見届けよう、悲しみに満ちた星の、終焉の日々を




 ―――東京某所


光量を抑えられた広いフロアの中を、幾人かの男たちが忙しげに歩き回っている。
ある者は白衣を、またある者は仕立ての背広を纏い、そのいずれもが己が理知の徒であることを誇るように
眼差しも鋭く何事かを話し合い、また別れ、自らの席について用意された端末を操作していた。
そんな様子を、一段高いところに据えられた椅子から満足げに眺める男がいた。
男の名を、犬飼俊伐という。
内閣総理大臣―――即ち、国家の実権を統帥する男である。

傍らに影のように少年を侍らせながら、犬飼は目を細める。
すべては順調に推移していた。
プログラムは表向きの理由、固有種の殲滅に向けて動き、その概ねを討ち果たしていた。
報告によれば残りは六、七人といったところだったが、それも時間の問題だという。
これが遂げられれば、しばらくは面倒な左の連中の頭を抑えることができる。
与党は安泰、戦争は継続され、財界のお歴々は潤う。
政治的な面では満点といっていい経過だった。

そしてまた、と傍らの少年の気配を感じながら、犬飼は思う。
このプログラムの真の目的に向けても、事態は着々と進行していた。
歴史の救済―――破滅の輪廻から、世界を救う。
誰かに聞かれれば精神の平衡を疑われても不思議はないようなことを、犬飼は本気で考えている。
本気で考えざるを得ない理由が、犬飼にはあった。
傍らの少年にちらりと視線を走らせる。
表情はいつも通りの微笑。しかしそこから人間らしい感情を読み取ることはできない。
精巧に作られた仮面のような表情には犬飼の知る限りいくつかのバリエーションがあったが、
そのどれもが少年の本当の感情に根差したものではないと、犬飼は見ていた。
そもそも、名も知らぬこの少年が人に類する感情を持ち合わせているかどうかも定かではない。
少年と呼び習わしてはいるが、彼は見た目通りの年齢ではなかった。
もう何十年も昔、犬飼の前に初めて姿を現したときから変わらぬ容姿をしている。
固有種か、あるいはそうとすら呼べぬ何か。
少年とはそういう存在であった。

だが犬飼にとって、少年の存在は絶対である。
今の犬飼を作り上げたのは、何の誇張もなく少年の力に他ならなかった。
軍の技術科学研究所に勤める一介の科学者に過ぎなかった犬飼の前に現れた少年は、
ただ一言、告げたものである。

 ―――世界を、救ってみないかい?

この世界は、破滅に向かっている。
何度も滅び、その度にやり直し、そしてまた同じ過ちを繰り返している。
それは歪んだ歴史が越えられない、絶対の壁。
だから、世界を救える人間を探しているのだという。

子供の戯言と一笑に付した犬飼がその認識を改めるまでに、そう時間はかからなかった。
少年の口から発せられるすべての言葉は、時を置かず予言となり、的中していった。
政治、経済から地震や天候まで、人の知るべくもない事象の尽くを言い当ててみせられれば、信じざるを得なかった。
その少年が、自分に世界を救えと、その力があるという。
犬飼はその言葉に畏れを抱き、しかし同時に抗い難い魅力を感じていた。
歴史の救済者となる。
子供の時分に読んだ冒険小説の筋立てが、目の前にあった。
それが男子の本懐だと囁く声と、途方もない夢物語だと呟く声が、犬飼の内に鬩ぎあっていた。
犬飼が決心したのは、それから数年の後。
覆製身研究に目処が立ってからのことである。

それからの時間は、瞬く間に過ぎていった。
政治の世界に身を投じた犬飼が成り上がるのは容易かった。
犬飼の傍らには、すべてを見通す少年がいたのである。
急騰する株、失脚する政治家、将来に権力を伸ばす者……それらを事前に知っていれば、あとは
舗装された道を歩くようなものだった。
強固な人脈と豊富な資金が、犬飼の手元に積み上がっていった。
それから数十年。犬飼は今や、国家の頂点にまで上り詰めていた。

