十一時十五分/i've been here, BattleJunkies.





―――ここには、色々なものが欠けている。
十重二十重に整然と並ぶ擂り鉢のような座席も、二十四フィート四方のキャンバスも、
外側と内側を区切る境界線であり逃亡を許さぬ防壁でもある三本の鋼線もない。
肌をを焼くほどに熱い照明の光もなく、怒号とも悲鳴ともつかぬ歓声も聞こえない。
勝利を、敗北を、力を、修練を、才能を、屈辱を、雪辱を、蹂躙を抵抗を応酬を望み、
そのすべてを焼き付けようと輝く幾万の瞳も、セコンドも、レフェリーも、ジャッジも、
誰も、誰もいない。
凡そここには自分たちの生きてきた世界の構成要素の何もかもが存在していなかったが、
たった一つ、たった一つだけ、拳を交える相手だけが、いた。
それで充分だと、思えた。


***


松原葵は立ち上がる。
立ち上がって、正面を見据える。
見据えて、自分はいったい何人めの松原葵なのだろう、と思う。
ヒトがまだ槍を取ることを知らず、爪と牙で戦っていた頃から数えて、いったい幾人目の松原葵であれたのだろうと、
そんなことを考える。
きっと幾千、幾万の来栖川綾香がいて、幾億もの松原葵がいて。
そうして同じくらいの数の坂下好恵が、いたのだろう。

私たちには、と葵は小指の側から静かに拳を握っていく。
私たちにはそうすることしか、できないのだ。これまでもずっと。これからもずっと。
既に原形を留めていないオープンフィンガーグローブのウレタンを口に咥え、毟り取って、吐き出す。

とん、と。
軽く一つ、ジャンプする。
腰、膝、踝、踵、爪先。問題なし。
マウスピースはない。
口中を舌先で探れば、幾つもの傷と折れた歯の欠片。
鉄の味の唾を吐き捨てて、鼻を拭う。
触れれば鈍痛、血は止まらない。鼻骨が砕けているようだった。
鼻からの呼吸を諦め、口から大きく息を吸い込む。
各部の筋肉が引き攣れるように痛んだが、刺すような感覚はない。
肋骨に異常なし。正確な内臓打ちが幸いしたのだろう。
視界は良好。歪みはなし。眩暈もなし。
左の拳を軽く引き、ジャブを一つ。遠近感にも問題はない。
左半身に構え、右の拳を心臓の上に重ねるように引く。

「―――押忍」

小さな目礼。
その一言が、合図だった。
それまで短髪を風にそよぐのをくすぐったそうに押さえていた綾香が、ゆっくりとその手を下ろしていく。
やや前屈の姿勢、両の腕を比較的高く掲げたサウスポーのボクシングスタイル。
ガードの向こうに見える綾香は口を硬く引き結び、しかしその眼差しが何よりも雄弁に心中を語っていた。
即ち―――快し、と。

闘争という概念の中に身を置くことの悦びが、その瞳に溢れていた。
それは純粋な、原初の愉悦。

張り詰めた空気が、心地よく葵の肌をざわつかせる。
一瞬の躊躇、一手の誤りが敗北に直結する闘争の悦楽が、葵の全身にもまた、満ちていく。
細く長い呼吸の中で、末端神経の一筋に至るまでが研ぎ澄まされていく感覚。

身体に澱んでいた痛覚が、泡沫のように消えていく。
ひどくクリアな視界の中、葵の目に映る綾香は動かない。
じっと何かを待つように、ガードの向こうで牙を剥いている。

故に葵も動かない。
右足を引いた左半身のまま、ステップを踏まぬベタ足で機を窺っていた。
葵は思考する。
綾香が何を待っているのか。何を狙っているのか。
思考する。勝利のために。
思考する。ずっと追い続けてきた背中のことを。
思考する。不敗の女王の戦い方を。


