ふたりのうた(後編)




先にそれに気付いたのは、藤田浩之だった。

「……ッ!? 危ねえ、柳川さん……!」

咄嗟に突き飛ばしたその手に滑る鮮血の感触と、あまりにもあっさりと突き飛ばされた巨躯の軽さに
顔をしかめて舌打ちしながら、浩之が飛来した影を打ち払う。
地面に叩き落されたそれは、薄桃色の塊。
切り身にされた肉がびくびくと震えるような、醜悪な何かだった。

「あいつか……!」

睨みつけるような視線の先、蠢く一つの影があった。
青空と泥濘と灰燼の狭間で、それは奇怪の一言を以って存在していた。
中空に投網を広げるが如く四方八方へと伸ばされた、ぶよぶよとした肉の触手。
数えることすら覚束ぬその無数の触手の中心にあるのは、もはや人とも呼べぬオブジェだった。
大地を踏みしめる二本の足は紛れもなく人間のもの。
しかしその腰から先は、中心線に沿って頭頂部までを真っ二つに割り裂かれたように左右に分かれ、
両の腕はだらりと地面に垂れ下がっている。
二つに分かれた顔のそれぞれでぎょろりぎょろりと辺りを見回す蛇の如き眼。
裂けた腰に視線を戻せば、そこにはまた新たなる異形があった。
分かたれた蛇眼の男の腰、そこに骨や内蔵の代わりとでもいうようにみっしりと詰められた桃色の肉の上からは、
細く白い、女性とも見紛う青年の上半身が生えていた。
一糸纏わぬその裸体にぬらぬらと照り光る粘液がまとわりついて、ひどく淫靡な空気を醸し出している。
だがその細面に浮かぶのは、先ほどまで浮かべていた色に狂った笑みではなかった。
今にも叫びだしそうに見開かれた瞳からは、とめどなく涙が流れていた。
紅を差したような唇も、白い肌を引き立てるように紅潮した頬も、まるで神に捧げられた贄の如き
悲嘆と恐怖に彩られ、歪んでいる。
かつて七瀬彰と呼ばれた青年の、あるいは浩之も与り知らぬ名もなき男の、それが末路だった。

「それが……お前の本性かよ」

否やを唱える声とてない。
彰だったものは、ただ深い嘆きだけをその表情に浮かべ、無数の触手をうねらせている。
じわじわと版図を広げるその触手が、倒壊した家屋の柱に触れた。
瞬間、それまではぐねぐねと鈍く蠢いていた触手が、信じられないほど機敏に動いた。
ぼごり、と鈍い音がした。
太い柱が、コンクリートの土台ごと地面から引き抜かれる音。
間を置かず、一抱えほどもあるその廃材の塊が放り捨てられる。
大の大人のニ、三人分以上はあろうかという重量が、紙くずのように放物線を描き、落ちる。
小さな地響きが辺りを揺るがした。

「くそっ、気をつけろ柳川さん……!」

まるで、その言葉が引き金になったかのように。
触手の群れが一斉にその動きを止め、

「―――」

刹那の後、爆ぜるように拡がった。
さながらそれは、一発一発が拳ほどの大きさをもった、有線式の散弾。
四方へと拡がったそれらが鋭角な曲線を描いて狙うのは、立ち尽くす二つの影。

「鳳翼、天翔―――!」

声と共に、浩之の翼を模した手の動きから炎の鳥が現れ出でる。
羽ばたいたそれが、灼熱の矢となって前方を薙ぎ払った。
飛び来る肉の散弾、その八割が一瞬にして消し炭と化し、地に落ちる。
残りの二割を、或いは拳で叩き落し、或いは身を翻して躱しながら、浩之はもう一つの影へと視線を走らせる。
兜が落ちて剥き出しとなった頬に小さな切り傷を作りながら振り向いた少年の耳朶を、大音声が打った。

雄々、と弾けたそれは、漆黒の咆哮。
鬼と呼ばれ闘争に特化した種の、戦の始まりを告げる鬨の声であった。
弾丸の如き速度で迫る触手の群れを見据えた鬼が、ぐ、と巨躯を撓める。
次の瞬間、無数に飛来した触手のその悉くが細切れになって散るのを、少年は見た。
閃いたのは、真紅の爪。
拳を握るでなく、開かれた掌から伸びた刃の如き十の爪が、神速をもって触手を切り刻んでいた。

