十一時二十分(2)/散文的に、時には詩的に





「北麓の二人は鎖場で止める! 融合体を中心に当たれ、砲撃を集中して敵を分散させるな!
 西側、敵を直接狙うな、山道を崩せ! 相手は四つ足だ、崖下に誘い込んで動きを封じろ!」


******


風が、少年の張り上げる声を微かに運んでくる。
その声を背中で受けながら、銀髪を靡かせた男が静かに口を開いた。

「教科書通りだが、的確だ。あれはきっとよい将になる。
 ……貴様はどう思う、来栖川綾香」

男の正面に立った影、しなやかな身体をぴったりとしたボディスーツに包んだ女は、
口の端を上げて答える。端正な顔立ちの中、鼻筋は青黒い痣に覆われて痛々しい。

「今は気分がいい。呼び捨ては見逃してやるよ、白髪頭」

笑みの形に歪められたその瞳の色は、魔の跋扈する夜に浮かぶ月の如き真紅。
白を基調にしたボディスーツの両腕はその肘あたりで内側から裂けたように破れている。
肘から先、前腕から手首、指先に至るまでのシルエットは、常人のそれではない。
丸太のように肥大した腕を包むその皮膚は黒くごつごつと罅割れた、大型の爬虫類を思わせるそれに変質しており、
節くれ立った指先からは瞳の色と同じ真紅の爪が、刃の如き鋭さをもって長く伸びていた。
異形、と呼ぶに相応しいその姿を目にしても、対峙する銀髪の男、坂神蝉丸は眉筋一つ動かさない。
ただ一言、告げたのみである。

「手負いで俺に勝てるつもりか、来栖川」

言われた綾香が、笑みを深める。
獰猛とすら見える、歓喜と殺意に満ちた笑顔だった。
蝉丸の言葉は綾香の顔に刻まれた痣や傷に向けて放たれたものではない。
綾香の歩む姿、その体捌きや重心移動の中に深刻な異常を見て取ったものであった。
事実、綾香の身体は通常であれば歩くことすらままならないほどの打撃を受けている。
苦痛にのたうち、そのまま死に至っても決しておかしくはなかった。
それを鍛錬と、そして何より薬物の力によって無視し、綾香は歩を進めていた。

「言うなよ、可愛い後輩の餞別にくれてやった傷だ。もっとも―――すぐに気にならなくなる」

何かを見せ付けるように、綾香が片手を差し出してみせる。
どこから取り出したものか、長い爪の先に細長い筒状の物が挟まれていた。
注射器であった。中には薄い黄色の液体が満たされている。
一瞥して、蝉丸が鼻を鳴らす。

「それは……上級士官に支給される、自決用の薬物か」
「よく知っているじゃないか、下士官風情が」
「今にして思えば愚の骨頂だ。誇りを捨てぬための自刎を薬で汚そうというのだからな」
「自分が見捨てられたらイデオロギーの全否定か? 救えないな転向者」

嘲笑うような綾香の言葉にも、蝉丸が表情を動かすことはない。
そんな蝉丸に哀れむような視線を向けながら、綾香は手にした注射器を軽く振ってみせる。

「勘違いするなよ。こいつは確かに最後の一手だが……別に自決用ってわけじゃない。
 軍人は戦って死ね、一兵でも多く道連れにすれば軍神の列に加われる……。
 そんな、カビの生えた教本の一節をイカレた国粋主義者どもが寄って集って形にしたもんさ」

来栖川という、国家の中枢に食い込む家名を背負った女が微笑すら浮かべながら言う。
或いは、その微笑は己が欺瞞に向けられたものであったのかもしれない。

「で、だ」

軽口を叩くように、綾香が口を開く。

「こいつを、こうする」

それはまるで、女学生が菓子を口に運ぶような気軽さだった。
注射器の針が切り揃えられた短髪の下、来栖川綾香の白い首筋に突き立てられていた。
無造作に押し込まれるピストンに、薬液が体内に流れ込む。
ほんの一瞬、綾香の全身がびくりと震えた。