歴史は救われる、と犬飼は思う。
少年の目は確かだった。
世界が超えられぬ破滅―――『約束の日』と少年が呼ぶ、その壁の向こうへと世界を導く力が自分にはある。
この力と、少年の言葉。
世界を救うには、それだけがあれば充分だと思えた。
満足げに犬飼が頷いた、そのとき。

突然の足音が、フロアに響いていた。
乱暴に踏み鳴らされる複数の足音は、軍靴のものだった。

「……何事かね」

夢想を打ち破られた犬飼が、内心の不機嫌さを隠さずに問う。
返答はない。
皆、ただ無言で歩み寄ってくる。無礼に眉を顰める犬飼。
騒然となるフロアの面々を押しのけるようにして、軍靴の足音を響かせる男たちが犬飼の前に立つ。
闖入者たちは軍服と階級章からすると陸軍将校であるようだったが、その顔に見覚えはなかった。

「何事かと聞いている」

やはり返答はない。
犬飼の座る椅子を取り囲むように立った男たちは、無言のまま犬飼を見下ろしている。
ついに怒声を張り上げようとした犬飼を制したのは、正面に立つ将校の眼光と、冷厳な一言であった。

「奸賊、犬飼俊伐―――貴様に天誅を下す」

驚くよりも早く、周囲の軍人たちが拳銃を構えていた。
銃口が、寸分の揺らぎもなく犬飼を狙っていた。
ひ、と悲鳴じみた声がフロアから上がる。
幾つかの銃口はそちらにも向いているようだった。
状況の推移に目を白黒させる犬飼の間近で、混乱する場に拍車をかけるように、高い音が鳴り響いた。
一瞬遅れて、電話が鳴っているのだと気づく。
視線をやっても、電話番をするはずの係官はいない。
銃口に追いやられ、他の人間と共にフロアの中央に集められていた。
正面に立つ将校が、取れ、と顎で指し示した。
その倣岸な態度に渋面を作りながら、犬飼が受話器に手を伸ばす。
耳に当てた。

