それはあまくてにがいゆめ。 終わってしまった、ゆめのかけら。 *** 銀色の月が見える。 夜空を覆いつくすような、大輪の銀華。 精緻な細工物のように煌めくその月を見て、私は自分の見ているものが、過去の記憶だと気づく。 間違えることなどあろうはずもない。 それは、私の人生でいちばん綺麗な夜の記憶だった。 銀色の月を背に、影が立っている。 青い外套と、月光を掬い取ったような大きな銀の杖。 振るわれる杖から伸びる透き通った青い光が、私に迫っていた怪物を、消し去っていた。 音もなく、影が降り立つ。 微笑みと労わりの言葉と、差し出された優しい手。 そっと重ねたその手は、やわらかく、温かかった。 それは私、霧島聖と『青』の邂逅。 その、始まりの記憶。 *** 幾つもの夜、私は街を巡った。 あの微笑みに、もう一度会いたかった。 *** 再会は、やはり月華の晩だった。 街灯の切れた暗い公園。 無数に蠢くおぞましい怪物の群れと、目の醒めるような青色が、月の光に照らされていた。 閃く銀の杖。 数を減らしていく怪物たち。 その戦いを物陰で見ていた私に、しかし怪物の一匹が気づく。 立ち竦む私。 瞬く間に迫る、桃色の触手。 そして、私の手から立ち昇る、青い光。 再会の夜は、私の戦いが始まる夜でも、あった。 *** 私の生活は一変した。 『青』と共に戦いに明け暮れる夜が続いた。 異形の者どもを滅し、街の平和を守る戦い。 命がけの、怖ろしい、堪らなく刺激的な、それは戦いだった。 『青』と背中を合わせて戦う限り、負ける気はしなかった。 私の中に満ちる力は戦いを経るごとに大きくなっていたし、経験は私自身を強くもしていた。 昼間の生活など、退屈で仕方がなかった。 早く夜にならないかと、教室ではそればかりを考えていた。 *** 『青』と私。 月の輝く夜に、星の瞬く夜に、嵐の吹きすさぶ夜にだけ、出会う関係。 太陽の下では、結局最後まで、私は『青』を見ることがなかった。 時に窮地を救い。 時に強敵を倒し。 時に避けられぬ悲劇を超えて、私たちは共に戦った。 ふたり。 そう、それはふたりだけの戦いだった。 異形は尽きることなく、果てることなく現れるように思えた。 それでもいいと思えた。 ずっとふたりで戦えるのなら、それでもいいと。 たとえ、うららかな陽射しの下で紅茶を楽しむことができなくとも。 たとえ、手を繋いでショーウインドウを見て回ることができなくとも。 たとえ、何気ない一言に揺れ、枕を涙で濡らすことがなくとも。 私たちには、心躍る月下の邂逅があった。 閃く銀弧と、迸る青の光があった。 背中を合わせる温もりと、肌のひりつくような昂ぶりがあった。 たとえそれが、恋と呼べるものでなくとも。 私は、幸せだった。 *** そして。 幸福な時間は唐突に終わりを告げるのだと、私は知ることになる。 門を閉じる、という『青』の言葉は、私を奈落の底に突き落とした。 それは、この戦いの終わりを、意味していた。 ―――門。 それが正確にはどういったものであるのか、私は知らない。 『青』は何かを知っていたのか、それも今となっては分からない。 分かっているのは、ただ一つ。 それが、異形の者が涌き出る、その大元だということだった。 戦いが終わる。 突きつけられたその現実は私を苛み、刃を鈍らせた。 密かに進行する病のように、それは私を蝕み続けていた。 *** 終わりの晩。 無数の異形を退け、道を切り開き、私たちはようやくその場所へと、辿り着いていた。 門。 それは空に口を開けた、巨大な穴。 そこから零れ落ちるように、数え切れないほどの異形が涌き出していた。 そのすべてを押し返し、門を閉じることなど不可能であるように、思えた。 ―――いや、そう思いたかったのだ。 勝利は、永遠に続くふたりの時間の終わりを意味しているように、私は感じていた。 