(飲酒運転)/Fight it out!





 海のほとりにある、ごく小さな一軒屋。
 明るく輝く太陽の光とは対照的に、カーテンで閉ざされた室内はほの暗く、物の輪郭を僅かながらに、色彩を僅かながらにしか映し出しているのみ。
 けれども、そこの動く一つの影――小牧郁乃――の瞳は今にも燃え出しそうなくらいに爛々と輝いて、殺戮と絶望が飛び交うこの島においてもなお、不屈の意思を秘めたものを持っていることを示していた。

「……ふぅ、大分……動けるようになった」
 額につく、僅かな汗を袖で拭いながら郁乃は一息つく。

 ここ数時間で郁乃が歩行した距離は僅かに数キロにも満たない。遅すぎるほどの速度。
 だがそれでも郁乃は、自分が確実に歩けるようになっていることを確信していた。
 走ることはまだ叶わないが、少なくとも人の手を煩わせずに移動することができる。もう少し時間があれば様々な行動を取れるようになるだろう。
 もう、足手まといにはなりたくない。

 負けず嫌いとも自責ともいえるその一念が、郁乃を衝き動かしている。元来そのような性分だとは理解してはいたが、ここまでしていることに自身でも感心するくらいだ。
 姉……いや、病院の中だけだった狭い世界だったのが、七海を始めとして様々な人間に触れ、いかに郁乃自身が小さいものだったのかを思い知った結果かもしれない。事実、今まで郁乃はそこまで劣った存在ではないと思っていた節があったのだから。

 情けない話だ。
 経験して、叱責されて、ようやくそれに気付けたのだから。それもそうだが、それ以前に。
(……あいつに言われて、ってのがどうしても気に入らない)
 高槻と名乗ったその男。

 美形とは言い難いし、性格は最悪。すぐ調子に乗るし、スケベだし、ロリコンだし、ホラ吹きだし、天パだし。
 その上私の唇を奪おうとした。なんか告白まがいのことまでしてきたし。
 なんというか、ムカツク。そんな奴に指摘されて気がつくなんて。
 でも……いつの間にか、あいつのことを考えていたり。どこかで頼りにしていたり……違う違う! あいつの顔があまりに印象的すぎるだけ!
 というかなんで私はドキドキしてるわけ!? ありえない! だから最悪なのよあいつは!

「あの、小牧さん?」
 高槻の事を考えるあまり(本人はそう思ってはいないだろうが)頭を抱えたり腕を振り回したりしていた郁乃に不安を感じたのか、ほしのゆめみが手に水の入ったペットボトルを持って差し出していた。

「少し、休憩なされた方がよろしいかと思います。小牧さん、顔が赤いですし……体温の上昇が見受けられます」
「て、照れてなんかないわよ!」
「はい?」

 要領を得ないゆめみの表情に、そういう意味で言ったのではないとようやく悟った郁乃はげんなりして、「……ごめん、勘違い」と水を受け取り、ボトルのキャップを開く。
 久々に感じる水分の潤いが郁乃には心地よかった。色々考えていたのがアホらしく思えてくる。

「はぁ……ねぇ、ゆめみ」
「はい、なんでしょう」

 いつもと変わらぬ調子で応えるゆめみ。こういうとき変な勘繰りをしてこないことが、郁乃には都合がよかった。
「あいつ……高槻のことは、どう思ってるの?」
 別に深い意味などなかったが、何となく聞いてみたくなったのだ。高槻の事を考えていたから、他の人間は(ゆめみはロボットだけれども)どのような評価を下しているのか純粋に気になった。

「そうですね……行動力のある方だと思います」
 へえ、と郁乃は目を丸くする。郁乃の印象ではお調子者で間抜けな人間像だっただけに。
 気になったので、さらに追及する。

「どういうところが?」
「例えば……申し上げにくいことだとは理解していますが、宮内さんが殺害されたときに、真っ先に現場に直行して、確かな推理をなさっていましたし、わたしたちが襲撃されたときもわたしたちを守るために積極的に戦って下さいました。小牧さんを助けるために、海へ飛び込んだことも。模範となるべき人間像だとも考えます」

「……」
 過大評価でしょ、と郁乃は言いたくなった。
 確かにそういう場面もあったけど、模範と言えるかどうかと問われれば……絶対違う。
 というか、あいつは絶対自分のためだけに行動してるでしょ。うん、私には分かる。

「そ、そうなんだ……うん、まぁ、そういう見方もあるわよね」
 藤林杏や折原浩平、立田七海に再会できたときにはそっちに意見を聞いてみよう、と郁乃は思うのであった。

「ふぅ……」
 何はともあれ、少しは休憩した方がいいだろうと考えた郁乃は椅子を引いてそこに腰掛ける。ごく自然な動作だったが、それは郁乃の努力の賜物、というべきものであった。
 無論、郁乃本人はまだそれに気がついていないのであるが。
 頬杖をつき、どのくらい時間が経っているのだろうとふと気になったので時計を探してみる。
 が、置いていないのかそれとも死角に隠れているのか、どこを見渡しても時計らしきものは見当たらない。散らかっているくせに、なんと物のない家なんだ、と郁乃は息をつく。

「どうされました?」
「ああ、うん、時間が気になって」
「それでしたら、現在は日本時間の16:30を回ったころになります」

 再び郁乃は周りを見回す。どこにも時計のようなものはない。どうして分かるの? と尋ねるとゆめみは明朗に、
「わたしには体内時計機能も内蔵されておりますので。壊れていなければ、いいのですが……ここが世界のどこに位置するのか分かりませんので、調整しようにも出来なくなっているんです。申し訳ありません……」
 ああ、なるほどと納得する。確かに元がメイドロボであるHMXシリーズのOSを使っているのならそれくらいはあってもおかしくはない。

 しかし、もう夕方のだったのかと郁乃は時の流れの速さに驚かずにはいられない。病院にいたころには一日はあまりにも長く感じられたのに。
 そしてこの間にも人はどんどん死に絶えている。一体何人が命を落としたのだろうか。姉は無事なのだろうか。離れ離れになったみんなはどこにいるのだろうか。様々な不安が郁乃の中に蓄積されていく。それで何が変わるでもないと分かっていながらも、考えずにはいられないのだ。

 いや。今こそ行動を起こすべきなのではないだろうか。ゆめみも高槻もどちらかと言えば積極的に動くのは反対意見だ。当てのないまま動いても人を見つけられないという意見は、確かに郁乃も理解はできる。

 だがそれは大人の見方ではないのか。黙っていてどこそこに誰々がいる、という情報が入ってくるとでも言うのか。
 結局、自分の足で動かなければ情報は得られない。例え、それが徒労になるものだとしても。
 何より――今の自分には足があるじゃないか。

