こえ得ぬ声を漏らす。

「定命の身に収めきれぬ青を振り撒き―――神を喚ぶ餌となりなさい」

―――あ、と。
呪詛のように呟かれた美汐の言葉に引きずられるように、マナが吼えた。


***

 
刹那にも満たぬ青がある。
久遠すら足りぬ青がある。

青は光であり、波であり、色であり音であり、声だった。
そのひとつひとつに、世界があった。

幾多の世界がもたらす青の中で、観月マナであったものは漂っている。
生とは思考であり、行動であり、主体である。
その意味で観月マナと呼ばれる少女は、既に死んでいた。
圧倒的な情報の渦に磨耗し、打ちのめされ、一つの死を迎えたマナの精神を更に石臼で挽くように、
青い波がマナであったものへと執拗に打ち寄せる。

マナであったものを囲むいくつもの世界に遍在するものがあった。
声である。認めろ、と叫ぶ、それは無数の声だった。

―――認めろ。
―――我を認めろ。
―――我を肯じろ。
―――我を赦せ。
―――我の在るを赦せ。
―――我の在るを、肯じろ。

それは、怨嗟の声だった。
この世にあり得べからざるすべての存在の、声なき声。
在るを認められぬものたちの、存在を切望する声。
それがマナであったものの周囲に押し寄せ、ひしめき合っていた。

彼らは欲していた。
彼ら自身の意味を。
彼ら自身の存在を。
彼ら自身の認識を。

存在の承認を、彼らは欲していた。
あり得べからざるすべてのものが、マナであったものにそれを求め、叶わず、怨嗟の声を上げていた。
マナであったものは引き裂かれ、踏み躙られ、食い散らかされ、既に物言わぬ躯となって尚、侵され、
求められ、そして恨まれていた。
マナであったものを囲むすべてのものが、マナを欲していた。
自らの声を聞ける唯一の存在を、彼らは彼らのすべてを以って希求し、その結果として焼き尽くしていた。

観月マナと呼ばれた少女は、温かな肉体の中で、既にして朽ちている。


***

 
絶叫とも、咆哮ともつかぬ観月マナの声が岩窟の大広間を震わせている。
時にふっつりと止み、再び唐突に響きだす、それはどこか壊れたスピーカーから鳴る、
ノイズ混じりのラジオを思わせる。
岩窟の遥か高い天井までを照らすような青い光の柱を前に、水瀬秋子は焦燥を覚えていた。
知らず、内心の声が漏れる。

「次代の使徒……まさか、これほどとは……」
「―――ええ。儀典場たるこの空間に溢れ、融けていく青が多すぎる」

いつの間に近づいていたのか、天野美汐の姿に秋子が微かに眼を見開く。
薄笑いを浮かべたようなその表情が、どこか癇に障った。
見慣れた微笑ではない。
それは皮一枚の下に悪意を隠した、紛れもない冷笑であるかのように、秋子には見えた。

「……何か、可笑しなことでもありますか」
「いいえ、……いいえ、とんでもない」

刺々しい秋子の言葉にも、美汐の薄笑いは消えない。
くつくつと、今にも声を漏らして嗤い出しそうな顔のまま、言葉を継ぐ。

「両儀の合一は青と赤、双方の調和を以って成立する……このままでは、些か赤が弱いように思えますが、
 ただこの状況も想定の内だったかのかと思いまして」
「言われるまでもありません。……十年余りとて、私たちには瞬きするほどの時間。
 あの失敗も、昨日のことのように覚えています」
「失敗……ああ、あの日のことですか。……懐かしい、若気の至りとでも言いましょうか」

薄暮の湖を覆う霧の如き瞳が、弓形に細められる。

「貴女が……いえ、私たちが『門』を開いたあの日も、こんな風に青が溢れたのでしたね。
 実に懐かしい、神の欠片を始末しきるまで随分と手間がかかりましたが、今となっては
 それもいい思い出でしょう」
「……何が、思い出なものですか」
「おやおや、可哀想なこと」

言って口元に手を当てた、美汐の眼は泣き崩れる磔刑の女、霧島聖を横目で見ている。
粘つく視線を断ち切るように、秋子が口を開く。

「―――いずれにせよ、使徒を放っておくわけにはいきません。
 合一を前に再び『門』が開くことがあってはならない。今ならまだ抑えられます」
「私は嫌ですよ」
「……」