「……」

暴挙を目にしても微塵も揺らがぬ蝉丸の冷厳な眼差しが綾香を貫く。
その眼前、奇妙に甲高い音が響いていた。
俯く綾香の、呼吸音であるようだった。
熱病にうなされる末期の病人の漏らすような、或いは内圧に軋みを上げる蒸気機関のような、それは音だった。
やがてゆっくりと、甲高い音が収まっていく。
最後に一つ、長い息を漏らして、音がやんだ。

「―――ほぅら、もう、痛くない」

言って顔を上げた、その綾香の容貌に、さしもの蝉丸が小さく眉根を寄せた。
その整った、美しいといっていい細面の、左半分。
鼻筋を境にしたその全面に、異様な紋様が描かれていた。
張り巡らされた蜘蛛の巣のような、緻密な刺繍のような、赤一色の複雑な紋様が、
綾香の額から目元、頬から口元、顎までを覆っていた。
否、よく見れば内側から暗く光を放つようなその赤は、浮き出した血管であった。
麗しかった来栖川綾香のかんばせは今やその半分が、醜い血管の迷宮に覆われていた。
元が整っていただけに、それは醜悪を通り越した、異相であった。
赤の支配する貌の真ん中で、ぎょろり、と真紅の瞳が動く。

「さあ……始めようか、白髪頭」

牙を剥いて笑むそれは、人妖の境を踏み越えた、異形であった。


***

 
大地を這う蛇の如く身を低くした姿勢から綾香が疾走を開始する。
対する蝉丸は腰に佩いた一刀の鯉口を切り、刃を外に捻じり向けた居合の構え。
人外の速さで迫る綾香を迎え撃つ。
疾風とすら見紛わん勢いの綾香が間合いに踏み込んだ刹那、銀弧が閃いた。

「チィ……!」

舌打ちは神速の抜刀を見せた蝉丸である。視線は上。
横薙ぎの一閃が奔った刹那、綾香が跳躍していた。
瞠目すべきは見切りの疾さ、そして何よりその高さである。
人の背を越える高さを、足の力だけで跳び上がっている。
ましらか猩々か、いずれ妖の類としか思えぬ反応であった。
見上げた蝉丸の眼が反射的に細められる。
中空、跳び上がった綾香に背負われるようにして、日輪が輝いていた。
抜き放った一刀の切っ先を強引に捻じろうとするが、到底間に合わぬ。
咄嗟に抜刀の勢いのまま身を投げ出すようにして前転、頭上から迫る真紅の爪を辛うじて躱した。
膝立ちになるや、蝉丸は刀を水平にして頭上に掲げる。
直後、硬い音が響いた。刃と爪の交錯する音だった。
綾香の姿は蝉丸からは見えぬ。
背を向けたままの受けは踏んだ場数の賜物である。

「オォ……ッ!」

裂帛の気合と共に、刃で受けた五本の爪を、下から体重をかけて弾き飛ばす。
刹那、立てた膝を支点として半身を捻じる。
視界の端に映った影を薙ぐように斬撃を走らせた。
腰を落とした姿勢とはいえ、柄頭に左手を添えた重みのある一撃である。
それを、

「遅いな、白髪頭!」

綾香は余裕を持ったバックステップで避ける。
距離の開いた機を逃さず立ち上がった蝉丸の顔には、僅かに驚愕の色が浮かんでいた。
それを見て取り、綾香が嘲るような声を上げる。

「どうした強化兵、ノリが悪いな」
「……一つだけ問おう」

白刃を陽光に煌めかせながら、蝉丸が綾香を見据えて口を開く。
砂埃の混じった風を受けるその顔は既に巌の如き無表情に戻っている。

「聞いてやるよ白髪頭、言ったろ? 今は気分がいい」
「……國の礎となるべき者が、何故、人を捨てる」

重々しく放たれた問いに、軽口を叩いていた綾香の表情から笑みが消えた。
その半面に朱い蜘蛛の巣模様を浮き上がらせ、真紅の瞳を見開いた異相が、真っ直ぐに蝉丸を見返す。

