終焉幻想





ぽたり、と垂れたのは血の雫だった。
拡がる血だまりに落ちて、小さな真紅の王冠を形作った。

のろのろと手を伸ばし、指を浸した。
冷たくて、粘ついていて、気持ち悪い。
血はいつだって、こんな風に気持ちの悪いものだった。

私の中を流れる血。
私から出ていく血。
おりものと一緒に染み付いたそれを見るとき、私は無性に体を掻き毟りたくなる。

呪われた血。
穢れた血。
鬼の血。
鮮血。
血。

私の体を流れるものは呪われていて、だから私は呪われていて。
この体を裂いてみても、傷はすぐに塞がってしまう。
呪いを閉じ込めるように、穢れを溜め込むように、私の体はできている。
それが疎ましくて、それが悔しくて、私は何度も私の体を傷つけた。
今ではもう、痕すら、残っていない。

「どうしたの? 楓」

声が聞こえる。
優しげな声。優しげで、冷たい声。
懐かしくて、耳障りで、親しげで、何故だかひどく気持ちのざわつく、声。
だから私は返事をしない。
ただ粘つく指先を弄ぶように、ずっと俯いたままでいた。
喪われたものを、いとおしむように。

「……そう、ならそのままでいいわ。聞きなさい」

ああ、この人はいつだってそうだ。
家長として、鶴来屋の代表として、いつだってこういう風に物を言う。
正しくて、息が詰まりそうなくらい正しくて。
なのにいつも女の匂いをさせて、それが嫌いだった。
この人が男と交わる姿を想像して吐いたのは、もう何年も昔のことだったけれど、
その頃から何一つ、変わっていない。
化粧の臭いと、糊のきいたスーツ。
それが血化粧と、真っ赤に染まった服に変わっても、この人は変われないのだ。
この人の中の女は、もう凝り固まっている。

「私と一緒に来なさい、楓。こんなところにいる必要は、もうないの」

何かを言っている。
聞こえない。聞かない。
聞きたくない声は、聞こえない。

「もうすぐ世界は終わってしまうの。だからこんな、下らない争いに意味なんてないのよ。
 だけど安心して。私は力をもらったの。世界の終わりから、あなたを守ってあげられる」

よく動く唇には口紅がさされている。
血みどろの世界でも、この人はそういう、女の準備を忘れないのだ。
ぼってりとしたそれは、もぞもぞと蠢く紅い芋虫みたいだった。
あの芋虫を噛み潰せばきっと、甘い匂いのする汁が出てくるのだろう。
たくさんの男がそれを嘗めとろうと、この人の唇に吸い付くのだ。
背筋の真中、心臓の裏辺りに冷たい針を差し込まれたような感覚に、私は想像を打ち切った。

「ね、私がずっと守ってあげるから。だから、一緒に行きましょう」

話が、終わったらしい。
目の前に差し出された手は白く、指は細くて、気味が悪いほどに艶かしかった。
整えられた爪は塗られていない。
鬼の手のことがなければ、きっとくらくらするような色で彩られるのだろう。
ひらひらと舞う南国の蝶のように。
紅い芋虫が脱皮して、きっとこの人の指になるのだ。
宝石で飾られた芋虫の成れの果て。
そんなものが目の前にあった。
だから私は、それを振り払う。
それが潰れて、怖気の立つような匂いを振りまいてしまわないように気をつけながら。

「……っ! 楓……!?」

我慢の限界だった。
同じ部屋の中で、涙が出るくらいに立ち込めた化粧の臭いの中でご飯を食べてきた。
ごちそうさまをした後で、トイレに駆け込んで吐いていた。
同じ家の中で、媚びたような視線が男たちに向けられるのを見てきた。
叔父さんが、耕一さんが、何か汚い汁をかけられて、嫌な臭いのする色に染まっていくような気がして、
あの人たちの服を擦り切れるくらいに洗った。
もう嫌だった。

「楓、あなた……」

いつの間にか、爪が出ていた。
黒く罅割れた手は、私の中の暗くてどろどろした水が染み出しているようで、心地よかった。
この人を見ていると、そういうものが湧き出してくる。
これは嫌なものだ。これは私をざわつかせる。
だからそういうものが私から出て行くように見えるのは、気持ちのいいことだった。
振れば黒い水が飛び散るような錯覚。

