十一時八分/苦界穢溜





畢竟、人体を構成するのは血と肉である。


***


ねちゃり、と靴底に張り付くものがあった。
それが何であるのか、久瀬少年が確認することはなかった。
少年を支配していたのは、喉を焼き口腔を満たした、苦く辛い刺激である。
堪えきれず、吐いた。
咀嚼された朝食の欠片、崩れた野菜や原形を留めぬパンが胃液と共に神塚山山頂の大地を汚す。

思わず地面についた膝が、じわりと染みた。
その冷たく粘り気のある感触が己の吐瀉物でないと気付き、少年の胃が再度収縮する。
赤黒い染みを覆い隠すように、黄色い胃液がぶち撒けられた。
胃液の水溜りに、髪の毛が浮いていた。
長い、女の髪だった。
目を逸らす。
逸らした先に、割れた眼鏡の破片と、幾つもの硝子が突き刺さった眼球があった。
吹く風が胃酸の鼻を突くような刺激臭をかき消し、代わりの匂いを運んでくる。
鉄臭く、生臭いそれは、吸い込めば肺の内側を真っ赤に染めそうな濃さの、血の匂いだった。

死が遍在していた。
砧夕霧と呼ばれる少女たちの、物言わぬ躯。
狭い尾根一帯に広がるそれは、死体を敷き詰めた絨毯だった。
一万にも及ばんとする数の少女が、あるものは潰れたトマトのような大輪の花を咲かせ、
またあるものは肩口から三つの頭を生やしたような姿のまま虚ろな瞳を天へと向けて息絶え、
その悉くが無惨な屍を野に晒していた。

久瀬少年が立ち上がりかけて、その足を血に滑らせてよろけ、倒れた。
雨上がりに泥濘が飛沫くように、脳漿とリンパ液とどろりとした血と、小さな肉の欠片が跳ねた。
頬を拭った手に、かつて人の体内を流れていたものがこびりついているのを見て、少年が小さな悲鳴を上げた。
微笑むように融け崩れた少女の、片方しかない目と視線を交わした少年の食道が、三度蠕動する。
どろどろに消化された茶色の何かが、少女の残った目にかかり、ずるりと流れた。

今度は、悲鳴も上げられなかった。
ひくりと、口元が痙攣した。
息苦しさと嘔吐感に流れる涙が、頬を流れる内に跳ねた血と混ざって濁り、赤黒く染まって垂れ落ちた。
救いを求めるように視線を移せば、傍らに立っていたはずの男は遠く、連れた少女と何事かを話している。
少年は独り、ただそこだけは穢れなく在り続ける天を見上げる。

蒼穹の下、死の一色に塗り篭められた場所を、地獄という。


***


「これが……戦争だって、いうんですか」

少年の声が響く。
対する男は、ねっとりと喉に絡みつくような濃密な血臭の中、眉筋一つ動かさずに答える。

「いいや」

眼前に広がる死の大地を見つめるその瞳に浮かぶのは、朝霧に咽ぶ湖の如き静謐。

「いいや、これは……闘争だ」
「闘、争……?」
「そうだ。久瀬、君は言った。我等は敗者であると。世界に打ち捨てられたものであると。
 ならばそれを肯ぜず抗う我等が目指すは、勝利ではない。奪還だ。
 我等の尊厳を、存在を取り戻すため。我等は此処にいると。確かに此処に在ると。
 高らかに謳い上げ、我等を顧みぬ者達の心胆へ楔を打ち込まんと、こうして立っている。
 故にこれは……戦争ではなく、闘争だ」

淡々と告げる男の、眼差しの奥に灯る陰火の昏さに、少年は視線を逸らす。
少年の中にとて、決意はあった。
男の言葉も、理解できるつもりでいた。
だがこのとき少年の脳裏をよぎったのは、底知れぬ不安であった。
男は自分と同じ方向を向いている。同じ方角へ歩いている。
しかしその見据えるものは、目に映る世界はまるで違う色をしているのではないかという、不安。
男の背負う薄暗い何か、男の奥底に根を張るおぞましい何かは、自らの知るそれとはまるで別の次元で存在しているのではないか。
余人には聞え得ぬ、深い闇の底から響く声に突き動かされて、坂神蝉丸という男は生きているのではないか。
そんな、言い知れぬ恐怖。

「そう……ですか」

それだけを返すのが、精一杯だった。
耐えきれず視線を逸らした少年の目に、奇妙な光景が映った。

「あれは……?」

少年と共に歩んできた、八千余の少女。
山頂一帯に展開した無数の少女たちが、黙々と動き出していた。
屈み、何かを拾い上げ、受け渡し、置く。
一言も発することなく行われるそれはどこか儀式めいた印象を与える。
少年がそれを土木、あるいは治水作業のように思ったのは、次々に受け渡され、積み上げられていく何かが
まるで土嚢のように見えたからだった。

「何を―――」

言いかけた少年の言葉が、途切れる。
神塚山山頂は、建築現場でも堤防でもない。
土嚢の代わりに積み上げられる資材など、泥と石くれの他には、一つしかないことに気付いたのだった。

