冷たい方程式




 俺様は堤防の上に座り込み、おむすびの包みを広げていた。
「やってらんね……」
 少しでも空腹になるとやる気がなくなる。しかもこの暑さだ。
 堤防の上は海から吹き込んでくる風が強く、涼しい場所だった。
 汗が乾いていくのが分かる。
 見晴らしも良かったから、昼飯を食べるには絶好の場所だった。
 俺様はおむすびを包みから取り出す。
 重いと思っていたら、ボーリングの玉のように馬鹿でかいおむすびだった。量的には申し分ない。
 もぐもぐ……
 海を前にあぐらをかいて、馬鹿でかいおむすびを頬張る。
 まるで観光客だった。
「うーん……」
 すぐ隣に立ち、一身に風を受ける犬がいた。
 ……犬?
「ぴこ」
 その犬は何を血迷ったか俺様のおむすびへ――
「ぴこ〜〜〜♪」
 ――ではなく、俺様の唇へ……って! オイ! 何だこの超展開は!
「ちょ、おま、待て、俺様は心の準備が……じゃなくてこんな展開知らねぇぞ! こっち来んなぁああぁぁぁあぁ!!!」

     *     *    *

 そこで俺様は目を覚ました。何だ夢か……まったく最悪の夢だったぜ。
 やれやれ、この高槻様ともあろうものが柄にもなく取り乱しちまったな。でもどうせなら夢オチだろうと絶世の美女(ボインボインの)とやらせてくれたっていいじゃねぇか。お前らだってそう思うだろ?

 ところで、俺様に近づいてくるこの白い毛むくじゃらみたいなのはなんだ? 何かゴマ粒みたいなのが二つと逆三角形のおむすびみたいなのと舌みたいなのがついてるんだが。しかもこっちに近づいてくるし。何か知らんが異常に興奮してるみたいだし。おちけつ、お前の目指すべき相手はここから遠く離れたスペインの闘牛場にある赤いマントのはずだ。だからこっち来んな。

「……ぴこ……」
 はてどこかで聞いたことのある鳴き声だな。はっはっは、幼児の玩具みたいな鳴き声だな。こいつなら投稿! 特ホウ王国に持っていけそうだ。あの番組は大好きだったなあ……ヤラセだと分かった時には萎えたけどな。
 おや、ゴマ粒が小さくなったぞ。まるで目を閉じているみたいだな。うん、耳に響いてくるこの息遣いといい、動物的なワイルドな涎の香りといい、本当の犬みたいな……犬……ぴこ……待て。まさかこいつは――

 その瞬間、俺様の脳裏には『ズギュウゥゥゥゥン!!!』という効果音と共に熱い接吻を交わすあの漫画の一コマが描き出された。同時に、何かを祝福するように二人組の天使様が盛大にラッパをぷっぷーと鳴らしている。待て待て待て! 勝手に未来を確定させんじゃねぇええぇえぇぇ!
「何すんじゃこのアホ犬がぁあぁあぁぁぁぁああwせdrftgyふじこlp;@!」
 絶叫しすぎて後半人間の言葉になっていなかったが、とにもかくにも俺様は唇を奪おうとした超駄犬、ポッテートを引っつかんで海へと向かって思い切り放り投げた。

「ぴこ〜〜〜〜〜〜〜……」
 気の抜けるような声を残して海中へとフェードアウトするポテトを、肩で息をしながら見送る俺様。パシャーンと水しぶきをあげた光景が、妙に美しかった。
 そこでようやく、俺様はここが海岸だということに気付く。はて、どうして俺様はこんなところにいるんだっけ?

