もう疫病神なんて言わせな……あれ?





「目が覚めたみたいだね」
「ん……けい、すけ?」

まだ朦朧としたままである意識、薄く目を開けた神尾晴子の視野に一人の男の背中が映る。
橘敬介はパンとコップが乗せられているお盆を持ち、今晴子が眠っていた寝室と思われる部屋に入ってきたところだった。
もそもそと上半身を起こしながら欠伸混じりに伸びをする晴子の傍、備え付けられた椅子に敬介はお盆を持ったまま腰を落ち着けた。

「気分はどうだい」
「別に、何ともあらへんよ……ふわぁ。寝すぎたみたいやな、肩凝ってしんどいわ」
「夜中に様子を見に来たけど、起きる気配はなかったみたいだし。
 晴子も気を張り詰めすぎていたんだよ、こんな状況なら仕方ないかもしれないけどね」

こんな、状況。
そこで晴子は、はたとなる。
自分が置かれている立場のこと、娘を探し回って島の中を駆けずり回っていたこと。
今晴子が横になっていたのは柔らかいベッドだ、かけられた毛布と布団に見覚えなどあるはずない。
そもそも、ここはどこなのか。晴子は全く分からなかった。

「……晴子?」

怪訝な表情で伏せられた晴子を覗き込んでくる敬介には、彼女に対する警戒心が見当たらない。
晴子からすれば、それも疑問に値した。

「何で」
「うん?」
「うち、あんたに銃を向けたんやで。何であんたは、そんな風にしてられるん?」

きょとんと真顔になる敬介の顔面に毒気が抜けられたかは分からないが、今の晴子には二人が出会った頃の攻撃性はなかった。
一晩ぐっすり寝て、精神的にも落ち着いたことも原因かもしれない。
それでも現状の把握が間に合っていないのか、晴子は額に手をあてながら必死に頭の整理を行った。
そんな晴子を無言で見守る敬介は、何はともあれ荒れていた彼女の面影が拭われていることに内心安堵の溜息を漏らしていた。
ここでまた晴子が暴れだした時、きちんと彼女の気性を抑えることが出来る自信というものが、敬介にはなかった。
昨晩も結局敬介自身の手では何も成すことが出来ず、晴子にしても通りがかりの見知らぬ男性に止めてもらったようなものである。
敬介の中にあったはずの尊厳、自信など自己を表す強固なものは、今彼の中には存在しないに等しかった。
少しやつれた敬介の頬に怪訝そうな視線を送る晴子、それから逃げるよう敬介はお盆を彼女に手渡し寝室を後にしようとする。

「……何か口にした方がいいと思ってね。食べたら、下に来てくれるかな」
「恩を被る気はないで」
「大丈夫、それは君の支給品である食料だ。水もこの家に通っていた物を使っている。
 毒が入ってると思うなら食べなくてもいいけど、それ以上の気遣いの必要はないよ」

晴子の返事を待つことなく、敬介は部屋から出て行った。
残された晴子は暫くの間彼が出て行ったドアを眺め、そして。
徐に、パンと水に口をつけたのだった。





「あの、おはようございます!」

不必要とも思える明るい声、晴子がダイニングと思える部屋の扉を開けた途端それが響く。
椅子に座っている赤のセーラー服に身をつつんだ少女は、ノートパソコンと思われるものを弄っていた。
その隣には画面を覗きこむように、敬介も席についている。
少女、雛山理緒と晴子はまともな会話をしたことはなかった。
だからだろう、晴子も彼女が何なのかすぐには思い出せなかった。

昨晩のことを思い出そうする晴子は、静かに目を閉じその光景を瞼の裏に描こうとする。
そして敬介との一悶着の原因にもなった少女と、目の前の彼女が同一人物であると認識したと同時に晴子は敬介に吼えてかかった。

「……うちの話、全然聞いてなかったんやな!」
「晴子?」
「あんた、いつまでその子囲ってるん?! きしょいわ、ええ加減にしい!」
「晴子、君はまだそんなことを言ってるのか」
「じゃかあしいわ!」