『―――ご健勝をお慶び申し上げます、閣下』

聞こえてきた男の声に、犬飼は思わず声を失っていた。
それは、この状況下で聞くはずのない声。犬飼が最も信頼する男の声だった。
ようやくにして、その名を搾り出す。

「く……、九品仏……」

声の主を、九品仏大志といった。


***


何故だ、と問うのに返ってきたのは、奇妙に静かな声だった。
常に不遜にして陽気な九品仏大志をしか知らぬ犬飼の、聞いたことのない声。

『我輩が、士官学校の扉を叩いたきっかけを覚えているかね』

がり、と電話口の向こうで奇妙な音がした。
無線に乗る雑音のように、思った。

『そうだ、プログラムだよ、閣下』

がり。
爪を立てて机を引っかくような、奇妙な音。

『我輩は仲間と共に優勝したのだ、かつて』

がり。
子供が蝋石で道に絵を描くような音。

『ああ、仲間と共に。……たった一人を除いた、仲間と共にだ』

がり。
潮風に耐えかねて赤錆が剥がれ落ちるような。

『……千堂和樹。その名……覚えてなど、おるまいな』

がり。
弓の弦が千切れて飛ぶような。

『あの地獄を生き抜いた誰もが、怠惰と遊興の果てに砂糖漬けの豚と成り果てたとしても、我輩だけは忘れん。
 忘れたりなど、するものか』

がり。
砂利を踏みしめながら歩くような。

『同志和樹の死……。我輩がそれを肯じると、本気で思っていたのかね。
 一日たりとも、思い出さぬ日はなかったよ』

がり。
燃え尽きた炭が崩れるような。

『……ああ、この音が、気になるかね』

がり。
硬い何かを、割り砕くような。

『これが何だか、貴様にはわかるまい』

がり。
硬い、何かを、噛み砕くような。

『骨だ。同志和樹の遺骨だよ、犬飼』

がり、と。
噛み砕く、それは音だった。

『この恨みを』

がり。
噛み砕く。

『この怒りを』

がり。
噛み砕く。

『この憎悪を絶やさぬために、我輩は毎夜、同志和樹の骨を齧り、復讐を胸に刻んだ』

がり。
噛み砕く。

『そうしてこれが、最後の一欠片だ、犬飼』

がり。
噛み砕く。

『この日、この時をどれほど待ち望んだか』

濡れた音がした。
何かを嚥下するような、音。

『我が友の仇―――今こそ討たせてもらう』

そうして。
もはや、音はない。


***


受話器が、床に落ちた。

喉がひりついていた。
唾を飲み込もうとして、渇いた口の中には唾液の一滴すら存在せず、冷たい銃口から目を逸らそうとして、
到底できるはずもなく、最後に犬飼が辿り着いたのは、結局のところ少年の存在だった。

そうだ、と犬飼は思う。
これまでも、危機はあった。
政界でのし上がるのに、敵の一人も存在しないということはあり得なかった。
目の前に銃を突きつけられる体験はなかったが、そうなる可能性は幾度も乗り越えてきた。
すべては少年の導きだった。
これまでずっとそうしてきたように、今度もまた少年は自分を窮地から救うだろう。
世界を破滅から救うその日のために、犬飼俊伐の健在を約束してくれるだろう。
そら、何をしている。
目の前の銃は今にも引き金が引かれそうじゃないか。
焦らすのはもう充分だ。冒険活劇の演出にしては度が過ぎている。
早くしないと、ほら、本当に、

す、と。
少年が動く気配がした。
小さな身体が、犬飼を庇うように前に出る。
犬飼を取り囲む軍人たちは、不思議なことに少年の存在そのものに気がついていないようだった。
目の前に立ちはだかった少年に視線の一つも動かすことなく、じっと拳銃を構えたままでいる。

そうだ。
それでいい。
そうしてそのまま、悪漢どもを蹴散らしてしまえ。
内閣総理大臣たる犬飼俊伐には無敵の刀があることを世に知らしめろ。
戦争を勝利にいざない、約束の日を越えて世界を正しい姿へと導く男の名を、

犬飼の妄想じみた思考が、停止した。
少年は、犬飼に銃を突きつけている軍人たちには目もくれず、傍らにある机の前に屈み込んでいた。
暗い銃口が再び犬飼の視界に入る。

(……な、何をしている……!?)

思わず立ち上がって叫ぼうとした。そうして、気づく。
声が出せない。それどころか手も足も、指の一本に至るまでが、自由にならない。

「困ったもんだ、本当に困ったもんだ」

呟くような声がした。
何十年も、すぐ近くで聞いていた声。
少年の声だった。

「誰も彼もが好き勝手なことをする。誰も周りを見ちゃいない。誰も辺りを気にしちゃいない。
 最期に初めて気づくんだ。滅びて初めて悔やむんだ。本当に、本当に、救えない」

澱み、腐り果てた沼から泡が浮かび弾けるように。
少年が、溜息をついた。
諦念と呼ぶにはあまりに深く、憎悪と呼ぶにはあまりに冷たい、それは虚だった。
聞く者の耳朶にまとわりついてやがては脳髄を侵す蟲のようなおぞましさ。
総毛立つ犬飼には目もくれず、少年の指はコンソールへと走っていた。

『指紋認証……完了。
 声紋認証……完了。
 網膜認証……完了』

机に埋め込まれた平面モニタに浮かぶ文字列は簡素で、だがそれ故に犬飼は戦慄する。
馬鹿な、と叫びたかった。
三重の生体認証は他でもない、犬飼だけに反応するように設定されていたはずだった。
内閣総理大臣のみが操作できる、特殊端末。
それがいとも容易く他者の手によって起動しようとしていた。
音もなく、無数の文字列が流れていく。

