或る愛の使途




暴力は、それを振るうものにとっては快楽なのだろうと、思う。
だから、それを振るうものが何を掲げようと、そこに正義はない。

ぼたぼたと垂れる鼻血を他人事のように眺めながら、七瀬彰はそんなことを考えていた。
引き起こされる。
襟首を掴んだまま何事かを怒鳴っているのは藤田浩之だった。
正真正銘の化け物と組んでいる、自身も化け物のような力を持った、得体の知れない少年だ。

頭から水をかけられて、目が覚めた。
目を開けると同時、殴りつけられていた。
彰が何かを言う機会はなかった。
一発、二発と殴られる内、感覚が鈍くなっていく。
眩暈と頭痛がして、何もかもが億劫だった。
ただでさえ体調は最悪だったところに、冷水を浴びていた。
寒気が止まらない。熱を持った傷は痛みではなく熱さを伝えてくる。
節々が痛い。熱さと、寒さと、内部からの痛みが、殴られているという感覚を麻痺させていく。
垂れる鼻血に混じる白いものは欠けた歯なのだろうと、ぼんやりと思う。

弁解も、釈明も、何もする気になれなかった。
高槻は死んでいた。
その傍に倒れていた自分は生きている。
転がるアイスピックについた血は、すっかり乾いていた。
ミステリにもならない殺人現場。
何があったと、聞く方が愚かだろう。
いや、もしかしたら聞いているのかもしれない。
何があった、言えるものなら言ってみろ、と怒鳴っているのかもしれない。
けれど酷い耳鳴りのせいで、浩之が何を言っているのかはわからなかった。

何もかもが面倒だった。
熱くて、だるくて、つらい。
このまま殺してくれるならそれでも構わないと、そう思った。
誰も彼も、自分勝手なことばかりを言って、自分勝手なことばかりをして、
そうして生きて、死んでいく。
力をひけらかして、力を振り回して、壊して、殺して、殺しあって死んでいく。

皆、死んでしまえ。
怒りではなく、憎しみでもなく、ただ静かに、七瀬彰はそれだけを思う。
恐れもなく、痛みもなく、ただそれだけを願いながら死ぬのだと、そう思っていた。
高槻の死体が見えた。
血に塗れ。目を見開き。無念と失意を彫り出したような顔で死んでいた。
醜かった。

吐き気がして、思わず目を閉じる。
こんな醜いものに守られていた程度の、それが自分の価値なのだと思った。
病気持ちの野良犬が、塒に掘った穴に埋める宝物。
そんなガラクタ程度の自分など、もっと早くに壊れてなくなってしまっていればよかった。
そうすれば、痛い思いも怖い思いもしなくてすんだのに。

目を開けた。
野良犬は死んでいた。
何かが頬を伝うのを、彰は感じていた。
どうしてか、涙が流れていた。
泣きながら、彰は笑う。
殴られた。

殴られて、なお彰は笑っていた。
おかしくてたまらなかった。
何も知らないくせに、何も分かっていないくせに自分を殴る浩之がおかしかった。
自分を守ると言っていたくせに、その目の前で自らの喉を突いてみせた高槻がおかしかった。
嫌悪と軽蔑しか覚えなかった男の醜い死体を見て涙を流している自分がおかしかった。
だから、殴られても殴られても、思い切り笑っていた。
ズタズタに切れた唇と口内が腫れ上がって、奇妙に掠れた声しか出せなくなっても、彰は笑っていた。

暴力の中に正義はなく、しかし同時に暴力はそれを振りかざすものにとって正義の象徴で、
だからきっと、紛れもない快楽を伴うのだろう。
自分を殴り、手加減を知らず、今にも殺しそうになっている彼も、あんなに楽しそうに拳を振るっている。
同じ顔だ、と彰は笑う。
幼い頃からずっと見続けてきた顔だ。
自らを、自らの行いを微塵も疑わず動く人間の顔だ。
それは醜く、理不尽で、どこまでも澄んでいる。
振るわれる力はだから純粋に、彼にとっての正義を体現しているのだろう。
そんな手前勝手な正義に押し潰されて、自分は死んでいく。
それがひどく滑稽で、彰は自らの痛みを笑っていた。

唐突に、どこまでも続くかに思われた私刑の、鈍い音がやんだ。


***


七瀬彰の生命と精神を削り取り続けていた殴打を止めたのは、藤田浩之の内省でも、彰の死でもなかった。
それを成したのは、一本の黒光りする腕だった。
罅割れた、鱗状の硬質な皮膚に包まれた丸太のような腕。
それが、浩之の拳を握り止めていた。

