十一時二十三分/軛、解き放つ





それは、雨であった。
鋭い鋼鉄の穂先を大地へと向け、穿ち貫かんと落ち来るそれを、雨と呼ぶならば。

それは、槍であった。
天空より間断なく流れ落ち、地上へと等しく降るそれを、槍と呼ぶならば。

雨の如く降り注ぐ、桃色と鈍色の入り混じった無数の槍。
遥か高みより降る凶刃が終わらせたのは、たった一つの命である。

その、命であったものの名を、久瀬という。
最初の一筋が脳天を貫いた瞬間に、久瀬少年の命は終わっている。
何かを掴もうと伸ばされた指がびくりと震え、そして、それが最後だった。
直後、幾筋も幾筋も降り注いだ槍が貫き通したのは、少年の骸である。

人の形をしていた少年が、赤い液体と無数の欠片へと解体されたその場所へ、降り立つ者があった。
返り血と思しき赤黒い斑模様で纏った白衣を最早そうと呼べぬまでに汚し、背には肉色の翼。
肩の辺りから生えた四本の鋼鉄の腕をやはり血で染め上げ、はだけた胸からは断末魔の如き表情をした
女の顔が二つ、埋め込まれているのが見えた。
人、と呼ぶにはあまりにもヒトとかけ離れたその姿を目にして、声を漏らした者がいる。
急ぎ駆け戻った男、坂神蝉丸であった。

「長瀬……源五郎……!」

名を呼ばれ、悪夢を具現化したかの如き姿の男が、にたりと笑った。
歯茎を剥いた、怖気が立つほど醜悪な笑い。

「司令、と呼び給えよ、坂神君。いや……坂神脱走兵、というべきかね?
 副社長におかれても、ご機嫌麗しく」
「……何故、久瀬を殺した」

触れれば斬れるような声音。
口臭の漂ってきそうな笑みにも、血の海に倒れ伏す来栖川綾香を見下した視線にも委細構わず、
蝉丸はそれだけを口にする。

「……何故? 何故と問うのかね、君は?」

そんな蝉丸へと視線を戻すと、長瀬はくつくつと笑う。
肺病やみが咳き込むような、痰の絡んだ笑い方だった。

「特段の理由などないよ。ただ私の道具を取りに来た、そこにたまたま彼がいただけさ」
「道具……だと」

言われて初めて、蝉丸が気付く。
長瀬の足元、のたうつ肉色の槍に隠れるようにして、小さな影があった。
広がる血の海の中で暴れることもなく、じっと蹲っている影を、長瀬の鋼鉄の腕が掴んで引きずり起こす。
久瀬少年の血に塗れながら表情一つ変えず、眼鏡の奥で焦点の合わぬ瞳を光らせる少女を見て、
蝉丸が呻くような声を漏らした。

「貴様、それは夕霧の……」
「演算中枢だよ、坂神君。私はこれを取りに来ただけだ。ずっと君の目が光っていたから、少しばかり難儀したがね」

見せ付けるように、片腕で夕霧を吊り上げる長瀬。
その身体から伸びた、ケーブルとも槍ともつかぬ金属製の管が、まるで触手のように夕霧の身体を這い回る。

「迂闊だったねえ、坂神君。君が目を離したりしなければ、私もこれに近づけなかった。
 ……久瀬大臣の愚かな御子息も、死なずに済んだかもしれないなあ」
「―――黙れ」

激昂も見せず、あくまでも静かに、蝉丸が口を開いた。
転瞬。

「―――!」

銀弧が閃いた。
音もなく駆けた蝉丸が、一気に間合いを詰めると手の一刀を振るったのである。
それを、

「おっと」

おどけるような仕草と共に、長瀬が飛び退って避ける。
強い風が、蝉丸の頬を叩いた。
長瀬は文字通り、肉色の翼を羽ばたかせて飛んでいたのであった。

「貴様……!」
「おお、怖い怖い。君といい光岡君といい、強化兵の近接戦闘能力は驚愕に値するからね。
 正面からやりあう気などないよ」

刀の届かぬ高度でゆっくりと羽ばたきながら、長瀬が肩をすくめる。
鋼鉄の腕には砧夕霧を抱えている。
その血に濡れた身体の上には、やはり触手のような管が何本も這い回っていた。

「……うん、これではよくわからないな」

一人呟いて首肯する。
と、夕霧の身体を這っていた管の束が、唐突にその動きを変えた。
夕霧の纏った質素な服の上を這っていたものが、一斉に襟を、裾を、袖を目指して蠢く。
瞬く間に衣服の下へと潜り込んだ管の群れが、ぞろぞろと布地を持ち上げる。
宙吊りにされた少女が無数の蛇に肢体をまさぐられているような、それは淫靡な光景であった。