朗々と響く咆哮は、いまだ鳴り止まぬ。
頼もしくその声を聞いていた少年の表情が、しかし次の瞬間、歪んだ。
瞬く間に無数の触手を切り裂いた鬼の身体を、薄い靄が包んでいた。
赤黒く煙るそれが返り血などではないと、浩之にも思い至っていた。
地面に落ちた触手からは、一滴の血すら流れていない。
ならば、鬼の身体を包むように煙る赤の正体は、鬼自身の血潮だった。

「柳川さん、あんた……!」

鬼の治癒能力は驚異的だった。
それは、浩之とてわかっている。
だがそれは決して万能ではなく、まして不死を意味するものではなかった。
ほんの数刻前を思い起こす。
無惨に焼け爛れた身体。潰れた片目。じくじくと溢れる膿。
それは、もはや数刻前、ではない。
まだ、ほんの数刻前の、柳川の姿だった。
鬼の傷は、まだ癒えてなどいなかった。

轟、と鬼が吼える。
それは変わらぬ咆哮の筈だった。
だが今、少年の耳を打つのは、敵を前にして高ぶる狩猟者の猛りではなく、崩れ落ちんとする己を必死に鼓舞する、
瀕死の獣のいななきであった。
思わず駆け寄ろうとした浩之が、咄嗟に飛びのく。
肉の槍が、一瞬前まで立っていた地面を貫いていた。
舌打ちする間もなく、次弾が陽光を遮らんばかりの数を擁して迫り来る。

「やってらんねえ……!」

羽ばたく炎の鳥が、触手を焼く。
だが消し炭となって落ちた数十本の占めていた場所を埋めるように、新たな触手が浩之を狙う弾幕に加わっていた。
飛び退り、大地を穿つ桃色の槍を躱す。
鳳凰の尾を模した装飾が風に靡き、硬い音を立てた。
なおも追いすがる数本の触手を手甲で叩き落しながら見れば、黒の巨躯は遠い。
戦いは続いているようだった。見上げんばかりの巨体を隙間なく囲むように展開した無数の触手が、
爪の一閃で見る間に千切れ、消し飛んでいく。
正に鬼神の如き奮戦であったが、身に纏う赤い霧はその濃さを増していた。
血に煙る鬼の戦は一幅の絵画を見るようで、一瞬だけ足を止めた己を、浩之は心中で殴りつける。
いかな鬼といえど、鮮血を撒き散らしながらあの動きを続ければ、いずれ限界が来るのは避けられない。
躊躇している時間はなかった。
選択肢は二つ。

(合流するか、本体を叩くか……!)

視線を走らせるのは一瞬。
己に倍する数の触手に囲まれた鬼の姿に、浩之は決断する。
疾走を開始。
行く手には黒の巨躯ではなく―――人を捨てたオブジェ。

あの数の触手を相手に、柳川は動かずに奮戦を続けている。
それは、と浩之は走りながら考える。
既に囲みを突破するだけの体力が残されていないのだ。
自らに迫り来る白銀の鎧を見咎めたか、数本の触手が浩之を目掛けて飛ぶ。
やはり、と速度を緩めることなくそれらを消し炭と変えながら、浩之は確信する。
迎撃が薄い。
それは取りも直さず、触手の大部分を柳川が引き付けているのに他ならなかった。
突破力を喪失した柳川がそれでも退かないのは、つまりはそういうことだ。
吼え猛り、限界を超えた動きを見せてまで、囮として立っている。
それはメッセージだった。
少なくとも浩之は、そう受け取った。
出会ってほんの十数時間。
潜った死線は、これまでの生涯の全部を思い出して、まだ足りなかった。
それはつまり、この呼吸はこれまでの人生の全部より、確かだと。

(あんたもそう、思ってくれてんだよな……!)