叫ぶ晴子にどうしたら良いのか分からないのだろう、理緒はオドオドと晴子と敬介に挟まれた形で視線を揺らしていた。
一つ大きな溜息を吐いた所で敬介は立ち上がり、理緒を背に隠すよういまだ部屋の入り口にて仁王立っている晴子と対峙する。

「何呑気にしてるんや、そんな余裕こいてる暇あるならさっさと観鈴のために何かしい!」
「……観鈴のために、何をするんだい?」
「当たり前のこと聞くんやないボケが、それくらい自分で考え!」

敬介の淡白な応答に、晴子が沸点に到達するのは容易かった。
視線で人を殺せるくらいの強さを持った晴子の瞳、しかし敬介がそれに怯むことはない。
ここで嗜めるように、上から目線で話してくるのが敬介の気質だった。
晴子はそれを真っ向から叩こうと、敬介が次に継ぐ言葉を待ち続ける。
しかし敬介はまた溜息をつき、そのテンションの低さを晴子にまざまざと見せ付けた。

「……あんた、人を馬鹿にしとるんか! 最悪やな、そんな男とまでは思ってなかったで!」

吐かれる暴言に対しても、敬介は大きなアクションを取ろうとしない。
あまりにも張り合いが無さ過ぎる敬介に対し晴子も疑わしく思えてきたのだろう、晴子は一端口を閉じ敬介の出方を窺った。
怪訝な晴子の表情、それに気づいた敬介はそっと右手を挙上げある場所を指差す。

「晴子、悪いけど今の時間を確認してもらっていいかな」

何やねん、と晴子が不満を口に出そうとした時だった。
敬介の指差す場所には、少し埃が積もっているものの今もまだ稼働している壁掛けタイプの時計が飾ってある。
何気ないインテリアに、晴子も今その存在に気がついたのだろう。
時計には愛らしい装飾が施してあり、それこそ観鈴などの女の子が好きそうなキャラクターがあしらってあった。
しかし今、見るべき所はそのような外観ではない。あくまで、機能としての時計の役割が重要だった。

「……十時? 十時って、何や」
「今の時間だよ」
「は? だって、十時て……嘘やん、そんな……」

間抜けにも思える晴子の独り言に、敬介は的確な言葉を続ける。

「二回目の放送があったんだ、君が眠っているうちに終わったよ」
「んな、何……」
「話したいことがある。悪いけど、大人しくしていて欲しい」

混乱がとけないのだろう、上手く言葉が紡げずにいる晴子の二の腕を掴み、敬介はそっと椅子の方へと誘導した。
ふらふらと流されるままに敬介についていく晴子、理緒は不安気にその姿をそっと目で追う。
すとん、と理緒の正面に座った晴子の目は空ろだった。

「君には……伏せておいた方がいいかもしれないと、最初は考えていたんだ。
 だけど、そんなの傷つくことを後回しにするだけのようにも思えてね」

そんな状態の晴子に何て残酷なことを告げなければいけないのだろうと、理緒は一人涙ぐむ。
伏せた視線には自分の握りこぶししか映らない、耳を塞ぎたい気持ちもあったが理緒はそれをぐっと我慢した。
敬介だって、同じはずだからである。
むしろ告げる役は彼なのであるから、痛みは彼の方が増すに違いない。

「……敬介?」

訝しげな晴子の声に続けられることになる敬介の宣告、瞬間喉が空気を掠める音を理緒の耳が捕らえた。

「観鈴が死んだよ」

それは、敬介の言葉が吐かれるとほぼ同時に鳴ったものだった。





初めまして、神尾観鈴といいます。
私は無事です、友達もたくさんできました。
今、藤林杏さんのパソコンを借りて書き込みをさせていただいてます。
えっと、上で書いてある橘敬介というのは私の父です。
お父さん、もしこれを見てくれているなら、もう人を傷つけて欲しくはないです。
また、父に会う人がいらっしゃるようでしたら、この書き込みのことを伝えてください。
お母さんの神尾晴子という人に会った人も、伝えてもらえると嬉しいです。
よろしくお願いします。

書き込み時刻は午後十一時過ぎ、折りしも晴子が敬介等と言い争いをしていた頃のものだった。
画面に存在するウインドウは正方形で、そのタイトルには「ロワちゃんねる」という文字が添えられている。
理緒の前にあったノートパソコン、その画面を晴子の方に向けながら少女はこわばった表情で口を開く。

