sing a song,my precious




「……っ、ぁ……」

狭い民家の一室に、熱っぽい吐息が響いた。
そこに混じる嬌声を、どこか他人の声のように七瀬彰は感じていた。
薄く白い胸を、蛇を思わせる爬虫類じみた舌が執拗に嬲っていく。
浮き出た肋骨と肋骨の間に滲む汗を舐め取って、舌の持ち主が顔を上げた。
眼鏡の奥の隻眼が、彰のそれを捉えて細められる。
柳川祐也だった。
片方の目を覆うように走った傷痕は醜く爛れ、端正な顔立ちを損ねている。
沸き起こる嫌悪感を抑えながら、彰がそっと微笑み返す。
幼子を安心させる慈母のような、それは優しげな笑みだった。

「……柳川さんの、好きなようにしていいから」

胸元の顔を抱きしめるようにして、そっと囁くように、彰が言う。
安堵するように頷く柳川の指が、一糸まとわぬ彰の背を這うようにまさぐる。
愛撫とも呼べぬその仕草を、彰は黙って受けていた。
もとより性体験など無いに等しい彰のことである。
本や映像による知識はあっても、何が愛撫で何がそうでないのか、区別がつかなかった。
柳川のするに任せ、静かにその舌と指による刺激を受け止めていた。
幸い保健室で襲ってきた男とは違い、柳川の愛撫は緩やかで、熱による吐息の中に
時折小さな声を混ぜるのにも、演技をする必要はなかった。

「……ん……っ」

柳川の舌が、彰の顎の下を舐める。
同時にその指が背筋を辿り、尻の少し上、背骨の下の窪んだ部分を捏ね回すようにして蠢いていた。
知らず、彰が小さく腰を浮かす。反射的に菊座が締まるような感覚。

「貴之……」
「柳川……さん……」

熱に浮かされたような柳川の囁きに、彰が応えを返す。
もう幾度となく繰り返された呼びかけ。
柳川が、この貴之と呼ばれる誰かの影に自分を重ねていることは、彰にも分かっていた。
それが柳川のみる夢の形なのだろうと、彰は思う。
それならそれでも、構わなかった。
愛がほしいのではない。ただ、夢を売る代価をさえ支払ってもらえれば、鬼の力が自分を護ってくれさえすれば、
それでよかった。だから、こうして抱かれている。

「……ふ……ぁ」

冷たい眼鏡のフレームが、彰の頬を撫でる。
首筋から上ってきた柳川の舌が、耳の裏を責めていた。
不快感と顔が熱くなる感覚とをない交ぜにしたような不思議な感触が、強引に引きずり出される。
思わずシーツを握りしめたその指が、柳川のそれに捉えられていた。
指と指が絡み合う。
彰の湿った掌を、柳川が親指の腹で撫で回す。
くすぐったさに身を捩る彰を離すまいと、空いた方の手で彰の腰をしっかりと抱く柳川。
汗にごわついた髪が耳の中を小さく擦る感触に眉を寄せながら、彰は全身に柳川の温もりを感じていた。
絡めた手を、柔らかく握られる。
少しだけ離れた柳川の顔が、再び近づいてくる。
目を細めて、彰は静かに口づけを受け入れていた。
ついばむように彰の唇をかすめる柳川のそれが、静かに開く。
生温かい吐息と、一瞬遅れてのばされた舌が、彰の口腔を侵していた。
彰もまたそっと舌を出して、柳川の粘膜を迎える。
濡れた感触が、彰の舌を捏ね回す。

「ん……ふ……」

本に書いてあったことなんて全部嘘だ、と彰は思う。
気持ち悪い、とだけ感じた。
ねちゃねちゃという音も、舌先でそっとつつくようにこちらの舌の表面が刺激される感触も、
導かれるように吸われ、甘噛みされる瞬間の微かな快感も、鼻を撫でる熱っぽい吐息も、
何もかもがただ、ひどく気持ちが悪かった。
キスをしたことすら、彰にはなかった。
保健室で乱暴な軍服の男に奪われたそれが、物心ついて以来初めての、経験だった。
それが今、こうして見知らぬ男に唇を嬲られながら、平気な顔でそのたくましい首筋に手を回している。
生きるためだ、と自分に言い聞かせながら。
こんなものが生ならばドブにでも棄ててしまえと憤る自分を抑えながら。

「はぁ……っ」

舌が、解放される。
少しだけ離れた柳川の顔が、間近にあった。
潰れていない方の瞳、霞がかかったようなその瞳の中に、彰自身が映っていた。
娼婦のように澱んだ、陰間のように淫らな、醜い顔だった。
それでいいと、思った。
正しく、生きるために己にできることのすべてをしている人間の、顔だと思った。

「柳川、さん……」

だから今度は、自分から柳川にキスをした。
拙く短い、静かな口づけ。
そっと、重ねた唇を離す。

「ね……」

そっと、手を伸ばした。
柳川の身体が、びくりと震える。
その臍の下、反り返る欲望の中心に、彰の細い指が添えられていた。

「貴、之……」

戸惑ったように擦れた声を漏らす柳川の口を三度、彰の唇が塞いだ。
同時、白魚のような指を柳川のそそり立つ肉棒に絡め、そっと握る。
びくり、と震えるその滾りを抑えるように、彰は掌全体を使って肉棒をゆっくりと撫でていく。