それが少女めいた傲慢と視野狭窄の産物と理解するには、その頃の私は幼すぎた。 迷いは焦りを生み、焦りは躊躇と失態を連鎖させた。 それまでの一生分よりも多くの大過と仕損じと遺漏とをほんの数時間で繰り返した私が最後に得たのは、 届かない背中だった。 その背は、傷を負っていた。 私のミスが、敵を斬れない刃が、異形を仕留められない光が、『青』の背に負わせた、それは傷だった。 美しかった外套も、見る影もなかった。 *** ここから先のことを、私は何度も、何度も夢に見た。 悲鳴と共に目を覚ました晩も数え切れない。 それほどに、その光景は私を責め苛んでいた。 古ぼけた映写機によって映される擦り切れたフィルムの映像のように、私はもう何十、いや、 何百度目になるかも分からないその光景を、じっと見つめる。 そうだ。 私がいくら叫んでも、『青』は振り向かない。 振り向かず、ただ歩くのだ。 私の悲鳴は届かない。 私の問いは届かない。 私の恋は、届かない。 『青』はただその身に燃え立つような蒼い光を纏って、門の向こうへと消えていく。 門は燃え、『青』は燃え、何もかもが、燃え尽きて。 後には何も、残らない。 ****** 目を見開き、飛び起きようとして、痛みに顔を顰める。 身体が、動かなかった。 金縛り―――否、手首に感じるのは冷たく硬い感触。 どうやら拘束されているようだった。 何が起こった。一体どうなっている。私は私に問いかける。 『青』が、違う、それは夢だ。過去の悪夢だ。思考が混濁している。 ぼんやりとした視界が次第にクリアになっていくのを待つ一秒がもどかしい。 状況を整理し思考を展開し現状を把握しろ、と自分に言い聞かせる。 思い出せ。 頼りない記憶の糸を手繰る。 美佐枝の血。紅い雨。 その光景を思い浮かべた瞬間、嫌な汗が全身からじくじくと沁み出すのがわかる。 晴香。巳間晴香。仇敵。 べったりと張り付いた肌着が冷たい。 蒼の世界。命の燃える色。マナ。 断片的な映像だけが、ぐるぐると脳裏を渦巻いている。 「―――お目覚めですか」 乱れた思考の麻を断ち切るような、怜悧な声。 まだはっきりとしない目を向ければ、そこには赤い光に照らされた、影二つ。 「……あま、の……?」 ひりひりと痛む咽喉からは、掠れた声だけが出た。 ぼやけた視界の中、捉えた顔には見覚えがあった。 天野美汐。強いGLの力を持ちながら、GLに与しない女。 重く雲の垂れ込める曇天の如き瞳が、弓のように細められて私を射貫いている。 微笑の形に歪んだその唇から、薄い舌がちろりと伸びた。 天野の舌が嘗め上げたのは、淡い曲線を描く肉付きのよい身体。 それが、びくりと震えた。 「なに、を……」 そう、赤い光に照らされる影は二つ。 天野と、彼女に抱きすくめられるようにしてだらりと投げ出された、巳間晴香の裸身だった。 晴香の柔らかい双丘を揉みしだく天野の手は匂い立つほど扇情的で、くらくらと私の脳を揺らす。 桃色の先端が、爪で軽く掻かれるように舐られる。 甘い吐息を漏らして、晴香が裸体をくねらせた。 まとまりかけた思考が、クリアになりかけた視界が、むせ返るような女の臭いに薄ぼんやりとしていく。 いけない、と思った。 目を閉じ、硬く歯を食いしばる。 深く吸う息が身体の隅々にまで酸素を運ぶ様をイメージする。 吐く息は脳と血管にこびりついた老廃物をこそげ落とし、廃棄するイメージと共に。 そうして二度、三度と深呼吸を繰り返すうち、意識がはっきりとしてくるのを感じる。 目を、開いた。 眼前には赤い光に照らされた、絡み合う二人の女。 裸身の巳間晴香を、天野美汐が一方的に嬲っている。 状況だけを確認し、意識的に視界を他へと移す。 辺りを見回せば、そこは相当の広さを持つ薄暗い空間。 灯火が揺らめく壁面は岩肌のようだった。 