走る。
あと五歩で、炎の射程に入る。
背後で鬼が、吼えていた。
あと四歩。
鬼の咆哮に、濡れた音が混じる。鮮血のイメージ。
あと三歩。
風が、小さく震えた。重い何かが、大地を揺らしていた。
あと二歩。
ひゅう、と。細く掠れた音がした。
あと一歩。
咆哮が、やんだ。
同時、炎の鳥の射程に、入る。

「―――ちぃぃっ、……くしょぉぉ、がぁぁ……っ!!」

何かを断ち切るような叫びと共に。
少年の手から、炎の鳥が飛び立つ。
業火は大気を切り裂き、一陣の疾風と化して奔り―――黒の巨体を貫かんとしていた肉の散弾を、焼き尽くしていた。

「……間に、合ったか……!」

は、と息を吐く。
地面に片膝をついたまま、ぼたぼたと血を吐く隻眼の鬼と視線を交わした、刹那。
浩之の背中を凄まじい衝撃が走っていた。
肺の中の空気が、強制的に排出される。
一瞬の内に顔面が地面を擦り、それでも衝撃を殺しきれずに、首を支点にして転がる。

(そりゃ……こうなる、よな……)

無茶苦茶に上下左右が入れ替わる視界の中、浩之は内心で苦笑する。
あの瞬間、判断に一切の迷いはなく、そしてそこには間違いもまた、なかった。
炎の鳥を触手の中心、本体に向けて放っていれば、あるいは仕留めることもできたかもしれない。
しかしそれは、ほぼ確実に柳川の犠牲を伴う結果だった。
柳川の限界があとほんの数瞬でも先であれば、炎の鳥は躊躇なく七瀬彰であったものに向けて放たれていただろう。
だが、振り向かず疾走する中で、浩之には背後の様子が手に取るように分かっていた。
薄れゆく咆哮は即ち、柳川の体力の終焉を示していた。
ならば、眼前の敵に背を向けるという愚を冒してでもそれを救うのは、浩之にとって当然の帰結だった。

「が……ッ、ふ……」

地面と幾度かの衝突の末、ようやく回転が止まる。
立ち上がろうとして、激痛に視界が歪んだ。
受身も取れず転がるうちに傷めた骨や筋が悲鳴を上げていた。
それでも、触手によって強かに打ちつけられた背骨が持っていかれなかったのは僥倖というべきか、
身を包む白銀の鎧の強度に感謝するべきか。
しかし、

「くそ……動け……!」

受けた打撃は、思いのほか深刻だった。
焦燥の中、浩之は身を起こすこともできず、足掻く。
一撃で殺されることは避けられても、次の攻撃に対処できなければ同じことだった。
轢かれた蛙のように地べたに這い蹲ったまま見上げる少年の視界に、幾本もの触手が映った。
澄み渡る青空を背景に蠢くそれは、さながら世界を侵す悪意そのもののように、見えた。

「ちく……しょう……!」

悪意が、空を覆っていく。
無限に涌いて出るような触手の群れが、身動きできぬ少年を嬲るように、その視界を埋めていく。
槍衾が網となり、壁となり、ついには陽光すらもが完全に遮られるかどうかの、刹那。

「え……?」

暗さに、声が漏れる。
触手の群れとは別の影が、少年の上に覆いかぶさっていた。
背に、ぼたりと何かが垂れた。
その生温かい感触と、か細く掠れるような息遣いを耳にして、少年はようやく己に影を落としているものの正体に気付く。

「バ……っ、何やってんだ、あんた……!」

思わず声を上げた。
柳川祐也。
罅割れた真っ黒な皮膚からだらだらと粘り気のある血を流しながら、漆黒の鬼が浩之を庇うように、
その巨躯を晒していた。

「どけ……! どいてくれ、柳川さん……!」

浩之が叫ぶ。
鬼の広く大きな胸板の向こうには、もはや一本一本を視認することすら叶わぬほどに密集した触手の群体が見えていた。
それらがあるいは散弾となり、あるいは銛、あるいは槍、あるいは鉾となって、その鋭い先端を覗かせている。
肉食の獣の群れが哀れな獲物を嬲り殺しにする機会を窺っているような、それは光景だった。
己は動くこともままならず、鬼は疲弊の限界を超えていた。
何故だ、と怒鳴りつけたかった。
逃げろ、と伝えたつもりでいた。
柳川がその身を囮としたように、今度は浩之が自身を盾とする筈だった。
それは伝わっていると、そう思いたかった。
互いの呼吸が確かなものだと、それだけは疑いたくなかった。