 しかしそれを提案したところでゆめみはともかく、高槻は首を縦には振らないだろう。
 高槻の目的はあくまでも脱出。悪く言ってしまえば自分が生き残れればそれでいいという自分本位の考え方だ。恐らく優先順位としては杏、浩平、七海を探すことよりも岸田洋一の残している可能性のある船を探すことの方が上のはずだ。
 分かっているのだ。高槻の言葉の裏に、郁乃を始めとして他の仲間たちをそれほど重要視していないというのが見え隠れしているということを。
 郁乃には、分かっていた。人の顔色を見ることは、得意だったから。
 しかし一方で、度々郁乃を守り、かばってくれた高槻の姿もまた真実である。それが、高槻の自己満足的な行動だったとしても、だ。
 だからこそ、郁乃は高槻に対する思いを決められずにいたのだ。彼の『善意』を信じるか『悪意』を信じるか。

 とかく、初めての経験が多すぎた。誰かに相談しようにも、ゆめみはそこまで人の心に通じてはいない(ゆえに郁乃は話しやすいと考えていたのであるが)。まだ、それを決められるほどには、郁乃は大人ではなかったのだ。
 そして、大人ではなかったがために――彼女は、迂闊な決断をしてしまったのだ。

「ゆめみ、ちょっとお願いがあるんだけど」

     *     *     *

「北海市場!激安食品販売店です!食費が今の半分になります!」
「北海市場!激安食品販売店です!食費が今の半分になります!」
「北海市場!激安食品販売店です!食費が今の半分になります!」

 何故かその台詞が連呼される夢を見ていた俺様が目覚めたのは、日の傾きかけたころだった。
 ああ、よく寝た。思えばこの島にやってきてからというもの、ついぞ寝た覚えがなかったな。さっき寝てたって? バカ、あれは気絶って言うのさ。大体犬の王子様のキッスで起こされるなんて最悪だ。お前らもそう思うだろ?

 ……つーか、やけに静かじゃねえか。よくよく見れば郁乃もゆめみもいやしないじゃないか。なんだ? これはビックリドッキリ企画か?
 ハハア。どうせポテトあたりでも使って何か良からぬ企みでもしているんだな? バカめ、そうそう俺様が引っかかるか。
 俺様はすっと立ち上がると実に久々の、初めてポテトと出会ったときのように拳法の構えをとってポテトの奇襲に備える。

 ……と、そこまでしたところで、今は殺し合いの真っ最中だということに気付いた。よく考えてみりゃいかに毒舌女王様の郁乃とボケの大魔神ゆめみ様と言えどもそんなことをするわけがない。
 ならどうして誰もいないんだ? 一言も言わずにここから出て行った、とでもいうのか?
 郁乃も、ゆめみも、ポテトもか?

 見捨てられた。
 そんな言葉が俺様の頭を過ぎる。
 ……まさか。郁乃もゆめみも、そんなことをする奴らじゃない。そんなわけがないだろ、常識的に考えて……

 待て。
 どうして俺様は動揺してるんだ?
 いつものことじゃないか。どこでだって俺様は嫌われ、罵られ、怨嗟をぶつけられてきた。その自覚もあったし、人の道を外れた行為なんていくらでもしてきたじゃないか。
 いつものこと。せいせいして、また一人になれて気楽気ままになったと喜ぶ。それが俺様じゃあないのか?
 なんだよ、まるで、自分が自分でないみたいじゃないか。ムカツクな……もやもやとしやがる。

「クソッ」
 悪態をつき、床に唾を吐く。それでも収まりがつかなかった。
 もういい。もうどうでもいい。適当にしてりゃいずれ分かる。またいつも通りにやればいいんだ。
 再び床に座り込み、二度寝に入ろうと俺様が目を閉じたときだった。

「ぴこぴこ、ぴこーーーーっ!!!」

 懐かしい、とさえ思ってしまうくらいに、実に久々に聞いたような、そんな声(というか鳴き声な)が耳に飛び込んできて、俺様は反射的に身を起こす。
 暗い家屋を照らす、一条の光。
 僅かに開けられた扉から、俺様を導くように……いや、叱咤するように、そいつは出てきた。
「ポテト……? てめえ、今まで何を」
 その時は、僅かに嬉しかったのだ。何故うれしかったのかなんて分かるわけがなかったから、またムカついたのだ。再会に感動する、なんて俺様のキャラでは考えられないからな。
 だからとりあえずいつものようにお仕置きでもしてやろう。そんな風に考え、俺様はポテトに駆け寄った。

 だが。何故か、どうしてか、ポテトの体は土に汚れ、弱弱しく俺様を見上げていたのだ。
「おい、なんだよ、それ」
 またもや訳がわからない。ポテトが何か悪戯でもして、郁乃あたりにでも投げ飛ばされたか?
 はは、ざまねえな。俺様ならこんなヘマはしないってのによ。

「ぴこ……っ!」

 何をやっているんだとでも言うように、ポテトは力を振り絞って吠えやがる。なんだよ、この必死さは。
 まさか……
「ぴこ!!!」

 いや、分かっていたはずなのだ。ただ、その可能性を認めたくはなかったのだ。
 在り得る可能性としての、郁乃とゆめみがいない理由。
 それは――

「クソッタレめ!」

 俺様は認めたくなかったのだ。目の当たりにしたくなかったのだ。
 弾かれるように走る。外へ、砂浜へと向かって。
 否定するために、ポテトの必死な目線が悪戯なんだと証明するために。
 しかし――嘘つきな俺様は、とうの昔に神様に見捨てられていたらしい。
 そこに、そこにあったのは――

     *     *     *

 その場所には、民家が立ち並んでいた。
 多少の違いはあれど、基本的には似たような作りの日本建築の家。
 普段であれば掃除機の五月蝿いモーター音、子供達が騒ぐ声、あるいはギターをかき鳴らす音色があるかもしれない。
 だが、そこには一つとして音はなかった。ただ一つ、気だるそうに、徒労に引き摺られるようにした足音があった。

「クソッ、骨が何本か逝ってやがる」
 防弾アーマー越しながらもごわごわと感じる自身の異常に、岸田洋一はイライラしていた。
 たかが、女二人にここまでの手傷を負わされたのだから。
 戦利品は申し分ない。狙撃銃のドラグノフ、89式小銃、二本目の釘打ち機(ただし釘だけ抜き取ってしまったが)。攻撃力は二度目の高槻の敗北の時と比べると月とスッポンである。

