十一時十四分/I HAVE TO,YOU HAVE TO,THEY HAVE TO





 
ちりちりと、音がする。
頭の中に響く音。
微細で、鋭利で、不快な音。

ちりちり。
それはきっと、私の記憶の中にある音だ。
耳を澄ましていると、次第にちりちりという音が大きくなってくる。
脳の表面の柔らかい皮を針先で擦られるような痛痒に、眉を顰める。
ちりちり。
私という劇場の、記憶という暗いスクリーンに浮かび上がってくる映像。
ちりちりという音は、映写機の回る音か、それともスピーカーから漏れ出るノイズか。
がりがりと乱暴に頭を掻きながら目を凝らせば、ぼんやりとしていた映像のピントが徐々に合ってくる。

ちりちり。ちりちり。ちりちり。
スクリーンいっぱいに映し出されていたのは、白と黒の細かい縞模様が乱雑に、ランダムに交じり合う奇妙な絵。
ああ、と思う。これは、砂嵐だ。
砂嵐。テレビを、電波を受信しないチャンネルに回したときに流れるノイズ。
してみると、ちりちりという音もこの映像から流れているBGMか。
と、スクリーンの中の砂嵐に変化が生じる。
まず現れたのは、砂嵐を囲むようなかたちの枠。
銀幕という枠の中に、更に一回り小さな枠ができた。
いや、これは……テレビか。
なるほど、徐々にカメラが引いているのだ。
最初に映っていたのはテレビ画面の砂嵐。そしてテレビの枠。
カメラはなおも引いていく。次第にテレビが小さくなる。
いまやスクリーンには不可解なノイズではなく、一つの意味のある像が結ばれていた。

それは、暗い部屋だった。
小さなテレビと、生活感に溢れた幾つかの小物。
消灯された部屋の中、砂嵐だけを映すテレビの光が、その手前に座る小さな影を照らしていた。
背中を丸め、膝を抱えた、小さな女の子。
少年のように短く切り揃えられた髪。膝小僧には絆創膏。
ぼんやりと砂嵐を見つめる、瞳。

ああ、ああ。
これは、私だ。
十年以上も前の、松原葵だ。
これは確かに私の記憶。
忘れ得ぬ、私が私自身の歩く道を定めた日の、遠い記憶だ。


***

 
それは子供の頃に見た、特撮番組だった。
遠い宇宙の彼方からやって来た正義の巨人が、悪の怪獣と戦うお話。
誰もが知っている、陳腐で普遍的な物語。
男の子と間違えられるような毎日を送っていた幼い頃の私も、毎週欠かさず見ていた。
その日も、正義の巨人は苦戦の末に勝利を収める、筈だった。
ブラウン管の中で、巨人が倒れていた。

私はじっと、動けずにいた。
もう違う番組の映っているテレビ画面を凝視しながら、私は膝を抱えたままでいた。
母親に叱られても、夕飯の時間になっても、そうしていた。
怒鳴り、宥め、すかし、やがて両親が匙を投げて眠りについても、私は灰色の砂嵐だけを
映すようになった画面を見つめていた。
巨人が負けたのが悲しかったのではない。
怪獣が勝ったのが悔しかったのではない。
私はただ、許せなかったのだ。
咎人に堕した巨人と、それを責めない世界のすべてが。

―――巨人は罪を犯している。
言葉にすれば明快な、それが幼い私の認識だった。
正義の巨人は、その正義の名の下に罪を犯している。
怪獣を倒すために街を破壊し、それを悪びれもせずにどこかへ帰っていく。
街は人の住む場所だ。そこには家があり、店があり、人の過ごす空間がある。
それはつまり街自体が記憶の結晶であり、そこに暮らす人間の生きてきた時間そのものということだ。
巨人はそれを、踏み躙る。大切な思い出を、かけがえのない居場所を、躊躇も容赦もなく破壊する。
怪獣を倒すという、そのために。