「相変わらず元気ね……」
 呆れたような、冷めたような声が俺様の耳に届く。振り返るとそこには片手でゆめみに背負われた郁乃の姿があった。ぐったりとしていてどうも元気がなさそうだ。
 ……そうだ、思い出した。俺様は崖から転落した郁乃を追ってゆめみと一緒に海へ飛び込んだんだっけな。でも意外と波が激しくて右往左往しているうちにだんだんと意識がブラックアウトしていって……

「郁乃。俺様はどんくらい寝てた?」
「さぁ? 私も気絶してたからなんとも言えないけど、いの一番に溺れてたのはアンタ」
 ビシッ、と人差し指が俺様に向く。ちげーよ! 泳げないんじゃないんだよ! 着衣水泳がどんだけ難しいかお前らだって分かってんだろ!?
 ……と言い訳しようと口を開こうとした瞬間、さらに郁乃がお得意の毒舌を振るう。

「カッコ悪い。最低」
 ぐはっ、と砂浜に崩れ落ちる俺様に、更にゆめみが言った。
「た、高槻さんお気になさることはありません! ポテトさんがしっかりフォローしてくれましたから」
 ゆめみさん、そいつは当てつけですか? つーかまた犬に助けられる俺様って……どうよ? ヒーローとして。
「そうそう、ポテトさんはすごいですよ。わたし以上に早く泳いでいましたし、人工呼吸も出来るんです。わたしは呼吸という行動をしないので高槻さんが溺れて息をしてなかったときはどうしようかと……」
「全くよ。私も気絶してたけど、流石にアンタほどじゃなかったわ。さっき投げ飛ばしてたけど、後でお礼言っときなさいよ? ほんっと手間のかかる奴なんだから……」

 なんだこの扱いは。俺様の株が急落、ポテトがうなぎ上りって感じじゃねーか。つーか人工呼吸する犬ってどうなのよ? ……待て。人口呼吸?
「おい人口呼吸って……まさか」
 俺様は半ば顔を青ざめさせながらようやく舞い戻ってきたポテトを見やる。ずぶ濡れになったポテトは暢気にぷるぷると体を振って水分を払っていた。
 冗談だよな? 俺様が犬に人工呼吸されて死の淵から復活したなんて。きっと郁乃あたりが「べ、別にこれはキスなんかじゃないんだからね!」と典型的ツンデレのように恥じらいながらやってくれたってオチなんだろ? HAHAHA、二人して随分ウィットに富んだジョークを言ってくれる。な、そうだよなポテト?
 俺様が懇願するように視線を投げかけても当の畜生は「ぴこ?」と首を傾げるばかり。そして現実は非常だった。

「はいっ、ポテトさんが必死に高槻さんの口に息を吹き込んでくれたんです。それも27回も」
「……」
 これ以上ない笑顔でポテトの活躍を嬉々として伝えるゆめみさん。
 したのか。27回……27……か……い……

「……ねぇ、大丈夫?」
 見るに見かねたような表情で郁乃が気遣ってくれる。あまりに酷い顔だったのだろう。俺様は必死に笑顔を繕いながら親指を立てて返事する。
「へ、へへ、大丈夫に決まってるだろうが……27回……」
「……」
 ご愁傷様、と小声で言うのが聞こえた。郁乃にとっても犬が人工呼吸をしている光景というものはさぞシュールだったに違いない。

「ぴこ、ぴーこっ」
 いつの間にか俺様の足元まで来ていたポテトが「気にするな」とでも言うようにぽんぽんと前足で脛を叩いていた。このまま奴を地平線の彼方まで蹴り飛ばしてやりたかったが今の俺様にはそんな気力もなかった。
「それでは、高槻さんも目を覚まされたようですしここから移動しましょう。幸い、みなさんのお荷物は無事だったようですし」
 ゆめみが方向転換し、何やら黒いものが山積みになっている地点に視線を向ける。あれが荷物だったのか。多分ゆめみが集めておいてくれたのだろう。
「車椅子は海中に沈んじゃったけどね」
 荷物を見ながら、自嘲するように郁乃が呟く。何かが足りないと思っていたが、郁乃がゆめみに負ぶわれていたのはそのためだったらしい。となると郁乃が自力で移動する手段もなくなったことになる。この島に車椅子みたいなものがあれば、また話は別だが。