 だが、それでもなお残留する鈍痛という事実が彼の心を満たしはしなかった。とかく、また誰かを殺害――それも坂上智代と里村茜などとは比べ物にならないくらいの凄惨な殺し方でなければ気がすまない。
 いや、それでさえも彼の心は満足しないだろう。最終的な目標は、あくまでも岸田をコケにするように見下してきた高槻という男への復讐。
 奴の取り巻きどもを目の前で無残に殺し尽くし、憎悪をむき出しにして殺し合いを挑んでくる高槻を下し、絶望的な敗北感を味わわせる。
 これこそが極上の美食であり、最上の贄。岸田は早くそれに舌鼓を打ちたくて仕方がなかった。
 お腹が空いたと食べ物をせがむ、無邪気な子供のように。

「しかし、止むを得なくなったとは言え高槻から遠のいてしまったかもな」
 七瀬彰、七瀬留美、小牧愛佳が駆けていった方向とは逆に、岸田は移動していた。いくら岸田が強靭で逞しく、戦闘経験が豊富とはいえ傷ついた体で全力の戦いを何度も続けられるかと問われれば、岸田本人でさえ首を横に振るだろう。
 ある程度の休息が必要だった。それでもまだ十分に戦える状態ではあったのであるが。

 民家の森を抜けた岸田に、思わず目を細める光景が映る。
 海と砂浜。寄せては返す波の群れが彼を出迎えていた。場所こそ違えど、海は岸田の出発点でもある。
「そうだ、あのクソ忌々しい女もいずれブッ殺す必要があるな……」
 この島において初めて出会った人間にして、隙をつかれ苦汁を舐めさせられた女。笹森花梨の存在を、岸田は改めて思い返していた。
 高槻ほどではないが、花梨の存在も岸田には腹立たしかった。彼の辞書に敗北の文字は許されるはずがなく、汚点を残した花梨は全力で殺すべきだと認識を新たにする。

「まあいい。しばらくは海沿いに歩いてみるとするか。考えてみれば島の内陸部ばかり歩いていたからな」
 正式な参加者でない岸田に地図は支給されていない。道沿いに行動しては出会ってきた人間を襲うばかりだった。
 探索を楽しむのも一興と、砂浜へと向けて歩みだそうとした、その足がピタリと止まる。

 ある種の喜悦というものを、岸田は感じた。宝物を見つけた少年の瞳の如き輝きを、同じくその目に宿している。
 これまでの徒労が、憤怒が、花火のように弾け飛んで笑いという形で飛び出しそうにさえなった。

 誰かが言っていた。
 一度目は偶然。
 二度目は必然。
 三度目は運命。

 まさしくそうである、と岸田はそれを言った人物を褒め称えたくなった。
「そうか、そういうことなのだなぁ?」
 まるで無邪気な声ながらも、その内に潜む残忍さと冷徹さが、声のトーンとボリュームを下げる。
 柄にもなく、岸田洋一はワクワクしていた。

 そう、これはパーティの開演。
 全てが岸田洋一という一人のためだけに作り上げられた会場。
 この状況を、彼ならば何と言い表すだろう?
 決まっている。一声に、狼煙は上げられた。
「サプライズ・パーティー……開幕だっ!」

     *     *     *

「はい、何でしょう」

 お願いがある、という小牧郁乃の言葉に、ほしのゆめみはこれまでのように応える。わたしに可能な事柄でしたら、と付け加えるが。
「少し、外に出たいんだけど。ほら、こんな狭いところばかり歩き回ってても仕方ないじゃない? 少しは凹凸のあるところで訓練したいんだけど」

 郁乃の本音は、少し違う。単に訓練だけではない。拠点である民家の周りを歩き回って僅かでも仲間の探索を行いたかったのである。
 高槻の真意は、今でも推し量れない。馬鹿でお調子者だが大人であるがゆえの冷徹さを持ってもいる。
 いや、それも演技であるかもしれない。考えてみれば郁乃を助けてきた理由も、共に行動している理由も曖昧に誤魔化されたままだ。
 分からない。結局、分からない。
 信じるにも信じないにも、不確定要素が多すぎるのだ。

「それは……わたしは反対です。危険だと考えます」
「あいつが……そう言ったから?」
「それもあります、が状況から判断しましてバラバラに行動するのは好ましくありません。特に小牧さんは、まだ本調子ではないようですし」
「大丈夫よ。それに、一人で行くなんて言ってないでしょ。ゆめみにサポート役としてついててもらいたいんだけど……それでもダメ?」
「……高槻さんは、どうなされるのですか?」

 未だに高槻はすやすやと静かな寝息を立てて(郁乃には意外だったが)眠っている。寝ている人間を放置して出かけるのはそれも危険だと、ゆめみは判断したのだが郁乃はあまり心配していないような口調で答える。

「少しの間だけだから。それにこの家の周りをちょこっと歩くだけだから起きても探しに来るでしょ? ……そうだ、ポテト」
「ぴこ」

 高槻の隣でじっと待機していたポテトが、郁乃の呼びかけに応じてぴこぴこと寄ってくる。

「もしあいつが起きたら、私たちに知らせに来て。すぐに戻るから」
「ぴこ……ぴこ?」

 頷きかけて、ゆめみの方を見上げる。意見を伺っているかのようだった。
 ゆめみはそれならば、とようやく納得したように頷き、
「分かりました。ではわたしがお供します。ポテトさん、高槻さんをよろしくお願いしますね」
 恭しく頭を下げるゆめみに、任せろとでも言うようにしっぽを動かすポテト。

 実に奇妙な光景である。普段の郁乃なら思わず突っ込みを入れる場面だろうが、このときの彼女はとにかく外に出られるのならという気持ちで一杯になっており、そちらに意識が傾いていたのでそれをすることはなかった。

「決まりね。なら早速行きましょ」
「あ、少しお待ちください」

 玄関の方へ移動しようとする郁乃の後ろでゆめみがデイパックを抱える。万が一を想定して、武器類を持っていくことにしたのである。
 その準備の時間すら、郁乃には長く思えて仕方がなかった。
「……先に出るわ。ま、遅いからすぐに追いつけるはずだけど」

 結局、郁乃は先に出ることにする。とにかく、早く外に出たかった。
 恐らく、この場に第三者がいれば、明らかに郁乃が焦っているということは手に取るように分かったことだろう。
 歩行訓練のときはまったく意識していなかった時間という言葉が、重く圧し掛かっていたのである。
 これまでの仲間だけでなく、姉の愛佳や、他の知り合いも……
 ひょっとしたら危機に立たされているのではないか。そう考え始めると、それを考えないようにするのは不可能だった。
 幾分かの慢心にも近い、油断のようなものも無意識の内にあった。
 数時間前までとは違う。今はそれなりに行動でき、多少は戦える。そんな思いが。
 訓練に集中していたときに考えなかったことが、今一気に噴き出してきた、その結果だった。
 加えて、高槻へのほんの些細な疑心と反発。
 少しずつ、少しずつ。
 要因は、積み重なっていた。