「ふ……はぁ……」

淫蕩な彰の笑みにあてられたように半開きにされた柳川の口から、堪えきれない声が
熱い吐息に混ざって聞こえてくる。
その間の抜けた顔に思わず浮かべた嫌悪の表情を見られないよう、彰は柳川の首筋から鎖骨へと唇を走らせる。
次第に荒く上下しだした逞しい胸板には、桃色の薄皮が張っている。
そっと乳首を甘噛みしてから、彰はその薄皮を舌先で刺激する。
触れるか触れないかの焦らすような愛撫でも、敏感な薄皮には充分なようだった。
掌の中で震える肉棒の、亀頭から尿道にかけてを掌を窪ませるようにして包み、撫でるように捏ね回す。
裏筋を這い下りた指はそのまま剛毛に包まれた玉袋を爪の先で掻くように刺激していた。
空いた手が蟻の門渡り―――玉袋の裏から肛門にかけての皮膚―――をゆっくりと摩る。
鍛えられた尻の肉が快感に締まろうとするのを割り裂くように、彰の指はその奥へと伸ばされる。
さほどの抵抗もなく、菊座へと到達する彰の指。

「く……っ、」

頭上で柳川が声を漏らすのを感じながら、彰は胸から腹へと肉厚の舌を下ろしていく。
割れた腹筋にも張る桃色の皮膚を刺激しすぎないように気をつけながら、臍の中を舐め上げる。
小さな窪みの中を綺麗に掃除するように丁寧に舌を這わせると、薄い塩味がした。
嫌悪感を堪えたつもりが、思わず両手に力を込めてしまう。

「うぁ……っ」

その刺激が、よかったらしい。
柳川の漏らした声には、明らかな性感の色があった。
菊座に指の腹を押しつけるような動きと、親指で雁首から亀頭にかけてを擦り上げるような刺激の連携。
肉棒の先端から透明な先走り汁が溢れてくるのを、彰は亀頭の全体に伸ばすようになすりつける。

「わかって、る……女の子の身体と、違うから……ちゃんと、しておかないと、ね……」

言った、その紅を差したような唇が、肉棒にそっと添えられる。
裏筋に口づけをするような仕草から、おずおずと伸ばされた舌先が、柳川の肉棒をちろちろと舐めた。
尻に伸ばされていた指は玉袋を覆うように揉みほぐし、もう一方の手は陰茎を支えるように添えられている。
芳野祐介のそれよりも全体に一回り大きいが、雁首から先の亀頭部分は槍の穂先のように細まっており、
バランスとしては雄々しさよりも奇妙にコミカルな印象を与える逸物。
そのどこか鋭角な亀頭を、彰の唇が含んだ。
舐めるというよりも、しゃぶる動き。
軽く歯を立てることもせず、舌先で強い刺激を与えることもなく、唇で丁寧に唾液をまぶしていく。
先走り汁の生臭い塩味を唾液に溶かすようにしながら、彰は亀頭から肉棒の全体へとその侵食範囲を広げていった。
猛烈な生産態勢に入っているように動く玉袋を優しく撫でさすりながら、空いた手で唾液が冷えないように
陰茎をしごき上げる彰の仕草に、柳川が大きく身震いする。

「まだ……出したら、だめだよ……」

肉棒から唇を離し、とろんとした笑みを浮かべて彰が言う。
口を半開きにしたまま頷く柳川。
その肉棒はいまや彰の唾液を余すところなくまぶされ、てらてらと濡れ光っていた。

「準備……できた、から……」

柳川を抱きしめるようにして、耳元で囁く。
ああ、と返事をする柳川の瞳はやはり、霞がかかったように曇っていた。
そっと、柳川の手が彰を抱き上げ、うつ伏せにするようにして下ろす。
抗うことなく膝を立て、腰を突き上げるようにして待つ彰。
伏せられたその口元は、苦痛に備えてきつく枕を噛み締めていた。

「……っ……!」

冷たく濡れた感触が、尻の割れ目をなぞるように、ゆっくりと押し当てられる。
喉はからからに渇いているのに何故だか次々と分泌される唾液が、噛んだ枕に染みていく。
焦らすように、躊躇うように、柳川の肉棒は彰の尻を撫で、摩りながら往復する。
腰を掴む柳川の手がじっとりと湿っているのが感じられる。
すぐに訪れるであろう激痛と汚辱の恐怖、焦燥と荒い呼吸、湿った感触と背筋を逆さまに流れ落ちる汗。
苛立たしさと、恐慌と、ほんの微かな、期待の色。
ぐるぐると渦巻いたそれらが溢れ出しそうで、彰が声を上げようとした、その瞬間。

「……っん、んんん―――っ……!」

一気に、貫かれていた。
声にならなかった。
くぐもった叫びだけが枕に押し付けた喉から零れていた。
脳裏が、白く染まっていた。
押し出すための蠕動器官を、逆向きに撫でられる圧倒的な不快感。
些細な痛覚を、発熱による倦怠を、すべて上塗りするだけのボリュームで発生した、大音響のノイズ。
無理矢理に押し広げられた直腸が短冊のように裂けるかのようなイメージ。
腹筋がその力のすべてを動員して捩じくれ、異物を押し出そうと緊張を開始する。
急に長距離を走ったように、横腹が引き攣れる。
息が、できない。
短く断続的に吐き出される吐息が、酸素を体外に放出する。
放出するが、吸えない。
しゃくりあげるような奇妙な音を立てて、喉が呼吸を拒んでいた。
枕に押し付けた真っ暗な視界が、瞬く間に白く染め直されていく。
全身のあらゆる器官が酸素を要求し、同時に好き勝手な不協和音を発生させていた。
死ぬ、と意識する間もなく、彰の意識が刈り取られようとしていた。
刹那。

