「―――決着がついたようだな」 銀髪の軍人がふと漏らしたような声に、久瀬はぼんやりとした視線を南側へと向ける。 そこには荒涼とした岩場を歩く、ひとつの小さな影があった。 来栖川綾香だった。 長く美しかった黒髪は短く切り揃えられていたが、その存在感を見紛うはずもない。 松原葵を制し、この頂へと歩む姿には、やはり一片の翳りもなかった。 遠く、その表情は見えなかったが、顔にはきっといつも通りの不敵な笑みが浮かんでいるのだろう。 強い女だ、と思う。いつだって人の二歩、三歩先を行き、振り返ろうともしない。 同じペースで歩んでいるつもりでいても、いつの間にか差が開いていく。 生き急ぐでもなく、焦るでもなく、ただ悠然と歩む彼女についていこうとした自分は、いつだって小走りに生きるしかなかった。 それは純粋に、存在としてのスケールの差なのだと、久瀬はそう理解していた。 その来栖川綾香が、迫ってくる。 距離にしてほんの数百メートル。 文字通り無人の野を往くが如く、綾香はその行く手を阻まれることなく歩んでくる。 「……陣を、組み直さないんですか」 「あの女の纏う雰囲気、最早夕霧では抑えきれまい。……俺が出る」 気負いも迷いもなく返す男に、久瀬もまた驚きを見せることなく静かに問いを重ねる。 「ここを、空けるんですか」 「指揮はお前が引き継ぐんだ」 間髪を入れぬ言葉。 予想通りの回答に、苦笑じみた表情を浮かべて久瀬が俯く。 「僕には無理ですよ」 「何故そう思う」 「理解できないからです」 短いやり取りの中、血と死臭に澱んだ空気が揺れる。 閃光と爆発。何かが焦げるような臭いを運ぶ風。 北と西では未だ激しい戦闘が続いているという、それは証左だった。 だが南側を向いてしまえば、それは単なる音でしかない。 人が死んでいく音。それだけのことでしか、なかった。 「どうして、撃たなかったんですか」 座り込んだ尻に、屍から流れ出す血と体液が染みてじんわりと冷たい。 その冷たさを感じながら、久瀬が問う。 南側に音がしない理由。 南側で、人が死なない理由。 「いくらだって、機会はあったはずです。二人まとめて殺してしまえる機会が、いくらだって。 ……どうして夕霧たちを退かせたんですか。それが僕には理解できない。 それが正しい指揮だというのなら僕には無理だと、そう言ったんですよ、坂神さん」 一気に言い放つ。 淡々とした、しかし拭いきれぬ苦味を感じさせる、その声音。 その指示を聞いた瞬間の、愕然とした思いが久瀬の脳裏に蘇る。 松原葵と交戦に入った来栖川綾香に対し、坂神蝉丸は夕霧による狙撃を停止した。 幾度も膠着状態に陥り、あるいは互いに倒れ伏して動きを止めた二人を仕留める機会のすべてを、蝉丸は座視していた。 北側と西側で続く戦闘の指揮を執りながら、しかし南側に対してだけは何の対策も採らなかった。 久瀬が問うているのは、その理由だった。 「……」 一瞬の沈黙。 流れる風が、血の臭いと砂埃を運んでくる。 歩み来る綾香に視線を向けながら黙していた蝉丸が、ほんの僅かだけ視線を動かして、口を開いた。 「人が、その尊厳を賭ける闘いに水を差せば、我らは義を失う……それだけだ」 「矛盾ですよ、それは」 陰鬱な、しかし斬りつけるような久瀬の言葉。 「一方では死人を物みたいに扱っておきながら、一方では大義を口にする……。 矛盾してるじゃないですか、そんなの」 割り切れと、蝉丸は言う。 その通りだと、目的に至る最短の道を選べと、久瀬の理性は告げている。 しかしそれでは、それでは筋が通らないと、久瀬の中の少年は首を振っていた。 人の道を捨てろと命じた男が、同じ口で仁義を説くのか。 わかっている、分かっている、判っている。 今はそれを語るべき時ではない。一分一秒を稼ぐために命を磨り減らすべき時だ。 味方を詰ったところで何ひとつ益はない。 だが、口を閉ざすことはできなかった。 閉ざしてしまえば、何かが死ぬ。 それは心臓や、血管や、温かい血や、そういうものを持たない何かだ。 だがそれはきっと、ずっと長い間、久瀬の中に息づいてきた、大切な何かだ。 いま目を逸らせば、口を閉じれば、耳を塞げば、それは死ぬ。 だから、久瀬は言葉を止めない。 「じゃあ……、じゃあ夕霧たちは、何のために死んでいったんですか。 綾香さんを食い止めるために死んでいった、沢山の夕霧たちはどうなるんですか。 矜持がそんなに大切ですか。どれだけの命を費やせば、それに釣り合うんですか。 あなたは矛盾に満ちている。あなたは勝利を目指していない。あなたは幻想に縋っている。 あなたは何も願っていない。あなたは夕霧の幸せも、まして僕のことも、何とも思っちゃいない。 あなたはただ、ありもしない何かに手を伸ばそうとしているだけだ。あなたは―――」 尚も言い募ろうとした久瀬が、ぎょっとしたように目を見開いて飛び退こうとする。 遅かった。宙を舞った大きく重い何かが、久瀬を押し潰すように覆い被さっていた。 