***


来栖川綾香は典型的なストライカーだ。
エクストリームにおける戦績は全勝無敗、打撃によるKO・TKO率は7割を越える。
反面、パウンドを除くグラウンドからのKO勝利は殆ど例がない。
多彩な蹴り技と一撃必殺の左による打撃戦。
それがかつて幾万の観衆を魅了した、女王の戦術だった。
しかし綾香はフィジカルにおいて、特に外国人選手に対しては優位を保っていたわけではない。
むしろ多くの場合において体格面では劣勢に置かれているといえた。
161cm、49kgというのはそういう数字だった。
にもかかわらず彼女が体重別という概念のないエクストリームの頂点に君臨し続け、名実ともに
パウンド・フォー・パウンドの名をほしいままにしていたのには、葵の見るところ三つの要因があった。
一つにはその驚異的な動体視力。二つめに、それを活かしきるだけの反応速度。
そして最後に挙げられるのは、恐るべき適応力だと葵は考えている。
来栖川綾香を最強の格闘家たらしめているのは、その眼と頭脳。
それが葵の見る、常勝の女神を支える柱だった。

後の先という言葉がある。
相手の打ち込みを先んじさせておきながらその筋を見て取り、裏をついて自らの一撃を決めるという、剣の道の教えだ。
攻撃態勢に入ってからその軌道を変えることは容易にできない。
故に、その打撃・斬撃の軌道を観測することができれば、完全な対応が可能となるという戦術理論だ。
無論、言うほど簡単なことではない。
相手に先手を取らせるということは、それ自体が状況的に不利であると言っていい。
一瞬の対応の遅れ、迷いが即ち致命傷となる。
極意を実践に移すには、考えうる限りの攻撃方法に対応できるまでの膨大な練習量と想像力、各流派はもとより
人体工学から生理学に至るまでの知識、そして何より相手の攻撃の出端、その刹那を見切るだけの動体視力が必須だ。
だからこそ極意は概念として伝えられ、目指すべき境地として教えられるに留まっている。
だが、来栖川綾香はそれを実践してみせたのだ。
その才能と努力の、両方によって。

綾香の戦いはだから、極めてクレバーだ。
勝利にいたる最適手を思考し、そのための練習を怠らず、実際に拳を交える一瞬のやり取りの中でそれを判断し、実行する。
そこに一切の迷いはなく、セオリーも奇手もその勝利すべく用意された手段に過ぎず。
だから来栖川綾香と戦った者、その戦いを見た者が、口を揃えて評するに曰く―――「最強」。
それが今、松原葵の眼前に立つ存在だった。

無策で挑めば、必ず敗れる。
打撃の威力において、反応速度において、出入りの瞬発力において、リーチにおいて、ウェイトにおいて、
経験において、知識において、才能において、松原葵は来栖川綾香に劣っている。
ただ殴り、蹴り合うならば、そこに勝利の余地はない。

だから、と松原葵は考える。
だからさっきは、どうにもならなかった。
勝てるはずのない戦い方だった。

そうして、と松原葵は思う。
そうして今はもう、さっきまでとは違う。
勝つために、私は立ち上がった。

追いつくために、その背中を目指してきたんじゃない。
いま目の前にいる人に勝つために、走り続けてきたんだ。
この人がリングから去った後も。
ずっと、ずっと走り続けてきた。
練習と、試合と、練習と試合と練習と試合を繰り返してきた。
いま、誰一人見守る者とてない、この戦いに勝つために。

だから、そう。
ゴングも何もないけれど。
ここが松原葵の目指し、辿り着いた―――最後のリングだ。

さあ、
女王を越えるための戦いを、始めよう。


***


先に動いたのは葵だった。
ほんの半歩を踏み込めばそこはミドルレンジ。
ガードの高い綾香の視界の外側から狙うのは前屈姿勢の軸足、右腿へのローキックである。
鞭のようにしなる蹴り足が迫るのを、しかし綾香は右脚を上げることで正確にカットする。
ディフェンスされるのは織り込み済みとばかりに、葵が勢いを止めずに打って出る。
左のローを戻すか戻さぬかの間合いから右のストレートへと繋ぐ葵。
綾香のガードを弾くには至らないが、元よりガードを釘付けにするのが目的の一発である。
次の瞬間には更に一歩を踏み込み、クロスレンジへと移行している。