 それが――
「では、わたしも行ってきますね。ポテトさん、高槻さん」
 寝ている高槻からは返事はない。ポテトだけが「ぴこ!」と元気に返事しようとした、その瞬間だった。
 たん、と何かが弾けたような、そんな感じの形容しがたい音が響いてきた。
 ――最悪の、状況を導き出すことになった。

「え……?」

 何の音か理解できなかったゆめみが呆然とそれを聞いていたのと対照的に、ポテトが玄関へと向けて走り出す。
 その白い姿で、ようやく我を取り戻したゆめみがそれに続くように駆け出す。
 いや、正確にはあの音が特別に危険な代物であると、コンピュータが推測したからだった。
 そう、その音は、銃声に、酷似していたのだ。
 ゆめみとポテトが乱暴とさえ言える勢いで外に出る。
 玄関の扉を開けた、すぐ前の砂浜で……

「小牧さんっ!」
「ぴこっ!」

 小牧郁乃は、うずくまるようにして、白い砂浜を赤く染めていた。
 そして、その真横に悠然と、されど傲慢に立つ男。
「……なんだ、奴はいないのか? まぁいい、前座にはぴったりだ。そうだろう、ロボットに糞犬」

 岸田洋一、その男が笑っていた。

「ぴこーーーーーーーっ!」

 その言葉を聞き終えるが早いか、ポテトは真っ直ぐに岸田へと猛進していた。
 小牧郁乃から離れろ。彼女を汚すな。ポテトの目はそう語っていた。
 地面を蹴り、砂を巻き上げるその脚力はポテトの小柄な姿からは想像もできないくらいに力強い。あんな小さな犬と侮っていた人間ならまずその速度に驚愕し、牙による一撃を腕か足か、どちらかに受けていただろう。

 だが今の岸田にはそれはお遊戯程度でしかなかった。
 軽く身を捩って躱し、そればかりか飛び掛かって空中にいたポテトの頭を掴むと、そのまま近くの木の幹へと投げ、叩きつける。
 したたか打ち付けられたポテトが力なく落ち、痙攣を繰り返す。
「犬如きが、何をできると思った!? 図に乗るなッ!」
 恫喝するその声は、もはや無学寺での面影はない。殺人鬼の名称ですら相応しくない、まさに狂戦士の姿である。

 ふん、と侮蔑にも満ちた視線で一瞥すると、次はそれをゆめみへと向け――鉈を取り出した。
「小牧さんから……離れてください!」
 まるで予測していたかのように、ゆめみが忍者刀を振り下ろしてくるのを、岸田はあっさりと受け止めていた。

「ほぅ、以前よりはマシになっているじゃないか……だが、そんなもので俺が満たせるかッ!」

 力任せに押し戻すと、岸田はバランスを崩したゆめみに向かって思い切り前蹴りを見舞う。
 モロにそれが直撃したゆめみは砂浜を転がりながらも、すぐに起き上がる。そこに岸田が間髪入れず、鉈を振り下ろす。
 プログラムによって運動能力が向上していたゆめみは、それを間一髪ながらも避ける。もしも以前のままであれば頭部のコンピュータごと唐竹のように割られていただろう。代わりに散ったのは、長く、美しい浅黄色の髪の一部。

「せあっ!」

 再び、刀で岸田目掛けて切りつける。やや単調な攻撃ではあるが、早さだけ見るならそれは並大抵の男よりは十分に早い攻撃だ。
 しかし事もなげにそれを防御し、そればかりか受け止めつつ左フックを顔面目掛けて放つ。
 首を捻ってそれを回避したかに思えたゆめみだが、またもや体勢の崩れたところを今度は膝蹴りで吹き飛ばされる。
 人口皮膚を通してパーツの一部がギシッ、と悲鳴を上げたのがゆめみには分かった。

 背中から砂浜に打ち付けられ、砂が服の中に入り込むが、それをどうこう感じるようなゆめみではない。もとよりそのような機能は備わっていない。
 ただ、かつて郁乃を傷つけたばかりか沢渡真琴を殺害したこの男を放置しておくのはあまりにも危険だと、そう考えるが故に。
 ゆめみは、立ち上がり続ける。

「まだまだ……わたしは動けます!」
「ポンコツの癖に、粋がるなッ!」

 三度、ゆめみの刀と岸田の鉈がぶつかる。
 力では勝てないと経験則で判断したゆめみは手数で攻める。
 あらゆる方向から薙ぎ、どこか一箇所でも傷をつけようと攻めを繰り返すも、躱され、受けられ、流される。
 それでも繰り返せば当たると、そう判断するゆめみは斬撃を続ける。それでもなお攻撃は当たるどころか、掠りさえしなかった。

「ふん、貴様、それで俺を殺すつもりなのか」
 その最中、岸田が口を開く。
「さっきから腕や足ばかり狙いやがって……俺を殺すつもりがないのか! 殺すなら、突いてみろ! 俺の胸を! 切り裂いてみろ! 俺の喉をッ!」
 胸を指し、顎を持ち上げて無防備にも喉を見せる岸田だが、ゆめみは手を変えようとはしない。あくまでも腕や足を狙うのみ。

 何故か?
 それは、彼女が……ゆめみがロボットだからだ。
 ロボット三原則。
 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
 今ゆめみがしている行動は、矛盾している。
 人間に危害を及ぼさないために、別の人間に危害を及ぼそうとしている。本来ならエラーを起こすくらいの重大な問題ですらある。
 だが、今回は特別であった。岸田洋一という男を放置しておけば、よりたくさんの人間に被害を与える。そう判断できたからだ。
 しかし、それでも、人間を殺害するというその行為だけは、ゆめみにはできなかったのだ。
 岸田洋一もまた、人間であるために。

「殺しません……殺さずに、小牧さんを助けてみせます!」
「殺さない!? 殺さないと言ったか! そんな中途半端なことで……俺が負けるわけがあるかッ! だから貴様はクズなんだよッ!」

 一瞬、岸田の姿が大きくなったように、『ロボットであるのに』ゆめみは錯覚した。
 錯覚という事象を判断できず、ゆめみの動きが数瞬、停止する。岸田がそれを逃すはずはなかった。
「今ここで貴様をぶっ壊すのはやめだッ!」
 岸田の放った鉈の一撃が、ゆめみの手から刀を奪う。続けてゆめみを蹴り倒すと、起き上がらせる間もなく岸田はゆめみを足蹴にし続ける。
「貴様も! 小牧郁乃も! 高槻の目の前で殺してやるッ! バラバラに砕いて、絶望に慄く姿を見ながら、楽しみながらな! 貴様のような、貴様のような! 口だけの甘ったれが! 戦いの場に出てくるんじゃないッ!!! 大人しく死んでいれば……いいんだよッ!!!」