「ここにある、藤林杏さんという方のお名前も……呼ばれました」

何で呼ばれたか。この流れでは一つしかない、放送だ。
いまだ現実が認識できていない晴子に向かって、畳み掛けるように色々な情報が襲い掛かる。
晴子は呆けたままの頭を抑えながら、ノートパソコンの画面を見つめた。
読むという行為までは発展しないそれ、しかし「神尾観鈴」という愛する娘の呼称だけは晴子もすんなりと理解できたのだろう。
晴子は食い入るように、それに見入っていた。
時折瞳が乾いてしまうせいか瞬きをする、その仕草さえも機械的と言えるような動作で後は何のアクションも起こさなかった。

「僕達には観鈴に何があったのかは分からない。分からないんだ」

零された敬介のそれに、晴子の瞳が揺れる。
敬介の声には、何の表情も含まれていなかった。

「あの子がもうここにはいない……それだけ、なんだよ」

晴子の視線が動く、そこには無表情の男が棒立ちしているだけだった。
無念だとか、悔しさだとか、そのような類の色すらも含まれているようには全く見えない敬介の姿が、晴子の感情を掻き毟る。

「……そんな訳、あるかい」

晴子には、それくらいしか口にできることがなかった。
信じられない、信じたくない事柄に対し晴子が唯一できる抵抗というものがそれだった。

「あの子が死んだなんて、嘘に決まっとるやん。なぁ、うちが放送聞いてへんから騙そうとしとるんやろ? なあ?」

早口で捲くし立てる晴子、敬介と理緒を交互に見やり晴子は必死に同意を求める。
俯き視線を逸らす理緒に対し、敬介はやはり表情を崩すことなく晴子のそれを見返していた。
……本来ならば、敬介も動揺し感情を外に喚き出したい衝動に駆られたかっただろう。
しかし敬介は疲れていた。疲れきっていた。
昨晩受けたショックに続く愛娘の死は、敬介の存在意義とも呼べる渇望を根こそぎ奪い取ったようなものである。
意固地な晴子の姿勢、敬介はそれが羨ましいくらいだった。
観鈴のためにそれくらい取り乱せる晴子のこと、見苦しいかもしれないが観鈴のことを思っての上での醜態に無表情だった敬介の目元が歪む。
一歩足を踏み出し晴子との距離を詰め寄ろうとする敬介、それだけで彼女はビクリと大きく肩を揺らした。
後退する晴子が目の前の敬介かそれともせまってくる現実か、そのどちらに身を震わせているのかは敬介自身にも分からない。
逃げ腰になる晴子の腕を掴むと今一度パソコンの前へと引っ張り戻す敬介は、今はそれが最優先だと判断した上で容赦なく彼女に現実を突きつけようとする。

「晴子、この書き込みをよく見てくれ」
「嫌や!」
「見ろ、見るんだ晴子。観鈴は争いなんか望んじゃいない、せめてその気持ちを酌んであげなくちゃいけないんじゃないのか」

暴れる晴子の背面に周りその両肩を掴み、敬介はぐずる幼子をあやすように言葉を刷り込ませようとする。
だが聞く耳を持とうとしない晴子は裏拳を敬介の頬に叩き込み、すぐさまその拘束を掃った。

「晴子……」
「うちは認めん、絶対に認めん!」
「落ち着いてくれ、晴子」
「認めたらそれまでやろ?! 観鈴は死んでなんか……」

頬を張る音、空気を振るわせるそれが鳴り響き晴子の言葉は止められる。
自分がはたかれたという認識が遅れているのか、晴子は視線を彷徨わせながら強制的に動かされた視野をゆっくりと元に戻した。
晴子の目の前、今の晴子と同じように頬を腫らした敬介の眉間には、深い皺が寄っている。
晴子は、呆然とそれを見つめた。