迎撃の右ジャブを葵は左ガードから内側へパリィ。
ガードの空いた顔面に向けて打つ右ストレートは、僅かに頭部を傾けた綾香に回避される。
姿勢を崩したかに見える綾香の、だが右膝が毒針の如く伸びてくるのを葵は見ていた。
完璧なタイミングのカウンターに、ステップでの回避は間に合わないと判断。
打ち抜いた右の拳を戻すよりも早く膝がヒットする。
ならば、と葵が選んだのは、回避ではなく更なる打撃。
右の拳を戻すのではなく、振り抜いた体勢から状態だけを強引に捻る。
間合いは至近。鋭角に曲げた肘が、旋回半径の小さな弧を描く。
ご、と小さな衝撃。
葵の肘と綾香の膝、その両方がヒットし、しかし互いに有効な打撃とはならない。
右側頭部を抉る軌道の肘が直撃するのを避けようと、綾香が重心を崩した結果である。
間合いは変わらずクロスレンジ。
だが回転の勢いで綾香に向き直りつつある葵に対し、綾香は姿勢を崩している。
千載一遇の好機に、葵の左足が大地を噛み、同時に右足が蛇の如く低空を這って綾香に迫る。
捻った上体はそのままに肘を振り抜き、しかし転瞬、その掌が綾香の顔面を覆うように広がると、
左の側頭部、耳の辺りを髪ごと掴む。
膝を止められ片足で立っている綾香の、その軸である左の足が、正確に払われた。
完璧に決まったのは、葵の変則小内刈り。
綾香の身体が円を描くように宙を舞う。
そのままいけば、柔道であれば背中を付いて文句なしの一本という軌道。
だが葵は投げた姿勢を自ら崩し、地面に叩き付けられようとする綾香を更に巻き込むように重心をかけていく。
左側頭部を掴んだ右手をそのままに、空いた左の手は掌底の形に固められ、綾香の鼻面へと添えられる。
刈った右の膝もまた引かれることなく綾香の下腹部、恥骨の上に密着していた。
受身を許さぬ、危険極まりない投げである。

「……ッ!」

綾香の目が見開かれ、しかし完璧な空中姿勢からは文字通り手も足も出せず、その首筋から
剥き出しの岩肌へと吸い込まれていく。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
大地に叩き付けられた延髄、掌底の衝撃を殺せずに砕かれた鼻、そして真っ直ぐに膝で貫かれた腰椎。
人体の要衝である三点に対する同時打撃。
相手を再起不能に追い込むことを目的とした破壊的な攻撃に、綾香が悶絶する。
かは、と綾香が小さな呼気を漏らすのを聞くより早く、葵が動いていた。
右膝を腰の上から腹部へとずらし、左の足を伸ばして膝を床から浮かせた、ニーオンザベリーの体勢を取る。
ぴったりとしたボディスーツを着込んだ綾香の襟は取れない。
故に左手で綾香の髪を掴み、延髄への衝撃で一瞬だけ意識を飛ばした綾香が回復するより前に右拳を固め、
正拳ではなく拳の側部、第二中手骨を叩き付ける様に、破裂したように血を流す綾香の鼻と目の間を目掛けて、
躊躇なく振り下ろす。
一撃、鮮血が飛び散る。
ニ撃、粘液が糸を引く。
三撃、音が、消えた。