 一際強く、ゆめみの頭部を蹴り飛ばす。あまりの勢いで体ごとその体が吹き飛ぶ。
 そして、それ以降、ゆめみの体は動かなくなった。
「……こんなのにも耐えられないとはな。所詮、ゴミクズはゴミクズか」
 吐き捨てる岸田。その背中に、かかる言葉があった。

「ひどい……なんて、ひどいことを……!」
 足をドラグノフで狙撃され、そのまま倒れこんでいた、小牧郁乃の声だった。
 撃たれた足からはじくじくと血が流れ出し、赤で砂浜を染め上げている。
 岸田は不敵に笑いながら、憎々しげに見上げる郁乃の頭を、砂浜にめり込ませるかのように踏みつける。ぐっ、と短い呻きが漏れる。

「どの口がそんなことをほざく? 貴様さえここにいなければあの犬もあのガラクタもああならずには済んだのかもしれないじゃないか? ん、どう思う小娘」
「何よ、他人事みたいに……!」

 強気な口調ながらも、心の底では岸田の言葉を、郁乃は否定しきることができなかった。
 『また』。また、自分のせいで誰かが傷つき、倒れる。
 沢渡真琴が骸と化したあの光景が、郁乃の頭に描き出される。
 しかし、今回も、『また』、そうなのか?

「違う……! 私が、私がみんなを……助けるんだ!」
 周囲の音全てをかき消す怒声に気圧され、岸田のかけていた圧力が弱まる。郁乃はその機を逃さず岸田の踏み付けから逃れ、ごろごろと転がりながらあるものを掴み取る。
 岸田は身軽に戦うため、自分のデイパックを砂浜に放り出していた。また、その時にふと零れてしまったのか、拳銃(ニューナンブM60)が転がっていたのだ。

 郁乃が取ったのは、まさにそれだった。
「形勢逆転よ! あんたが走ってもこの距離なら外さない!」
 ニューナンブの銃口が、岸田の真正面に立つ。予想外の反抗に、岸田は苦虫を噛み潰したような表情になった。
 装備は手持ちの鉈だけ。伏せているこの体勢ならばそうそう外すことはない。
 勝った、と郁乃は思った。

「……威勢はいいようだが、撃てるのかな? 人を殺したことはないんだろう? だいたい、本当に撃てるならとっくに撃ってるはずだからな。どうした、そら、撃ってみろよ」
 岸田は必死に虚勢を張るが、明らかに動揺しているのが見て取れる。哀れみにも似た感情を、郁乃は抱いた。
「それじゃあ、お望みどおりにしてあげる……あんたの罪を、ここで償えっ!」

 躊躇うことなく、郁乃はトリガーを引いた。
 ぱん、という軽い音と共にそれが岸田の真正面に命中する。
「……ほ、本当に……撃ちやがった……」
 がくりと膝を落とす岸田。このまま体の上半身も倒れ、そのまま骸となるのだろう。
 これがあの殺人鬼の最後なのだろうか。あっけないものだ――

「なぁんてな」

 腹を抱え首を垂れていた岸田が顔を上げたのは、郁乃がそう思った瞬間だった。
「え……っ!?」
 気が緩みかけていた郁乃に、再びニューナンブを構えるだけの時間はなかった。
 いや、構えようとしたときには、岸田は既に郁乃に向けて全力の蹴りを放っていた。
 どん、という鈍い感触と共に、郁乃の体は宙に浮いていた。まるで、サッカーボールのように。

「か……はっ」
 ニューナンブを奪いに行ったときよりも数倍の勢いで転がる。その勢いに圧され、ニューナンブは郁乃の手から離れてしまっていた。
「く……な、なんで……?」
 止まったときには仰向けであった。目に映るのは一面の空だけ。ひどく綺麗だった。
 体中に痛みを感じながら、郁乃はそんな疑問を漏らす。

「なんだ、もう忘れたのか」
 影が差すように、空を遮って岸田の顔が現れる。その表情は喜悦に満ちていた。
「まったく、学習能力がないなお前は。忘れたか? 俺が着ているものを」
「あ……っ!」

 そうだ。どうして忘れていたのだろう。
 岸田は、防弾アーマーを着ていたということを。
 愕然とした郁乃の顔を見た岸田が、さらに嗤う。

「仲間を助けるんだとか言って、自分に酔いしれていたんじゃないのか? 笑わせるな、小娘」
 郁乃は息を詰まらせる。そんな、そんなはずはない。
 しかし失念していたのは確かだ。愚かなのには違いなかった。
 歯噛みする郁乃を見てひとしきり顔を歪めると、一転して表情が不機嫌なものへと変わる。

「……しかし、今のは痛かったぞ。ごわごわするんだ……ああ、肋骨の一本でもイカれたかもしれない。そこだけは、やってくれたな」
 身も凍りつくような、とはまさにこれだと郁乃は思った。
 視線の先から滲み出る悪意。それに射られただけで体がすくんで動けない。
 カチカチ、と音が鳴っている。それが理解できたのは、岸田が振り上げた鉈の刃に移る自分の姿を見たときだった。
 震えているのだ。そう思ったときには鉈が郁乃の足に振り下ろされていた。
 めきっ、と何かがひび割れるような感触があった。それに続いて、今まで感じたことのないような熱さと痛みが、足から這い上がりたちまち郁乃の全身へと広がった。

「ぅあああああっ!」
 悲鳴を上げ、砂浜でのたうつ郁乃。
 奇妙なダンスだった。何かを求めるように、手が空をさ迷う。苦痛を和らげるものがないか、探すかのように。
「くくく、はははははっ! どうだ、大切な足をザックリやられた感想は!? せっかく歩けるようになったのに、これでまた車椅子生活だなぁ? まったく、無駄な努力になってしまったなぁ!」

 郁乃の努力を、生き方を嘲笑うように岸田は嗤い続ける。
 郁乃は苦痛に喘ぎながらも、悔しくてたまらなかった。怒りを感じていた。
 自分のミスにも、岸田の冒涜するような行いにも。

「はっはっは……さて」
 まだまだこれからだ、とでも言わんばかりに岸田はまた鉈を振り上げ、今度は反対の方の足へと鉈を振り下ろす。
 また嫌な音がしたかと思うと、苦痛が倍になって襲い掛かってくる。いや、倍などという生易しいものではなかった。累乗と言っても差し支えない程の痛みが、郁乃を苦しめる。自分の悲鳴すら、今の郁乃には届いていなかった。

「いい鳴き声じゃないか。そら、もっと鳴いてみろ。そら」
 傷口を直接、岸田は足でぐりぐりと擦りつける。100万ボルトの電流を流されたような痛みが追加され、郁乃は気を失いそうになる。
「あ……がっ……この……外道……!」