「ふん、死ぬよりはマシだと思えよ。それよりも、俺様は疲れた。どっかで休憩するぞ」
「ちょっと、何よその言い方……いや、それはもう何も言わないけど、折原や七海……それに杏さんを探さなくていいの!?」
 俺様の言い草にカチンと来たのか、郁乃がゆめみの背中から身を乗り出すようにして怒鳴る。言いたいことは分かるが、分析ってものが出来ていない。それにあいつらとは元々成り行きでくっついていた連中だ。俺様が探す義理もない。だがそこまで言えば口論が発展するだけだろう。ファンを減らす愚は犯さないのがハードボイルドのハードボイルドたる所以なんだなこれが。

「アホか、真面目に考えてみろ。あそこにいた女……あの変な恐竜みたいなのに乗ってた女がいただろ? あの様子じゃ一戦はあったはずだ。結果はともかく、今もあの場所にいるとは、とてもじゃないが思えねぇ。いや精々バラバラになって逃げるのが関の山だっただろうよ。そんなあいつらをどうやって探す? ヒントもなしに。それにお前もそんなぐったりした様子で、体力が持つのか? それだけならまだいいが、お前は歩けない」
 ぐっ、と郁乃が息を呑むのが分かった。その点に関しては何も言えない事は本人も分かっているはずだ。それを利用するようだが……ここでビシッと言っておいてやるか。

「事実だけ言ってやる。今のお前は足手まとい以外の何者でもないんだよ。本来ならこの時点で見捨てられてもおかしくない。まぁ俺様はそんなことはしないが……とにかく、お前がいるせいで移動にも手間がかかってる状態だ。そんな状態でうろちょろしてみろ、いい的に」
「分かってるわよ!」
 郁乃の叫び声が俺様の声を掻き消す。悔しそうに歯噛みをしているのが見て取れる。郁乃のことだ、傷を抉られるようで聞ける言葉ではなかったのだろう。
 『セイギノミカタ』ならこんな状況でも快く郁乃の頼みを引き受けたかもしれない。だが俺様はそんな存在じゃないし、そんなものは反吐が出る。安請け合いはできなかった。

「分かってるわよ……私が、足手まといなんて……このゲームが始まった時から……」
「小牧さん……」
 ゆめみは心配そうに郁乃を見るが、それ以上の言葉は口に出さない。単にこんな状況でかける言葉がプログラムされていないだけなのか、それとも俺様の言葉が正しいと分かっているからなのか……どちらにせよ、ゆめみは口出しする気はないようだった。
「でも悔しいじゃない……私を助けてくれた人に何も出来ないなんて……私だって、私だって役に立ちたいのに……じっとしてることが一番役に立つだなんて、そんなバカな話ってないじゃない……」

「口だけなら何とでも言えるな」
「……!」
 追い討ちをかけるような俺様の言葉に対して、郁乃がキッとこちらを睨む。でも睨むだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「後悔してる暇があったら何とかしてみろ。だからバカなんだよお前は。俺様が言ったのは『俺様が疲れたから休みたい』これだけだ。休んでる時間お前らが何をしようと俺様にゃ関係ない。精々歩く練習をしようが銃を撃つ訓練みたいなことしようがな。後悔や反省ってのは、明日に生かすためにあるんだよ」

 くぅっ、良い事言ってるよ俺様! これがハードボイルドの真髄って奴だよな! などと悦に入っている俺様に、郁乃が小憎たらしい口調ながらも言った。
「あんたなんかに言われる筋合い無いわよ……犬に27回も人工呼吸されたことをまだ引き摺ってるくせに」
「ああそうだ、俺様は悪党だからな。くっくっく……反省なんてしないんだよ」
 自分で言うのもなんだが下卑た声で笑う俺様に郁乃が眉を潜めながら捨て台詞を吐いた。
「……見てなさいよ、あんたが昼寝から起きた時には歩けるようになってみせる」
「お? だったら俺様の意見に従うってことでいいんだな? ん?」
「ムカツクわねその言い方……そうよ、そうだって言ってるのよ!」
「こ、小牧さん少し落ち着いて……高槻さんもあまり煽らないで下さい」

