ふたりのうた(前編)




 
咆哮が、やんでいた。
静寂の中、焼け崩れた石塊から時折舞い上がる火の粉が、白い陽光の下、儚く消えていった。

「歌だ」

少年が、はっきりと口にする。
常は眠たげなその瞳に、強い光が宿っていた。
迷いのない、真っ直ぐな意志の光だった。
大切な何かを取り戻すために戦う者だけが宿すことのできる、それは眼光だった。

「ウ……タ」

少年の瞳に引きずられるように、漆黒の鬼が呟く。
魁偉な容貌に血涙を流すその様は、正しく悪鬼羅刹。
だが今、鬼の口から漏れた呟きからは、怒りも憎しみもその色を潜め、代わりにどこか戸惑ったような、
或いは切れかけた細い記憶の糸を手繰るような、不安定に揺れる響きだけがあった。

「ああ、歌だ。……あんたが俺に歌ってくれた、歌だよ」

少年の言葉が紡ぎ上げるのは、月に照らされた夜の森。
夜気が頬を撫でる中、梢のざわめきだけを伴奏に響いた歌声だった。

「下手くそで、声だけでかくて、音程なんかメチャクチャで、……けど」

黒く無骨な手から伝わった温もりが、少年の脳裏に蘇る。
その温もりを、言葉に乗せるように。

「あれが、あんたが俺にくれた……最初の気持ちだって、思ってる」

少年が、微笑む。
眉尻を下げた、どこか悲しげにも見える、しかしはっきりと確信に満ちた微笑。
その微笑に気圧されるように、鬼の巨躯が一歩を退く。

「グ……ウゥ……」
「俺は、さ」

空いた間合いを詰めるように、少年が一歩を踏み出す。
パチリ、と焼けた木の爆ぜる音がした。

「俺は、タカユキじゃない」

風に織り込まれるようなその言葉。
鬼が、凍りついたようにその動きを止めた。
少年は言葉を続ける。

「タカユキには……、なってやれないんだ」

静かに、告げる。
鬼が、びり、と震えた。
爛々と光る真紅の瞳に浮かぶ色は、痛哭と憤怒の朱。

「あんたの歌ってくれた歌を、だから俺は受け取れない」

朗、と咆哮が響いた。
文字通り血を吐くような、それは慟哭の咆哮だった。
鬼が、哭いていた。
天を仰ぎ、大地を踏みしだき、漆黒の鬼は口の端からごぼごぼと血の泡が噴き出すのも構わず、哭いていた。
ご、と何かが割り砕ける音がした。
鬼の足元の地面が、小さな半球を描くように落ち窪む音だった。
同時、鬼の姿が消えたように見えた。
夜を削りだしたが如き黒の鬼が、疾走を開始していた。
鬼哭の突進の先にあるのは、小さな影。
鬼の巨躯が迫るにも表情を変えず、少年は言葉を紡ぐ。

「だから」

鳴り止まぬ咆哮に掻き消されそうな、静かな声。
風を裂き、廃材を塵芥と変えながら駆ける慟哭の鬼が、その巨魁に満ちる膨大な力を込めた拳を、振り上げる。

「だから今度は―――」

ひと一人を肉塊へと変じせしめて余りある威をその内に秘めた剛拳が、行く手に立ち塞がる全てを叩き潰さんと、

「―――今度は『浩之の詩』、聞かせてくれないか」

振り下ろされた。


***

 
しん、とした静寂が響く。
咆哮がやんでいた。
一瞬だけ遅れて、風が爆ぜる。
割り裂かれた大気が、弾けるような音と共に荒れ狂い、何かを宙に巻き上げた。
白く、小さなそれは、兜のようだった。
天高く巻き上げられたそれが、やがて地に落ちて軽い音を立てる。
その音を合図にしたように、動くものがあった。
それは、小さな手。
突き出された漆黒の拳を包み込むように添えられた、少年の手だった。

「どうだい……柳川さん」

少年は、その最後の瞬間まで、動かなかった。
ただ何かを信じるような微笑だけを浮かべて、その言葉を紡いでいた。
拳は―――少年の眼前で、止まっていた。

「……ヒ……、」

魁偉な貌を歪めるようにして、鬼が声を絞り出す。
握り締められていた拳が、ゆっくりと開かれていく。
巨岩を砕いて造ったような、ごつごつとした大きな手が、しかし震えながら、少年へと伸ばされる。