 ほぅ、と岸田は感嘆にも似た声を漏らす。絶対に屈しないという意思を集約したかのような目で、郁乃は抗い続けていた。
 ますます愉快そうに、岸田は嗤った。簡単に堕ちるようでは贄の役割は務まらない。無駄な抵抗を踏み躙る事こそ器を満たす液体。
「光栄だな。では、ご褒美だ」

 三度目の鉈。今度は手のひらの中心へと刃が落ちた。
 続けて四度目。さらに反対の手のひらにも振り下ろされる。
 既に、悲鳴はなかった。朦朧として霞む意識で、郁乃は耐え続けるしか抵抗する術はなかった。

「くく、これで物も満足に握れなくなったってワケだ。さしずめ達磨さんといったところかな……そうだ、どうせなら切り落としてやろうか? どうだ、ん?」
「……か……」

 勝手にしろ、という言葉すら痛みにかき消されて出てこない。意識を繋ぎとめるだけで精一杯なのだ。
「潮時か。まあ、お前はよく頑張ったよ。まだ見えているなら、俺があのポンコツを壊す様をじっくりと見てるんだな」
 岸田の興味は、既に倒れているゆめみに向けられている。蹴られたときの衝撃でシステムがダウンしているのか、ぴくりとも動かない。

 いけない。まだだ、まだ注意をこちらに向けさせないと――
 激痛を必死に堪えて、口を開く。
「……!」

 岸田の体の向きが、変わる。
 やった、また、注意を向けさせることができたのだ。大量の失血により薄れゆく意識の中で、郁乃はそう思っていた。
 しかし、違った。郁乃は結局、声を出せなかった。岸田が引き付けられたのは、郁乃の声にではない。

「……来たか。待った、この時を待ちかねたぞ……!」

 そこに、一人に男が駆けて来たからに他ならない。

「高槻ッ!」
「岸田ァ!」

 そして、二人は同時に叫んだ。

「「ブッ殺してやるッ!」」

     *     *     *

 ゆめみが転がっていた。
 郁乃が倒れていた。
 何故二人が外に出ようとしたのかなんて、俺様には分からない。だが、今の状況を作った原因が、奴のせいだということはすぐに分かったさ。

 三度目だ。奴とこの島で会うのは三度目。
 三度目の正直とはよく言ったもんだ。二度逃がした結果が、これか。
 くそっ、畜生!
 何で俺様はこんなに頭にきてるんだ?
 郁乃もゆめみも、赤の他人じゃねぇか。別にどうなろうと知ったこっちゃない。そう思ってたってのによ。ああもう、分からん。

 俺様が、俺様を分からない。
 だが、これだけは言える。
 奴だけは……岸田洋一、奴だけは絶対に許さん!

「高槻ッ!」
「岸田ァ!」

 俺様は懐にあったコルト・ガバメントを抜きながら叫んだ。

「「ブッ殺してやるッ!」」

 ちっ、ハモるとはますます気分が悪くなるぜ。
 俺様はまず一発、発砲する。奴の武器は鉈だ。なら距離を取って戦えばいい。
 だが岸田はそれを予測していたようで、身軽な動きでサイドステップしてこちらに迫る。

「飛び道具はつまらんぞ! せっかくの決闘に、そんなものを持ち込むなッ!」
「うるせぇッ! お前も今までさんざ使ってきたじゃねえか!」

 円を描くように振り回される斬撃の応酬を、俺様も飛び跳ねながら避ける。クソッ、あいつ、今までより動きが良くなってやがる!
 銃を構えようとしても照準を向ける前に鉈が迫ってくる。赤い鉈が。
 だが奴だっていつまでも振り回し続けられるはずがない。疲れて動きが鈍ってきたところに、一発叩き込んでやる! 今度はヘマはしねえ、ドタマをブチ抜く!

「どうした、避けてばかりいないで反撃してみたらどうだ!」
 言われずともそうしてやるさ。奴の攻撃もだんだん大振りになってきた。次を躱したときが……チャンスだ!
「っ、さっさと当たれ!」
 岸田が大きく鉈を振りかぶる動作をする。よし、今だ――!?

「フェイントだッ!」
 ニヤリ、と岸田は笑ったかと思うと、目にも留まらぬ勢いで鉈を振ってきやがった! 疲れていたように見せていたというのか!
 俺様はギリギリで反応し、体に当たることだけは防いだ、が、運悪くガバメントに鉈の刃が当たり俺様の手から弾け飛んで遠くへと放物線を描いていってしまった。
 ぐっ、と手を押さえる俺様に、岸田はトントンとてめえの頭を指しやがる。

「俺を、今までの俺だと思うな、高槻」

 何か言い返したくなるところだが、確かに奴は今までとは違う。何かが洗練され、研ぎ澄まされたような感じだ。……そういえば。野郎、俺様のことを名前で呼ぶようになってやがる。今までクズだのカスだの言ってたくせによ。は、ここにきてようやく人間に格上げですか。そりゃまあクソありがたい事ですね。

「さぁ、お遊戯は終わりだ。そこの刀を取れ、高槻。極限の状況、互いが互いの殺意を向け合う決闘では、肉体と死の感触を得られる格闘戦こそ相応しい」

 岸田が、まるで用意されたかのようにあった、俺様のすぐ横にある忍者刀(だったかな)を鉈で指す。どうも奴はこだわりがあるようだ。
 冗談じゃない、奴のこだわりとやらに付き合う暇も、余裕もない。……しかし、アレ以外に、近くに武器がないのも、確かなことだ。
 だったら、奴の決闘ごっこに付き合いつつ、銃を拾い、こっちのペースに持っていくしかない。
 俺様が刀を握るのを見届けた岸田が、ようやく満足そうな笑みを浮かべる。クソッ、気に入らない。

「そうだ、それでこそ、あの贄どもの意味も出てくるというものだ」
「贄……?」

 オウム返しのように、その言葉の意味を尋ねると、岸田はさも愉快そうに説明を始める。

「あぁ。愉しかったぜ、必死で抵抗するあの小娘の四肢を切り刻んでやったのはな……見せてやりたかったぞ高槻。あいつは、せっかく歩けるようになったというのに、この俺の手で二度と立てないようにしてやったんだからな! いや、ひょっとしたらあのまま死んじまったかもな、はっはっは!」
「な……に?」

 あいつは、歩けるようになるまで、必死に頑張っていたというのか? 俺様が寝ている間の、何時間という間を。
 それを、こいつは、その何十分の一という時間で、全部台無しにしやがったってのか?
 小賢しい知恵が、俺様の頭から吹き飛んでいく。代わりに流れ込むのは憤怒。どうしようもない思いだった。