「……!?」

固い手応え。
ごつ、という重い音と共に拳と岩肌の間で跳ね回っていた綾香の頭部を打ち砕かんとする三撃目のパウンドは、
その着弾の寸前において、止まっていた。
綾香の両の腕が十字の形をとって、葵の拳を受け止めていた。
ガードの向こう、綾香の目が己をねめつけているのを、葵は見た。
眼球の毛細血管が破裂したか真っ赤に充血した、それでも爛々と輝く瞳の力強さに、葵の背筋が凍る。
まずい、と直感する。
葵がその半生を賭けて打ち込んできた闘争の経験が警告を鳴らしていた。
体制を立て直そうとした瞬間、伸びきった葵の右腕が、がっちりと綾香の両手に掴まれていた。
迂闊、と後悔にも似た思考が過ぎった刹那、葵の視界が唐突に黒く染まる。
重い感触が葵の顔面を薙ぐと同時、ぐらりと重心が揺らぐ。
掴まれた右腕を軸に、円を描いて巻き込まれるような感覚。
警告。警告。警告。危険。危険。危険。
葵の脳裏に数秒後の自身の姿が浮かぶ。
見事なスイープから腕十字。折られる右腕。敗北。


***


一秒にも満たぬ刹那の中、勝機が泡沫のように消えていく。

 ―――やられた!

時間がいつもの何倍にも引き伸ばされたような感覚の中で、葵は歯噛みする。
来栖川綾香を倒すための戦術は完璧だった。完璧の、筈だった。

綾香の強さは、その眼と頭脳。
その裏づけとなるのは、膨大な練習量だった。
対戦相手のあらゆる戦法に対応するだけのシミュレーション能力と、実戦の中で無数に派生していく
その攻撃パターンに練習成果を当てはめる適応力。
それこそが綾香の強さの源泉であると、葵は確信していた。
対戦相手を研究し、シミュレーションを重ねた綾香に予想外という言葉は存在しない。
たとえ試合開始直後に僅かな誤差があったとしても、次のラウンドにはそれを修正してくるのが来栖川綾香だった。
想定の中で戦う綾香は無敵だ。
故に、松原葵が来栖川綾香に勝利するための戦術はただ一つ。
綾香の思い描く、松原葵という格闘家像―――その外側から、戦うことだった。

綾香の現役時代から現在に至るまで、葵のスタイルは一貫してストライカーである。
それは無論、葵が空手を出身母体としていることに起因していたが、しかしエクストリームのリングへと
上がるにあたって、寝技の練習を怠ったことは一度としてなかった。
柔術やサンボをベースとする選手と相対したとき、グラウンドに持ち込まれた段階で
敗北が確定するというのでは話にならない。
練習を重ねる内、葵のグラウンド技術は着実に向上していった。
その中でトレーナーからグラップルへの転向を勧められたことも何度かあった。
153cmという葵の身長はストライカーとしては不利といえたし、グラウンドの技術に関する飲み込みの速さは
自身でも自覚していたが、葵はそれをすべて断っていた。
空手に対する愛着もあった。
打撃で相手を仕留める快感も魅力だった。
しかし何よりも大きく葵の心中を占めていたのは、他の理由だった。
即ち、来栖川綾香という存在への挑戦を念頭に置いた、秘匿戦術。
ストライカーとしてだけでなく、グラップラーとしての戦い方を身につけたトータルファイターとしての
松原葵を見せれば、綾香は必ずそれに対応してくる。
それでは勝てないという確信が、葵にはあった。
故に、葵はリング上ではストライカーであり続けることを選んだ。
ただ一度、至高への挑戦において勝利を得る、そのために。