「―――ぁ……っ、っ……」

腹の中の異物が、爆ぜた。
そのように、彰には感じられていた。
衝撃に気を失うことができたのは、ほんの一瞬だった。
体内でびくびくと震える肉棒の感触に、強引に意識を引き戻される。
胃の中のものをすべて戻したくなるような、堪えようのない汚濁感。
柳川の精が、彰の中に吐き出されていた。
枕に額を押し付け、皮膚が擦り切れんばかりに首を振る。
両手に握ったシーツが裂ける嫌な音が、彰の耳朶に忍び入ってくる。
酸素を求めてだらしなく伸ばされた舌が、べしゃりと濡れた枕を舐めた。
ぼろぼろと零れてくる涙が、止まらなかった。

「貴、之……」
「大丈夫、だから」

細かく震える彰の背に何を思ったか、そっと柳川の手が伸ばされようとするのを、
くぐもった声が押しとどめていた。

「大丈夫、だから……っ! 僕で、気持ちよく、なっていいから……! だから、続けて……!」

気を張ったつもりだった。
口から出たのは、世にも無様な、涙声だった。
振り返ることはできなかった。
いま顔を上げれば、もうこの男を受け入れることなどできないだろうと思った。
だから顔を伏せたまま、彰は苦痛に新たな涙が浮かぶのを拭うこともなく、括約筋に力を込めた。
瞬間、彰の中に挿入されたままの肉棒が、その容積を増した。
ず、と動く。

「ひ……く、ぁ……ぁぁ……!」

狭い秘道を割り裂きながら進む肉棒は、しかしそれでも先程よりスムーズにその侵略を進めていた。
粘膜と粘膜の間にぶち撒けられた精液が潤滑剤の役割を果たしているようだった。
柳川の肉棒が押し進められるほど、彰の眦からは涙が溢れてくる。
まるで身体のどこかにある綺麗な泉から押し出されてくるようだ、と彰はぼんやりとそんなことを思う。
苦痛は薄らいでいた。
正確を期すならば、苦痛を苦痛として処理する精神が薄れて消えていくように、彰には感じられていた。
心に空いた虚ろな穴が、肉体の感じる痛みや苦しみを飲み込んでいく。
枕に押し付けて堅く閉じた視界には何も見えず、ただ暗い中に羽虫の飛ぶような無数の光だけを感じながら、
彰は犯されていた。

「ふ、ぁ、……は……はぁっ……!」

吐息だけが、荒く、彰の耳朶を打っていた。
それが己のものなのか、それとも背後で腰を動かす男のものなのか、彰は判らなかった。
しばらくして気がつくと、柳川の動きが止まっていた。
尻に温もりを感じる。柳川の体温だった。
どうやら、その欲望の根元までを彰の中に埋めたようだった。
奇妙に静かな一瞬の後、温もりが離れていく。
同時に、脳の表面で炭酸が泡立つような衝撃が走る。
柳川の肉棒が引き抜かれていく感覚だった。
それを快感と呼ぶ可能性を、彰は全身で否定する。
否定しながら、喉の奥から叫びが漏れた。

「あ……あっ……ひぁ……っ!」

違う、と絶叫したかった。
これは違う、これは自分の声じゃない、これは悦楽の声じゃない。
猫が背伸びをするように背筋を反らし、腕を一杯に伸ばしてシーツを握り締めていても、
足の指が堅く握り締められるようになっていても。
感じてなんか、いない。
もう決して声を漏らさぬよう、奥歯で枕を噛む。
肉棒が引き抜かれていくのに合わせてぽろぽろと零れる涙は苦痛のせいだと、信じたかった。

「……んっ……!」

引いていた波が、また押し寄せてくる。
ゆっくりとしたピストン運動。
柳川の肉棒が突き立てられるたび、明らかな痛覚が強まっていくのを、彰はどこか安堵と共に迎えていた。
粘り気のある音が、荒い吐息に溶けるように時折響く。
血か、精液か、直腸の表面粘膜か、それらが入り混じったものかが彰の尻から漏れ出して、
前後運動に合わせて音を立てているのだった。

「は、ぁぁ……っ、んんっ……!」

聞こえない。
吐息に混じる淫声など、決して聞こえない。
早く、早く終わって。
暗闇の中、彰はそれだけを祈るように、ただその身を蹂躙されていた。

「貴之……、俺……俺、また……」

上擦ったような柳川の声。
腹の中の肉棒もびくり、びくりと不気味に震えている。
射精が近いのだと、直感した。

「ひ……ぁ、ぁ……っ! い、いい、よ……いいよ、きて……!」

それだけをようやく、口にする。
と、途端に柳川の腰使いが加速した。

「ふぁあっ……! や、ぁ……くぁ……!」

高い声が響く。
もはや彰も声を抑えてはいられなかった。
短く区切られた二つの荒い吐息と、濡れた音。
暗く、白い、視界。
全身を染め上げていく熱。
それだけが、彰を支配する感覚のすべてだった。
自らの怒張もまた膨れ上がっているのを、彰は感じていた。
体中を駆け巡る熱が、一点に集まっていく。
白く、速く、熱く、滾る。

「く、あぁ……たか、ゆき……ぃ……っ!」
「やなが、わ、さ、……やながわさん、やながわさん……っ!」

その瞬間。
彰が感じていたのは、自らの中に再び吐き出される、熱い欲望の波。
そして、背に垂れ落ちる、生温かい雫だった。

 ―――え?