巨大な地下洞、あるいはそれを模して作られた建造物か。 私自身はといえば、巨大な十字架を背にするように手首と足首、そして腰周りをぐるりと赤い鎖のようなもので 締め付けられている。 淡く発光しているところを見れば、どうやら十字架も鎖も天野のGL力によって作り出されたものらしい。 わざわざ磔のような格好を強いるその拘束はいかにも趣味的で、下卑たセンスに唾を吐きかけてやりたいくらいだった。 からからに乾いた口の中には吐き出す唾もなかったが、代わりに強く舌打ちをしてやった。 予想外に強く反響したその音に、私は内心で一つ頷く。 そうだ、いつもの調子が出てきたじゃないか。 後は思考を展開しろ。危機を打破するための策を練れ。 ようやっと自分が霧島聖であることを思い出したかのように、私の頭脳が回転を始める。 何故、巳間晴香が嬲られているのかは分からない。 どうして天野美汐がここにいるのかも分からない。 分析には情報が足りず、推論には手がかりが少なすぎた。 故にその方面の思考は打ち切る。 考えても仕方のないことを考えているほどの余裕はない。 ならば、と思考を巡らせたとき、最初に思い浮かんだのは童顔の少女。 観月マナの顔だった。 そうだ、と私の記憶中枢がなけなしの情報を絞り出し始める。 巳間晴香との決戦の最中、相討ちを狙った私の前にマナが現れたのだ。 BL図鑑の声を聞いたマナは私の蒼を抑え、そして―――そこで、私の記憶は途絶えている。 意識を失った、その後が分からない。 だがもしもマナが敗れていれば、私がこうして目を覚ますことはなかっただろう。 巳間晴香はそれを許す相手ではなかった。 ならばマナが勝利したのか。 しかしそれにしては、天野が目の前にいるのも、こうして拘束されていることも不可解だ。 そもそもここは何処で、何のために私はこうして連れられてきたのか。 何か、手がかりになるようなものはないか。 そう考え、もう一度辺りをぐるりと見回して、 「……、え……?」 時が、凍りついた。 *** そこにあるのは、夢の続き。 終わったはずの夢の、悪夢のような、終わりの先の物語。 *** 声が、出ない。 そんな、と。 どうして、と。 言葉は身体いっぱいに溢れているのに、出てこない。 気持ちがついてこない。 取り戻したはずの霧島聖が、ばらばらに砕け散っていくような感覚。 拾い上げて、組みなおして、いくつかのパーツが足りなくて。 だから、きっと。 見えるはずのないものが見えるのは、そのせいだ。 違う。 順序が違う。 見えるはずのないものが見えて、だから私はおかしくなっている。 おかしくなる前の私が、霧島聖が見たのだから、見えるはずのないものは、確かにそこにいるのだ。 嫌だ。 そんなのは、嫌だ。 駄々をこねる子供のような声は、私の中でいちばん素直な心の声だ。 困惑が、混乱を助長する。 混乱が、混沌を加速する。 見えるはずのないもの。 そこにいるはずのないもの。 いては、ならないもの。 闇に慣れた私の目に映った、煌めき。 黄金と真紅に彩られた、巨大な装飾物。 そこに座る、人影。 静かに、穏やかに、座っている人。 存在するはずのない人、存在してはいけない人の存在が、私の内側を蝕んでいく。 磔にされていなければ、私はとうに膝から崩れ落ちていただろう。 代わりにふるふると首を振って、私は一言、たった一言だけを口にする。 「―――『青』……姉さま―――」 それはきっと、少女時代の私が零した、涙の残り香。 心の奥底に仕舞い込んだはずの、今もじくじくと血を流す傷の、名前だった。 【時間:2日目午前11時半すぎ】 【場所:B−2 海岸洞穴内】 霧島聖 【状態:元BLの使徒】 水瀬秋子 【状態:GL団総帥シスターリリー、『青』】 天野美汐 【状態:異能パーフェクト・リバ、元GLの使徒、遊戯の王】 巳間晴香 【状態:GLの騎士】 - BACK