頭に走る鈍い痛み、氷上シュンが目を覚ました原因はそれだった。 ぼやけるシュンの視界に緑が入り込む。頬を撫でる風で動くそれが、シュンの現在位置を表していた。 (ここは……) 深夜、シュンは太田香奈子と共に鎌石村小中学校を目指し移動をしていたはずだった。 しかし今シュンの目の前に広がる世界に、深夜特有の暗さは存在しない。 爽やかな空気が演出しているのは、間違いなく早朝を表す時間帯である。 ……いつの間にか、眠っていたというその事実。 寝起きのシュンは、まずそれに自覚という物を持てずにいた。 「氷上君、起きた?」 寝っ転がったままのシュンの頭に被さるような形で、その影は落ちる。 逆行で面影を確かめることはできないシュンだったが、さらりと揺れる髪の動き相手を悟ることは出来るだろう。 ゆっくり瞬きを繰り返し視界を正常に戻した後、シュンは彼女の名前を呼んだ。 「太田さん……」 「びっくりしたわ。氷上君、走ってる途中でいきなり倒れちゃったんだもの」 ああそうかと、シュンはここでやっと今自分の身に起きた事態を想像することができた。 体の弱いシュンにとって、昨日一日で蓄積された疲労というのも決して少なくはなかったのだろう。 肉体面もあるが、精神面でのダメージも強かったかもしれない。 シュンは突然気を失ってしまう程弱っていた自身の状態の変化に、全く気づかなかった。 それで一番迷惑がかかったのはシュン本人ではない。間違いなく、同行者である彼女だ。 「ごめん、僕……」 「気にしないで。体が弱いっていうのは聞いていたことだから」 シュンの苦笑い混じりの言葉を、香奈子はしっかりとした声で遮った。 物怖じしないその様子には、本来は気さくなのであろう香奈子の性格が窺える。 必要以上の遠慮を拒む今の香奈子には、島に来た際にあった虚ろな空気は存在しなかった。 シュンを手伝うという明確な指針があるのも原因なのかもしれない、学園でも生徒会副会長を務めていた香奈子だ。 やり遂げなければいけない仕事というものが分かっている以上、彼女の本来の真面目さがそこに発揮されるのも至って自然なことだった。 「体、そんなに悪いの?」 「はは、お世辞にもいいとは言えないね」 ゆっくり上半身をもたげようとするシュンに、香奈子の手がすかさず差し伸ばす。 そっと柔らかな香奈子の手を握り返し、シュンはそのまま彼女の力も少し借りながら立ち上がった。 「あの、氷上君」 「何だい?」 おぼつかなくなりそうな足取りを気にし、シュンがつま先で地面を確かめている時だった。 何か言いたげにしている香奈子の表情は少し曇っている、ちょっとした彼女の変化にシュンは小首を傾げ言葉の先を促した。 「あなたが目を覚ます少し前……ちょっと、この辺りを見てきたの」 「一人でかい? 危ないよ、それは」 「そこまで離れていた訳じゃないわ、大丈夫。迂闊なことをする気はないもの」 シュンが眉をしかめた所ですかさず香奈子もフォローをかけるが、それでシュンの持つ全ての不安が拭われることはない。 「ちょっと、気になることがあって。あなたを休ませるにも、ここが本当に安心できる場所か確かめたかったのよ」 「太田さん……」 しかしそう言われてしまうと、シュンは何の意見も出せなくなってしまう。 シュンは、自分を気遣ってくれている相手の物言いを無下に扱えるような人格ではなかった。 「それで氷上君。その、ちょっと……来てくれる?」 言葉を濁しながらシュンの返答を待つことなく、香奈子は先導を切る形で歩き出そうとする。 置いていかれないよう、そのすぐその後ろをシュンがつけた。香奈子が振り返る様子はない。 ……何か、あったのだろうか。 言葉を発しない香奈子の背中を見つめながら、シュンは無言で足を動かした。 香奈子の足が止まるのに、そう多くの時間はかからなかった。 ちょっとした繁みを抜け現れたのは歩道と思われる空けた場所、目立つ地に伏せているのは服装から少女だろうか。 少女は、先ほどのシュンと同じように寝転んでいた。 目に見える外傷等痛々しい姿を持った少女だが、その口の隙間から漏れる呼吸音は確かな命の証であり、生命が途絶えていないことだけはシュンにもすぐに窺える。 「この子は?」 「分からないわ。