ぽたり、と。
上気した顔のまま肩越しに振り向いた彰の背に、またもや雫が垂れた。
最初は、汗かと思った。
それが鮮血だと理解したのは、柳川の逞しい体がゆっくりと傾いで、ベッドから転げ落ち、
桃色に染まった肉棒がずるりと彰の中から抜けた、その後のことだった。

「や……柳川さ、」
「よぅ……、楽しそうじゃねえか」

呆然と呟く彰の声を遮ったのは、野太い声。
野卑な顔立ちに無精ひげ、鍛え上げられた肉体には何一つとして身に着けることなく、
隆々と反り返る逸物と盛り上がる傷痕だらけの筋肉を誇示するように立っている。

「―――俺も、一丁混ぜてくれや」

男の名を、御堂という。
彰の押し殺したような悲鳴が、狭い部屋の中に響いた。


***


男、御堂がにぃ、と笑う。
肉食獣が牙を剥くような、獰猛な笑み。

「会いたかったぜぇ……なぁ、おい」

舌なめずりをすらしそうな満面の笑みを浮かべながら、御堂が一歩を踏み出す。
そのたわめられた背の向こうから、光が射している。陽光だった。
民家の壁を突き破ってにじり寄るその姿は、正しく数刻前の再現だった。
表情を恐怖の一色に染めた彰が、ベッドの上で後ずさりしようとするが、それすらもできない。
腰が抜けていた。
全身から嫌な汗が噴き出してくるのを感じる。
喉も裂けよと絶叫したかった。舌も、声帯も、貼りついたように動かない。
ただ潰れた蛙のような、奇妙に擦れた声だけが漏れた。
御堂が、更に一歩を踏み出す。

「死んじまったなぁ……お前を護ってた連中は、みぃんな死んじまった」

ケケ、としゃくり上げるような笑い声。
御堂の足元で、踏み躙られた家財の欠片がじゃり、と音を立てた。

「言ったろ……? いつでもお前の傍にいる、ってよ……、ずぅっと、見てたんだぜえ……?」

視界が歪む。
彰の目に湧き出した涙が、ぽろぽろと零れる。

「待ってたんだ、この時を……。長かったぜえ……南方の塹壕の中だって、こんなに長く感じたこたぁねえって程によ……」

胃が、ぎりぎりと捻じられているかのように痛む。
汗が冷たい。冷たさが胃を刺激し、刺激されてまた汗が噴き出す。

「もう、邪魔は入らねえ……存分に、楽しもうじゃねえか……なぁ?」

倒れ伏している柳川の体は、ベッドの陰に隠れて見えない。
寒さと恐怖で、全身が震えている。
怖い、寒い、熱い、痛い。
そんな感覚だけが、彰の全身を駆け巡っていた。

「や……、や……め、て」

御堂が次の一歩を踏み出そうとするのと、ほぼ同時。
歯の根の合わぬまま、彰が声を絞り出していた。
力のこもらない言葉。
ただ目の前の現実を否定するためだけに発せられた、無為な逃避の発露。
彰を襲おうとしている悲惨な未来を押しとどめることなど、できるはずもない言葉だった。
しかし、

「え……?」

御堂の足は、ぴたりと止まっていた。
獰猛な笑みを浮かべていたその顔には、代わりに困ったような表情が貼りついていた。
ベッドまで、ほんの数歩の距離。
裸身の御堂が、戸惑ったような顔のまま、ゆっくりと手を伸ばす。

「こ、こないで……!」

手が、止まった。
ここに至って、彰の脳裏に一つの可能性が浮上していた。
即ち、

(―――この男も、僕の『力』の虜、なのか……?)

ならば。
彰の震えが、治まっていく。
胃の痛みが雲散霧消していく。
発熱の倦怠感と疲労を打ち消すような、高揚感が彰を包み込んでいく。
状況は一変していた。
この男が、自分の虜でしかないのなら。
そこに恐怖は、なかった。
すべきことは先程までと何一つ変わらない。
柳川が斃れたとして、代わりの拠り代が現れただけの話。
より強い剣、より堅固な盾となる者がいるのなら、それは彰にとって、歓迎すべき事態ですらあった。
ならば自分は、対価を払おう。
この身体、この笑み、この指先を、与えよう。
そこまでを考えて、彰がその白いかんばせに淫らな微笑を浮かべようとした、その刹那だった。

「……ああ、畜生」

御堂が、大きな溜息をついていた。
きっかけを外された彰が怪訝な表情を浮かべるその眼前で、御堂はぴしゃりと額を打って、盛大に首を振る。

「いけねぇなあ、畜生。お前の願い、お前の望み、お前の言葉……聞いてやりてぇ、叶えてやりてぇ。
 けど、けどよ……俺はお前を犯してえ。犯してえんだ、ただ乱暴に、滅茶苦茶によ」