「何を、しているんですか」

問う声は震えていた。
少女たちの築く土嚢のような何かの山は、次第に大きくなっていく。
男はそれを静かに見つめている。

「彼女たちは何を、しているんですか……!」

張り詰めた声に、男が目線だけを動かして少年を見やる。
巌の如く引き結ばれた口元がゆっくりと開き、言葉を紡ぎだした。

「……見ての通りだ」
「何を……っ! 何をさせているんですか!」

少年の声が、激昂へと変わる。
血脂で汚れた眼鏡のレンズの向こうにあるのは、少年の想像の範疇を超えた光景だった。

「あんな……あんな風に、し、死体を……!」

震える指でさし示した先で、少女たちが黙々と作業を続けていた。
山頂一帯に転がる、一万弱の遺骸。
同胞たるその遺体、あるいはその破片、断片を拾い上げ、手を、腕を、顔を、胸をべっとりと血で汚しながら、
無言のままそれを隣の少女へと受け渡していく。
火葬した骨を箸から箸へと渡すように、少女たちは淡々と同胞の無惨な躯を運んでいく。
無造作というでもなく、さりとて丁寧にでもなく、ただ無感情な幾つもの手を経た先に待つのは、
今や人の腰辺りまでを覆い隠せる高さにまで積み上げられた、屍の山だった。
山の近くに立つ少女の手に渡った躯が、新たな頂を作る。
大きな遺骸が積み上げられ、その隙間を埋めるように肉片が、骨片が、塗り篭められていく。
この世ならざる凄惨な光景と、少年は見た。

「あなたの……あなたの指示ですか、坂神さん……!」

先ほど、砧夕霧群体の核となる少女と何事かを言い交わしていた男の背中が浮かぶ。
睨みつけるような視線を受けても、男は表情を動かさない。

「最適の戦術を問われ、現状で最も効果が高いと思われる答えを出した。それだけだ」
「それ、だけ……!?」

少年が凍りついたように固まるのを気に留めた様子もなく、淡々と男の言葉は続く。

「我等の戦術は陣を組んでの遠距離砲撃戦。特火点とまでは言わんが、遮蔽物は必要だ。
 そして我等に資材はなく、時間は更に限られている。……割り切れ」

割り切れ、という男の言葉が少年を打つ。
揺らぎなく放たれるその厳然たる口調が、少年の反論を許さない。
男の言葉は的確だった。
防衛線の構築は、一刻も早く行われなければならなかった。
指示を出すべき状況で、自分は地獄絵図を前に反吐を吐いていた。
返す言葉の、あろう筈もなかった。
しかし。

「それでも……っ、」

心のどこかで張り上げられる声が、少年には聞えていた。
それは少年の生きてきた時間、世界のありようとでもいうべきものたちの声だった。
声は叫んでいた。
目の前の光景は、その根源から間違っていると。
突きつけられた正しさを認めてはならないと、叫んでいた。

「それでも、これは……っ! あまりに人の道を、外れている……!」

張り裂けるような少年の言葉を、

「―――思い違いをするな」

男の冷厳な声が、叩き潰していた。
愕然と見上げる少年の瞳を覗き込むように、男は語る。

「あれらは、」

あれ、と男は少女たちを呼ぶ。
ひどく突き放した物言い。

「あれらは母より生まれ、育まれたものではない」

異形を埋め込まれた男の瞳に宿る一筋の激情を、少年が知り得たか否か。
ただ圧倒されたように立ち尽くす少年の臓腑を抉るような、それは声音だった。

「もとより人の道を知るように生かされてなど、いなかった」

言葉を切ると、男は静かに首を振る。
四方に築かれていく小さな防衛陣地と、そこに陣取る少女たちを見やった。

「我等は何処に立っている?」

吹く風が運ぶのは血の臭い。
青空のこちら側に広がるのは、赤と黒と、泥の色。

「此処は屍の山の上。苦界のどん底、最果てだ」

男の言葉が、結審の槌の音のように響いた。


******


「北麓、山道に火線を集中! 消耗戦に引きずり込め!」

怒号にも似た男の声が、少年の耳朶を打つ。

「西の敵は一人だが動きが早い、前線は融合せず数で当たれ!
 弾幕の密度を維持して五合目まで押し戻せ!」

矢継ぎ早に飛ぶ指示を受け、八千の少女たちが確固たる意志の下に動く。
有機的に連動するそれはまるで一つの生き物のようだと、少年はどこか他人事のように考えていた。

「敵影は四、ただの四つだ! 何としても食い止めろ、山頂に足を踏み入れさせるな!」

北側から天沢郁未、鹿沼葉子。
西から迫る影は正体不明の獣。
そして南には、来栖川綾香。
これまでも無数の夕霧を葬ってきた面々だった。
足止めはできても、斃すには至らない。
それでよかった。勝利条件は山頂の死守と、二千の砧夕霧の生存。

「北東から南へ横断する影だと……? こちらに向かってこないのなら放っておけ!
 南側は左翼に警戒強化! 戦線を維持することに専念しろ!」

座学とて、役に立つ場面であろうとは思う。
坂神蝉丸の目は二つで、喉は一つだ。
手が回らぬこともあろう、見落としとてあるやも知れぬ。
だが今、少年はただ砧夕霧の作る十重二十重の垣根の中、薄ぼんやりと座っている。
駒たることに抗わんと立ち上がった筈が、駒として敵を討ち果たそうとしている。
それはどこか歪み、ねじくれ曲がった構図だと、少年は内心で苦笑する。
幾つもの光線が奔る。
少女たちは死んでいく。




 【時間:2日目 AM11:11】

【場所:F−5】
久瀬
 【状態:健康】
坂神蝉丸
 【状態:健康】
砧夕霧コア
 【状態:健康】
砧夕霧
 【残り7652(到達・7652)】
 【状態:迎撃】

川澄舞
 【所持品:ヘタレの尻子玉】
 【状態:ムティカパ・エルクゥ・魔犬ポテト融合体、重傷(急速治癒中)】

【場所:E−5】
天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:光学戰試挑躰】

【場所:F−6】
来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、こんなこともあろうかとバッグ】
 【状態:ラーニング(エルクゥ、(;゚皿゚)、魔弾の射手)、短髪、ドーピング】
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