「ついでに手も切ってやったしな。これであの小娘は一人じゃ何にも出来なくなったってワケだ。悔しそうだったぜ、あの時の顔は」

 郁乃の、ほんのささやかなプライドすら……野郎は、踏み躙ったってのかよ?
 ……許せねえ。
 何が許せないか? 岸田もそうだが、それ以前に……

「まぁ、あえて文句を言うならあそこでみっともなく助けでも求めてくれれば――」
「――黙れ」

 それ以前に。『俺』の、俺自身のあまりの小ささが、矮小さが、許せなかった。

「ん? 何か言ったか? 聞こえんぞ?」
「黙れェェェェェェェッ!!!」

 刀を持ち、俺は真正面から突撃していった。今までにない感情に、押し出されるようにして。
 岸田は一瞬驚いたような表情になって、俺の斬撃を受け止める。金属同士がぶつかり合う甲高い音と一緒に、互いの力と力が激突する。

「貴様……貴様だけはッ!」
「ぐっ……! だが、いい顔になったぞッ! それでこそ俺が殺すに相応しい男だ!」

 全くの同じタイミングで弾いて距離を取ると、今度は岸田が先手を撃って横薙ぎに鉈を振るう。
 俺はしゃがんでそれを躱すと、岸田の足に向かって斬りつける。
 だが岸田もそれを飛んで回避すると、落ちるときの、落下の勢いを加えた振り下ろしで攻撃してくる。
 鉈の重たい斬撃は、俺の刀では到底受け止められない。転がってそれを避け、立ち上がる。同時に、岸田も体勢を立て直していた。

「いい動きだ高槻! そうだ、これこそ決闘! これこそ殺し合いだッ!」
「ほざけッ!」

 俺が斬撃を繰り出せば、奴がそれを受け止める。
 奴が鉈を振りかぶれば、俺は避けてその隙を突こうとする。
 そんなことの繰り返しだった。ただ悪戯に時間を消費していくだけだが、どういうことか俺様も、岸田も体力が減ったような気がしない。
 まるでそこだけ時間が止まったように。

 岸田の十数度目の一撃。今度は小さく飛び跳ねるように、僅かな放物線を描くように飛び掛かってきた。
 小さくバックステップしてギリギリ、射程の外に移動する。――が、更に追撃をかけるように奴はその長身を生かした蹴りを俺に放つ。
 切磋に腕でガードして直撃だけは免れたものの、ジンジンとした痛みが腕に残った。
 さっきから、幾度となく攻防を繰り返しているのにまるでパターンというものが見受けられない。
 どれもこれも予測もつかないような攻撃ばかりだ。本気を出した岸田洋一という男の、実力がこれだと言うのか。クソッ、悔しいが、強い。

「どうした高槻! それが貴様の殺意か!? そんな憎しみでは、憎悪では、俺は殺せんぞ! 否定してみろ! 俺の全てを!」
「憎悪だと――!?」
「そうだッ!」

 岸田が、まるで舞踏会のように、華麗に、あらゆる方向から鉈を振り回してくる。
 俺はそれを受けつつ、時に避けつつ、反撃の機会を待った。

「俺は貴様が憎いッ! 惨めにも貴様の前から敗走を繰り返し、背中を見せ、しっぽを巻く羽目になった! 俺のプライドを! 貴様はズタズタに切り裂いたんだッ! しかも、貴様のような、貴様のような、悪党の癖にヒーローを気取ってやがる気障な野郎にだッ!!!」

 斬撃の直後、俺が避けた後の僅かな隙を突くように。岸田は肩からタックルをかまし、俺の体勢を無理矢理崩した。
 よろめく俺に、岸田の放った拳が俺の顔を衝く。強烈すぎる圧力に、鼻が曲がりそうになった。

「だから、貴様は完膚なきまでに叩き潰す! 俺の全力を以って、正々堂々と、真正面からな! 何をしても、絶対に俺には敵わないんだということを思い知らせてやる! 俺の鬱憤はそうしないと晴らせないんだよ!」

 再び顔を潰そうと、奴の拳が迫る。だが二度目はねえ!
 空いた方の手で岸田の拳を受け止める。押し切る事が出来ず、ならばと振り上げた鉈は下ろす直前、俺の刀に阻まれる。

「高槻も同じはずだ! 仲間とやらを一度ならず二度までも襲われて、貴様もプライドに傷がついたはずだ。我慢する必要はない。本能のままに、いがみ合い、奪い合い、憎しみ合えばいいんだ。それが人の本性なのだからな。そして、それが美しくもある……だから見せてみろ! 貴様の憎悪という『芸術』を! 俺がそいつを粉々に打ち砕いてやるッ!」
「――違う。岸田よぉ、お前こそ、少しも分かってない」

 憎悪。それが全くのゼロかと問われると、そうではないとは言い切れない。だが、奴の言っていることは明らかに見当違いだ。
 俺が本当に憎んでいるのは、岸田じゃない。いや正確には、岸田以上に憎んでいるのは。

「分かってない、だと」
「けっ、教えて欲しそうだが、教えるかよ。俺はお前が大嫌いなんだ」

 ここにきて、ようやく自分の心と向き合えたこと。
 つまり……沢渡や郁乃を犠牲にするまで、向き合おうともしなかった自分の情けない心が、憎いのだ。

「まだ……まだ、ヒーロー気取りか! だから貴様には苛々するんだ!」
「奇遇だな! 岸田の存在にはこっちが苛々するんだよ! そろそろ、決着と行こうぜ!」

 互いの拳と、得物を弾き、もう一度距離を取る。
 その間は……大体5メートルってところか。次の一閃。そいつで決める。
 俺は刀を両手で握り、ありったけの力を篭められるように神経を集中させる。
 岸田もこれが最後と、俺を待ち受けるようにドシンと構えてやがる。

 寄せては返す、波の音が聞こえる。そのお陰だからか、体はこんなにも煮え滾っているのに頭ん中はとても静かだ。
 今なら、なんだって出来そうな気がする。
 俺は、静かに笑った。

 ――勝つ。絶対にだ。

「行くぜッ! うらぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
 駆ける。俺の人生の中で、最速の疾走。そこに、剣先にありったけの力を――!?
「馬鹿だな、やはり、貴様は」

 岸田が地面を、いや、砂浜を蹴り上げる。
 そこに舞うのは砂塵。大量の粒が俺の目に侵入してきやがった! 野郎! 目潰しとは!
 まともに喰らった俺は、その場で動きを止めてしまう。

「クソッ! 正々堂々じゃなかったのかよ!」
「ふん、『正々堂々と』策を用いたまでだ! もう何も見えまいッ!」
 見えずとも、分かった。岸田の野郎は、嬉々として鉈を振り上げているのだろう。

「猿(モンキー)が人間に追いつけるかッ! 貴様は! この岸田洋一にとっての猿(モンキー)なんだよ、高槻ィッ!」
 畜生……! ここで、ここで俺は終わりなのか!?
「終わりだッ! 死……」

 そんなとき。ぱん、と何か軽い、ひどく乾いた音がした。
「あ……ガッ? こ、これ、は……ぐっ……!」
 僅かに、視界が開けてくる。そこには、足を押さえてうずくまる岸田と――

「……バーカ……」

 血まみれで、しかし必死に拳銃を構えて、呟いていた、郁乃の姿があった。

「こ、小娘ェッ!!! 貴様ァ、殺してや」
「死ぬのはそっちだ、岸田洋一」
「!? しまっ……」
 視界はあやふやなままだったが、関係ない。てめぇのその馬鹿でかい声で丸分かりだ。それが……命取りだッ!

