藤田浩之は走っていた。 長いあぜ道を、水の枯れた田んぼを横切って、広い平屋の角を曲がって、 視界の開けた長閑な景色の中に目指す背中は見えなくて、それで足が止まった。 横腹が痛い。 酸素を取り込もうとして、餌を欲しがる金魚のように口を開く。 深く息を吸った途端、背中に激痛が走っていた。 立っていられずに膝を落とす。 舗装もされていない砂利道。 小石が尻や足に食い込む刺激が、少しだけ痛みをやわらげてくれた。 そのまま倒れこむ。 燦々と照る太陽に温められた、乾いた砂埃を吸い込んで、咽た。 空咳が収まると、そのままごろりと背を丸めて横たわった。 本当は大の字に寝転びたかった。 背中の傷が痛いのと、照りつける日差しが眩しくて、海老のように体を丸める。 ごつごつとした鎧が体の下敷きになって、不快だった。 それでも、そのまま動かずにいた。 ―――かったりぃ……。 息が収まるまで、こうしていようと思った。 荒かった呼吸は、とうに元通りだった。 動悸が治まるまで、こうしていようと思った。 脈拍は既に平静を取り戻していた。 胸のざわめきが収まるまで、こうしていようと思った。 叫びたくなるような衝動は、いつまでも収まりそうになかった。 目を閉じれば、走り去っていく黒い背中が瞼の奥に浮かんできそうで。 手を伸ばせば、追い縋っても振り返りさえしなかったその背中を、思い出してしまいそうで。 だからどうすることもできず、ただ爆発しそうな衝動だけを抱えたまま、寝転がっていた。 横倒しになった世界。 閑静な農村。どこまでも広がる青い空。 うららかな日差しの下、動くものとてない景色。 まるで世界に自分ひとりだけが取り残されたような、音のない情景。 だというのに。 「―――立ち止まってしまうの?」 その声は、すぐ背後から聞こえてきた。 心臓が縮み上がるような感覚。 文字通り飛び起きようとして、背中の痛みに身を捩る。 気がつけば立て膝のまま、間近で声の主を見上げていた。 目に映ったのは、青という色。 そこにあったのは、光だった。 ……違う。 揺らめく炎のような青い光の中、人影が立っている。 目を凝らせば、それは一人の少女のようだった。 青白い光を纏った、少女。 鄙びた農村を背景にしたその姿は、有り体に言って異様で、わかり易く言えば得体が知れず、 それでも浩之の目に映る少女はひどく厳かで―――神々しかった。 「立ち止まってしまうの?」 言葉が繰り返される。 少女はしかし、それきりを口にして沈黙し、静寂が訪れた。 短く区切られたその要領を得ない問いかけに悪意は感じられず、だからといって善意もなく、 そこにはただ、純粋な疑問だけがあるように感じられた。 大勢の人間が死に、無数の怪奇が横行し、既に現実と幻想の境界すら定かでなくなったように思えるこの島で発せられる、 たったひとつの混じりけのない問い。 虫たちが息を潜め、風すらもがやみ、木々のざわめきも収まった。 浩之を取り巻くすべての世界が、固唾を呑んでその答えを待ち構えている。 そんな風に感じられた。 「……わかんねえ」 気がつけば、心の中にある迷いを、素直に口にしていた。 少女の問いは要領を得ない。 立ち止まるとは、走るのをやめることか。 追いかけるのを、やめることか。 それとも……考えるのを、やめることか。 飛躍していく思考に、浩之は内心で苦笑する。 少女はそんな哲学的なことを聞いているのではないだろう。 走っていた男が突然倒れこんで起き上がらずにいる、それを不思議がっているのだろう。 だから、答えは単純だ。 自分は現に立ち止まっている。 こうして、走ることを放棄している。 ならば、 「俺……どうして、あの人を追いかけてんだろうな」 口から出たのは、思考とはかけ離れた、自問だった。 心のどこかで呆れ果てたように首を振る自分がいるのを感じる。 自分を知らず、柳川を知らず、二人を知らない目の前の少女にとって、何の意味もない言葉。 そもそも問いかけの答えになっていない。 それでも、言葉は止まらなかった。 「わけわかんねえ。追いかける義理、ねえし。あの人が、ついてきてたんだし。 離れてくなら、それでいいんじゃねえかって、思うし。けど……けど、さ」 夜の森で見た瞳の色が蘇る。 月明かりすらない暗闇の中、深い、深い真紅の瞳は、確かに自分を映していた。 心臓に爪を突き立てて滲んだ血の色のような目に涙を浮かべて、漆黒の鬼は自分を見ていた。 