「どうだい、ミルファ、シルファ。私の可愛い娘たち。解析は終わりそうかい」

鳥肌の立つような猫撫で声で長瀬が語りかけたのは、その胸に浮かぶ人面瘡の如き二つの顔である。
よく見れば、ケーブルの束は断末魔を写し取ったようなその顔の、口腔の奥から伸びているのだった。
時折、びくりと夕霧が震える。
薄い布地の向こう、襟から潜った管が小さく盛り上がった双丘を舐る。
袖から腕、脇を通って背筋をまさぐる管もあった。
スカートの裾から入り込んだ管は下腹部から尻の辺りを取り巻いていた。
濡れた音がするのは、如何なる行為によるものか。

「下種が……!」

押し殺したような怒声と共に飛んだ針のようなものを、長瀬が翼の一振りで悠々と躱す。
虚しく弧を描いて落ちるのは、真紅の細刃。
先刻の交戦で斬り飛ばされた、来栖川綾香の鬼の爪であった。

「そう急かないでくれ給えよ、坂神君。焦らなくとも、もうすぐ……おや、終わったのかい、娘たち」

蝉丸への嘲るような声音とはうって変わった、気色の悪い甘い声。
見れば、びくりびくりと震えていた夕霧の肢体がだらりと弛緩している。
それを目にして満足げに頷く長瀬。

「うん、それじゃあ……始めようか」

言葉と共に、びり、と音がした。
布の裂ける音。夕霧の纏っていた、質素な服が引き裂かれていく音である。
陽光の下、白い肌が惜しげもなく晒されていく。
瞬く間に、その肢体を覆っていた布地がすべて取り払われた。
乳房の先に覗く桃色も、下腹部を薄く覆う翳りもすべて、その上をのたくる管の群れと共に曝け出されていた。
長瀬の鋼鉄の腕によって両腕を拘束され、吊り下げられるような姿勢のまま裸体を隠すこともできず、
しかし夕霧はぼんやりとした瞳だけを眼鏡の奥に光らせたまま、表情を変えない。
そんな夕霧を後ろからかき抱くようにして身体を寄せると、長瀬がその感情のない顔に手を伸ばした。
肩から生えた鋼鉄の腕ではない。長瀬源五郎の、生身の手である。
ゆっくりと撫でるようにして、長瀬の手指が夕霧の頬を這う。
痩せこけた血色の悪い唇を、ごつごつと骨ばった長い指がなぞる。
白い首筋からこびり付いた血の乾き始めた耳の辺りまでを嘗め回すようにしていた長瀬が、その耳元に囁いた。

「私と一つになりなさい、失敗作」

同時。
ぞぶり、と嫌な音と共に、ケーブルの先端、槍の穂先のように尖ったそれが、夕霧の裸体に突き刺さっていた。
ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり。
首筋に、背に、脇腹に、太腿に、二の腕に、薄くあばらの浮いた肢体に、何本も刺さっていく管の群れ。
その度にびくりと震える夕霧の身体からは、しかし奇妙なことに血が流れ出さない。
それどころか、まるで刺さったケーブルを取り込むかのように、破れた皮膚が再生し、薄皮が張っていく。

「成る程、成る程、成る程。余計な感情を溜め込んだものだ。余分なノイズを取っておいたものだ。
 こんなものは―――消してしまえばいい」

目を細め、長瀬が独り言じみた呟きを漏らした途端、夕霧の身体が一際大きく跳ねた。
激しい痙攣が二度、三度と続き、そしてすぐに静かになった。

「さあ、これで綺麗になった」
「……ッ!」

歯噛みしながら見上げていた蝉丸が、思わず絶句する。
頷いた長瀬がひと撫でした夕霧の顔は、先刻までとはまるで異なっていた。
何の感情も浮かべていなかったその顔に、一つの明確な表情が刻まれていた。
即ち―――、絶望。

「貴様……!」

そこにあったのは、苦痛でも、悲嘆ですらなかった。
この世に存在する希望という希望を絶たれ、怨嗟に塗れ、生を呪う、それは亡者の表情。
それはまるで、長瀬の胸に埋め込まれた二つの顔をそっくり写し取ったような、顔であった。