「楓……!」

一歩を下がるそのうろたえたような声が、私を加速させる。
いつも偉そうなことばかり言う口が、こんなときだけ許しを請うような響きを帯びる。
それが、小気味いい。
それが、苛立たしい。
相反する二つは私の中で矛盾なく暴れ回る。
突き動かされるように爪を振った。

「……っ!」

たまらず飛び退ったその目が、私を睨んでいた。
薄く朱に染まった瞳。
私を殺したくてたまらないのを抑えているのだろう。
必死に自制しているのが、ひどく滑稽だった。
この人はずっとそうだった。
薄皮一枚の向こう側に怒りと憎悪を押し込めて、私達に笑顔を向けていた。
だから私もずっと、軽蔑と嫌悪を押し込めて笑顔を返していた。
家の中では、ずっと。
もう、無理して笑う必要なんてない。

「……そう」

手を押さえながら呟いたその瞳は酷薄で、笑顔はやっぱり、消えていた。
私の向けた嫌な気持ちが感染したみたいな、嫌な顔だった。
家の中ではごくたまに、それもほんの一瞬しか見せなかった顔が、私をじっと見つめていた。

「なら、いいわ。無理にとは言わない。……少し落ち着くまで、時間も必要でしょう」

言って踵を返した背中を、私はもう見ていなかった。
どこか目に付かないところに行ってくれるというのだから、辟易したような声も気にならない。
嫌な臭いが遠ざかっていく。
大きく深呼吸すると、私の中の嫌な気持ちも小さくなっていった。

「だけど……これだけは聞いて、楓」

立ち止まったような気配に、嫌な気持ちが黒雲のように湧き上がってくるのを感じて、
私はしゃがみ込む。抱えた膝は温かい。
乾いた血がぱりぱりと落ちていくのを眺めていた。
もう、あの人の声は聞きたくなかった。

「私はずっと、待っているから。家族はもう……この世でただ一人、あなただけなのよ」

だから、その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

家族はもう、たったひとり。
たったひとり。
梓姉さんは死んだ。知っている。
初音も死んだ。知っている。
だけど、それはおかしい。
たったひとりに、なるはずがないのだ。
私の家族は、柏木の家には、あの息苦しい、化粧の臭いのする家には、もうひとり。
もうひとりの家族が、いるのだから。
たったひとりに、なるはずがない。
なるはずがない。
だから、それは、おかしいのだ。
柏木耕一は、柏木耕一という人は、私の家族なのだから。
たったひとりなんかに、なるはずがない。

「待っ……、」

待って、と言おうとして顔を上げたときには、もう誰もいなかった。
嫌な臭いも、嫌な声も、何もなかった。
鳥の声もしない、静かな紅い住宅街の真中で、私は今、独りだった。

のろのろと、周りを見渡す。
何かを考えれば、何かの結論が出てしまいそうで、だから何も考えたくなかった。
立っているのが億劫で、ぺたりと座り込んだ。
ほんの、すぐ傍に転がるものがあった。
顔のない、躯だった。

手を伸ばした。
届かない。
手を伸ばした。
届かない。
手を伸ばした。
届かない。

手を伸ばして、届かずに、ようやく私は、座り込んだその場から一歩も動いていないことに気がついた。
立ち上がろうとした。
手を伸ばそうとした。
目の前が、光に埋め尽くされていた。
指先の、ほんの少し向こう側の全部が、白く染まっていた。

熱い、とは思わなかった。
光はほんの一瞬で、何かを思う前に消えてしまっていた。
手を伸ばしたその先の、何もかもを巻き込んで。

そこには、もう何もなかった。
ぐずぐずに融けたアスファルトと、黒く煤のついたブロック塀と、立ち昇る陽炎だけがあって、
他にはもう、何もなかった。

はらはらと、舞い落ちるものが見えた。
燃え落ちた布きれの、焼け焦げた切れ端だった。
金糸の刺繍がただ一文字、燃え残って眼に映った。

 ―――風、と。

伸ばした手はもう、届かない。


 

 【時間:2日目 AM11:29】
 【場所:平瀬村住宅街(G-02上部)】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:喪失】

柏木千鶴
 【所持品:なし】
 【状態:復讐鬼】
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