予期しない言葉に、彰の表情が凍りつく。
それが視界に入ったかどうか、御堂は足を止めたまま独白を続ける。

「滅茶苦茶にしてやったら、お前は泣くだろうなぁ……いい顔で、泣き喚くんだろうなぁ……。
 ケケ……たまんねえ、たまんねぇな……その尻、今すぐ割ってやりたいぜぇ……。
 ……けど、な?」

一旦言葉を切った御堂が、天を仰いで嘆息する。

「お前はやめろと言う。止まれという。来るなと命じる。
 叶えてやりてえ。言うとおりにしてやりてえ。……ゲェーック、俺はどうしたらいいんだろうな?」

何かに取り憑かれたように喋り続ける御堂の様子に、彰は再び恐怖を覚える。
理解できない言葉。共有できない感情。
眼前の男の様子には、どこか既視感があった。

「ゲェェーック、身を引き裂かれるようだぜえ……!
 お前を犯してえ、お前の願いを聞いてやりてえ……!」

高槻。
その名が、彰の脳裏に浮かぶ。
洞窟の中、か細い光を背に独り言じみた言葉を吐いて死んでいった、男。
どこか違う。根源の何かが違う。それでも今、目の前にたつ男と高槻の姿は、重なって見えた。

「本当に、この身が引き裂かれるようだぜえ……ゲエェェェーック!
 だから、だからなぁ、俺は……俺は、ゲェェェーック! ゲェェェーック!!」

独白は今や絶叫へと変わっていた。
その狂気じみた様子もまた、高槻の最期を連想させる。
降り注ぐ血の雨が、眼前に見えた気がした。
錯覚だった。
しかし、と彰は思う。
この先に待つ結末はきっと、

「ゲェェェェェェエーック!」

一際大きな絶叫が響き、それきり、音がやんだ。
見上げる彰の視線の先。
血の雨は、降らなかった。

「―――だぁ、らぁ……」

もごもごと篭った人の声のような、あるいは獣の唸りのような、奇妙な音が、静寂を破る。
ベッドが、ぎしりと音を立てた。
彰が、仰向けに寝転ぶようにその身を預けた音だった。
その小動物を思わせるような瞳が、一杯に見開かれている。
それはまるで、目の前に立つ何かから、少しでも遠くへ逃げようとでもいうように。
それでも視線を離すことができず、ただ脱力にその身を支えることができなくなったとでもいうように。
ふるふると、彰が首を振る。
眼前のあり得べからざる何かを、必死に否定するかのように。

「―――だぁ、らぁ……、ぉえぇ、わぁぁ……」

再び、獣の唸り声のような音が、響いた。
それが獣の咆哮ではないと、彰には分かっていた。
だがそれが人の声であるなどと、決して認めるわけにはいかなかった。
何故なら。

「……ぃぃき、さぁ……れ、やぁっら……れぇ」

ああ、と彰の心の中にいる、彰自身の体験を映画として鑑賞しているような、冷静な彰が首肯する。
成る程、目の前のこれは、こう言っているのか。

 ―――だから俺は、引き裂いてやったぜえ。

成る程、成る程。
確かに、真っ二つに裂けている。
牙の如き乱杭歯の並ぶ口腔に手を差し入れて、力任せに左右に引いた、その行為の結果だ。
頭頂から臍の辺りまで、ぱっくりと巨大な第二の口が開いたように、割り裂けている。
だがこれは、どうしたことだろう。
人は自らを引き裂けるようにはできていない。
まして、裂けた身体の断面から覗くのは血管や神経や筋肉や骨といったおぞましい断面のはずであって、
みっしりと詰まった桃色の肉塊などでは、ないはずだった。
腹から零れるのは、生々しくも温かい五臓六腑のはずであって、ぬらぬらと粘液に照り輝く触手などでは、あり得ない。
どうやら、と冷静な彰は頷く。
事ここに至っては、僕の常識など何の役にも立たないらしい。
知識は常識に立脚し、冷静とは知識を下敷きにして成立する感情だ。
ならば常識の失われた今、僕の役目は終わった。
さあ店仕舞いだ。
皆様これまでのご愛顧ありがとうございました。
後は存分に、人生の残り時間を堪能してくださいませ。
さようなら、さようなら。

がらり、とシャッターが降りる。
彰の精神を照らしていた理性の光が、消えた。
後に残されたのは恐慌という名の暗闇、ただそれだけだった。


***


「あ……ぁ、ぅわ……うわぁぁぁぁぁっぁぁぁっっ!?」

ようやくのこと、彰の口から絶叫が迸っていた。
同時、弾かれたように飛び起きようとして、腰が抜けていて叶わず、それでもなお逃走という行為を完遂すべく、
うつ伏せになってもがく。
全身でシーツの波をかき分けようと足掻くその様は、まるで必死に這いずり回る地虫の如く。
そんなことに気を回す余裕とてあるはずもなく、彰はただ手足をばたつかせて、ひっしにベッドの上を逃げる。
シーツが手足に絡まるのを、涙目になって解こうとする。
哀れで、無様で、滑稽な姿。
それは生に対する執着ではなく、死への忌避ですらなく、ただ純粋な恐怖からの逃走だった。
ほんの数十センチの逃避行は、足首に絡みつく一本の触手によって、終焉を告げた。