「つまらないことを聞くな」

白昼、その身の周りにだけ夜が訪れたような、それは昏い声音だった。
ざわり、と切り揃えた髪が揺れる。
擦り合せた異形の爪が、しゃりしゃりと耳障りな音を立てた。

「お前に―――お前に勝つ為だろう、坂神蝉丸」

その名を呼ぶ。
砂塵に塗れた旅人の、冷たい水を渇望するような。
一人祈る乙女の、恋しい男の名を呼ぶような。
暗い死の淵に、永劫の怨嗟を込めて呟かれる呪のような。
それが来栖川綾香の、真実、唯一つの言葉だった。

「……そうか」

国家と天秤にかけられた男はただ一言、そう漏らすと、手にした一刀の刃を返す。
ぎらりと、白刃が煌めいた。

「ならば、是非も無い」

踏み込む。
瞬時に詰めた間合いから閃くのは、下段から伸びる切り上げ。
綾香の左胴を切り裂くかに見えたそれは僅かに届かない。
身を引いた綾香に躱されている。
が、そこまでは蝉丸とて予想の範疇だった。
体を止めず、奥足を踏み込んでの二の太刀は逆袈裟の切り下ろしである。
一太刀めは囮であった。
体勢の流れた綾香には、二の太刀を更に下がって躱すことができぬと踏んでの斬撃である。

「ナメるな……っ!」

硬質な音と共に、綾香がその爪をもって刃を受ける。
しかし蝉丸は刃を引かず、更に体重をかけていく。
鬼の手を持つ綾香は今や、腕力においては己よりも遥かに上であると蝉丸は判断していた。
だが同時に、命のやり取りは腕力のみにおいて決するわけではないということも蝉丸は理解している。
体勢の差、重心の差、そして体重の差を利用した鍔迫り合いに持ち込んだのも、そうした意識と
無数の経験との上に成り立つ戦術であった。
じりじりと近づく刃に、綾香がたまらずもう一方の手を添える。
両の爪を十字に交差させる、堅い受けである。
押しやられる一方だった刃が、ぴたりと止まった。
力と力の鬩ぎ合いの中、蝉丸が言葉を漏らす。

「大義を忘れ妄執に拘る……、貴様のような輩が國を惑わすのだ……!」

ぎりぎりと、音を立てそうな鍔迫り合いの最中である。
冷厳を以ってなるその声にも、常ならぬ激情が篭っていた。

「ガキを担いで……! 人形遊びが、お前の大義か……!」

受ける綾香の瞳は杯に鮮血を満たしたように紅い。
その瞳には紛れもない嘲りと、そして憤激が浮かんでいた。

「義を見失うのが國ならば、俺は俺の義を貫くまでだ……!」
「他人を、巻き込むなって話……だろう、がっ!」

言い放つと同時、綾香が全身の撥条を使って体を捻じる。
鬩ぎ合う力を横に流そうとする試みは成功した。
流れた白刃が綾香の左肩、その皮膚を浅く削いだが、それだけである。
体勢を崩され、無防備な脇を見せた蝉丸に向けて綾香の横蹴りが放たれる。
上体捻じった勢いを加算した重い横蹴りが、蝉丸の脇腹に食い込んだ。

「ぬぅ……っ!」

息を漏らした蝉丸だったが、しかしすぐさま流れた刃を返し、強引な切り上げに入る。
下から迫る刃に追撃を断念し、綾香が飛び退る。
再び距離が開いた。蝉丸の白刃は既に油断なく綾香へと向けられている。
刃を横に寝かせた平青眼、必殺の突きを狙う構えに再度の接近を試みようとした綾香の足が止まった。