「早く、逃げ……」

逃げろ、と言葉にしようとして。
瞬間、浩之は口を噤んでいた。
見えたのは柳川の隻眼、残った片方の瞳。
そこに浮かぶ、色だった。
言葉など要らなかった。
呼吸は伝わっているのだと、そう確信できた。
逃げてくれというメッセージと、庇うという意志。
炎の鳥を、どちらに向けて放つか。
柳川もまた、敵を討ち果たす方を選びはしなかったと。
それだけのことだった。

「バカ……、だな……」

手を伸ばす。
ほんの少しの距離。
ぬるりと、生温かい。
それが柳川の命の温度だった。
温もりを感じながら、目を閉じる。
この世界の最後まで、それを感じていたかった。

無数の触手が矛先を撓めていく、ぎちぎちという音が聞こえた。
恐怖はなかった。
ただ手に伝わる鼓動だけが、優しかった。
それが最後の、筈だった。

 ―――Brand New Heart
      今ここから始まる

歌が、聴こえた。


***


それは、不思議な歌だった。
少年も鬼も、口を開いてはいなかった。
誰ひとりとして歌わぬ、だが誰の耳にも聴こえる、それは歌だった。

 ―――胸の中の鼓動が聞こえる

歌は、まるで寒村を覆う大気そのものに響いているかのようだった。
思わず瞼を開いた少年は、更に奇異な光景を目にすることになる。

「なん、だ……これ……、青い、光……?」

少年の手、柳川の胸と触れ合った部分から、光が漏れていた。
黒い肌を優しく照らすような揺らめく炎、鬼火のようなその光に、少年の記憶が蘇る。
先ほど出会った少女。
その身を包んでいた光と、それは同じ色をしていた。

 ―――Come To Heart
      可能性を信じて

歌と、光。
詞に共鳴するように、光が明滅する。
砂浜に打ち寄せる波のような、透き通る青い光を陶然と見ていた浩之は、やがて不思議な事に気付く。

「身体が……軽い」

全身を蝕んでいた激痛と麻痺が、どこかに溶けてしまったかのように消えていた。
見れば、ぼたぼたと流れていた柳川の血もいつの間にか止まっている。
青い光が鬼や鳳凰の治癒の力を強めたのか、それとも光そのものに傷を癒す力があるのか。
それは分からない。だが、少年はその疑問を切り捨てる。
動けるのなら、それでいい。
遅ればせながら、自分たちを狙っていた触手へと目をやる。
今にも少年と鬼を貫こうとしていた筈の肉槍の群れはしかし、不可解なことに、或いは少年たちにとっては
幸運なことに、その動きを止めていた。
どころか、大波の如く迫っていたその無数の群れが、じりじりと下がりつつすらある。
それはどこか、戸惑いや恐怖といった感情に支配された劣勢の兵のように、浩之の目には映った。

「あいつら……、もしかして……」

傷が急速に癒えつつあることに気付いたか、柳川が喉を鳴らす。
その巨躯にそっと手を当てると、青い光が強く瞬いた。
触手が、更に退く。
立ち上がる。やはり既に痛みはなかった。
柳川と触れ合う手から漏れる光が、白銀の聖衣を青白く照らしていた。
同じように立ち上がった柳川と目を見交わし、頷く。
鬼の、ごつごつとした黒い手に、浩之はそっと手を添える。
新たな歌の一節が、響く。

 ―――君におくる テレパシー

青い光が、一際大きく煌いた。
触手の壁が、光に押されるように崩れ始める。

「わからねえ、理屈はわからねえが……この光であれを押し戻す!」

叫ぶ声に、力が漲っていた。
繋いだ手が温かい。

 ―――それなりの悩みも抱いて
      迷いも消えなくて

同時に足を踏み出す。
崩れた壁から、糸がほつれるように触手が顔を覗かせる。
走り出した。
迎え撃つように、触手が飛ぶ。

 ―――この惑星の上で何か求め探し続けて

右から迫る桃色の散弾を、青い炎の鳥が焼き尽くす。
左から狙う肉塊の槍衾を、青く輝く爪が切り裂いた。

 ―――耳を澄ませば教えてくれたね
      痛みも悲しみもすべてなくしてくれる

駆け出す。
周囲を囲む壁が一斉に崩れ、それを構成していた触手のすべてが刃と化す。
疾駆する二人を狙って、空を埋め尽くすほどの刃の雨が降り注いだ。
押し寄せる槍を、鉾を、銛を見上げて、少年と鬼は繋いだ手を天へと掲げる。