「何を……一体、何をしたッ……!」
「ん?」

地上で叫ぶ蝉丸の存在を、まるで今思い出したとでもいうように長瀬が見やる。
にやにやと見下ろすその視線には、何らの特別な感情は浮かんでいない。

「何、と言われても……道具をフォーマットしただけさ。雑念が煩かったからね」
「外道が……!」

曇った眼鏡を拭いただけ、とでもいうようなその口調に、蝉丸が手の一刀を握り直すとほぼ同時。

「ぬ……!?」

蝉丸が跳んでいた。
僅かに遅れて、立っていたその場所に突き立つものがある。
上空を飛ぶ長瀬の身体から伸びた、肉と鉄の入り混じった槍であった。
その足元に広がっていた、乾きかけた血の海がべしゃりと撥ねた。
ざっくりと裂けた右足から真新しい紅の珠が飛ぶのにも、蝉丸は眉筋一つ動かさない。
天空の高みから次々と迫り来る槍を的確に躱していく。
しかし、

(……?)

おかしい、と蝉丸は己の直感が告げるのを感じていた。
次々に降り注ぐ槍は確かに鋭く、速い。
しかしその位置、照準、タイミングがあまりにも粗雑に過ぎた。
長瀬が戦闘に関して素人であると言ってしまえばそれまでなのかも知れない。
しかし、それだけでは片付けられない何かを、蝉丸の研ぎ澄まされた勘は嗅ぎ取っていた。
降り注ぐ槍には何か別の狙いがある、と。
蝉丸がそこまでを思考したのを読み取ったかのように、天空からの攻撃が、止まった。
大地に張り巡らされた蜘蛛の巣のように無数の槍を突き立てておきながら、蝉丸には未だ傷一つつけていない。
それが唐突に止まっていたのである。
思わず見上げた蝉丸の耳朶を、

「さあ、食事の時間だ」

長瀬の声が打ったのと、時を同じくして。
ぞぶり、と音がした。
音は、一つではない。
それは蝉丸の周囲、四方八方のあらゆる方向から、無数に響いていた。

ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり。
ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり。
ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり。

まるで挽き肉を捏ね回すような、或いは鍋に満たした湯の沸き立つような。
ひどく耳障りなその音は、蝉丸のすぐ側、或いは手の届かぬ遠く。
地面に突き立った無数の槍の、その中から、響いているようだった。

ごぼり、と泡立つような音がして、見れば突き立てられた槍の穂先が、濡れていた。
赤く濡れたそれの周りにはしかし、鮮血など存在しない。
否、砂を染めた血痕が、そこに血の流れていたことを示している。
そこかしこに積み上げられた夕霧たちの躯から流れ出たはずの、それは血だまりの痕だった。
それが、なくなっている。

「……飲んだ……のか……!」

険しい表情のまま見回せば、山頂のいたるところを染め上げていたはずの、乾きかけた血の海が、
まるで潮が引いたように小さくなっている。
ぞぶり、と音がした。
ぞぶり、と音がした。
ぞぶり、と音がした。
ぞぶり、と音がするたびに、血だまりは小さくなっていく。

「……ッ!」

衝動のままに一刀を振るえば、硬い感触と共に槍の一本に亀裂が入る。
ごぼり、と噴き出した粘性の高い血液が、蝉丸の手を汚した。

「長瀬……! 貴様、どこまで……!」
「おいおい、人の食器を傷つけないでくれよ」

天空を睨んだ蝉丸の視線にも、長瀬はただにやにやと笑いを返すのみ。

「君だってあまり人のことは言えた義理ではないと思うがね。
 土嚢代わりに使うのは死体の血を吸うより高尚な行いなのかい?」
「……!」
「こんなものは、単なる資材でしかない。君と同じさ。
 もっとも、私が本当に使うのは―――生きた方、だがね」

生きた方、という言葉の意味が、染み渡っていく。
と、何かに気がついたように、蝉丸が辺りを見回した。
ぞぶり、という音は、止まっていた。
咀嚼音が止まり、静寂が落ち、しかし―――静かすぎる。
北側と西側では戦闘が続いていたはずだった。
久瀬の死によって命令系統は混乱しているだろう。
僅かな間に戦線は崩壊したかもしれない。
しかし、閃光も、騒音も、何もかもが止んでいるのは、異常だった。
生きた方、という言葉がもう一度、蝉丸の脳裏に甦る。