練り込んだ戦術は、その功を奏した。
あのクロスレンジ、綾香の動きは投げの可能性をまったく想定していなかった。
一瞬の戸惑いを逃さず、完全に機を手にしたと言っていい。
そう、投げからのポジショニングまでは完璧だった。
否、完璧すぎたのだと、葵は自省する。
パウンドで勝てると、グラップリングに持ち込む必要がないと、そう思ってしまうほどに。
慢心の謗りは免れ得ない。
来栖川綾香を相手にしながら、これまでの自分が通用すると勘違いしていた。
つい今しがた、完膚なきまでに叩きのめされたことを忘れたとでもいうのだろうか。
ストライカーとしての松原葵は来栖川綾香に遠く及ばないと思い知らされたはずだ。
愚かな選択を悔やんでも、時は戻らない。
戻らないが、悔やまずにはいられなかった。
グラップラーとしての松原葵が通用するのはほんの一瞬だけだと、葵は理解していた。
投げが決まり、綾香の意識を飛ばした一瞬がすべてだったのだ。
その機会を逃してしまえば、綾香はグラウンドで勝負をかけられる松原葵に、適応する。
ならば猶予など存在するはずもなかったのだ。
ウェイトに欠ける自分がニーオンザベリーからのパウンドなど狙うべきではなかった。
横四方からの膝、否、間髪を入れない腕十字。
利き腕は取れずとも、右の腕を破壊せしめれば勝利は確定していたはずだ。
グラップリングを隠し球として好機を掴みながら、最後の詰めで打撃にこだわった、それが敗因。

 ―――敗因?

否、と葵は思う。
一瞬にも満たぬ時の中で、葵は浮かんだ思考の帰結を否定する。
消えていく好機を、失われた勝利を、葵はまだ、諦めるわけにはいかなかった。
勝ちと負けの間に飛び込めば何かが変わると思って、それでも何も変わらなかった。
殴られる痛みも、殴った相手から流れる血も、潰した鼻にもう一度拳を叩き込むときの濡れた感触も、
何一つとして、ブラウン管の向こう側に見ていたのと違わなかった。
リアルなんてその程度のもので、知ってしまえば、反吐が出るほどにつまらない。
けれど、たった一つ。
たった一つだけ、葵を揺り動かしたもの―――勝利。
幼い頃に見た光景の意味を知るための手段であり、その結果でしかなかったはずの、
明快にして残酷な、絶対の回答。
しかし、いつしかそれは密やかに、葵自身でも気づかぬほど密やかに手段という概念を越え、
結果という単語を凌駕し、唯一至上の目的になっていた。
諦められるはずが、なかった。
まして相手は、至高。
憧れ続けた不敗の女王。
ほんの一秒の迷い、ほんの一手の誤りが敗北に繋がるというのなら。
迷いなく、誤りなく、足掻き続けよう。

右腕を極められ、視界はゼロ。
回転はまだ半ば。綾香の身体は密着状態。踏み込みは使えず。
左の拳は空いている。呼吸はできる。敵の位置は分かる。

ならば。
ならば、まだ―――続けられる。

時が動き出す。
重力を感じる方向が変わっていく。
伸びた右腕の腱が嫌な音を立てている。
綾香の身体は熱く、流れる汗は冷たい。
それが、感じられるすべて。

細く息を吸う。
身体が上を向く。
左の拳を、綾香の腹にそっと押し当てる。
細く、細く息を吸う。
肩が大地に触れる。
綾香の身体が、完全に横倒しになっていく。
細く、細く、細く息を吸う。
右肘の関節が、可動域を超えた圧力に悲鳴を上げる。
肩甲骨までが地面を擦った、刹那。

練り上げた呼吸が―――爆ぜた。


***


かひ、かひ、と。
細く荒い呼吸を繰り返すのは、右の肘を押さえた葵であった。
鼻血が汗と混じって、ぼたぼたと地面に垂れている。

その眼前、咳き込むことすらもできず蹲る姿があった。
来栖川綾香である。
両手で右の下腹部あたりを押さえたまま、動かない。

寸勁。
ワンインチパンチとも呼ばれる、至近の打撃。
形意拳の崩拳とも似た、しかし非なる拳理によって生み出される破砕の拳。
それこそが松原葵が来栖川綾香に挑み、勝利するための、もう一つの秘手だった。

