アイニミチル (2)





 
どこまでも続くかのような狭い洞窟は、その深奥で様相を一変させる。
そこは巨大な空間であった。
薄暗く、息の詰まりそうな狭苦しい通路を延々と歩いてきた者の目には、
実際よりも更に広く映っていたかもしれない。
しかしそれを差し引いてもなお、その空間の持つ容積は圧倒的であった。
辺りを煌々と照らす幾つもの灯火も、遥か高い天井までは届かない。
上方の視界は薄闇に溶けて、まるで永遠に明けぬ夜のようでもあった。

そんな空間はしかし、ひどく装飾に欠けている。
剥き出しの岩肌には彫刻の一つもなく、地面もまた床と呼べるほどに磨かれることもなく、
ただ自然のままに捨て置かれているといった風情である。
故に、その奥まった一角は、周囲の風景からひどく浮いていた。
そこにあるのは一脚の椅子である。
否、機能の面から言えばそれは椅子であったが、その本質を呼び表すにはより相応しい言葉があった。
玉座、である。

地の底までも続くような洞穴を抜けた先、巨大な空間の奥にあったのは、荘厳華麗な玉座であった。
精緻な黄金細工の施された枠組みに、真紅の天鵞絨が張られている。
豪奢な装いを揺らめく灯火に照り輝かせるその重厚な威圧感は、唯一つそれだけで
この寒々しい空間が宮殿と呼ばれる、王たる存在の君臨する場であることを誇示していた。
そして今、身に纏うものもなく絡み合う、二人の女性を模した流麗な黄金の肘掛けに
もたれるようにして、一つの影があった。
王と言い表されるべきその影が、静かに口を開く。

「……随分と、懐かしい顔ですね」

穏やかな声の先、薄暗がりの向こうから音もなく現れたのは少女、天野美汐である。
その背後には淡く赤光を放つ二つの十字架と、磔刑に処されるような格好の影が寄り添っていた。

「お久しぶりです、秋子さん。……今は赤の盟主、シスターリリー、でしたか」
「秋子で構いませんよ。その呼び名は些か気恥ずかしくもありますし」

玉座に座る影が、頬に手を当てて微笑んだ。
見る者の胸に穏やかな春の風を運ぶような、暖かい笑みであった。
水瀬秋子という女性の、それは歩んできた道の果てに得た、達観であったのかもしれない。


***

 
それにしても、と頬に手を当てたまま秋子が呟く。

「こういう場合、私はどういう反応をすればいいのでしょう。
 一度は誘いを断った方が、私たちの大切なゲストを連れて儀式の場まで侵入している、なんて」

困ったような口調だが、その目は笑っている。
悪戯じみた気安さが浮かぶ言葉に、美汐もまた微笑んで軽口を返した。

「悪の女帝が正義のヒロインを迎え撃つのです。
 ここは大仰な演説から、最後は高笑いで戦闘に突入するシーンではないでしょうか」
「困りました、スピーチの内容を考えていません」
「手下の幹部に命令するのも手ですね」
「あなたが連れてきて下さったのが、その幹部ですよ」
「困りましたね」
「ええ、困りました。……あとは戦闘、でしたか」

そこまでを言い合って、互いに視線を交わすと、二人は破顔する。
静かな、しかし温かな笑い声。
まるでうららかな陽射しの下でティータイムを楽しんでいるかのような、和やかな空気が流れていた。
やめておきましょう、と笑みを収めぬままに言ったのは美汐である。

「秋子さんの力は私に通じない。私の力もまた、秋子さんには届かない。
 お互い、嫌というほど判っていることです」
「そうですね。……それを理解するまでに何度『繰り返した』か、今では思い出すこともできませんけど」

ふと漏らしたようなその言葉は、笑みの延長線上にはない。
岩肌に沁み入るような細い声は、確かな翳を帯びていた。

「……もう、私たち……三人だけになってしまいましたか」

答えた美汐からも、笑顔が消えている。
どこか遠い空に思いを馳せるような、足場の不確かな表情。
強く揺さぶれば霞となって消えてしまいそうな、ひどく危うい、それは風情だった。

「ええ。最近は、最後の一人が残るまで続くこと自体がありませんし……」
「この戦いの生き残り……世界の終わりの見届け人、ですか」

ぼそりと呟く美汐。
頷いて、秋子が言葉を引き取る。

「……見届け人の得る、『繰り返し』を認識する力。前の世界を覚えていることのできる力。
 近頃では、こんな風にすら思ってしまうんですよ。
 それは褒賞などではなく、罰なのではないか……と」
「罰……ですか」
「ええ。私たちの悉くは、人類の最後の一人として生を全うせず、死を選んできた。
 それは世界の終わりの引き金を引く、大罪です。だから、その罪には罰が下される。
 ……そういう考え方は、おかしいでしょうか」