 ―――奇跡

溢れ出す青が、光の塔となって空と大地を繋いだ。
光は瞬く間にその半径を広げ、刃の群れを飲み込んでいく。
青の中で、触手が融け崩れ、蒸発する。
光が収まった後には、刃の大群はその痕跡すら残さず消え去っていた。

 ―――Brand New Heart
      蒼い惑星に生まれて

疾走が再開される。
七瀬彰だったものは、既に目の前に迫っていた。
人型のオブジェから、新たな触手が涌き出す。
それを打ち払い、薙ぎ払いながら、二人はその災厄の中心に向かって歩を進める。

 ―――夢のような世界が広がる 

あと数歩。
爆発するかのような勢いで触手が拡がった。
怒涛の如く奔るその触手は、しかし迫る二人に触れる直前、青い光に包まれて燃える。
疾走は止まらない。

 ―――Far Away
      澄んだ空の向こうの

眼前、肉薄した敵を前に、少年が炎の宿る拳を握り込む。
そっと口を開いた。

「……柳川さん」

視線を交わすことはなかった。
だがその短い呼びかけに何かを察したように、鬼は微かに表情を変えた。
ほんの刹那の沈黙。
何かを言いかけ、口を閉ざし、そして最後に―――静かに、頷く。
真紅の爪を、青い光が包み込んだ。


 ―――君に届け テレパシー



******



それは、一つの物語の終わり。
みどり児の最後に見た夢。



******


懐かしい、声がした。

「……くん、彰君」

目を開ければ、冬の陽射しは冷たくて、眩しい。
何日か前に降った雪が道の片隅に寄せられたまま、溶けずに凍り付いていた。
吸い込んだ清冽な空気に、ぼんやりとしていた意識が覚醒していく。

長い夢を見ていた。
長い、嫌な夢だったように思う。
それは目を覚ませば忘れてしまう程度の、儚い悪夢。
今はもう思い出せない、遠い世界の出来事。

見上げれば、空は青く、遠く。
足元に目をやれば、どこまでも赤い煉瓦道が続く。
この道の先には、いつものキャンパス。
歩き出せば、いつもの笑い声。
終わることなんて考えもしない、いつまでも続くはずの時間に繋がる道。

―――だと、いうのに。

「どうしたの、彰君?」

ああ。
これは夢だ。
いつかどこかの悪夢の中にいる僕がみる、悲しい夢だ。
ただの一歩をすら踏み出す前に、僕はそれを喝破する。

懐かしい声。
懐かしい笑顔。
昨日も、一昨日も、その前にもずっと会っていたはずの、懐かしい、たいせつなひと。

陽だまりに咲く小さな白い花のような、あたたかいひと。
そのひとが、微笑んでいる。
それはずっと、たぶんずっと、こころの一番深いところで、誰にも触らせないようにしまい込んできた、
僕の、一番たいせつな笑顔だ。

だからこそ、わかる。
これが夢なのだと。

「……?」

夢の中のたいせつなひとが、不思議そうな顔をする。
何でもない、というように首を振ってみせた僕は、きっと泣いていただろう。

ああ、そうだとも。
このひとはいつだって、こんな風にやさしく笑ってくれていた。
このひとは、いつだってこんな風にやさしく笑ってくれていたけれど。
……それは、僕にだけ向けられるものじゃあ、なかったんだ。
誰にでもやさしくて、それでもずっと特別な誰かのほうを見ていた、僕のたいせつなひと。

それに何より、と。
頬に流れる涙の痕の冷たさを感じながら、僕は苦笑する。
見上げる空は、透き通るような紺碧。ゆっくりと流れる雲は白。

「……大丈夫、彰君? どこか、具合でも悪いの?」

このひとはずっと、僕のことを七瀬君、と呼んでいたんだ。

手の甲で拭った涙はひどく冷たくて。
その刺すような感覚に、僕はこの夢が醒めてしまわないかと不安になる。
しばらく待っても目の前の心配そうな顔が霞んで消えたりはしないのを確認して、ほっと息をついた。