それでも人が巨人を石もて追わないのは、彼が正義だからだという、ただその一点に尽きるのだと、
私は考えていた。
そう、巨人は正義だった。いかに街を蹂躙しようと、それ以上の被害をもたらす怪獣を倒す巨人は、
紛れもない正義の味方だった。
正義の名の下に、巨人は庇護され許容され赦免される。
幼い私にもそれは理解できたし、容認もしていた。
確かにそれは正義だと、悪を倒す剣であり続ける以上、その罪は赦されるべきだと、
言葉にすればそんな風に、幼い私も考えていた。
その日、巨人が敗れるまでは。

凶悪な怪獣の猛攻の前に追い詰められ、ついには倒れ伏した巨人の姿を見たとき、私は思ったのだ。
ああ、これが巨人の最期か、と。
その時はまだ、巨人は生きていた。
力尽き、この星で過ごす仮の姿となって横たわる彼の元に仲間が駆け寄っていた。
しかしそれでも、巨人はもう終わりなのだという確信めいたものが、私の中にはあった。

悪を倒せぬ剣に、価値はない。
これまで巨人が赦されてきたのは、その存在価値が罪を上回るからに他ならない。
ならば、と私は半ば期待に胸を膨らませながら思ったものだ。
これから始まるのは、巨人の罪を指弾する弾劾であり、業を糾弾する徹底的な攻撃であり、
咎に報いを与える断罪であるはずだ。
それは胸のすくような因果応報の光景であり、私の認識に一本の筋を通す制裁となる筈だった。

―――物語世界は、それをしなかった。
情と理の双方によって巨人を裁くべき物語の住人たちは断罪も、弾劾も攻撃も制裁も行わず、
逆に一致団結して怪獣に立ち向かっていった。
最後には人間の英知によって怪獣が倒され、平和が戻り。
そして私は、目の前にある物語世界の平穏を、許せなかった。

怪獣が倒れても、街は元には戻らない。
同じような家が建ち、同じようなビルが建ち、同じような街並みが出来上がったとしても、
それは、違う。
決して同じ街などでは、あり得ない。
そこにあるのは、同じような形をした、違う街だ。
そこに住んでいた人間が、そこを訪れた人間が残した記憶や思いが、その街には存在しない。
だからそれは真新しい、墓標の群れだ。

喪われた街は弾劾を希求する。
霞みゆく記憶は報復を切望する。

磔刑に処されるべきは―――悪以下の存在と堕した巨人。
そうでなければ、ならなかった。
世界は、それを選ばなかった。

ならば、と幼い私は思う。
ならば街角の風景に宿っていた思い出は、何処へ行く。
錆びた看板の落とす影に刻まれた記憶は、何処へ行く。
光の巨人が、正義の旗の下に犯した罪は、何処へ行く。

悪を倒すために悪を為すことを許された存在が敗れたのならば。
それは、裁かれねば、ならなかったのだ。




 ―――故に、私は断罪する。悪に屈した正義を。




******

 
「私、負けたんですよ」

風を裂く音に、視認よりも早くガードを上げながら、葵が呟く。

「そう」

距離を測るためのジャブをアウトサイドへいなされながら、綾香が短く応える。

「あたしもKO食らったよ、さっき」

左半身から打ち出すはずだった右の拳を止め、同時に脇を締めながら綾香が跳ね上げるのは、右の腿。
ミドルの軌道を描く蹴り足に、左のガードを下げる葵。

「なら、どうして」

固めた前腕に受け止められるかと見えるや、その蹴り足が一段ホップする。
ガードを越え、変化する軌道は右ハイ。
葵の側頭部よりも上、目線の高さを頂点として弧を描く。

「どうして生きてるんですか」

膝先から変化する打ち下ろしの蹴りに、葵は半歩を踏み出しつつのダッキング。
ご、と硬い感触があるが、打点をずらされた蹴りに然程の威力はない。
綾香の右脚を抱えるような姿勢のまま、至近のボディへ一撃。