「……神奈がいなくなっては、これ以上の呪は集まらないからね。
 まあ、これだけの『可能性』が潰えれば充分だろう」

気がつけば、少年が顔を上げていた。
犬飼と視線を合わせたその表情はいつもと変わらぬ微笑。
だが今、犬飼は底知れぬ恐怖と不安を覚えていた。
目の前にいるのは、人ではない。
人ならざる、名状しがたい、何か。
その力によってありとあらゆる困難を打ち破り、地位と名誉、富と名声を与えたもの。
それが今この瞬間、こんなにも恐ろしい。
犬飼は直感していた。
この場で最も危険なのは、今まさに自分を撃ち抜こうとしている拳銃などではない。
そんなものは、目の前で微笑を浮かべている少年に比べれば、塵芥に等しい。

「もう終わらせよう、この世界」

だから少年は、こんなにも簡単に、世界の破滅を口にする。

「緊急危機管理マニュアル第六十三号。
 国家緊急事態宣言が発令されたときにのみ承認される、破滅のシグナル。
 たとえば、国会議事堂の占拠。たとえば、首都機能の崩壊。たとえば、軍部の蜂起」

歌うように、滅びを弄ぶ。

「敗北を是とせず、さりとて勝利すべくを失った一国の長の、最後の一矢―――。
 攻撃衛星・天照の強制起動システム」

踊るように、その指が崩壊を誘う。

「照準は……そうだな、せっかくだから今、世界で一番発展している都市にしようか。
 素敵な報復の連鎖が起きるだろうね。これまでもそうだった。
 時にはミサイル。時には一発の銃弾。
 世界を終わらせるきっかけは、ほんの些細な悪意だった」

朗々と謳い上げる、その声が止まった。
少年の微笑が、犬飼の方を向いていた。

「勘違いしないでほしいんだけど」

その声音にどこか感傷じみた色が含まれているように思えたのは、錯覚であったか。
瞳の奥に揺らがぬ光をたたえたまま、少年が言葉を継ぐ。

「僕は別に世界を滅ぼすために君を利用したわけじゃない。それは信じてほしいな。
 ……僕たちは本当に、約束の日を越えようとしているんだよ」

訥々と告げるその言葉は、少年らしからぬ真摯な響きに満ちていた。
遥か遠い何かを夢想するような瞳に、犬飼が声にならぬ声を上げようとした瞬間、少年が表情を変える。
人を煙に巻くような、掴みどころのない微笑。
そこにいたのは、既にいつもの少年であった。

「ただ、一つだけ言い忘れてたことがあってね」

言う声もまた、どこか軽い調子を含んだものに戻っていた。
その声音と表情に犬飼が見て取ったのは、とてもシンプルな、断絶であった。
一瞬だけ垣間見えた率直な響きこそが、少年と呼ばれるものの真実だったのだろう。
それは今や遠く霞み、失われようとしている。
死にゆく愛玩動物に手向けられる感傷の時間は、既に終わったのだ。
それは少年が犬飼を見切ったという、明確な証左だった。
救世の英雄。その幻想が崩れていく。

「このプログラムは、約束の日を越えるためのものじゃない……逆なんだ。
 もう今回は、その日を越えられないとわかったから。
 だからこの戦いが必要になった。それだけのことさ」

少年の言葉が空虚に響く。
それは何か、ひどく重大な示唆を含んだ言葉のようでもあったが、犬飼にとっては
既に無意味な単語の羅列に過ぎなかった。
己の仕組んだ地獄絵図が、歪んだ歴史を正すためでなく、それを終わらせるためのものだと、
それだけを理解した。それで充分だった。
そこに悪意はなく、おそらくは邪気もなく、ただ純粋の意志をもって、世界は破滅に導かれる。
この破滅に至る、人類の積み上げてきた歴史は、ただ繰り返される過ちの一つに過ぎない。
子供が積み木を崩すように。
ただ完成に至らぬと、それだけを理由に、世界は終わる。

ああ、と犬飼は己の身勝手を笑う。
歪むから、世界は終わる。
ならば歪みを矯正し啓蒙し、終わらぬ世界を作ろう。
そんな考えが、どれほど傲慢であったか。
歪む世界は滅びて当然と、神ならぬ身の誰が断じられるものか。
そんなことを、歪み、滅ぼされる側に立って、初めて思うのだ。
身勝手以外の、何者でもなかった。