「ひ、やぁ、やぁぁぁぁぁぁ!?」

悲鳴を楽しむように、御堂の割り裂けた体内から伸びる触手が、彰の足首を舐り回す。
新たに伸びた触手が足の裏を這う感触に、彰は総毛立つ。
滅茶苦茶に振り回した手が、何かに捉えられる。
それが視界に入る前に、硬く目を閉じた。
見ることは、認めてしまうことだった。
見えない世界の中、腕が、足が、何かに絡みつかれ、強い力で伸ばされていく。
大の字に引き伸ばされた己の裸身を想像して、彰の混乱に羞恥心という火種が加わる。

「あ……や、らぁ……やめ、てぇ……」

だらしなく半開きにされた口から震える舌を伸ばしながら、彰が息も絶え絶えに呟く。
その舌に、何かが触れた。

「んんっ!? ……ん、んぁぁぁぁ……っ!」

ねとりとした冷たい感触に、反射的に口を閉じようとするが、それも許されない。
舌先を絡め取った細い触手が、彰の口腔一杯に侵入を開始していた。
垂れ落ちる唾液と共に、舌が強引に引きずり出される。
首を振って振りほどこうとするが、次の瞬間には新たな触手が彰の頭部に巻きつき、
その動きを封じてしまう。
触手に瞼の上まで巻きつかれ、舌を舐られながら喘ぐ彰の身体が、唐突に支えを失った。

「……ん、ぐぅ……っ!?」

手足を絡め取った触手が、彰の身体を宙吊りにしていた。
うつ伏せのまま、手足を吊られる姿勢。
その不安定さと非現実的な状況に混乱が加速していこうとした刹那、更なる衝撃が彰を襲っていた。

「ぐむぅっ……んんっ、ぷはぁっ……ぃや、ら……らめ……やめ、てぇ……っ!」

ぺちゃり、と。
それは小さな刺激だった。
やわやわとした、ほんの微かな感触。
だが、それは彰にとって、あらゆる苦痛にも勝る恐怖を与える刺激となっていた。
その触手は、宙吊りにされた彰の臍の下。
力なく垂れ下がった、その逸物に絡み付いていた。

「やぁぁぁっ……!」

か細い悲鳴にも、触手の蠢きは止まらない。
被っていた包皮が、そっと剥かれる。
露わになった亀頭を幾重にも取り巻くように絡みつく触手。
その触手が、一斉に震えだした。

「ん……んぁぁぁ……っ!」

ほんの僅かな刺激。
だがその刺激を受けた陰茎は、無様に膨れ上がっていく。
海綿体に血液が集中していくのを、彰は涙を流しながら否定する。

「や……やだ、ぁ……! ちが、ちがう……! こんな……のぉ……ちがぅ……っ!」

だがその股間は既に隆々とした姿を中空に晒していた。
白く儚げな容姿に似合わぬ、見事な大きさを持った肉の棒。
立派にエラを張った雁首が、そっと撫でられる。

「ひぁぁぁ!?」

信じられないような、感覚だった。
それが紛れもない快感であると、彰は途切れぬ悲鳴の中、認める。
自慰行為に弄り回すその感覚を何倍にも増幅したような、頭が白く染まるような快楽。
それだけで達してしまいそうになる。

「う……、やぁ……」

彰の巨根を奪い合うように、何本もの触手が群がってくる。
裏筋を突付くものがいた。
陰茎全体をしごき上げるものがいた。
睾丸をほんの僅かな力で揺らすものがいた。
亀頭を引っ掻くものがいた。
尿道口を割り広げるものがいた。
彰の肉棒のありとあらゆる部位が、ねとねとと粘液を分泌させる触手に群がられていた。
それはまるで、大樹から漏れ出す蜜にびっしりとついた蟲のようにも、あるいは彰自身のペニスが
不気味な肉塊に変じてしまったようにも見えた。

「あ……は、はぁっ……や、らぁ……」

快楽がすべてを覆い尽くしていく。
恐慌も、畏怖も、あらゆる苦痛も、ただ性の悦楽という混沌に落ち、飲み込まれていく。
手足を吊られ、股間を弄られながら、彰は次第に高みへと上り詰めていく。

「や……く、んっ……はぁ……っ、んっ……!」

与えられる刺激が、強まっていく。
ぎゅうぎゅうと陰茎を絞り上げるようなもの、亀頭全体をざらついた表面で擦るもの、
揉みあげるように雁首を往復するもの―――。

「ん……あ、ぅぁ……、あ、あ、あああっ……!」

限界、という言葉が、彰の脳裏を掠めた。
触手に覆われた視界の中。
白い光が、弾けた。

「あああああああああっっ!!」

びゅく、びゅく、と。
彰の白濁した子種が、撒き散らされていく。
最後の一滴まで搾り出すように、鼓動と同調するように、肉棒が蠢き、精を散らす。
宙吊りにされた彰から放出された幾つもの滴が、ベッドを、フローリングを、汚していく。