「人形遊び、か……貴様から見ればそうなるのだろうな、来栖川」

告げた蝉丸の顔からは、一瞬だけ浮かんだ苦痛の色は消えている。
暗夜に浮かぶ月の如き静謐をもって、その瞳が真っ直ぐに綾香を見据えていた。

「あれらを、生み出したのではなく……作り出した、と貴様等は言う。
 驕慢でなく、傲然でなく、ただそれを当然と、疑念すらを抱かず貴様等は言うのだ」

凛と冷え切った声音が言葉を紡ぐ。

「何故、その聲を聞かず、その道を見定めず、無用の長物と放り棄てる。
 あれらを人でなく、傀儡と育んだは貴様等の罪業だろうに、何故それを肯んずる。
 生の意味を与えず、思考の時を与えず、命を求める声をすら与えず」

白刃は揺らがぬ。
声音は荒れぬ。
しかしそれは一片の違いなく、

「そこに―――如何な義の在るものか」

坂神蝉丸が見せた、激情の吐露であった。

風が、一際強く吹き抜けた。
砂塵を含んだそれが沈黙を運ぶ。
否、沈黙は小さな音によって破られていた。

「……っ、……」

耳を澄まさねば聞こえぬほどのそれは、しかしすぐにその音量を増していく。
初めはさざ波のように、そして瞬く間に瘧の如く爆ぜたそれは、笑い声であった。
面持ちを険しくした蝉丸の眼前、来栖川綾香が、呵々として笑っていた。
その顔の半分を覆う朱の紋様がまるで羽虫を絡め取った蜘蛛の巣の如く、醜く蠢いている。
可笑しくて堪らぬといった様子で笑う綾香が、その笑みを収めぬまま口を開いた。

「―――知るかよ、そんなこと」

蒼穹の下、弓形に歪んだ真紅の瞳が、ぬらぬらと凶々しい光を湛えて揺れていた。
そこには快の一文字も、愉も悦すらも存在しない。
ただ、嘲弄と軽侮だけが、浮かんでいた。

「私の仕事は算盤勘定だ。ついでに教えてやる。科学者連中の仕事は自分の妄想を形にすることで、
 技術屋の仕事は製品のコストを下げることだ。連中の生まれた意味なんて誰も考えちゃいない。
 知りたきゃ坊主にでも聞いてくるといい」

ぎり、と鳴ったのは蝉丸の奥歯を噛み締めた音か、それとも握り直した柄の軋みか。

「それが、貴様の道か」

言うが早いか、蝉丸の身体が駆けた。
踏み出した足の大地を噛む音が後から聞こえてくるほどの、猛烈な踏み込み。
広い間合いを、ただの二歩で詰めていた。
驚いたように見開かれる綾香の真紅の瞳、その中心を狙った突きが閃いた。
手応えは、ない。
文字通りの紙一重で、躱されていた。
未だ白く残る方の頬に一文字の傷を開け、鮮血の雫を飛ばしながら、綾香が身を撓める。

「じゃあ……訊いてやる、白髪頭ッ!」

突き込まれる刃に微塵の恐怖も見せず、綾香が叫んだ。
カウンターで突き込まれる爪を、蝉丸は辛うじて柄頭で弾く。
下に流した真紅の軌跡はしかし、五本。

「お前には……ッ、聞こえてるのか、……あいつらの、声がッ!」

残る片手の爪が、上から迫る。
それを、軸足で地面を強引に蹴り離すことで上体を反らし、回避する。
軍装の釦が一つ、弾けて飛んだ。

「あたしたちを! 助けてください、って!」

両の爪を躱されてなお、蝉丸の頭上から落ちる影がある。
鉞の如き威力を備えて落とされる踵であった。
返す刃は間に合わぬ。たたらを踏むように、更に一歩を退いた。

「どうか生きる意味を! 教えてくださいって!」

着地と同時、綾香が加速する。
薬物の効能で人体の常識を超えた出力を誇る筋力に加えて、胴廻し蹴りの前転による勢いを利用した加速である。
その速度は蝉丸の眼をもってしても容易には捉えきれぬ領域に達していた。
躱しきれぬ、とみた刹那。
蝉丸は手の一刀を逆落としに地面へと突き立てていた。
伝わるのは刃の先が僅かに岩を食む硬い感触。
もとより、綾香を狙ったものではない。