しれっと言ってのけた美汐を、秋子が睨む。
どこ吹く風と薄笑いを続ける美汐の相手をしていても仕方がないと思ったか、秋子が溜息をついて
小さく首を振った。

「あなたにそこまで頼もうとは、思っていません」
「……私は、嫌だと言ったのですよ、秋子さん」

妙に強く言い切られたその声音に不可解なものを感じて、玉座から腰を上げかけた秋子が
美汐を見やった、その瞬間。

「―――動くな」

時が、静止した。


***

 
「―――」

時が静止していた。
身体が、腕が、指の一本に至るまでが動かない。
声も出ない。時が、静止していた。

「おや……どうかされましたか、秋子さん」

否―――薄笑いと共に、美汐の声が聞こえる。
事ここに至って、秋子はようやく気づく。
静止していたのは、時ではない。
水瀬秋子、自身であった。

「―――」
「どうしたんです、秋子さん。……それではまるで、声も出せないみたいではありませんか」

天野美汐の浮かべる笑みは、既に薄笑いと呼べるものではない。
にたりにたりと秋子をねめつけるその表情には、明確な悪意が宿っていた。
この異常が、美汐の手によるものであることは明らかだった。
それを追求することも叶わぬ秋子の凍りついたような身体を、美汐の指がそっと這う。

「何をしたのですパーフェクト・リバ。……そんなところでしょう、仰りたいのは。
 いいえ、いいえ。それは筋違いというものです、シスター・リリー。
 貴女は大変な思い違いをしている」

青の光柱と化したマナの、悲鳴の如き咆哮は続いている。
びりびりと臓腑を抉るような大音声の中、美汐の声は不思議と秋子の耳に染み渡る。

「赤と青を操るもの、攻受自在のパーフェクト・リバ。
 ……そうですね、この戦いの、貴女の戦いの文脈ではそうなるのでしょう。
 ですが秋子さん、貴女は忘れている。あまりにも『繰り返し』がすぎて、大切なことを見落としている。
 この夢を見る島は、人に力を与えるのですよ。……尋常ならざる、異能の力を」

美汐の整えられた爪が、秋子の唇へと忍び寄ると、その柔らかい感触を楽しむかのように止まる。

「私は言ったはずです、秋子さん。……貴女はそこで見ていてください、と。
 動かずに、悠然と。それが、貴女の役割だと。そして貴女は、それを承認した」

かり、と。
美汐の爪が、秋子の唇を掻いた。
淡い口紅と控えめなグロスに彩られた唇に、朱の珠が浮かぶ。

「教えて差し上げましょう、秋子さん。『今回』の私に与えられた力、異能を」

浮かんだ珠を弄ぶように秋子の唇に広げていく、美汐の白く細い指。

「―――『遊戯の王』。ゲームと名のつくものに、支配の因果を持ち込む力。
 ルールの説明と承認がその合図……既にゲームは始まっていたのですよ、秋子さん。
 ……動かずに、悠然と、その玉座に座り続けることを、貴女は誓約した。
 それ以外のすべてが、貴女の敗北を意味している」

薄化粧を施された目元を、美汐の指がそっと拭う。

「何故、と問いたいでしょう。何故このようなことを、と。答えは簡単ですよ、秋子さん。
 勝手に神を祓われては、困るからです。ええ、それだけのことですよ」

隠しきれぬ小皺を愛でるように、美汐が嗤う。

「何故といって、神は……私が、滅するのですから。
 そうでなくては、真琴の仇が取れないじゃあ、ないですか」

真琴、という名。
美汐の口にしたその名の不可解さに、秋子が内心で眉を顰めた、次の瞬間。

「―――」
「さようなら、秋子さん」

秋子の全身が、激烈な拒否反応を示していた。
神経信号に走る圧倒的なノイズ。
体組織を侵食する膨大な異物。
痛覚が、触覚が、異物を排除せよと身体に命じる。
しかし身体は動かない。
痙攣一つ起こせない。
眼を見開くことも、悲鳴を上げることも、痛みに崩れ落ちることも許されない。
水瀬秋子を、その豪奢な玉座に縫い止めたもの。
文字通り、身動き一つ取れない秋子の腹部に、深々と突き立っていたもの。
それは、垂れ落ちる鮮血をその身に纏わせてなお赤い、煌く光の刀であった。