 おろおろするゆめみだが、まぁこれくらいはいつものやりとりだ。後は精々郁乃の成長に期待するとしますかね。
「はいはい、分かった分かった。んじゃ取り合えずあそこに見える家で休憩するぞ。俺様はしばらく寝るから後は勝手にしろ。行くぞポテト」
 海岸のすぐ近くにあったバラ家を指して、ぴこ、とポテトを引き連れながら俺様は疲れきった体を休ませるべく歩き出した。おっと、荷物も忘れずにと。ついでだから二人の分も持っていってやるか。俺様は紳士だからな。

 俺様はまず山積みになっているデイパックまで歩いて行き荷物を回収する。その背中から、ゆめみと郁乃の話す声が聞こえてきた。
「小牧さん、本当によろしいのですか?」
「いいの。あいつの言ってることは正しい……ムカツクけど、ゆめみに背負われてるのが、今の私なんだから……」
「……分かりました。では、まずはあの家までお連れいたします」
「あいつ、あれで私を気遣ってくれてたのかな……」
「と申しますと?」
「あいつね、案外あれで鋭いところがあるから……私が歩けないことを気にしてるの、とっくの昔に気付いてて、だからあんなことを言ったんじゃないかって……ううん、やっぱ考えすぎよね。あいつロリコンだし、変態だし、天パだし」

 うるせえ。天パは関係ねぇだろ、というかロリコンじゃねぇと言いたかったが、あえて聞こえないふりをしながら俺様は先を歩いていった。
 別にそんなつもりで言ったわけでもねぇしな。まあ、多分……
「ぴこぴこっ」
 ポテトだけは、何故か知らんが楽しそうだった。

     *     *     *

 侵入した家屋には、運がいいのかどうかは分からないが、今のところは誰もいないようであった。明かりのついていない室内には、雑然と日用品などが転がっている。小牧郁乃とほしのゆめみの前を歩く高槻は、それを気にすることもなく蹴散らしながら自分が寝るためのスペースを確保しているようであった。
「あの、お布団は……?」
 普通寝ようと思うならベッドや布団などをまず探そうとするはずだ。ゆめみが尋ねるが、高槻は面倒くさそうに「床で寝る」とだけ言うと三人分のデイパックを無造作に放り投げ、どかっ、と壁にもたれかかるようにしながら目を閉じて睡眠に入り始めた。実に素早い行動力である。

「高槻さん、毛布くらい敷かれた方が」
 ゆめみが毛布を持ってこようかと提案しようとしたが、既に高槻はぐーぐーと小さないびきをかきながら夢の世界へと旅立っていた。目を閉じてから実に一分足らず。ギネスブックに載りそうなくらい早かった。

「放っとけばいいわよ。バカは風邪引かないって言うし」
 ゆめみに背負われている郁乃はそっけなく言うと、ゆめみに床に下ろすように頼んだ。
「ちょっと自分で立ってみる。時間が惜しいわ、早く歩けるようにならないと」
「ですが、小牧さんも疲れていらっしゃるのでは……」
「あんなこと言った手前、今更引き下がれないでしょ。あいつに比べればそこまで疲れてない。それに、ここに来る前もお姉ちゃんとある程度リハビリはやってた。死ぬ気でやれば……絶対歩けるようになるはずだから」
「……分かりました。ですが、わたしが危険だと判断したときはすぐにお止めいたします。それがわたしの役割ですから」
 大げさな言い方ね、と郁乃は思ったがこれがゆめみなりに譲歩した言い方なのだろう。「分かったわ」と頷くと、ゆめみがゆっくりと腰を下ろし郁乃の体を地面へと解き放つ。それからゆめみは郁乃から数歩ほど離れたところまで歩き、郁乃を見守るようにしてその場で止まる。