その瞳の色が、忘れられない。 共に過ごしたのは、僅かな時間のはずだった。 それでも、二人で駆け抜けた山道の、夜明けの冷たさが忘れられない。 肩を並べて戦い、ついに包囲を切り抜けた瞬間の高揚を忘れられない。 焼け爛れた傷口から流れる膿の色が忘れられない。 何度言い直させても片言でタカユキと呼ぶ、たどたどしい声が忘れられない。 照れ隠しにしてみせる、インテリぶった口調が忘れられない。 鬼になる前に眼鏡を投げてよこす、格好つけた仕草が忘れられない。 ほんの先刻、かき抱いた体の重さを、忘れられない。 「俺、あの人のこと何も知らねえんだよ。名前はわかる、柳川祐也。 刑事をやってた。鬼になる。けど……それだけだ。 あとはわかんねえ。何で俺のことタカユキって呼ぶのか、タカユキって誰なのか、 そいつがあの人の何なのか、……俺があの人の何なのか。 何も……何も知らねえんだよ。けど、だから、わかんねえ」 知らないから、追いかけるのか。 知りたいから、追いかけるのか。 だが、知ってどうなる。 知らないのに、追いかけるのか。 知らないのに、追いかけるのが、許されるのか。 その資格があるのか。 それだけの何かが自分の中にあるのか。 或いは、それだけの何かが、柳川祐也の中に、あるのか。 それが、わからなかった。 怖かった。 柳川は、去っていったのだ。 七瀬彰を庇って、自分を振り払って、走り去っていった。 追いかけて、追いついて、その後どうすればいいのか、わからなかった。 確かめるのが、怖かった。 柳川祐也の中にあるタカユキという言葉の意味、七瀬彰の存在、そして何より―――藤田浩之の価値を。 「何だろうな。俺、何やってんだろうな。どうしたいかもわかんねえのに。 ……どうなってほしいかも、わかんねえのに」 たとえば、柳川がその言葉で真実を語ったとして。 たとえば、柳川が七瀬彰を選んだのだとしたら。 たとえば、柳川に伸ばした手を邪険に振り払われたら。 たとえば、柳川の瞳に映る自分がひどく惨めたらしかったら。 たとえば、柳川に抱かれた七瀬彰の目が勝ち誇ったように輝いていたら。 たとえば、柳川を追うこの行為が、この上なく滑稽だとしたら。 たとえば、たとえば、たとえば―――。 「あなたの中の青は、もう走り出そうとしている」 言葉が、すべてを断ち切っていた。 静かに、しかし重々しく紡がれたそれは、結局のところ、少女にとって意味などなかったのかもしれない。 だが波打ち、荒れ狂う浩之の心中に降り注いだそれは、正しく託宣だった。 それは分厚い雲間から射す、ひどくか細い光に過ぎなかった。 しかしそれは同時に、暗い海原に示された、唯一の光明だった。 その指し示す先にこそ何かがあると、再び舵を取り、帆を上げ、櫂を漕ぐ力を与える、そんな光だった。 顔を上げたその向こうで、少女が音もなく片手を上げた。 青白い炎の宿る指が、遠い道の先へと掲げられていた。 浩之の、走ろうとしていた方角だった。 思わず振り向いて目を凝らしたその先に、小さな明かりが灯っていた。 「……!?」 おかしい、と思う。 快晴の日中、遠景に明かりの見える道理がなかった。 しかし、それでもその青い光は、確かに遥か視界の先に立ち昇っていた。 青い、光。 「……おい、あんた……!」 振り返る。 そこには。 「―――」 誰も、いなかった。 慌てて辺りを見回す。 気配はどこにもなかった。 まるで、少女自身が青白い炎に変わって消えたように。 「……」 しばらく、呆然と立ち尽くしていた。 風が吹き抜けて乾いた砂埃が舞い上がり、目を瞬かせる。 我に返って、首を打ち振るう。 長閑な寒村の風景だけが、浩之を取り囲んでいた。 再び振り返って、今はもう存在していたことすら定かではない少女の指差していた方を見る。 立ち昇っていたはずの青い光は、やはり見えなかった。 しかし、 ―――行くか。 浩之は大きく息を吸い込むと、その方角へと一歩を踏み出す。 その足取りに迷いはなかった。 追い求める背中は目指す先にあると信じる、それは歩みだった。 【時間:2日目午前11時すぎ】 【場所:C−3 鎌石村】 藤田浩之 【所持品:鳳凰星座の聖衣】 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士・重傷(治癒中)】 観月マナ 【所持品:BL図鑑・ワルサーP38】 【状態:BLの使徒Lv4(A×1、B×4)、BL力暴走中?】 - BACK