「まさか……!」

蝉丸が弾かれたように長瀬を見上げた、その刹那。
長瀬の身体が、爆ぜた。
否、爆ぜるような勢いで、膨れ上がったのである。
白衣が、スーツが、その布地の限界まで張り詰め、裂けた。
その下から無数に飛び出したのは、肉色の槍である。
それが生えていたのは、長瀬の胸に埋め込まれた二つの顔からではない。
腕といわず腹といわず、隙間を埋め尽くすようにして、その醜く蠢く管は
長瀬の肉体のいたるところから奇怪な腫瘍の如く飛び出していた。
その数は先刻に倍し、太さに至っては一本一本が人の腕ほどもある。
そんなものに埋め尽くされた長瀬は、まるで空に浮かぶ磯巾着か何かのようにすら見えた。
が、そう見えたのも一瞬。
無数の管が、凄まじい勢いで伸びていた。
目指すのは大地。

「……!」

瞬間、蝉丸は己の危惧が的中したことを知る。
長瀬の身体から伸びた無数の管はそのすべてが、山頂ではなく、そのすぐ周辺。
北側と西側の山道へと、向かっていたのである。
天頂を境とした空の半分を覆い尽くすように、肉色の管が巨大な天蓋を形作る。
測定を拒むが如き数の管が伸びるその先には、きっかり同数の影が、佇んでいた。
影、砧夕霧と呼ばれる少女達の群隊は抗う様子も見せず、迫り来る管をぼんやりと眺めている。
矢のように伸びた管の群れが、その速度の一切を殺すことなく、夕霧たちへと突き刺さった。
否、刺された少女たちからは、一滴の血も流れない。傷すらも、できてはいなかった。
故にそれらは、突き刺さったというべきではなかったかもしれない。
それらは単に、少女達へと貼り付き―――呑んでいたのである。

ぞる、と先刻の血液を咀嚼する音にも倍して奇怪な音が響くたび、少女達が歪んでいく。
誇張でも比喩でもない。
管の貼り付いた部位を中心に、骨格を無視し人体構造を無視して、少女の身体のその全体が、
奇妙に捻じ曲がっていくのである。
同時に、音が響くのと歩調を合わせて、その肉体そのものが小さくなっていく。
ぞる。少女の腹が、べこりと落ち窪んだ。
ぞる。少女の胸が、片方の乳房を残して、捩じくれた。
ぞる。少女の腕が、肘まで肩に埋まった。
ぞる。少女の腰が、臓腑ごと競り上がった。
ぞる。少女の脚が、胸の下から、覗いていた。
ぞる。少女の首が、管へと吸い込まれていた。
ぞる。少女の、全部が消えた。

少女を呑み尽くした管は、まるでフィルムを逆回しにするように天空へと巻き取られていく。
巻き上げられた管の根元が、ぼこりと膨らんでいる。
それは紛れもない、少女の体積。
ぞる。ぞる。ぞる。
音と共に、少女が管に呑まれ、管が巻き上げられ、その根元が、ぼこりと膨らんでいく。
ぞる、ぞる、ぞる。
ぼこり、ぼこり、ぼこり。
それは、ヒトのカタチをしていたモノが、ヒトならざるモノの中に、吸い上げられていく音であった。
およそこの世のものとは思えぬ悪夢の光景の中心に、笑う顔がある。
長瀬源五郎であった。
肉腫の如く膨らみ続ける体の中心に、長瀬源五郎の顔が浮かんでいた。
すぐ下には三つの断末魔。
イルファ、シルファ、そして砧夕霧の中枢体が、悪夢の象徴のように並んでいる。
巨大な肉腫は重なり合い、互いを覆い隠すように拡がっていく。
七千にも及ぶ生体が、融け合って膨れ、崩れて肉腫となり、やがて何かを形作っていく。
それは、受精卵の細胞分裂を繰り返す様を、偏執的な悪意で塗り潰していくような。
そんな印象を見る者に与える光景だった。

どこまでも長く感じられる、しかし実時間にしてほんの数十秒の内に、
それは、この世に姿を現していた。
身長、およそ三十メートル。体重にして二百七十トン。
神塚山、北西側の山肌から、山頂の台地へと手をかけるようにしてへばりついたそれは、
途方もなく巨大な少女―――砧夕霧であった。
天頂へと迫りつつある陽光を受けてぎらぎらと額を輝かせながら、

「―――」

るぅ、と啼いたそれは、長瀬源五郎と同じ顔で、嗤っていた。




【時間:2日目 AM11:26】
【場所:F−5】

坂神蝉丸
 【状態:右足裂傷(重傷・仙命樹により治癒中)】

究極融合体・長瀬源五郎
 【状態:シルファ・ミルファ・砧夕霧中枢(6314体相当)】

来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、その他】
 【状態:全身裂傷、筋断裂多数、出血多量、小腸破裂・腹腔内出血中、鼻骨骨折、
      顔面打撲、頚椎打撲、腰椎打撲、ドーピング限界】
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