 まず郁乃が目指すべきゴールはそこだった。
 動かせないわけではないのだ。力が入らないだけで、曲げたりすること自体はやや努力を要するが、出来る。軽くストレッチして体を解し、筋肉を使う準備をした後、いよい直立に移る。

 とりあえず自力だけで直立してみようとするが、下半身に上手く力が入らず、上半身だけが小刻みに揺れる。感覚はあるのだが、命令が伝わっていない感じだ。やむを得ず、郁乃は近くにあったテーブルの足を掴んでそこを頼りに立ち上がろうとする。
「……っ、くっ……!」
 力のない足で直立するというのは考える以上に大変な努力を要する。ぐらぐらして不安定な竹馬に乗っている感覚。ついこの間までリハビリをしていたと言うのにまるで体が忘れてしまったようだ。しかしここで簡単に諦めるほど郁乃は軟弱ではない。

 歯を食いしばり、汗を流しながら徐々に体を持ち上げていく。一度立ちさえすれば次も成功する。体というのは一度経験したことをよく覚えているものだ。忘れてしまったなら、また思い出させてやればいい。ゆめみはと言うと特に何を言うでもなく、黙々と郁乃が奮闘する様子を眺めていた。
 それでよかった。下手に言葉をかけられるより黙って見てくれている方が、郁乃にとっては励みになった。
 お姉ちゃんも、こっちが心配したくなるくらいハラハラしたような目で見てたけど……でも、安易に手を貸すこともなかったし、私を信じてくれていた。「おめでとう」は本当に体の底から全快したときだけでいい。だから……ここで踏ん張るっ!

 郁乃はキッと目つきを変えて一気に立ち上がった。
 まだそれは一人立ちというにはあまりにも拙い、テーブルという支えがなければすぐにでも倒れてしまいそうなほど不安定なものだったがそれでも、郁乃は一人で立ち上がったのだ。
 よし……次に、バランスを保ちながら……
 恐る恐るといった調子で、テーブルの上に乗っけていた手を放し、自分の足だけを頼りに郁乃は立った。これもやや不安定ではあったが、倒れることはない。

 以前のリハビリでここまでは楽に出来るようになっていたからだ。それをようやく、身体が思い出したというだけだ。問題は、ここからだ。
「ゆめみ」
 一声かけるとゆめみがはい、返事をする。つい数十分前にも声を聞いたのに、それは実に久しぶりに聞いたように感じられた。
「今からゆめみのところまで歩いていくから、そこで待ってて」
「分かりました」
 頷くと、またさっきまでのように黙って、郁乃の行動を見つめる。郁乃は大きく深呼吸すると、右足を前に出すように命令を送る。
 しかし、脳裏に思い描いたように上手くはいかず、まるでロボットのようにぎこちなく、それでも一歩、前に踏み出した。聞こえる足音が、やけに鮮明に耳に届く。他の誰でもない、自分だけの足音が。
 バランスは崩れない。それはこれまでのリハビリでしてきたことは失われてはいないということを証明していた。

 平地歩行の段階まではいっていたという経験。だから次の一歩は、より自信を持って踏み出せた。
 半ば引きずるような、重々しい、映画のゾンビのような足取り。歩行と言うにはほど遠い代物ではあったが、それでも僅かずつ進んでいく。
 郁乃の視線の先には、母親のようにしっかりと見つめているゆめみの光学樹脂の瞳があった。そのカメラの向こう側にいる自分はどう移っているのだろう、と思いながら郁乃はまた一歩、足を進める。

「……今のペースですと、後八歩で辿り着けますよ」
「八歩か……」
 台詞だけ聞けば残りの距離を告げているだけに過ぎない。だがメートル換算ではなく、歩数で距離を表現していたことに郁乃はゆめみなりの優しさというものを感じていた。こういう気遣いが、本当にプログラムされたものなのかと思うくらいに。