「どうして、生きてられるんですか」

体重を乗せての右肘が空を切る。
綾香の軸足が宙を舞っていた。
葵に預けた格好の右脚に重心を移しながらの、強引な回転。
右の肘打ちと回転軸を合わせられた葵がたたらを踏んだところへ、綾香の突き放すような前蹴り。

「ぶちのめすためさ」

距離を取った綾香が、爛々と目を輝かせながら言い放つ。
両のガードを上げながら踏み込んでくる、それはストライカーたる葵の間合い。

「ぶちのめすためだよ、葵」

葵の放つ、迎撃の左正拳はフェイク。
僅かなウィービングで回避されたそれを囮に狙う、真のカウンターは跳ね上げた右の膝。
回避の間に合わぬ打撃が綾香に突き刺さり、しかし。

「あいつはトドメを刺さなかった」

肉に食い込む感触が、軽すぎた。
ハッとして目線を上げたそこに、笑み。

「それは、あたしをナメてるってことだ!」

来る、と思ったときには遅かった。
葵の鼻面に、綾香の額が深々と食い込んでいた。

「あたしが自分を殺しに戻るなんて、思ってやしないってことだ」

痛みよりも先に、熱さが来る。
ぷ、と鼻の血管が破れるのを感じた。
鼻骨までは達しない打撃、しかし視神経の麻痺する一瞬は、あまりにも長い。
無意識に近いレベルで上げたガードの、その真下。

「なら、あたしはどうしたって戻らなきゃならない」

右の脇腹に叩き込まれる一撃。
肋骨の下から抉り込むような、教科書通りのレバーブロー。
息が、抜ける。

「そこで尻尾を巻いたらあたしの負けだ。その時にこそ、あたしは死ぬ」

崩れ落ちようとする膝を無理に支えたのがいけなかった。
空いた左胴に、今度は振り回すような脾臓打ち。
直接胃に響く衝撃に、葵の食道が上向きに蠕動する。

「人はそこで本当に死ぬんだよ、葵」

今度こそ崩れようとする葵を、髪を掴んで止めながら、綾香が空いた右の拳を振るう。
正確に鳩尾に叩き込まれた打撃に、葵の胃液が逆流した。

「だから戻る。戻ってあいつをぶちのめす」

けく、と小さな音と共に、苦い刺激が葵の舌を覆う。
それが口元から垂れ落ちようとする刹那、髪を掴んでいた手が離された。
重力のまま自由落下を始める葵の身体が、直後、まるで拳銃にでも撃たれたかのように跳ねていた。

「それが答えだ、葵。あたしの、来栖川綾香の答えだ」

松原葵の顔面を、来栖川綾香の正拳が、打ち抜いていた。


******


黒に染まった視界の中、灯る一点の朱がある。
それは街の灯り。焼け崩れる街を包む炎の朱。

ちりちりと、音がする。
瓦礫の中から、飛び交う火の粉から、逃げ惑う人々から、ちりちりと音がする。

視界を覆う黒は、巨大な影。
炎を吐き散らし、街を蹂躙する異形の怪物。
それは子供の頃、夢に見た怪獣だった。ちりちり。

「―――痛そうだなあ、葵」

紅い眼を輝かせた怪獣が、にやにやと笑いながら言う。
大きなお世話だと言い返そうとして、声が出ないことに気付く。
そう、私は一敗地に塗れ、倒れ伏しているのだ。声など出よう筈もなかった。
厭らしく笑う怪獣の視線が、私を見下ろしていた。
ちりちり。ちりちり。

断罪の時間なのだと思った。
醜い姿を晒す負け犬が、その価値に相応しい死を迎える瞬間がやってきたのだと。
悪に挑んで、何も為せずに死んでいく。
愚かな私。愚かな巨人。
にやにやと、怪獣の笑みが広がる。
ちりちり。ちりちり。ちりちり。