小さな悲鳴を上げてそれを押し退けようとして、できなかった。 ぬるりとした手触りのおぞましさが、怖気の立つような冷たさが、それをさせなかった。 自らの上に乗ったものを正視できず、しかし目を逸らすこともできずに、久瀬は涌き上がる嘔吐感をただ必死に堪えていた。 背中から首筋にかけて露出した肌をケロイド状に焼け爛れさせた、それは砧夕霧の遺体だった。 「死人は重いか、久瀬」 傍らに土嚢の如く積み上げられた骸の山の内から無雑作に一体を放り投げたまま、蝉丸が口を開く。 透徹した視線は遥か南を見据え、久瀬の方へは向けられようとしない。 「どうした。それは重いか。それとも抱いて歩けるほどに軽いか」 久瀬は答えない。 答えられない。 口を開けば、反吐ばかりが溢れそうだった。 ねっとりと絡みつくような手触りが、久瀬に圧し掛かっていた。 「三万だ。お前の肩には、それが三万、乗っている。既に喪われ、今また散りゆく三万の骸を、お前は背負っている。 抗うと決めた、その時からだ」 組んでいた腕を静かに下ろして、坂神蝉丸が歩き出す。 カツ、と軍靴の底が岩肌を打つ音が響いた。 「将はお前だ。命じるのはお前だ。 立って抗えと、座して死ねと命じるのはお前だ、久瀬」 震える手で遺体の肩を掴めば、それは冷たく、ぬるりと重い。 まるで生者の熱を奪おうとでもいうようなその温度に全身の毛が逆立つような錯覚を覚えながら久瀬が振り向けば、 蝉丸の姿は既に数歩を経て遠かった。 「―――あなたはまるで、擦り切れた軍旗のようだ」 徐々に小さくなる蝉丸の後ろ姿を見ながら、久瀬が呟く。 それは先刻口にしようとしていた言葉、言いかけて止められた言葉の、その続きだった。 威風堂々と振舞う男。 何度も死線を潜り抜けてきた歴戦の勇士。 幾つもの勲章を胸に下げた肖像の中の英雄の如く少年の目に映る彼は、坂神蝉丸という男はしかし、脱走兵だ。 戦場にはためく紋章旗の空虚を、孤独を、滑稽さを、久瀬は思う。 絶えず舞う埃に塗れたその姿を。 何の前触れもなく日に数度降る雨に濡れたその姿を。 水溜りから跳ね飛ぶ泥に塗れたその姿を。 曲射砲の撒き散らす鉄片に小さな穴をいくつも空けられたその姿を、久瀬は、思う。 坂神蝉丸は擦り切れた軍旗だ。 ただ風を受けて己を示し続ける、薄汚れた、誇り高い布きれだ。 それは暗い密林で熱病を運ぶ蚊に怯える兵士の見上げるとき、あるいは砂漠で乾いた唇を摩りながら見上げるとき、 崩れかけた心に小さな火を灯し、清水を満たす紋様だった。 斃れた戦友の痩せこけた手を握るとき、それは遥か遠い故郷へと続く道標のように見えた。 そこにあるのは戦神の加護であり、散っていった者たちの魂だった。 その薄汚れたぼろぼろの布きれは、戦場にはためくとき、そういうものであれるのだった。 敗残の兵、軍務違反の脱走兵である坂神蝉丸という男は、つまりそういう男だった。 「あなたは戦う者たちの希望。あなたは抗う者たちの刃。そう在り続けられると、自身でも信じている。 ……だけど同時に、恐れてもいるんだ」 そうして久瀬は、口にする。 「戦争が終わって、桐箱に仕舞われる日のことを」 坂神蝉丸の、それはこの世界で唯一の恐怖なのだと、久瀬は思う。 思って、天を見上げる。 日輪は蒼穹に高く、しかし天頂には未だ遠い。 瞼を閉じてなお、陽光は眩しく瞳を灼いた。 大きな深呼吸を一つ。 目を開ければ、収縮した瞳孔が映す世界には蒼という色のフィルターがかかっている。 南に視線を下ろせば、男の背中が見えた。 寂寞と荒涼の骨格を矜持と凛冽によって塗り固めたような、遠い背中だった。 背中の向こうには、一人の女が立っている。 笑みの形に歪んだ顔を、動脈血と静脈血で赤黒く染め上げた女。 「―――」 何事かを小さく呟いて、久瀬は対峙する二人から目を逸らす。 それは訣別であり、また激励であったかもしれない。 いずれにせよ、踵を返した少年が振り返ることは、遂になかった。 山頂の南側にあるのは、坂神蝉丸と来栖川綾香の物語だった。 *** 向き直った少年が目にするのは、幾筋もの光芒。 爆音と焦熱の臭い、無軌道に蠢く無数の影。 それは血と苦痛と災禍と、消えゆく命に満ちた物語。 砧夕霧の物語が、そこにあった。 「僕の名前は、どこにも刻まれない」 少年が、一歩を踏み出す。 「だけど、決めた。抗うと決めた」 屍の山の只中に。 「それは意志だ。他の誰でもない、僕自身の意志だ」 散華する少女たちの王として、 「だから、もう一度だけ言おう。これが僕の、僕たちの答えだ」 高らかに、 「聞けよ、世界」 美しく。 「―――諸君、反撃だ」 開戦を、告げた。 【時間:2日目 AM11:20】 【場所:F−5】 久瀬 【状態:健康】 砧夕霧コア 【状態:健康】 砧夕霧 【残り6911(到達・6911)】 【状態:迎撃】 坂神蝉丸 【状態:健康】 来栖川綾香 【所持品:各種重火器、その他】 【状態:小腸破裂・腹腔内出血中、鼻骨骨折、顔面打撲、頚椎打撲、腰椎打撲、ドーピング】 - BACK