道化の英雄は、ここで死ぬ。
世界の導き手がそう決めたのだ。
栄光に続くはずの道は、閉ざされた。
次の世界では、次の道化が踊るのだろう。
いつか来る、綻びのない世界のために。
無数の道化が、屍の山を築くのだろう。

せめて今は、やがてこの星に生きるすべての命の上に訪れるであろう破滅が、
幾許かの慈悲をもって与えられんことを祈ろうと、思った。

「無駄だよ」

それをすら見越したように、少年が笑う。
少年の指が、キーの上で止まっていた。

「世界は苦悶の果て、原初に戻る」

それが破滅の引き金であることを、犬飼だけが知っていた。
審判の槌は、世界の誰にも知られぬまま、振り下ろされようとしていた。
目の前の景色が、歪んでいく。

「さよなら、犬飼」

別れの言葉と共に。
細い指が、キーを叩いた。


***


『玉體を補佐し奉る立場に在りながら……』

床に落ちた受話器から、ぼそぼそと声が響いていた。
正面に立つ将校がそれを拾い上げて耳に当てるのを、犬飼は既に見ていなかった。
九品仏大志の声が、自らを冥府へと送る念仏のように聞こえていた。
もはや帰れぬ家を、瞼の裏に映した。
夕餉の支度をする、小さな背中が見えた。
自らの半生を賭した、それは研究の成果だった。

『三軍の統帥を慾にし、徒に國を乱した罪、赦し難し』

撃鉄が上がり、

『―――さらばだ、犬飼』

銃声が、轟いた。


***


その光量を抑えられた広いフロアの中では、幾つかの屍と、それを作り出した者たちが
互いに無言のまま、己の為すべきことを為していた。
即ち、死者はただ黙して横たわり、将校たちは粛々と任務を遂行していた。
小さなコンソールに流れる文字列と、それを覗き込む影には、誰も気付かない。


『・警告
 主砲の出力が規定値に達していません。
 キャンセルするか、現在の出力で射出する場合は15秒以内に所定のコマンドを入力してください。

 …

 システムは自動的に出力調整を開始します』


『・警告
 索敵範囲内に識別信号の確認できない質量が存在します。
 シークエンスをキャンセルするか、手動で対象を指定する場合は15秒以内に所定のコマンドを入力してください。

 …

 システムは自動的に排除シークエンスを開始します』


『・注意
 以下のデバイスが応答していません。
 :外部大容量電源ユニット
 
 デバイスの構成を最適化し、信号を再検索しますか?
 キャンセルするか、直接パスを入力する場合は15秒以内に所定のコマンドを入力してください。

 …

 システムは自動的にデバイスの構成を最適化します』




「……よくわからないな」

影が肩をすくめ、小さく呟いた。

「前まではこれで良かったはずなんだけど……まあでも、時間の問題か」

言って、周りを見渡す。
先ほどまでいた将校たちの姿はもう見えない。
代わりにフロアを歩き回っていたのは、転がった遺体を運び出し、飛び散った血糊を拭き取る兵士らしき男たちと、
嫌悪感も露わにそれを避けながら端末の前で作業を始める男たち。
ある者は各所と連絡を取り始め、またある者は端末から情報を引き出し、整理しようとしていた。
幾つもの声が飛び交い、一気に騒然とし始めたフロアの中で、影は誰にも気付かれないまま、ひとり立ち尽くしている。
忙しげに周囲を歩き回る人間たちを見るその表情には、何の感情も浮かんではいなかった。

ひとつ溜息をついて、天井を見上げる。
高い天井には、埋め込み式の明かりの他には何もない。
足元を見下ろす。
今はもう主のいない椅子が落とす暗い影の他には、何もありはしなかった。
影が使うには少し大きすぎるその椅子に、腰を下ろす。
小さな血痕のついた背もたれに身体を預けた。

「あとはただ、見届けよう―――」

疲れきったようなその声はもう、世界の誰にも、届くことはなかった。




【時間:二日目午前11時すぎ】
【場所:東京某所】

主催者・犬飼俊伐
 【状態:死亡】

少年?
 【状態:不明】

九品仏大志
 【状態:異常なし】
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