ゆらり、と紫色に腫れ上がった右の腕を離して、葵が立ち上がる。
呼吸は荒く、足取りは覚束ず、しかし眼光だけはぎらぎらと光らせて、葵が綾香に歩み寄る。
綾香はうつ伏せに蹲ったまま動かない。
おそらくは腸の一部が破裂しているのだろうと、葵は見て取る。
失神せずにいるのが不思議なくらいだった。
短く切り揃えられた綾香の髪を、無造作に掴み上げる。
微かな吐息を漏らし、しかし抵抗らしい抵抗を見せない綾香の、白い喉にそっと腕を回していく。
背中から抱き締めるように、いとおしむように、葵は己の身体を綾香に密着させる。
腕が、綾香の首を回ってクラッチされる。
最後に地面を蹴るように、重心を移動。ごろり、と転がる。
仰向けになった綾香の背中に、葵が張り付くような格好。
腹を押さえる綾香の腕の下から、葵の足が絡まっていく。
バックグラブポジションからの裸絞め。
ぎり、と葵の腕に力が込められた。
綾香の白い細面に血管が浮き上がり、見る間に赤く染まっていく。
びくり、びくりと痙攣する綾香はしかし、首に回った腕を振りほどく仕草をすら見せようとはしない。
抵抗しようにも、この体勢になってしまえば最早その手段とてありはしなかった。

「ねえ、綾香さん」

静かに、語りかける。
ほんの数秒、綾香の意識が落ちるまでの数秒に、問う。

「綾香さんにとって、戦うって」

それが、葵の勝利宣言だった。

「戦うって……どういうこと、でしたか」

答えは返らない。
当然だった。全力で気道を締め上げている。
声など出るはずがなかった。
綾香の体温を全身で感じながら、葵は確信する。
不敗の女王の伝説に終止符が打たれる瞬間が、すぐそこまで来ていることを。
己が勝利が、ほんの数秒後に迫っていることを。

そして、葵は思い知る。
確信が、脆くも崩れ去っていくことを。
数秒後の栄光など、存在しないことを。

「……え、」

声を漏らしたのは、一瞬。
最初に感じたのは、違和感だった。
次に襲ってきたのは猛烈な寒気。
同時に、圧倒的な熱。
そして最後に、激痛と呼ぶも生温い、衝撃だった。

「あ、……ッ、……」

悲鳴も出ない。
絶叫も上がらない。
震える横隔膜が、狂ったように鼓動を跳ね上げる心臓が、それを赦さない。
反射的に溢れた涙に霞む視界の向こうに、じわりと広がる赤があった。
すっかり泥に汚れた体操服に滲む、自らの鮮血だった。

それは、爪のように見えた。
貫手のように伸ばされた指から生えた、鋭く細い何か。
来栖川綾香の手から、松原葵の胴へと伸びる何か。
滲み、広がっていく血の真紅と同じ色をした十の刃が、葵の腹を両側から刺し貫いていた。


******


頚動脈を押さえていた腕から、力が抜けていく。
反射的に酸素を取り込もうとして、貼りついていた気道に血痰が絡み、来栖川綾香は盛大に咽る。
ひとしきり咳き込んでいると、白と黒の斑模様に染まっていた視界が次第に色を取り戻していった。
起き上がろうと身を捩って、平衡感覚が狂っていることに気付く。
身体のバランスが取りづらい。原因は解っていた。
薬物の強力な麻酔効果をもってして尚、脈打つように激痛が響いてくる。
内臓破裂は間違いないだろうと自己診断して、口からゆっくりと息を吸い込む。
肋骨に響く感覚はないが、腹筋は痙攣が治まらず。
緊急の外科的措置を要する。併発症が腹膜炎で済めば御の字だ。

「やって、くれた……」

眼下、じわりと広がっていく血だまりに横たわる、小さな体を見た。
万力のようにこの首を締め上げていた腕から、疾風のような勢いで飛び込んできた脚から、
想像だにしなかった破壊力を発揮した拳から、ただ闘争だけを渇望していた澄んだ瞳から、
命の色が消えていく。
動脈が切断されたのだろう、一定のリズムで噴き出していた真っ赤な鮮血が、徐々にその勢いを弱めていた。