微かに乾いた笑いを漏らす秋子の問いに、美汐は答えない。
揺らめく灯火が、ただ静かに、二人の影を岩肌に映している。

「アロウンさん、ティリアさん、なつみさん……。
 残っていた方々も、終わりなく繰り返される日々の中でいつしか、
 生まれてくること自体を拒むようになってしまいましたから。
 名雪ももう……限界が近いように、思います。そうなれば、私も……」

自嘲に満ちた表情は、水瀬秋子という人物を知る者が見れば驚くに違いなかった。
そこには、いかなるときも余裕のある笑顔を絶やさない女性の面影は存在しなかった。
昏く、老いの色濃い顔だけがあった。
重い溜息に世界を澱ませる毒をすら含む、それは醜悪な、一匹の怪物であった。
深い泥沼の底に落ち込んでいくかのような翳を断ち切ったのは、美汐の言葉である。

「……そうなる前に、終わらせるのでしょう。
 こんな大掛かりな仕掛けまで用意したのは、その為のはずです」

顔を上げた秋子の目に映ったのは、いつも通り静かに佇む美汐の、決意だった。

「神を討つ―――その為の」


***

 
さて、と重い沈黙を破った秋子の表情は、既にいつものそれに戻っている。

「年寄りが二人、茶飲み話でもないでしょう。……真意を伺っても?」
「女の歳は肌で数えるものです。私は永遠の思春期ですよ」

軽口を叩く美汐が、秋子の穏やかな視線にじっと見つめられ、苦笑を浮かべる。

「……旧い戦友の宿願が果たされるのを見届けにきたのですよ」
「茜さんの件は」
「若い人には苦労でもさせておこうかと」
「……」

秋子の無言に、美汐がその霧に煙るような瞳を細める。

「……少し、得体の知れないものを感じましたので。
 これまでの『繰り返し』に、あの人の存在がこれほど大きくなったことはありません。
 精々がところ、何人かを道連れに散るのが限界だったはずです。『繰り返し』の資格もない。
 それが今回急に、世界の根幹にまで関わろうとしている。……それが不気味です。
 大切な儀式の前ですし、不安定な要素はできる限り排除しておくべきでしょう」

言い切った美汐の口調に何を感じたものか、秋子は目を閉じて表情を消すと、ただ頷いた。
僅かな間を置いて再び開かれたその瞳には、強い光が宿っている。

「わかりました。それでは儀式を―――私たちの『繰り返し』の終わりを、見ていてください」
「贄は」
「その二人で充分でしょう。茜さんが神を肥え太らせてくれていたようですし」
「……この、」

と美汐が視線を向けたのは、背後に聳える赤光の十字架である。
その一方に架けられた波打つ髪も豊かな少女の、ぐったりと項垂れたまま動かない肢体を見やって、
美汐が意外そうな顔をする。

「この方も、贄に?」
「そのつもりで連れてきていただいたのではないのですか」
「……いえ、それはそうですが……、貴女は情の深い方ですから」
「私が、」

美汐の言葉を遮るような秋子の声は、一転してひどく重い。
涙はなく、震えはなく、しかしその口調に滲むのは、鮮明な悲哀であった。
水瀬秋子らしからぬ感情の起伏の激しさは、それほどまでに因果からの解放に
期するところが大きいということの証明であっただろうか。

「私たちがこれまで、どれほどのものを切り捨ててきたと思っているのですか」
「……そう、でしたね」

返す美汐の声には力がない。
小さく首を振ると、深い溜息をついた。

「つまらないことを聞きました」
「いえ」

短く答えて立ち上がろうとした秋子を、美汐が手振りで抑える。
疑念を浮かべた秋子に、美汐は片眉だけを下げるような笑みを向けた。

「お詫びの印に、少しお手伝いをさせてください」
「……それは」

戸惑うような秋子の口調。
押し留めるように、美汐が言葉を継いだ。

「手段は違えど、目指すところは同じはずです。……せめて露払いくらいはさせてください。
 貴女にとって大切なのは、この後なのですから」

言った美汐の手からは既に、紅い光が湧き出している。

「貴女は、そこで見ていてください」
「……」
「儀式の担い手は、動かずに悠然と構えていなくてはいけません」
「……」
「それが、今の貴女の役目です。……赤の盟主、シスターリリー」

最後には冗談めかして言った美汐に、秋子の表情が苦笑じみたものに変わる。

「……わかりました」

それが、承認であった。
確認するように、美汐が深く頷く。

「では、はじめましょう。―――我々の、儀式を」
「……はい」

秋子が頷きを返したのを合図とするように、美汐の手から伸びた赤光の鎖が、
磔刑に処された二人の女へと絡みついた。



 
 【時間:2日目午前11時半すぎ】
 【場所:B−2 海岸洞穴内】

天野美汐
 【状態:異能パーフェクト・リバ、元GLの使徒、遊戯の王】

水瀬秋子
 【状態:GL団総帥シスターリリー】

霧島聖
 【状態:気絶中、元BLの使徒】

巳間晴香
 【状態:気絶中、GLの騎士】
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