「もう、『次』でお会いすることもないでしょう」

美汐の手から伸びた赤の光刀が、貫いた秋子の腹をもう一度抉る。

「私が神を討ち滅ぼせば、時は巡りを止めるでしょうから。
 ……ごきげんよう、秋子さん。長い間、ご苦労様でした」

ぶつり、と何か太いものが千切れる手応えに、美汐が光刀を引き抜いた。
それを合図に束縛から解き放たれたものか、秋子の身体が巨大な玉座に凭れ掛かる様に、
ずるりと崩れ落ちた。


***

 
眼前の光景が、悪夢であればいい。
手も足も赤光の十字架に囚われて動かせずに、だから私はただ、息を呑んだ。
ずるりと崩れたその身体から赤黒い液体が溢れ、ぽたぽたと垂れ落ちて、
それで夢などではないと気づかされ、初めて悲鳴が漏れた。
姉さま、と叫んで。
叶わぬと知りながら伸ばした手は、眼前にあった。
疑問に思う余裕など、なかった。
手が動く。足が動く。それだけで、その事実だけで十分だった。
走る。突き出た石に、平らでない岩場に何度も躓きそうになりながら、走る。
ぬるりと滑る血に足を取られる。
音が遠い。胸が苦しい。見えるすべてが薄っぺらい。
あらゆる感覚が火傷しそうなほどに熱くて、同時に作り物じみていた。
姉さま、姉さま、姉さま。
針の飛んだレコードみたいな悲鳴だけが、他人事のように響く。
腕を伸ばして、届かず。
手を伸ばして、届かず。
指の先までを懸命に伸ばして、それから一歩を踏み出して、ようやく触れた、その白い手は。
ひんやりと、まるでもう、生きてはいないみたいに、冷たかった。

いやだ、と首を振る。
むしゃぶりつくようにその手を抱き寄せて、その腕を手繰り寄せて、その肩を、抱きしめた。
細く、軽く、それでやっぱり冷たいその肩を抱きしめて、すぐ近くにある耳に、叫ぶ。
ねえさま、ねえさま、ねえさま。
わたしはここにいます、ひじりはここにいます、ねえさま、ここにいます。

どれだけ叫んでも。
どれだけ、喉を痛めて叫んでも。
声なんて届かないみたいに、その眼は、どこか違うところを見ていて。
いつまでも、私を、見てはくれない。

けれど。
ずっとずっと叫んで、咳き込んで、涙が出るほど咳き込んでようやく、私は気づく。
紫色に染まった、血のついた唇が、微かに震えていた。
何かを、言おうとしていると思った。
必死に耳を寄せる。どんな言葉でもよかった。
その声を、その言葉を、覚えておこうと思った。
私に向けられる、本当にたいせつなことば。
それがどういうものであれ、私はそれだけを覚えておこう。そう思った。

 ―――つぎは、きっと、かみを。

意味が、分からなかった。
いくつもの疑問符が私の頭に浮かんでは、泡のように弾けて消えていく。
分からない。分からないからきっと、これは最後の言葉じゃない。
私に向けられる、たいせつなことばなんかじゃない。
だから、こんな言葉なんかじゃなく、私は、私の姉さまは、私に、言葉をくれるんだ。
本当に大切な言葉。
本当に大切な言葉、本当に大切な言葉、私に向けられる、ほんとうにたいせつなことばは。
いつまで待っても、やってこない。

その目は、何も映さない。
その口は、何も話さない。

その目はもう、私を映さない。
その口はもう、私に何も、話さない。

その目は最後まで、私を見なかった。
その口は最後まで、私に言葉をくれなかった。

本当に、最後の最後。
事切れるまで、私は、待っていたと、いうのに。
名を呼ばれることすら、なかった。

ごめんなさい、と。
ありがとう、と。
それだけで、それだけで救われたのに。

たった一言さえを、遺さずに。
私のたいせつなひとは、いってしまった。

そんなことが。
そんなことが、あっていいはずが、なかった。
あってはならないことが、目の前にあるのなら。

―――間違っているのは、目の前の光景のほうだ。


***

 
水瀬秋子の亡骸にすがりつく女の全身が、燃えるような朱色の光を放ち始める。
背後に青光、びりびりと震える青の柱、正面に燃え立つような朱の光。
その二つの輝きに挟まれて、ひとり呵う女がいる。