「がは……ッ!!!」
 岸田の背中に、防弾アーマーの少し上を行くように、刀が突き立てられる。恐らくは、綺麗に、墓標のように。
 血反吐を撒き散らしながら、岸田は断末魔の声を上げる。

「クソ野郎……! 貴様、貴様だけは、俺が……」

 まるで縋るように、岸田は俺へと向き、手を伸ばす。しかしそれは俺に届くことなく、途中で落ちた。

「そのまま地獄に落ちやがれ、ゲス野郎」

 俺がそう吐き捨てると同時に。岸田洋一という悪党の生は、そこで途絶えた。

     *     *     *

 ゆめみが、目を覚ました(正確には、プログラムの復帰だが)ときには、既に決着がついていた。
 忍者刀を突き立てられた岸田洋一と、それを見下ろす高槻。そして、その先に血まみれで倒れている、小牧郁乃。
 ああ、また間に合わなかったのだ、とゆめみは思った。

「ぴこ」
 その隣に、疲れたように鳴く、ポテトの姿があった。
 返答など得られないと知りながらも、ゆめみはポテトに話しかける。

「わたしは……また、お役に立てなかったのでしょうか」
「ぴこ……」

 分かっているのか、いないのか、しかし首を横に、ポテトは振った。
 痛みは全くなく、強いてあげるとすれば僅かにパーツが軋むくらいだったが、概ね行動に支障はない。
 なのに、ゆめみは起き上がることすらできなかった。

「申し訳ありません……申し訳、ありません」
 罪悪感のような意識が、ゆめみを苛んでいた。ポテトがいくら、その肩を叩いてもゆめみはそう呟くばかりだった。
「おい、郁乃……」
 その先で、高槻は郁乃に話しかけていた。まるでいつものように。

「……遅いのよ、いつも、いつも」
「……悪い」

 歯切れの悪い会話。原因はいくつもあった。それを吐き出すように、郁乃がか細い声で呟く。もう、彼女の中に残る命は殆どなかった。

「何よ、らしくないじゃない……怒ってよ、今回は、私が……悪かった、のに」
「……チャラにしてやるよ。さっき、助けてもらったしな」
「そりゃ、どうも……は、ざまみろって感じ、よね」

 郁乃の手には拳銃を繋ぐように、赤い布が巻かれている。握れないのなら、無理矢理にでも握らせてやる、とでも言うように。
 それは、文字通り郁乃の命を削って生み出された、最後の一撃であることを示していた。

「ね、ゆめみは、無事なの?」
 話題に出されたゆめみの思考が、一瞬停止する。倒れたまま、どうすればいいのか分からなかったゆめみだが、ポテトが叱咤するように顔を舐める。
「はい、わたしは、大丈夫です」
 言葉以上に弱い足取りで、ゆめみは立ち上がった。高槻も少し驚いたように、「良かったな、ピンピンしてやがるぜ」と言った。

「そう……なら、良かった……私……何も守れなかったわけじゃなかったんだ……ゆめみ、どこ?」
「何言ってんだ、すぐ近くに」

 そう言い掛けて、高槻は郁乃の異変に気付く。既に、彼女の瞳は虚ろだった。
「はい、わたしは、ここに……」
 見ているほうが泣きそうなくらいの表情で、ゆめみは郁乃の手を掴む。その温度は、暖かさは、薄れてしまっている。
「ゆめ、み。自分を……責めないで……すごく、立派だったから……ここの、誰よりも」
 誰もが誰かを殺そうとしていた中、最後の最後まで不殺を貫いていたのはゆめみだけだった。例え、それがプログラムによるものだとしても、その意思は、何より気高いものには違いなかった。

「……光栄です」
 それを否定するのは、郁乃の思いも否定することになる。そう判断したゆめみは、震える声で、応えた。
「……高槻。ごめんなさい、少しだけ、疑ってたの。最終的には、私たちを見捨てるんじゃないか、って。でも、やっぱり私が間違ってた。……ヒーローだった。誰がなんと言おうと、あんたは私のヒーローだった……は、気付くのが、遅いのよね、馬鹿みたい、私」

 高槻は応えない。黙って、郁乃の言葉に耳を傾けていた。あるいは、何か思うところがあるのかもしれないと、ゆめみは思った。
「だから、さ、さいご、まで、あんたは、あんたのしんじる、み、み……ち、を……すすん、で……」
 やっとの思いで、言葉を吐き出した郁乃の目は、そこで、閉じられた。

「小牧、さん……」
「……畜生」

 高槻が、空を見上げる。その空はどんよりと曇っていて、今にも泣き出しそうな空だった。
 どうして、晴れにしてくれないんだよ。
 そんな呟きが、空しく吸い込まれていった。




【時間:2日目・17:30】
【場所:B-5西、海岸】

覚醒した男・高槻
【所持品:忍者刀、日本刀、分厚い小説、ポテト(光一個)、コルトガバメント(装弾数:6/7)予備弾(6)、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:激しい疲労、左腕に鈍痛。主催者を直々にブッ潰す】
【備考:忍者刀以外の所持品は民家の中。ガバメントは海岸に落ちている】

小牧郁乃
【所持品:ニューナンブM60(3/5)、写真集×2、S&W 500マグナム(5/5、予備弾7発)、ほか支給品一式】
【状態:死亡】
【備考:ニューナンブ以外の所持品は民家の中】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者セット(手裏剣・他)、おたま、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動かない。運動能力向上】

岸田洋一
【持ち物:ニューナンブの予備弾薬4発、鉈、カッターナイフ、投げナイフ、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、ドラグノフ(0/10)89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2】
【状態:死亡】


【その他:鎌石村役場二階の大広間に電動釘打ち機(0/15)、ペンチ数本、ヘルメットが放置】
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