『こんにちは』 それが誰の言葉か、柚原このみにはすぐの理解ができなかった。 ぼやける意識の中、存在する記憶に一致する声というものを探すこと自体が億劫でこのみは静かに瞳を閉じようとする。 『こんにちは』 しかし少女の声をしたものは、そんなこのみを逃がさないようにと追跡してきた。 このままそれを無視することも、勿論このみにはできただろう。 つらい現実、見たくもない光景から一時的にでも逃げられるチャンスというのは早々にない。 目が覚めたらまた嫌なことがたくさんあるかもしれない、疲弊したこのみの心はそれら全てから目を背けようとしていた。 だが同時に臆病なこのみの心は、この声を無視したことにより降りかかるかもしれない厄災に対し過敏な反応を見せる。 気がついたら自然と開かれていたこのみの瞳、ここで眠りに落ちることで二度と目を開けられないかもしれないという可能性が彼女の意識を覚醒させた。 「……誰なの?」 地面に伏せたまま、このみが問う。 「このみに、何か用なの?」 震えるそれ。 気だるさの残る体をゆっくりと起こし、このみは視線を周囲に張らした。 『お姉さんに聞きたいことがあるの』 「このみに?」 声の出所を、このみはまだ見極めきれていない。 姿を見せない声の主に対し、このみの中で警戒心が膨らんでいく。 しかしそれを声の主に対し問う勇気が、このみにはなかった。 いつどこから襲ってくるかもしれない相手に対し、立ち上がることはできたもののこのみは震える膝を押さえることができないでいた。 『お姉さんは、大事な人のためなら人を殺すことが出来る?』 え、と小さく掠れたものが、このみの喉から絞られる。 唐突な問い。このみは声の主が何を持ってそれを口にしたか、予測を立てることが全く出来なかった。 『答えて。お姉さんは、大事な人のためなら人を殺すことが出来る?』 このみは何も言うことができなかった。 ただ、ぽかーんと。大きな瞳をまん丸に見開きながら、同じように口も開け呆けるしかなかった。 『……お姉さん?』 問いの内容を理解できるまで、このみの体内時計はストップしていたと言えよう。 しかしそれを噛み砕くことで浸透された言葉の意味は、このみを激しい苦しみに陥らせる。 人を傷つけてはいけない。人を、殺してはいけない。 それは、このみの生きる世界では当然のことである。 常識である。誰かが傷ついたら寂しい、悲しい。このみだって、そう思う。 だからこのみは口にした。 その、当たり前のことを。このみも同意するに値する、それを。 「……ダメ、だよ」 『?』 「誰かが傷ついたら、悲しいよ。このみも悲しいし、その人もつらい。それで、その人の友達だって、きっと悲しむ。 みんな嫌な気持ちになるの分かってるのに、そんなこと。できないよ」 心からの言葉だった。このみにとっても、勿論。 しかし、どこかそれは空虚だった。このみも理解していた。 理解していたからこそ言葉を口にし終えた時、このみは頬に一粒の雫を垂らしたことでその気まずさを表した。 それは、このみなりの即席に誂えた壁だったのかもしれない。 『矛盾してる』 だがそれに対するものは、容赦がない返しとしか言えなかった。 声の主がは易々と、張られたこのみの防御壁を大破させる。 このみは答えなかった。 壁の意味を、声の主も分かっていたからかもしれない。 このみはそれを恥じた。それは、隠していた悪事がばれてしまった子供のような気分と呼べばいいのか。 『なら、何でお姉さんはそんな格好をしているの?』 このみよりもさらに幼い声が、このみに向かって詰問してくる。 このみは答えなかった、否。 答えられなかった。 『矛盾してる』 はあ、と一つ大きな溜息をつき、このみは小さな頭を俯かせる。 言い訳は、できなかった。 視線を下げたことにより、このみの視界には自身の姿がくっきりと入ることになる。 ホテルのエントランスは暗い、しかし差し込む月の光がこのみに現実を突きつけた。 ピンクと赤を基調としたセーラー服は、ずっとこのみも憧れていたこの春入学した学校のものだ。 まだ買ったばかりだった。大きな汚れや染みもない、綺麗なままのはずだった。 しかし土や埃の類に塗れたそれに、新品だった頃の面影はない。 