これでいい。
この瞬間を、待ち望んでいた。
世界はこの極刑をもって、正しいかたちを取り戻す。
首を刎ねろ。手足をもいで肥溜めに放り込め。臍に灯心を立てて火を灯せ。
断罪だ。弾劾だ。世界を救えぬ咎人の、これが末路だ。
ほうら、こんなにも無駄に、何一つ打倒することすらできず。
死んでいけ、私。

「……るなら、……てもいい……よ?」

ちりちり。ちりちり。ちりちり。
怪獣が、怪獣の言葉が、ちりちりという雑音交じりで聞こえない。
私の耳には届かない。ちりちりと、耳障りなノイズに阻まれて届かない。
だと、いうのに。

「……プするなら、やめてや……だよ?」

鼓動が跳ね上がる。
それは、不思議な感覚だった。
届かないはずの言葉が、私を刺し貫いていた。
あらゆる恥辱を越え、あらゆる汚濁を凌駕して、私の中の、最後に残ったものに、唾を吐きかけていた。

ぎり、と噛み締められた奥歯が鳴る。
どくり、と心臓の送り出す血液が全身に火をつける。
関節という関節、筋肉という筋肉、腱という腱。
私という人間を構成するパーツが、がりがりと音を立ててアイドリングを始める。
そのがりがりという音に押されて、ちりちりという音が、消えていく。

がりがり。ちりちり。がりがり。ちりちり。がりがり。ちりちり。がりがり。がりがり。
ちりちり。がりがり。がりがり。がりがり。ちりちり。がりがり。がりがり。がりがり。
がりがり。がりがり。がりがり。ちりちり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。
がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。
がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。がりがり。

松原葵と呼ばれる私が組み上がり、起動すると同時。
霧が晴れるように、怪獣の言葉が鮮明に聞えてくる。

「ギブアップするなら、やめてやってもいいんだよ、葵……?」
「―――ふざけるな」

声は、掠れもせず、喘鳴に淀むこともなく。
ただ一直線に、見下ろす怪獣を断ち割るように。

「……」

そうだ、ふざけるな。冗談じゃない。
痛くて、苦しくて、辛くて、だけどこれは断罪で、

「私はまだ、終わってない」

言葉は、思考よりも加速して。
私に根を張る妄念を、追迫し、駆逐し、放逐し。

「まだ、やれますよ、私は」

そうして、身体の奥底の、私の一番深いところから、本当の心を引きずり出していた。

なあんだ、と笑う。
たった、これだけのこと。
これだけのことだったのだ。

私は、私の心の中の、テレビの前で膝を抱える幼い少女の首根っこを掴むと、そのまま勢いよくブラウン管に叩きつける。
鈍い音がして、砂嵐が消えた。痙攣していた少女も消えた。
手を伸ばし、光の巨人の顔を鷲掴みにすると、力を込めて握り潰す。
ぽん、と炭酸飲料の蓋を開けるような気の抜けた音と共に、巨人もまた四散した。

砂嵐も、光の巨人も、焼け落ちる街も消えた、真っ暗な世界を、丸めて捨てる。
目を開ければ、そこには蒼穹と、吹きそよぐ風。
そうしてそれから、長かった黒髪を短く切り揃え、端正な顔を血と爆炎に汚した、怪獣が立っていた。
大地に身を預けたまま、視線だけを動かして、怪獣を見据える。

「目、覚めたんなら―――立てよ」

来栖川綾香が、松原葵の夢にみた怪獣が、呵う。
爛々と輝く瞳は、きっと私と同じ色。
今ならば、違いなくそれが判る。何となれば、

「ええ。それが私たちの流儀、ですから」

私の身体は、こんなにも―――戦いたがっている。




【時間:2日目 AM11:15】
【場所:F−6】

来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、その他】

松原葵
 【所持品:なし】
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