「……それは観鈴のためじゃないだろ、君のためだ。
 君のエゴであの子の心を傷つけるんじゃない。僕はあの子の父親だ、あの子の心を守る義務が僕にはある」

相変わらずの弱々しい佇まいだったがその声だけは凛としていて、結果周囲にいた者の注目を浴びることになる。
せめてもの誓いだと宣言する敬介の言葉には、思いの深さが満ちていた。
不甲斐ない自分に恥じ気落ちする彼が生きる意味という言葉を捜した結果が、それだったのかもしれない。
自分には何も出来なかったということ、失った自信を取り戻すためにと気力で持ち直そうとする程彼は若くない。
目の前にある義務を最優先にした敬介は、同時に一児の父としての自分を優先させたことになる。

「……アホらし」

嘆息混じりに晴子が呟く。
晴子は噛み殺してきそうな勢いを持った瞳を潜め、そうして肩の力を抜いた。

「うちのバッグはどこや」
「うん?」
「せやから、うちのバッグはどこや。あんた等が管理してるんとちゃうの?」
「あ、それでしたら隅にまとめて……」

成り行きを見守っていた理緒が口を挟む、そんな彼女を一瞥した後晴子は狭いダイニングを見渡した。
合わせて三個のデイバッグがまとめられる様を発見し、徐に近づいていく晴子を止める者はいない。
そこから一つバッグを担ぎ上げると、晴子は戸口の方へと向かった。

「僕達と一緒にいるつもりはないのか?」
「空気読まんかい、今は一人にさせて欲しいんや」
「……そうか」

それ以上二人の応答は続かず、部屋を出て行く晴子の背中を理緒と敬介は無言で見送った。





時間にすれば、それから数十分程経った頃だろうか。

「引き止めた方が、良かったんだろうね」
「橘さん……」
「でも僕は、晴子の足を止められる言葉を持ってはいないんだ」

先程晴子が座っていた席についた敬介が、向かい合う理緒に愚痴を漏らす。
理緒は何も言えなかった。
晴子と敬介、二人の間に理緒が入り込む余地がなかったというのもあるが、その隙間を埋めようとも理緒はしなかったからである。
敬介と理緒は、言わば似たもの同士であった。

(藤田くん……)

二人が失ったものの存在感は、あまりにも大きかった。
俯く二人はそうやって、限りある時間を食い潰していく。
ダイニングの戸口には一枚の紙切れが落ちていたのだが、二人がそれに気づく気配はまだない。
それは晴子が中身を確認せず持っていったデイバッグから落ちたものだった。

『アヒル隊長型時限装置式プラスティック爆弾 取り扱い説明書』

紙切れは本ロワイアルが開始されてから、いまだ誰も目を通していないアヒル隊長の説明書だった。

(藤田くん……私、これからどうすればいいかな……)
(僕は一体、これからどうすればいいのか……天野美汐、彼女の意図は分からないけどあの変な書き込みで、うかうかと名乗ることもできなくなったし……)

故意にウインドウのサイズを正方形にしていたことは、晴子に美汐が行ったと思われる書き込みを見せないためだった。
敬介の弁明でそれが誤解であることは、理緒も既に承知していることだった。しかし晴子はどうか。
観鈴の死というだけで情緒に問題が出るであろう彼女に、出任せであるその事柄を伝える必要はないだろう。それが二人の出した結論だった。

またそれ以外にも、椎名繭に支給されたノートパソコンにより得られた情報が二人にはまだある。
しかしそれが次の行動に移らない時点で、そんな物は豚に真珠が与えられたようなものだ。
刻々と過ぎていく時間、積もるは意味のない溜息ばかり。
二人が無駄にした時間に後悔するのは、まだ少し先のことだった。




神尾晴子
【時間:2日目午前10時半過ぎ】
【場所:G−2】
【所持品:鋏、アヒル隊長(2時間後に爆発)、支給品一式(食料少々消費)】
【状態:放送を聞いていないのでご褒美システムは知らない】

雛山理緒
【時間:2日目午前10時半過ぎ】
【場所:G−2・民家】
【持ち物:ノートパソコン】
【状態:自失気味(アヒル隊長の爆弾については知らない)】

橘敬介
【時間:2日目午前10時半過ぎ】
【場所:G−2・民家】
【持ち物:無し】
【状況:自失気味(自分の支給品一式(花火セットはこの中)は美汐のところへ放置)、美汐を警戒】

支給品一式(食料少々消費)トンカチ・支給品一式×2(食料少々消費)は部屋の隅に放置
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