何よりピンクと赤が基調となっているはずのセーラー服は、今やピンク地がほとんど見えず真っ赤に染め上げられていた。 その原因を、このみ自身忘れたわけではない。 『矛盾してる』 三度、念押しのように声の主が言い放つ。 そこに嫌悪感が含まれているように思え、大きく泣き喚きたくなる衝動をこのみは必死に抑えていた。 このみにだって色々あった。 こうしなければ彼女を救えなかったから。 だから、このみには躊躇も何もなかった。 思い立ったらすぐに行動に出ていた。 そして、無事彼女を救うことができた。できたから。 このみはここにくるまで自身の行った人を手にかけるという行為に対し、懺悔する気持ちなど一切持っていなかった。 今もそれは変わらない。 「……分かんないよ」 ぽそっと呟かれたそれは、誰に対したものなのか。 このみは顔を伏せたまま口を開き、ぽつぽつと言葉を口にする。 「分かんないよ、このみだって誰も傷つけたくない。そんなの嫌だよ。 自分がされて嫌なことは他の人にもしちゃ駄目って、当たり前のことだよ」 『じゃあお姉さんは、誰も殺してないの?』 「……あなたは、どこまで知ってるの?」 『何も知らないよ。ただ、お姉さんの格好が怪しかったから。聞いてみたの』 このみはそれで、少女の声色を持った人物がこのみ自身を責めるような意図で発言をしていた訳ではないということに、やっと気づいた。 疑心の含まれたこのみの問いに返ってきたものが物語っている。 幼いそれは、ただ「矛盾している」と見えるものに対し純粋に疑問をぶつけているだけだった。 姿が見えないという依然とした問題はあるが、このみの中で鳴らされていた警報音が微々たるものになっていく。 そして今度は恐怖心よりも少女の声を持つそれに対する好奇心の方が、このみの中で上回った。 「……ねえ、どこにいるの? ちゃんと向き合ってお話しようよ」 気づいたら止まっていた膝の震え、このみはキョロキョロと辺りを見渡し声の出所を探そうとする。 どんなに視線を泳がせたとしてもエントランスの中では人影を見つけることは出来ない、このみが途方に暮れかけ時である。 「……ねえ! このみの声、聞こえてるのかな」 『聞こえてる。お姉さんの後ろに、あたしはいるよ』 我慢が出来ず大きな声を上げたこのみのそれに、解答はすぐに与えられた。 え、とこのみが振り向いた瞬間、月明かりしか存在していなかったエントランスに青白い光が立ち込める。 このみも即座にがっちりと目を瞑ったが、突然の可視光線が彼女の視力を奪うのは容易いことだった。 軽い痛みさえも覚え、このみはそれを遮るよう両手を前に突き出し静止する。 訳が分からず戸惑うこのみを他所に、声は直接彼女の脳に叩きつけるかのように、しかし変わらぬ純真さで言葉を紡いだ。 ――分からないなら、分かるようになればいいと思う。 少女が語るそれは確かにこのみに向けられたものであろうが、それはただの独り言とも取れるような口調だった。 ――人殺しは嫌い。でも、可能性を消すのも、嫌い。 それをこのみに判断する間は、与えられない。 ――待つよ。答えを見つけて、お姉さん。 そして途端感じた猛烈な痛みに、このみは声にならない悲鳴を上げた。 ※ ※ ※ 次にこのみが気がついたのは、硬いエントランスの床に横になったことにより体がが冷え切ってしまったという事実を、彼女自身が理解した時だった。 いつ意識を失ったのかこのみの記憶には存在ない、ただ最後に感じた痛みだけが彼女にリアルを突きつける。 「……あ」 焼けるような熱は、このみの左手から発せられていた。 薄く目を開け確認するこのみの瞳に、月の光に反射した青い宝石がキラリと光る。 どのような原理かは、このみも分からなかっただろう。 しかし、それは確かに。 このみの手の甲に、埋め込まれていた。 柚原このみ 【時間:2日目午前3時30分】 【場所:E−04・ホテル跡】 【所持品:38口径ダブルアクション式拳銃 残弾数(6/10)、ワルサー(P5)装弾数(4/8)予備弾薬80発・金属製ヌンチャク・支給品一式】 【状態:貴明達を探すのが目的】 【備考:制服に返り血を浴びている、ソックスにも血がついている】 【備考2:左手の甲に青い宝石が埋め込まれている(少女の声の主はこのみが人を殺していることを知らない)】 - BACK