「ヒロ……ユキ……」

それは柔らかい何かに、こわごわと触れるような。

「ああ」

少年が、頬を撫でられながら静かに頷く。

「ヒロユキ……」

それは、忘れていた大切な名前を呟くような。

「ああ」

少年が、笑む。

「ヒロユキ」

囁くような。

「ああ」

少年が、囁きを返す。

「ヒロユキ……!」

抱きしめるような。

「ああ」

少年が、手を伸ばした。

「―――ヒロユキ!」

それは、想いを伝えるような。
柳川祐也の、それは新しい詩だった。

「……ああ、ああ」

鬼の胸に抱かれながら、
その涙を、流れる血をその身に受けながら、

「ありがとな……柳川さん」

少年が、その名をそっと呟いた。


******

 
『それ』はもう、七瀬彰と呼ばれていた存在ではなかった。
御堂という男と混ざり合い、融け合い、その果てに彰の意識は殆ど残っていなかった。
互いの境界を越えて流れ込む記憶と意識が、二人を容易く破壊していた。
だから『それ』は既に、七瀬彰でも御堂でもない、新しい何かだった。

『それ』が、世界を認識する。
己が新生した世界。
生まれ出でたそこには、何もなかった。

一筋の光すら射さぬそこを、しかし『それ』は暗いと感じることはできなかった。
『それ』は、そもそも生まれた瞬間から光を知らない。
世界に明と暗が存在することを知らない。
目でものを見るということを知らない。
『それ』は、ただ彰と御堂の崩壊の果てに、そこに生まれ出でていた。
生きるということすら、知らなかった。

やがて『それ』は、己にできることがあることを知る。
己の一部を、意思によって動かすことができるようだった。
それが腕、あるいは触手と呼ばれるものであることを知らないまま、『それ』は己の一部をそろそろと拡げる。
世界が、拡がっていく。

世界には、形がある。
触るということを、『それ』は覚えた。
色々な形、色々な手触り、色々な硬さがあることを、『それ』は知っていった。
乾いた砂が水を吸うように、『それ』は世界を想像し、創造していく。

ある瞬間、未知の感覚が、『それ』を刺激した。
それが痛覚であり、熱いという感覚であることを理解できないまま、ただ不快というものを『それ』は知る。
不快、という感覚が『それ』に生まれた刹那、『それ』の中から引きずり出されるものがあった。

記憶、というものを『それ』は認識できない。
七瀬彰の記憶、御堂の記憶、それらが不快という感覚に呼び起こされたことを『それ』は理解できずにいた。
そこにあるのは音であり、光であり、感情だった。
『それ』の世界に音はなく、光はなく、だからその意味を、『それ』は理解できない。
浮かんでは泡のように消えていくそれらが、弾ける瞬間に不快だけを残していく。
認識できず、理解できず、ただ不快だけが滓のように溜まっていく。
音もなく光もなく、感情だけが降りしきる雪のように積もっていく。

何が不快なのか、『それ』には分析できない。
己の中に浮かび上がっては砕け散っていくそれらが何なのかすら、『それ』には理解できず、
しかしそれでも、ただ一つだけわかることがあった。

それらが、消えていくこと。
そのこと自体が、不快を生み出している。
『それ』に生まれた、それは確信だった。

嫌だ、と思った。
目の前にあったものが失われていく。
それは、嫌だ。
それが、嫌だ。
悲しいという感情。
悔しいという感情。
それらの萌芽が、『それ』の中にあった。
何も得られず、何も残らず、それが、嫌だった。

許せない、認めない、肯んじ得ない。
否定という一つの意思が、『それ』を支配していた。
だから、その感情を、世界に振り撒こうと、『それ』は、動き出した。

みどり児の、産声を上げるが如く。


 
 
【時間:2日目午前11時すぎ】
【場所:C−3 鎌石村】

藤田浩之
 【所持品:鳳凰星座の聖衣】
 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士・重傷(治癒中)】

柳川祐也
 【所持品:なし】
 【状態:鬼・重傷】

七瀬彰
 【状態:御堂と融合】

御堂
 【状態:彰と融合】
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