目立つ足音が聞こえて、気になって様子を見に来てそれで……」 「太田さんが来た時には、もう倒れてたってことかい?」 すかさず入ったシュンのフォローに、香奈子はこくりと頷き同意を表した。 前のめり、うつ伏せの状態で気を失っているらしい少女。 背格好からシュンや香奈子とも、そう歳は離れていないだろう。 シュンの隣、立ち尽くすような形で少女を見下す香奈子の顔に浮かんでいるのは、無表情に近いものだった。 目に入ったそれに内心驚くものの、シュンは特に言及せず一人屈み込み少女の様子を確かめだす。 ……うつ伏せになっていた少女の体を仰向けにし状態を確認しようとしたところで、シュンは彼女の異変に気づいた。 いや、それは本来臭いなどの部分から察しなければ行けない事柄だったかもしれない。 刻まれた服、そこから覗く白い肌には赤や青などの痣ができている。 黒のブレザーにこびり付いた白い染み、べたつくそれは撫で付けるように彼女の体のいたる所にも付着していた。 拭われた形跡は見当たらない内股にも、それと同じような液体や血液が走り去った跡がある。 痛々しい暴行の痕跡は、少女の幼い容姿や体つきをさらに助長させるような厳しさを持っていた。 無言。シュンは少女に対しどう接すればいいのか分からず、思わずその動きを止めた。 「私はこんな子知らないわ。助ける義務もないと思ってる」 はっきりとそう口にしたのは、シュンの隣でいまだ立ったままである香奈子だった。 シュンが見上げた香奈子の表情は、彼が目覚めた時と同じように逆行が遮っていて窺うことはできなくなっている。 先ほどは無表情だった、香奈子のそれ。 しかしシュンは、そこに別の表情を思い描いていた。 香奈子の声色から想像するシュンの見た表情、それは ―― 「でも、放っておけなかったのよ。無理なのよ、こんな……こんな状態、見せられちゃ……」 表情の見えない香奈子の髪が、ふわりと揺れる。 それは香奈子がシュンと同じよう、少女の傍に屈みこんだからである。 一気に近くなった香奈子との距離、隣にいるシュンの視界に彼女の横顔が入り込む。 見えなかったそれが、シュンの目の前に現れた。 目元を歪め苛立ちを噛み潰すよう強く唇を噛んでいる香奈子は、今にも泣きそうになっていた。 痛々しいそれの反面、そのままゆっくりと少女の太ももを撫でる香奈子の手つきは非常に優しいものである。 今、香奈子は陵辱された少女の体を見てかつての自分を思い出していた。 好きだから、受け入れたということ。 愛しているから、痛みさえも喜びに変えていこうと努力していたこと。 しかしそれでも、どこか拭えない虚無感は常に香奈子を襲っていた。 香奈子は見ない振りをしていた。 し続けていた。 それで縛れるものなら容易いことだと、そう思っていた。 思い込んでいた。 「太田さん、君はこの子を助けたいんだよね」 「……」 「僕も同じ気持ちさ。きっと、その思いには違いはあるだろうけどね。 僕は君じゃない、だから君の思いは分からない。考えることはできても、それは憶測に過ぎない」 「……」 シュンの言葉を噛み砕きながら、香奈子はゆっくりと瞳を閉じた。 理解していくごとにどんどん温まっていく胸の内、まるでシュンの言葉は魔法のようだという錯覚すら、香奈子は覚えそうになる。 こんな気持ち、香奈子は初めてであった。 月島拓也と関係を持っていた時間、あの熱さを香奈子自身忘れた訳ではない。 しかしそれとは別種のこの温度は、あくまで優しく、柔らかく、そして一切の棘も存在しない。 こんな甘い世界に対し、香奈子はあまりにも不慣れだった。 不思議としか言いようがない。比べることすら違いすぎ、できるはずもないだろう。 「今は、それだけでいいと思う。太田さんは太田さんのやりたいように、すればいいんだと思う」 瞳を開け改めて見るシュンの表情に、香奈子は一瞬言葉を失った。 ばつの悪さすら感じてしまう邪気の無さ、シュンのそれに香奈子は戸惑いが隠せない。 「この子を拾っても、足手まといになることは目に見えているわ」 「それなら僕等がフォローすればいいじゃないか」 「……この子のせいでもし氷上君に何かあったら、私はこの子を殺すかもしれない」 「はは。なら太田さん、せっかくだし僕を守ってくれないかい?」 予測していなかったシュンの回答に、思わず香奈子も目を丸くする。 