「うぁ……あ、あぁ……」

やがて、射精が治まる。
力を失って萎む陰茎を、それでも更にしごくような触手に、尿道から白濁液の滴が搾り出された。
それを舐め取るような触手たちの動きを、彰は快楽の余韻にぼんやりとした頭の片隅で捉えていた。
壮絶な脱力感と、無気力感。
射精直後独特の感覚が、彰を包み込んでいた。

「ぁ……、はぁ……っ」

重たく、濡れたような息をつく彰の身体が、小さく揺れた。
視界も思考も、桃色の霞がかかったようにはっきりしない。
それでも、宙吊りにされていた体が移動させられていることくらいはわかった。
どこへ、とは考えなかった。
考える気力が、起こらなかった。
薄暗い部屋の中、何本もの触手が、両足に絡み付いてくるのを感じていた。
もはや恐怖はなかった。
ただ、与えられた快楽への期待のようなものだけが、彰の中にあった。
ぐちゅり、と粘度の高い音がして、己の両足が御堂の裂けた腹の中、みっしりと詰まった桃色の肉塊に
呑み込まれても、彰はぼんやりと悦楽の余韻に浸っていた。
膝が呑まれ、腿が埋まり、腰までが生温かい御堂の肉に包まれるに至って、彰はようやく声を上げた。
悲鳴では、なかった。

「あ……ふ、ぁぁ……」

それは疑いようのない、淫声だった。
腰までをも呑み込んだ肉塊が不気味に蠢くその度に、彰の口からは悦楽の声が漏れ出していた。
内部で何が行われているのか、知る由もない。
だが彰の眼は紛れもない快楽だけを映し、蕩けるような笑みを浮かべたその表情は
更なる淫悦を乞うように、だらしなく緩んでいた。
滑らかな肌を晒す腹が沈み、薄く骨の浮いた胸までもが没しようとした、そのとき。
彰の喘ぎが、止まった。

「……?」

曇りきった瞳が、何かを見る。
己の細腕を掴む、黒く太い何か。
逞しくもおぞましい、皹の入った漆黒の皮膚。

「タカ……ユキ……」

それは、鬼の手だった。
ごぼごぼと口元から血の泡を噴きながら、鬼と化した柳川が、彰の腕を掴んでいた。
真紅の瞳が、彰だけを映していた。

のろのろと、彰が首を傾げる。
痴呆の末、恍惚に至った老人のように、柔らかい表情を唾液で汚しながら、彰が静かに笑んだ。
小さく、口を開く。

「……邪魔、しないでよぉ……」

それは、混じりけのない、拒絶だった。


***


喉元までせり上がってきた血を、げぶ、と吐き出す。
それを拭おうともせず、漆黒の怪物はただその魁偉な手に掴んだ少年の白い腕を引いた。
少しでも力を込めれば折れ砕けてしまいそうな細いその腕を目にして、鬼は確信する。

 ―――昔、これと同じ光景を見た。

それが一体いつのことなのか、鬼には思い出せない。
だがそれが確かにあったことだけは間違いないと、鬼の心は告げていた。
タカユキが眼前で失われようとする、そんな悲しい光景。

ぐらりと、頭が揺れる。
まただ、と思う。
タカユキのことを思い出そうとすると、決まって靄がかかったようになる。
そこにはきっと何かの思い出があるはずで、しかし記憶の糸を手繰って出てくるのは
まるで曇硝子を通して見る景色のような、ぼんやりとした薄暗い何かだった。
もどかしさに、吼える。
咆哮がびりびりと狭い部屋を揺らした。

猛る鬼の中には、一つの迷いがあった。
タカユキ、と呼ばれるものに関する、根源的な問い。
即ち、

 ―――タカユキとは何だ。

自らの中に当然あるはずの明快な答えが、鬼には見えなかった。
目の前にいる少年がタカユキだと、迷うことなど何もないと告げる声が、鬼の中にある。
だが同時に、それは違うと、タカユキのことを忘れてしまったのかと、弱々しく呟く声が、あった。
目の前のいとしいものがタカユキだ。
それでいい、とも思う。思うのに、迷いが消えない。
自分がタカユキと呼びかけるそれが、本当にタカユキなのか、鬼にはそれが分からない。
欠落した何かが、とても大事な何かが、鬼に忍び寄り、囁くのだった。
鬼はだからずっと、自らがタカユキと呼ぶ少年を抱きながらですら、迷っていた。

だが、と。
もう一度吼えながら、鬼は思う。
それでも、と鬼はこれだけは絶対の確信を持って思う。

 ―――タカユキとは、たいせつなものだ。なくしてはいけないものだ。

薄ぼんやりとした記憶の中でその想いだけが、鬼の心の奥深く、確かに刻まれていた。
それだけは、その想いだけは過たぬと、鬼は吼える。
だから鬼は、考えることをやめた。
いつか見たはずの、思い出せぬ悲しい光景。
繰り返してはならない、過ち。
それが今、眼前にあった。
ならば迷う暇など存在するはずもなかった。
目の前にあるタカユキを取り戻す、それだけがたいせつなことなのだと、迷いを握り潰した。

想いを胸に、鬼はその丸太のような腕にほんの僅か、力を込める。
タカユキを壊さぬように、タカユキを奪われぬように、細心の注意を払った力加減で、その白く細い手を引く。
貫かれた腹に空いた穴から、生臭い息を吐く口元からだらだらと赤黒い血を流しながら、ただタカユキだけを見て、
そのかんばせを、その柳腰を、もう一度この胸の中にに取り戻すために。
だと、いうのに。