ほんの一瞬前、暗く染め上げられた世界を思い出す。
葵の体は小刻みに震えている。
手を翳した。黒く罅割れた、鬼の手。伸びた爪にこびりつくのは、乾きかけた葵の血。
小さな体は、一秒ごとに熱を失っていく。
爪を引き、打ち振るえば、そこにあるのは白く細い指。
握り締めれば堅く歪な、ひとつの拳。
傍ら、少し離れたところに転がるデイバックを見た。


***


小さく息をついて、綾香は手中の物を眺める。
薄黄色の液体を満たした、細長い円筒形のプラスチック容器。
先に細い針がついている。注射器だった。

その向こう、今や赤という色味を失いつつある、小さな体を見る。
傷口からは既に血は流れていなかった。
止血されたわけではない。流れ出るだけの量が、もう体内に残っていないのだった。
意識とて、とうの昔に失われていようと思えた。

横倒しにした葵に、そっと触れる。
血液の流れきった身体は体温を失い、ひんやりと冷たかった。
見開かれた目はただ虚空を映し、微動だにしない。
黄土色の泥と赤黒い血で固まった短い髪を、静かにかき上げる。
白い首筋が、陽光の下に晒されて綾香の目を射抜いた。
ほんの一瞬だけ目を細めた、次の瞬間。
綾香は手の注射器を、無造作とも思える仕草で葵の首へと突き刺していた。
ピストンを押し込めば、薄黄色の液体が葵の体内へと流れ込んでいくのが見えた。
びくん、と葵の全身が大きく震えた。
薬液を残らず押し出すと、綾香は針を抜いて葵から離れる。

びく、びくりと、既に絶命寸前だったはずの身体が跳ねる。
幾度めかの痙攣の後、小鳥が鳴くような、甲高い音が響いた。
それが自発呼吸だと綾香が気付くのとほぼ同時。
がばり、と。唐突に、何の前触れもなく、葵が跳ね起きていた。

「あお―――」

葵、と反射的に声をかけようとして、綾香の言葉が途切れる。
立ち上がった葵と視線を交わした瞬間、綾香は正しく理解していた。
眼前に立つ少女は、意識を回復していない。
眩しい陽光の下、輝くような光を湛えていたその瞳は、まるでそこだけが深い穴の中にでも落ち窪んでいるかのように、
どこまでも昏く重く沈み込んでいた。

「―――」

沈黙が落ちた。
立ち尽くす二人の少女の間を、砂埃を舞い上げるように風が吹き抜けていく。
堅く口を引き結んだまま、綾香はじっと葵を見つめていた。
ややあって、綾香が目を伏せる。
深い、深い溜息をついて、顔を上げた綾香が、口を開く。

「……なあ、葵」

吹く風に紛れて消えそうな、それは声だった。

「ギブアップするなら、やめてやっても、いいんだよ」

どこか寂しげな、儚げな、笑み。
来栖川綾香の浮かべる、それはひどく稀有な表情だった。
普段の彼女を知る者が見れば誰もが驚愕に言葉を失うような、そんな笑み。
しかしその表情は、ほんの数秒を経て、

「―――!」

凍りつくことになる。
綾香をしてその表情を凍結せしめたのは、眼前に立つ少女。
その、小さな反応であった。
松原葵の震える右足が、前方へと差し出されていた。
僅かな間をおいて、左手を前へ。
左の足は微かに引かれ、赤黒く血の溜まった右手は腰溜めに。
後屈に近い姿勢は空手とも、キックスタイルとも違う、独特の重心を持つ。

