少女世界





ぜぇ、と響く音は喘鳴に等しく、鉄の臭いに満ちていた。
それが己の肺腑から立ち昇るものか、それとも周囲に転がる肉塊の撒き散らすものなのか、
既にその区別もなく、湯浅皐月は立っている。

ひ、と引き攣るような音は呼吸音と呼ぶにはあまりにか細い。
折れ砕けた頚椎の中で神経信号が散逸している。
びくびくと痙攣しようとする身体を精神力で統御しながら、柏木楓は立っている。

他に動くものとて残っていない閑静な住宅街、その一角を赤と褐色とに染め上げた少女二人、
ただ相手を斃すという、その意志だけが、死を超えて肉体を支えていた。
周りを取り囲んでいた砧夕霧の群れの姿は既にない。
大多数は東へと行軍し、残りは死に尽くした。

「―――ぁぁ……ッ!」

闘える、という事象が唯一の生の定義となった空間で、先に動いたのは楓である。
ふうわりと飛んだ、その軽やかとすら見える跳躍はしかし、傍らのブロック塀へと足をつくや一転。
引き絞られた剛弓から解き放たれた矢もかくやという突撃と化した。
鏃は真紅の爪。幾本もが折れ、或いは欠け、当初の美しさの見る影もなくなったそれは、
だが鋭さという一点においては今だ健在であった。

「―――ォォ……!」

正確に正中線を狙うその紅矢を、皐月は躱そうとしない。
既に余すところなき濃赤色となった血染めの特攻服をはためかせた仁王立ちのまま、
代わりとばかりに突き出されたのは左手である。掌には見るも無惨な貫通創。
同時に右の拳は腰溜めに引かれていた。堅く握られたそちらとて、乾いた血の中に垣間見えるのは
剥き出しとなった中手骨である。

「―――!」

交錯に声はない。
幾つかの硬い音だけが残った。
アスファルトに転がったのは楓である。
すぐにゆらりと立ち上がるが、その青黒く腫れ上がった顔には新たな痣が増えていた。
吐き出す歯は、果たして何本めであったか。

「……いいかげ、ひぅ……ひぅ、死に、ませんか」
「あんた、こそ……がぁ……っ、何度、殺せ、ばぁ……っ、く、たばる、のさ」

短いやり取りすら、既に言葉にならない。
互いに咥内はずたずたに裂け、折れた歯の欠片が食い込み、舌は深く切れている。
楓の持つ治癒ですら傷の多さ、深さにまるで追いついていなかった。

「どぉ、して……くれんだぁ……、これ……ぇ。け、っこん……しきとかぁ、が、はぁっ……!」

咳き込んだ拍子に真っ赤な飛沫を散らしながら、皐月が左手を掲げてみせる。
その手首から先は、既に人の手と呼べる状態ではなかった。
骨の代わりに挽き肉を詰め込んだような掌はまるで巨大な螺子回しで捻られたように渦巻状に折れ曲がり、
その先にあったはずの五指は既に、それらしきものの残滓が覗くのみであった。
先刻の突撃を受けきった、それが代償である。

「だいじょう、ぶ……です、心配……はぁ、するのは……お葬式の、は、手配……だけ……」

返した楓とて、腫れ上がった顔の中、片目は白く濁ってあらぬ方を向いている。
折れた眼窩骨の突き刺さったものであった。
皮膚を裂き、肉を分けて骨を抜き去らねば、いかな鬼の力とて眼球を回復することは叶わない。
痛みはない。ただ脳を焼き鏝で掻き回されるが如き感覚の雑音が、楓を麻痺させていた。
延髄の損傷と合わせ、楓の脳機能に深刻な障害が生じていることは間違いなかった。
その場に倒れこみ、泣き叫びながら反吐の海でのた打ち回っても何ら不思議はない肉体を
今だ支えているのは、ただ矜持である。
鬼としてのそれではない。人鬼の境など、この闘いはとうに超越していた。

楓を支えていたのは、眼前の相手のすべてよりも自身が優越しているべきだという、
少女としての矜持である。
それは肥大した自我の産物であり、愚かな片意地であり、視界の狭小なエゴイズムに他ならない。
だがそれは同時に、思春期に至った少女すべてが紛れもなく己のうちに飼っている、
この世で最も美しく猛々しい獣であった。
その獣の噛み合いこそが、少女という世界のすべてである。
柏木楓はその存在のすべてをもって、湯浅皐月を打ち倒す、そのためだけに立っていた。
そうしてそれはまた眼前の少女とて同じだと、楓は確信している。
少女の矜持は常に死を超越し、世界に君臨する。
矜持の故に少女は死なず、ならばその優越を粉砕し、蹂躙し、淘汰してようやく、楓は勝利できる。
血を流し、拳を砕き、その遥か先で心の折れ果てるまで、闘争は続くのだ。

だから、楓に散る赤は少女、湯浅皐月の流した血と、楓自身からの返り血の更に撥ねたものと、
その二つの交じり合ったものであるべきだった。
そうでなければ、ならなかった。
決して、決して、脳漿と、頭蓋の欠片と脳細胞と、血液と髄液と眼球と頬と舌と唇と、
そんなものの入り混じった何かであっては、ならなかった。

半ば呆然と、その頬に飛んだ何かを拭おうとして、己の爪で小作りな顔に新たな一文字の傷をつけ、
流れ出すどろりとした血がその何かを洗い流してくれるような気がして、楓は、膝から崩れ落ちた。
ゆるゆると視線を上げた先に、湯浅皐月が、否、湯浅皐月であったものが、立ち尽くしていた。
それは既に、ひとのかたちをしていない。
両の肩が平らな線で結ばれ、その上は存在しない。そんな人間など、ありはしなかった。
湯浅皐月と呼ばれていたものは既に、此岸の存在ではなくなっていた。
それでもなお倒れず仁王立ちのままでいたのは、それが少女のあり方であったからだろうか。

「……、あ……」

震える手を伸ばし、物言わず立ち尽くすその姿に触れようとした、刹那。
湯浅皐月であったものが、薙ぎ払われた。
誇り高い骸がくの字に曲がり、抗う術もなく大地に叩きつけられ、汚れた地面を転がる様を、
楓はその眼で見ていた。

「どう……、して……」

掠れた声は、決して深手の故でなく。
浮かぶ涙は、決して苦痛の故でなく。

「どうして、」

軋んだ叫びは、

「……千鶴、姉さん……!」

決して愛慕の故でなく。



 
 【時間:2日目 AM11:23】
 【場所:平瀬村住宅街(G-02上部)】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:満身創痍・鬼全開】

湯浅皐月
 【所持品:『雌威主統武(メイ=ストーム)』特攻服、支給品一式】
 【状態:死亡】

柏木千鶴
 【所持品:なし】
 【状態:復讐鬼】
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