「ぬ……ッ!」

掛け声と共に、蝉丸の身体が跳んでいた。
突き立てた刀の柄頭を土台とした、高飛びである。
迅雷の如く迫ってきた綾香が真紅の爪を振るうのと、ほぼ同時であった。
宙を舞う蝉丸の影が、身を低くした綾香の背に、落ちた。
交錯した両者がその位置を入れ替え、そして離れる。
必中の一撃を避けられたと悟った綾香が砂塵を巻き上げながら身を翻せば、
蝉丸もまた束の間の空から大地へとその身を戻していた。

「泣いて頼まれたか。夢枕にでも、立たれたか。違う、違うな、強化兵」

一転、綾香が静かに語る。
その視線は対峙する蝉丸の纏う枯草色の軍装、その足元へと向けられていた。
編み上げ式の軍靴が踏みしめる地面に、じわりと拡がる染みがあった。
乾いた岩場を濡らす赤黒い染みは、紛れもない鮮血である。
蝉丸の軍装、右のふくらはぎの辺りが、ざっくりと裂けていた。

「お前には何も聞こえていないだろうよ。あいつらの声も、願いも、何も」

綾香が、爪を振るう。
何滴かの血が、球になって散った。

「お前は手前勝手な願望を、あいつらに押し付けているだけだ。連中が本当は何を願っているのか、
 生きたいか、死にたいか……それさえ、お前には分からない」

ゆっくりと、綾香が歩を踏み出す。
陽だまりの中、散策でも楽しむかのような足取りとは裏腹に、顔には酷薄な笑みを浮かべている。
冷笑に侮蔑をたっぷりと乗せて、ほんの僅かな憐憫を込めて、綾香が首を傾げ、言う。

「手前ぇの恨みつらみを語るのに、誰かの名前を使うなよ。なあ、出来損ないの強化兵」

蝉丸の表情が、初めて歪んだ。
挑発への怒りではない。まして、傷の痛みでもなかった。
ただ、歪んだのである。
正鵠を射られたとは思わぬ。
義憤とは安い侮辱に消える程度の炎ではないと、蝉丸は信じていた。
ただ許せぬと、肯んじ得ぬと貫き通すべきものはあると、蝉丸は確信している。
しかし、否、故に、蝉丸の表情はただ、歪んでいた。
綾香の放った嘲弄の矢が射抜いたのは、蝉丸の心に燃え盛る義ではなかった。
坂神蝉丸という男の、中心。
何もない、草木の一本すら生えぬ、ただ広がる荒地の、その真ん中に、突き立っていた。
そこを潤すものはない。そこに実るものはない。そこに生きるものはない。
舞い上がる砂塵も、吹き荒ぶ風すらもない。
ただ時の止まったような、荒涼とした大地。
そこに一本の矢が突き立ち、静謐が乱れた。
決して感情の範疇でなく、さりとて理性の領域でもなく、思考でも思想でも思索でもなく、
ただ感覚として、蝉丸は己が中心に広がる寂寞を見た。
故に表情を歪めたのである。