天野美汐。
目も眩まんばかりの光を睥睨するように見比べて、呵う。

「哭け、嘆け、哀れな人形たち!」

光柱の中の観月マナを、既に物言わぬ骸と化した水瀬秋子を、それに取り縋って泣く霧島聖を、嘲う。

「赤々と咲け、愚かな道化!」

聖の背に突き刺さるような言葉と視線。
何の反応も返さず、聖の全身からは目映い朱色が立ち昇っている。

「その命を燃やすとき青が蒼穹を映すように、赤もまた、己を灼いて紅蓮を生ずる、
 爆ぜろ、爆ぜろ、喪失を拒んで燃え上がれ―――!」

嘲う女が、くるくると回る。

「記し手の死を以って青の書は蓄えた力を解き放ち―――」

いまや爆発的な勢いで輝きを増しつつある青の光柱へと手を差し伸べ、踊る。

「青は神を喚ぶ門となり―――」

青の光が、融けていく。

「赤は彼岸と此岸とを繋ぐ懸け橋となる―――」

赤の光が、融けていく。

「両儀を糧に、今こそ神の降る刻―――」

くるくると舞い踊るような女の周りで、赤と青が融けていく。
果てなく広がるような岩窟を隙間なく埋め尽くすように、光が拡がっていく。
その中心で、ただひとり、呵い、踊る女がいる。

「使徒の青はあり得べからざるの在るを肯んじ―――」

あり得べからざるもの。
この世に在ってはならぬもの。
ないはずのものが、存在を肯定され、顕れようとする。
それは、光柱の中にいたはずの少女をばらばらに分解し、滅茶苦茶に繋ぎなおしたような、おぞましい何か。
怖気立つような何かが、その大きさを増していく。
大きさが増すにつれ、少女だった何かはその形を失くしていき、やがて、消えた。
代わりにそこにあったのは、四角く巨大な、黒の一色だった。
厚みもなく、色以外の何もなく、それは存在していた。
見上げるほどに大きなそれを慈しむように美汐が哄う。

「そして愚かな道化の赤は、あり得べからざるの無きを拒む―――」

あり得べからざるもの。
この世に在ってはならぬもの。
ないはずのものが、非在を拒絶され、顕れようとする。
亡骸に縋り、朱く燃えるような光を放っていた女が、ついには一柱の光となって、消えた。
光は空に融けず、音もなく存在する黒に吸い込まれていく。
染み渡るような朱に、巨大な黒が静かに震えだす。
それはまるで、長く埃を被っていた古い機械に、時を越えて電気が通ったかのように。
小さな振動は、やがて目にも明らかな震えとなって辺りを揺るがし始める。
それは奇妙な光景である。
音もなく厚みもないその黒い何かの震動が、確かな重みをもって辺りを揺らしていたのだった。

「ついに門が―――開く」

震え、軋み、今にもばらばらに砕け散りそうな、その巨大な黒い何かの前に、美汐が立っている。
その表情は歓喜に満ちていた。
それは哀れな草食動物の、湯気を立てる臓物を前にした肉食獣のような。
或いは愚かな落第生の、試験用紙を前に苦渋するのを見下ろす教師のような。
絶対の確信と、抑えきれぬ情動の漏れ出すような、それは歓喜の笑みだった。

その両の手には光と、本があった。
右手には青の本。
門と化して消えた少女の持っていた、青く輝く書物。
左手には赤の本。
赤の使徒を名乗る少女を悦楽の地獄に突き落として奪った、赤く煌く典籍。
両の手に光と書とを宿し、天野美汐は哄う。

「二つの書は幾多の時を巡り、終に貴女方を超える力を蓄えるに至った……!
 さあ……姿を見せなさい、神の名を持つ化け物ども―――!」

その眼前で、『門』が、開いた。



 
 【時間:2日目午前11時半すぎ】
 【場所:B−2 海岸洞穴内】

天野美汐
 【所持品:青の書・赤の書】
 【状態:異能パーフェクト・リバ、元GLの使徒、遊戯の王】

水瀬秋子
 【状態:死亡】

霧島聖
 【状態:消滅】

観月マナ
 【状態:消失】
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