「ゆめみ、訊いていい?」
「はい、小牧さんがよろしければ」

 一歩。前へ。

「ゆめみには……学習能力とか、経験を蓄えるっていうか、そういう機能はあるの?」
「それは……半分は備わっています」
「半分?」

 一歩。前へ。

「わたしは、わたし自身で状況によっての言葉の過ちを認識できません。例えば……不謹慎だと理解している上で申し上げますが『お亡くなりになった』を『死んだ』と表現したりだとか……元々プログラムされているもの以外は誰かに『間違っている』と指摘されない限りは正しく表現できないときがあります」
「行動とかも同じ?」

 一歩。前へ。

「はい。不適切な行動があったときにも指摘してもらった上で正しい行動を示していただかないと、また同じ失敗を繰り返します」
「でもゆめみって道徳とか倫理感とか、そういうのはきちんとしてるよね。運動にしても一通り出来るみたいだし」
「そのような人間として最低限必要な道徳や倫理感などはあらかじめプログラムされていますし、複雑な運動に関しましては先程のインストーラで取得できましたから。わたしが持っていたのはプラネタリウム解説員としての行動規範、及びお客様が危険、災害に晒されたときの基本的防護マニュアルくらいで……」

 一歩。前へ。

「まだまだ知識として足りない部分もたくさんあります。それだけではなく、小牧さんたち人間の方が持っていらっしゃる『感情』の理解……喜び、怒り、悲しみ。まだわたしはその一割も理解できていません」
「へぇ……なんか、意外。ロボットって何でもできて知ってるってイメージがあったけど……そうでもないんだ。私たちと同じで、不完全……」

 一歩。前へ。

「知識や機能性という面ではHMX-17型が遥かに優れています。わたしはプラネタリウムの解説員という職業に特化した仕様になっていますので……」
「でも、教えられて正しく学んでいけば知識とか、積み重ねていけるんでしょ?」
「はい」

 一歩。前へ。

「だったら、いつか追いつくことだって出来るかもしれないじゃない? 人間みたいに。努力して、間違って……少しずつ」
「HMXシリーズも知識の蓄積や学習機能は備わっていますし、論理的な思考能力もそちらの方が上ですからその可能性は低いと言わざるを得ませんが」
「でも可能性はゼロじゃない、そうでしょ?」

 一歩。前へ。

「計算上は、の話ですが」
「十分よ。私は天才より努力家の方が好感が持てるの。それにゆめみは努力家だと思ってるし」
「そうでしょうか?」
「そうよ……よし、ゴール」

 一歩。ゆめみの肩を両手で掴み、さらに一歩近づく。
「私が保証したげる。ゆめみはやれば出来る子。私もやれば出来る子」
 吐息がかかるほどに、二人の顔が近づく。お互いに不完全な、人間とロボットの邂逅。
 郁乃はゆめみから吐息を感じることは出来ない。ゆめみもまた郁乃の吐息を感じることは出来ない。
 けれども、不思議と何かが繋がっているような感触が郁乃にはあった。手を離すと、郁乃は自分が立ち上がった場所まで行って欲しいと伝える。
「続きよ。とにかく反復」
 分かりました、とゆめみは頷くと足早に指示された地点まで行く。細かい感覚で刻まれる足音が止まるのを確認してから、郁乃は振り返った。
 未来へと続く道を辿るために。




【時間:2日目・13:30】
【場所:B-5西、民家】

居眠り王者高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、ポテト(光一個)、コルトガバメント(装弾数:7/7)予備弾(6)、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:おやすみなさい。岸田と主催者を直々にブッ潰す】

小牧郁乃
【所持品:写真集×2、S&W 500マグナム(5/5、予備弾7発)、ほか支給品一式】
【状態:歩行訓練中。今のところ平地歩行だけしかできない】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者セット(忍者刀・手裏剣・他)、おたま、ほか支給品一式】
【状態:郁乃の訓練に付き合う。左腕が動かない。運動能力向上】
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