「そうか」

だからそれだけを、蝉丸は口にした。
肯定でも否定でもない、それはひどく簡素な相槌であった。

「分かんないなら、そう言えよ」

無造作に間合いを詰めながら、綾香もまた、それだけを応えて口を閉ざした。
その手の爪が、足取りにあわせてゆらゆらと揺れている。

間合いに入るまで五歩と、蝉丸は見て取った。
白刃を下段に構え、その一瞬を待ち受ける。
刀の間合いは、爪の間合いよりも遥かに広い。

残り、四歩。
仙命樹の治癒とて万能ではない。
深く抉られた肉を繋ぐまでには幾許かの時を必要とする。

残り、三歩。
右を軸足に使えぬ今、受けるも攻めるも難い。
ならば勝算は、間合いの差。

残り、二歩。
踏み込んだその足を、その爪を、その頸を。
斬の一念を込めて、断ち割る。

残り、一歩。
踏み出されたその足が―――消えた。

と見るや、綾香の姿は既に蝉丸から見て右に占位している。
爆発的な加速によるサイドステップ。
が、蝉丸の刃は微動だにせぬ。
横に流れた綾香の踏み込みは、未だ僅かに間合いの外。
陽動であると、見抜いていた。
右に動いた綾香が更に加速する。
脇を走りぬけ、後ろをとると見せた刹那。
右構えの下段が最も対処しづらい、右斜め後方から、綾香が、間合いに踏み込んでいた。
同時、蝉丸の白刃が閃いた。
構えによる誘いは無論、綾香とて気付いていると、蝉丸は理解している。
狙い通りの剣筋の、なおその上を行く疾さを備えていると確信しているからこその踏み込み。
慢心であり、虚栄であり、しかし高雅であった。
それは来栖川綾香の唯我たる矜持、魂に刻まれた自負。
ならばそれを斬り伏せよと、坂神蝉丸は己に命じる。
慢心を斬り、虚栄を断ち、来栖川綾香を滅せよ、と。
一刀を、振るう。

「―――!」

風が、裂けた。
真紅の刃が、まとめて切り裂かれ、折れ飛んだ。
蝉丸の振るった白刃が斬ったその数は、九。

ただの一本が、残った。
残った一本は、刃であった。

細く、鋭く、風が、流れた。
一直線に伸びたその軌跡は、狙い違わず蝉丸の喉笛へと迫り、そして―――失速した。

「……あ、」

漏れた声は、濡れていた。
ごぼりと、血の泡が溢れた。
口中いっぱいに鉄錆の味を感じながら、来栖川綾香が、ゆっくりと倒れた。

「……」

蝉丸の視線が、大地に横たわる綾香を見据える。
険しいその表情は勝者のものとも思えぬ。
そもそも、蝉丸の刃は綾香の爪だけを斬ったものである。
倒れた綾香の身体に斬撃による大きな刀傷はない。
だが鮮血は実際に噴き出している。
蝉丸は頬に飛んだ返り血を拭い、見下ろした綾香の、震える五体に眉を顰めた。
溢れる血は、綾香の内側から、流れ出していた。

「あ……あああ……っ!」

びくり、と投げ出された鬼の手が震える。
野太いそれがぶるぶると痙攣したと見えた、次の瞬間。
内側から爆ぜるように、黒く罅割れたその肌が裂けた。
大量の血液が飛び散り、辺りを染め上げる。

肌に張り付くようなボディスーツの内側から、嫌な音がした。
太腿から、上腕から、背筋から、ぶちぶちと断続的な音が響く。
主要な筋肉の断裂する、音だった。
スーツの隙間から覗く白い肌が、青黒く染まっていく。
内出血が拡がっているようだった。

「が……あ、あぁ……ッ!」

絶叫と共に気管に流れ込んだ血と唾液を垂れ流しながら、綾香がのたうち回る。
その端正な顔の半分を覆う赤い紋様、浮き出した血管で形作られた蜘蛛の巣が、
まるでそれ自体が別の命をもつ生き物であるかのように波打ち、蠢いていた。
その幾つかが弾け、真っ赤な液体が溢れ出す。
さながら綾香が血の涙を流しているように、それは見えた。

「……限界だな、来栖川」

内側から自壊していくような綾香を見下ろして、蝉丸が静かに息をつく。
その白刃は自らが作り出した血の海で泳ぐ綾香に、油断なく向けられていた。

「人を超えた力など……所詮、人の身で扱いきれるものではない」

しゃら、と澄んだ音を立てて、蝉丸が刃を返す。
陽光が反射し、流れ出る血と流れ出た血の両方で全身を染め上げた綾香を照らした。
未だ癒えぬ傷の痛みを無視して、蝉丸がゆっくりと歩を進める。
踏み出したその足が粘つくのは、血だまりを行くせいか、或いは軍靴の中に溜まった己が血のせいか。