夢は夢だと、人は言うだろう。
醒めれば泡沫のように霧散する、砂上の楼閣だと。
追えど掴めぬ、掴めど失せる、虚ろな幻影だと。

だけど、それでも。
夢の中で、夢と知りつつ、僕は思う。
それでも、それでも、こんなにも穏やかで、こんなにも綺麗な夢なら。
差し出された手に、そっと手を重ねるくらいは、してみたいじゃないか。

「―――」

温かいな、と思う。
やわらかくて、あたたかくて、やさしい。
僕の夢の中の、たいせつなひと。

驚いたように、はにかんだように。
ほんのりと頬を染めたひとが、何かを言おうと口を開いたとき。

「―――おい彰、何やってんだ! 置いてくぞ!」

遠くで、声がした。
はっとして、そちらを見やる。

「……」

見やって、一気に涙が引いた。
はるか道の彼方、大袈裟に両手を振っているのは、よく見知った友の姿ではなかった。
縮れた髪にいやらしい目つき、緩みきった口元。

「いつまで俺様を待たせる気だぁっ! おい彰、聞いてるのかっ!」

軽い頭痛に、こめかみを押さえる。
なんだよお前、なんでこんなところにいるんだよ。
彰、彰って馴れ馴れしいな、もう。

…

……

…………まあ、いいか。

小さく溜息をついて。
顔を上げる。
僕の顔と、遠くに見えるワカメみたいな縮れ頭を交互に見ている、たいせつなひとの手を、僕はほんの少しだけ強引に握って。

「誰を置いていくって? 勝手に行ったら承知しないぞ、―――!」

僕は、歩き出した。

















 ―――知らず、周の夢に胡蝶なるか、胡蝶の夢に周なるかを。

















******


少年の指がその青白い額に触れるのと、鬼の振るう真紅の爪が、繋がった二つの身体を両断するのは、ほぼ同時だった。
細く白い、女性とも見紛う青年の身体が、音もなく宙を舞った。
それは蒼穹を飛ぶ鳥のようにも、天へと還る御使いのようにも映る、淡い幻想の光景だった。

「鳳凰―――幻魔拳」

顔を伏せ、指を突き出したまま、少年が呟く。
七瀬彰と呼ばれた青年の身体が、やがて引力に抱かれ、弧を描いて落ちる。
小さく軽い体躯が大地を叩く寸前、静かにそれを受け止めるものがあった。

「……」

柳川祐也である。
その身体は既に鬼の姿ではなく、人間のそれへと変じていた。
幾多の傷跡を寒風に晒しながら、柳川は黙って立ち尽くしている。
少年、藤田浩之もまた、そんな柳川とその胸に抱かれた骸を見つめ、何も語ろうとしない。

「浩之……」

しばらくの時を置いて。
事切れた七瀬彰の骸をじっと見つめたまま、柳川が呟くように声を絞り出す。

「彰は……、幸せな夢の中で、逝けたんだろうか……」

その問いに、すぐに応えはなかった。
風と、火の粉の爆ぜる音が、立ち尽くす二人を包んでいた。

「さあな……」

やがて、ぽつりと。
少年が、小さく口を開いた。

「俺には、わかんねえ。わかんねえけど……けど、そいつ……」

そこまでを言って、その先の言葉を、浩之は飲み込んだ。
自分が口にしていい言葉ではないと、そう思った。
それはきっと、誰にも答える権利のない問いなのだと。
それでも、

「そいつは、さ……」

少年は、最後にもう一度だけ、柳川の腕に抱かれた白い躯を見る。
七瀬彰の、二度と動くことのない表情は。

「―――」

どこか微笑んでいるように、見えた。


 
 
【時間:2日目午前11時すぎ】
【場所:C−3 鎌石村】


藤田浩之
 【所持品:鳳凰星座の聖衣】
 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士】

柳川祐也
 【所持品:なし】
 【状態:軽傷】

七瀬彰
 【状態:死亡】

御堂
 【状態:死亡】
-


BACK