そんな香奈子が微笑ましかったのか、シュンも小さく破顔した。 「そして僕は太田さんを守る。この子も守る。ほら、これならいいんじゃないかな」 「何よ、それ……」 「あはは。いざ実際に何か起きないと分からないってことだよ、太田さん。 それなら今やりたいと思うことを優先させた方がいい。後悔しないためにもね」 最後、引き締まったシュンの瞳には口先で述べている甘さが含まれていなかった。 氷上シュンは不思議な少年だ。 優しさや甘さが目立つ、この島で長生きするためには持つことが許されない性格のくせに、時々意味深なことを口にしたり世界の儚さを嘆くような物言いをする。 どこかミステリアスな所も垣間見れるシュンの隣に香奈子は約一日いたことになるが、それでも彼の全容を彼女は掴んでいなかった。 もっと彼のことが知りたいと。純粋に、香奈子はそう思っていた。 一言で表せば好奇心と呼ばれる感情、その奥底に存在する欲望が恋情に繋がるかはまだ香奈子自身図りかねている所がある。 それでもシュンの言葉を使い、香奈子が「今やりたいと思うことを優先させる」とするならば。 「ごめんなさい氷上君、五分だけ頂戴。五分だけ、あなたの時間を貸して」 シュンの返答を待つことなく、香奈子は勢いのままシュンの胸倉を引き寄せそこに顔を押し付けた。 当初シュンが着用していたセーターは河野貴明の元に置いてきている、シャツごしに伝わるシュンの温度は香奈子が想像していたよりもずっとリアルに伝わってくるだろう。 筋肉の硬さも贅肉の柔らかさも感じないシュンの病的に骨ばった胸板、しかし今の香奈子にとってはどこよりも安心できる場がそこだった。 それと同時に感じるせつなさに酔う前に、香奈子は願いを口にする。 「五分だけ、思いっきり抱きしめて」 断ち切ったはずの月島拓也への思い。 それでもあっさりと過去を切り捨てられるほどの強さを、香奈子は持っていない。 そんな軽い執着でもない。 そんな香奈子の前に現れた光景は、過去の自分を彷彿させるものだった。 簡単に表そう。彼女の奥底にあるのは、ちょっとした不安にすぎない。 その不安が彼女の精神を軽い混乱に陥らせようとし、疲弊させた。 しかし今、それら全ては解消されることになる。 ゆっくりと回されたシュンの腕、その居心地の良さが香奈子のそれを消していった。 安心という言葉の意味を、ここにきて再び香奈子は痛感した。 ちょうど香奈子が落ち着いた頃だろうか。 第一回目の放送が行われ、二人は放送にて呼ばれた人数に唖然となる。 幸いシュンの会うことが目的となっている人物等はまだ生存しているらしいが、それも時間の問題だろう。 「この先に学校があるのは確かだと思う。当初の予定通り、まずはそこに行こう」 「ええ」 シュンの言葉に頷く香奈子の表情には、僅かな陰りがあった。 月島瑠璃子。 聞き覚えのあるその名前は、当初香奈子が自らの手で消すことも厭わないと考えていた人物のものである。 月島拓也を振り切った今、特別彼女に手を出そうという考えは香奈子の中にもなかった。 しかしいざ瑠璃子の死を知るとなると、香奈子も心中複雑になってりまうのは仕方のないことかもしれない。 気持ちを入れ替えるよう小さく首を振り、香奈子は一人気合を入れる。 今自分が固執すべき事柄を考えた上での行動、ちょっとした香奈子の変化がそこにはよく表れていた。 氷上シュン 【時間:2日目午前6時】 【場所:D−6】 【所持品:ドラグノフ(残弾10/10)、救急箱、ロープ、他支給品一式】 【状態:由依をつれ、香奈子と共に鎌石村小中学校へ向かう、祐一、秋子、貴明の探し人を探す】 太田香奈子 【時間:2日目午前6時】 【場所:D−6】 【所持品:H&K SMG U(残弾30/30)、予備カートリッジ(30発入り)×5、懐中電灯、他支給品一式】 【状態:シュンと同行】 名倉由依 【時間:2日目午前6時】 【場所:D−6】 【所持品:カメラ付き携帯電話(バッテリー十分)、破けた由依の制服、他支給品一式】 【状態:気絶、ボロボロになった鎌石中学校制服(リトルバスターズの西園美魚風)着用、全身切り傷と陵辱のあとがある】 【備考:携帯には島の各施設の電話番号が登録されている】 - BACK