「そこで時をかけて命を終えるか、それとも楽にしてほしいか」

返答など期待せぬ何気ない呟き。
既にその声が耳に届いているかも怪しい。
蝉丸が足を止めたのは、故に微かな驚きによるものである。

「……誰、に……」

声とも呼べぬような、掠れた響き。
だがそれは確かに来栖川綾香の紡ぐ、言葉であった。

「……誰に、口を……聞いてる、……三下……!」

それは一つの、奇跡であったやも知れぬ。
綾香の瞳、真っ赤に充血したその瞳は、蝉丸を確かに射抜いていた。
そればかりではない。
腕、足、胸、腹、首、いたるところに爆ぜたような傷が開き、肉どころか何箇所かは骨すら覗いている、
到底動けるはずもない身体で、綾香は微かに、しかし確実に、蝉丸の方へと這い寄ろうとしていた。
蛞蝓の這いずるような、遅々とした動き。
しかしそれを、蝉丸は瞠目をもって迎えていた。
沈黙が、何よりも雄弁に驚愕を語っていた。

「……あたし、は……、」

ぶるぶると震えながら、最早流れ出す血液すら残らぬような身体で這いずりながら、綾香が言葉を紡ぐ。
殺意もなく、邪気もなく、ただ澄みきった何かだけが残ったような、言葉。

「……あた、しは……、……ずっと、世界の……真ん中、に……。
 こんな、こと……で、終わ、ら……、ない……」

そよぐ風よりも微かな呟きが、段々と小さくなっていく。
伸ばした手が、蝉丸の軍靴に触れた。
掴み引き倒す力とてあろう筈のない、その赤黒く染まった手を、蝉丸はじっと見ていた。
深く、深くつかれた息は、果たしてどちらの漏らしたものであっただろうか。

「……」

蝉丸が、手にした白刃を天高く掲げる。
抗う術は、綾香に残されてはいなかった。
突き下ろせば、それが最期となる筈だった。

それが為されなかったのは、蝉丸の背後、凄まじい音が響いたからである。


******

 
知らず振り向いた蝉丸の、その表情が固まる。
見上げた視線の先に、異物があった。

僅か数十メートル先、神塚山山頂。
そこに、何かが突き立っていた。

天空から下ろされた一本の蜘蛛の糸のような。
或いは天へと伸びる果てしない塔のような。
限りなく細い何か、紅色と桃色と鈍色が考えなしに混ざり合ったような、醜悪な何か。
それが、神塚山の山頂、その中心へと突き立てられていたのである。

「……、」

そこにいた筈の、青年へと移り変わる途上のような顔をした、少年の名を、蝉丸が口にするより早く。
ひどく耳障りな雑音交じりの、しかし不気味によく通る声が、天空から響いていた。

「待っていましたよ―――この瞬間を」

それは遥か蒼穹の高み、突き立った細い糸のような何かの上から、降りてきた。
最初は芥子粒のような、しかし瞬く間にその大きさを増していくそれは、異様な姿をしていた。
人のような、しかし決して人にはあり得ないシルエット。
三対六本の腕、瘡蓋の下に張った薄皮のような桃色の、巨大な翼。
人と蟲と蝙蝠を、止め処ない悪意によって混ぜ合わせたようなフォルム。

かつて長瀬源五郎と呼ばれた人間の成れの果てが、そこにあった。

 
 
 
【時間:2日目 AM11:23】
【場所:F−5】

坂神蝉丸
 【状態:右足裂傷(重傷・仙命樹により治癒中)】

来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、その他】
 【状態:全身裂傷、筋断裂多数、出血多量、小腸破裂・腹腔内出血中、鼻骨骨折、
      顔面打撲、頚椎打撲、腰椎打撲、ドーピング限界】

長瀬源五郎
 【状態:シルファ・ミルファ融合体】
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