「そっか」

静かに呟いた綾香の、凍りついたままの表情が、次第に融けていく。
降り積もった雪を割って、緑が大地に芽吹くように。
歓喜という表情が、綾香を満たしていく。

「そっか、そうだよな……葵」

少女の取った姿勢は、形意拳と呼ばれる武術形態の基本となる構えの一。
木行崩拳の型であった。
少女にとってそれがどのような意味を持つ技なのか、来栖川綾香は知らない。
少女がその構えに何を込めるのか、来栖川綾香は何一つとして、知りはしない。
だが、

「それでいい、それでいい、それでいい―――」

松原葵という少女が、それを消えゆく命の最後に選んだのであれば。
来栖川綾香は、その全力を以って。

「戦おう、松原葵―――!」

両の拳を握り構えるは右半身。
笑みが号令となり、咆哮は嚆矢となる。
幽鬼の如く立ち尽くす葵の引かれた左足が、ふ、と揺れた。
上半身を前傾させないまま、まるで大地の上を滑るように歩を進めるかに見えた、次の瞬間。
その全身が、爆発するように加速した。
遍く天下を打ち貫く、それは無双の弾丸。
朽ち、果てゆく命を燃やし尽くすが如き、疾風の一打。

松原葵という武術家の、その生涯最後の拳が迫るのを瞳に映し、来栖川綾香は恍惚と笑む。
歓喜と法悦の狭間、得悟に至る僧の如く、笑む。
綾香の全身が、撓んだ。
滑るような動き。左の拳が、引き絞られた剛弓の如く音を立てる。

風が割れた。
悪鬼をすら踏み拉く裂帛を以って、葵の跟歩が大地を震わせる。
羅刹をすら割り砕く苛烈を備え、拳が打ち出されようとする、その寸前。

綾香の震脚が、足形を刻むほどに大地を踏み固めた葵の足を、真上から、粉砕した。
刹那と呼べる間をすら置かず。
雷鳴の天に轟くが如く、雷光の天に閃くが如く。
来栖川綾香の拳が、松原葵を、穿っていた。


***


音が、遅れて聞えてくる。
それは、朽木がその重みに耐えかねて折れ砕けるような、奇妙に軽い音。
そして同時に、水を一杯に詰めた風船が弾けるような、重く濡れた音だった。

「―――わかんない」

左の拳を突き出したまま、綾香が静かに口を開いた。

「わかんないよ、葵」

それは、囁くような声。

「あたしら、笑えないからさ」

手を伸ばせば届くような、虚ろな瞳に語りかける声だった。

「頑張ったとか、精一杯やったとか、そういうので笑えないからさ」

瞳はもう、何も映してはいない。
風も、陽光も、眼前に立つ綾香すらも。

「だからあんま、うまくやってこらんなかったから」

それでも綾香は、静謐を埋めるように言葉を紡いでいく。
浮かぶのは、穏やかな笑み。

「あたしらみんな、そうだったろ。あたしも、お前も、……それから、あいつもさ」

閉じた瞼の裏に浮かんだのは、誰の影だったか。

「だからあたしにも、わかんない」

言い放つのは、問いへの回答。
戦うということの、意味。

「わかんないんだよ、葵。けどさ、けど……」

言いよどんだ後に出てきたのは、たったひとつの言葉。
自分を、自分たちを繋げる、シンプルな誓約。
誰かが言うだろう。ばかげている、と。
知ったことか。
誰かが責めるだろう。そんなことで、と。
それがどうした。
外側の人間には通じない、それはこの星に生まれたすべての来栖川綾香と、松原葵にだけ伝わる言葉。
すべての来栖川綾香とすべての松原葵が迷いなく頷く、純白の真実。

「―――楽しかったろ?」

硝子玉のような瞳の奥、来栖川綾香を映すその表情に、

「ばあか」

静かに、笑い返して。
綾香が、拳を引き抜いた。




【松原葵 死亡】

 
 
 
【時間:2日目 AM11:18】
【場所:F−6】

来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、その他】
 【状態:小腸破裂・腹腔内出血中、鼻骨骨折、顔面打撲、頚椎打撲、腰椎打撲、ドーピング】
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