 ―――邪魔、しないで。

言葉が、鬼を縛った。
思わず手を離し、再び掴もうとして躊躇い―――そしてまた、手が中空をさまよう。
取り戻したいと思う。取り戻して抱き締めたいと、心から思う。
タカユキは、それを拒む。拒んで、去っていこうとする。
わからない。どうすればいいのか。
わからない。何をすればいいのか。
わからない。何がタカユキの幸福か。
わからない。何が自分のしあわせか。
わからない。わからない。わからない。

迷いが渦を巻き、もどかしさが糸を引き、鬱屈した感情が雁字搦めに鬼を絡め取っていた。
凝縮したそれらに火がつくまでに、時間は要らなかった。
やり場のない感情は瞬く間に暴力への衝動へと変じていた。
引いた拳を握り締め、思う様、床に叩き付けた。轟音が響く。
木製の床が中から爆発したように抉れ、破片を辺りにまき散らした。
返す刀で目の前に立つものを薙ぎ払おうとして、それがタカユキを呑み込もうとしている男であることに気付き、
寸前で拳を止める。
代わりに、足を踏み鳴らした。地震のような衝撃が、狭い部屋を揺らす。
洋棚に置かれていた小物が、ガラガラと音を立てて床に落ちた。
その音がひどく癇に障って、鬼は乱暴にそれらを手で払う。
払った拍子に鬼の黒く分厚い掌の当たった壁が、あっさりと突き破られた。
射し込んだ陽光に苛立ちが増す。
空いた穴に手を突っ込んで、障子紙を破るように壁を引き裂いた。
民家の壁、その一面が、朦々と埃を立てながら崩れ落ちた。
舞い上がる埃が疎ましく、散らばった小物や木々の破片が鬱陶しく、射す陽光が腹立たしく、
澄んだ青い空が厭わしく、思うに任せぬ事どもが煩わしく、鬼は吼えた。

吼えて、吼えて、吼え猛り、気がつけば民家は跡形もなく崩れ去っていた。


***


原形を留めぬ瓦礫の山と、柱だったものの名残と、硝子と鉄と木材とその他諸々。
その中に、漆黒の怪物と奇怪なオブジェの如き肉塊と化した男と少年だけが、変わらず立ち尽くしていた。
白く照りつける陽光の下、鬼の瞳が少年を映す。

少年は、嗤っていた。
哀れむように、嘲るように、佳人が物乞いを見るように。
鬼の咆哮が、今や遮るものとてない寒村の空に響き渡った。
それは悲嘆と哀切に満ちた号泣であり、憤怒と憎悪に彩られた怒号でもあった。

次の瞬間、漆黒の巨躯が足元の瓦礫を掴むと、天高く掲げていた。
人ひとりが両手を広げても抱えきれぬ巨大な石塊と、何本も突き出した鉄骨。
民家の土台に使われていた礎石のようだった。

鬼は、泣いていた。
真紅の瞳から零れる、同じ色の涙。
血の色の涙を流しながら、鬼が吼えた。
足を、踏み出す。
眼前に立つ紅顔の少年とそれを呑んだ肉塊へと、疾走を開始した。

一歩ごとに大地が震えた。
一歩ごとに血飛沫が飛び散った。
一歩ごとに咆哮が揺れた。

迫る死の具現に、少年は表情を変えなかった。
ただ淫蕩な笑みをその顔に貼り付けたまま、何事かを呟き続けていた。
その瞳に、光はなかった。

漆黒の鬼が、少年の言葉と己が衝動の間にどのような答えを見出したのか、それは知れぬ。
石塊が叩き潰し柘榴のように変じた少年の顔に鬼が泣くのか、呵うのか、それは知れぬ。
その答えは永久に失われ、杳として知れぬ。

遥か空の彼方より矢の如く飛来した一羽の鳥が、その答えを焼き尽くしていた。
夕焼けを閉じ込めたような色彩の鳥。
それが、火の粉を撒き散らしながら羽ばたくその身を鬼の掲げた石塊に叩きつけるや、
巨石が瞬く間に炎上したのである。
燃えるはずもない石が、赤熱するでもなく、融解するでもなく、燃え上がっていた。
石塊が鬼の手から落ち、轟音と共に地面を揺らした。
割れ砕けた石塊から無数の火の粉が舞い散り、世界を一瞬だけ朱く染め上げ、消えた。

あり得べからざる光景を現出させた、炎の鳥。
それが飛び来た彼方から、一つの声が響いていた。

「それが歌か」

呟くようなその声は、しかし確かな明瞭さをもって、鬼の耳に届いていた。
鬼の瞳が日輪と、その下に立つ影を映す。

「違うだろう、柳川さん。
 もう一度、聞かせてくれよ。―――あんたの歌を」

白銀に煌く鎧を身に纏った少年が、そこに立っていた。




【時間:2日目午前11時すぎ】
【場所:C−3 鎌石村】

七瀬彰
 【状態:御堂と融合】

御堂
 【状態:彰と融合】

柳川祐也
 【所持品:なし】
 【状態:鬼・タカユキの騎士・重傷】

藤田浩之
 【所持品:鳳凰星座の聖衣】
 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士・重傷(治癒中)】
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