醜いな。
彰は腫れ上がってほとんど開かなくなった視界の中にかろうじて見えたそれを、醜いと感じていた。
高槻の醜さとは対極にある、しかし同等の醜さだ。
剛く、醜い。
藤田浩之がその化け物を何と呼んでいたか、思い出すことはできなかった。
思い出す必要もなかった。
人のかたちをした人でないものは、皆一様の醜悪さを内包している。
それは恐怖であり、畏怖であり、尊崇であり、そのいずれもが人の弱さの鏡写しだ。
だからそういうものをひと括りにして、化け物と呼び習わす。
折れた歯の欠片を吐き出す力もなく、切れた舌の上で転がしながら、彰は鉄臭い息を吐く。
溜息のつもりで漏らしたそれがひどく弱々しく感じられた。
他人の正義に殺されるのと、化け物に殺されるのでは、どちらが七瀬彰という人間の完結に相応しいのだろう。
そんなことを考える。
いや、このまま全身を包む倦怠に身を任せてしまえばそれで済むのかもしれない。
眠るように目を閉じれば、もう目を覚ますことはないだろう。
既に恐怖はなく、ただ朦朧とした意識の中、弱い吐息の感触だけが熱かった。

眼前、少年と化け物が何事か言い交わしている。
聞こえないし、聞く気もなかった。
自分を殺す算段に耳を傾ける意味はなかった。
ただ、早くしてほしかった。
痛みの戻る前、感情と感覚の戻る前、色々なものが麻痺している内に、終わらせてほしかった。

しかし、―――終わらない。
いつしか少年の顔に、一つの色が浮かんでいた。
激昂。怒りに任せて彰を殴りつけていたときとは別の、もっと指向性のはっきりした感情。
少年は化け物に対して何事かを怒鳴っているようだった。
時折こちらに目線を向ける、その間中ずっと化け物に掴まれたままだった腕を、少年が振り払う。
その手に、ゆらりと光るものが見えた。
見る間に赤々とした自己主張を始める、それは炎だった。
照らし出された影が、洞穴の壁面に描かれた奇妙な紙芝居のように揺らめく。

大袈裟なことをする。
学校で少女たちをまとめて焼き殺した炎を目にした七瀬彰の、それが率直な感想だった。
そんなことをしなくても、その拳で少し強く殴れば、あるいは傍らの化け物の腕を一振りすれば、
自分は呆気なく死ぬ。
わざわざ焼き尽くすまでもない、と苦笑のかたちに表情を歪める。
同時に、ようやく待ち望んだ救済の時が来たのだと、彰は安堵に近い感覚を抱いていた。
終われるのだと、そう思った。

だが次の瞬間、彰は自らの願いがまたしても踏み躙られたことを知った。
ゆっくりと閉じられようとした彰の視界が、しかし腫れた瞼が落ちるよりも早く、闇に覆われていた。
巨大な影。
化け物の身体が、洞穴の入り口から射し込む光と、少年の手に宿る炎の明かりを遮っていた。
何かが焦げるような臭いと、重量物が岩壁に当たる硬い音、それから奇妙な浮遊感。
鋭敏さを失った五感が同時に刺激され、彰は戸惑う。
それらより一瞬遅れて、最後に彰を襲ったのは、暴力的なまでの光量だった。
視界が白く染まる。
反射的に硬く瞑ろうとした彰の瞼に鋭い痛みが走る。
滲んだ涙に血が混じり、ひどく沁みた。
太陽の下に出たのだと彰が思考を整理するまでに、しばらくの時間がかかった。

太陽の下。
それはつまり、洞穴の外に出たということだった。
どうやって。
身体全体に感じる浮遊感と、定期的に伝わってくる小さな震動。
腰の辺りを支えるごつごつとした感触の正体に思い至って、彰はようやく事態を理解していた。
化け物が、自分をその胸に抱きかかえて走っているのだ。
つい最近、似たような体験をしたと記憶を辿ろうとして、苦笑する。
高槻に抱えられていたのは、ほんの数時間前のことだった。
それがひどく遠い昔のように感じられて、どうしてだか再び涙が滲みそうになって、
彰はそれ以上自らの思考を掘り下げるのをやめた。

代わりに、飛ぶように流れていく周囲の景色をぼんやりと眺めながら、化け物が
自分を連れて走っている理由を思う。
考えるまでもなかった。
高槻、軍服の男、芳野祐介。
そうしてこの化け物が四人目というわけだ、と彰はどこか他人事じみた感慨を抱く。
誰の手も届かない場所に連れ込んで犯す気か。
それとも手足をもいで血肉でも啜るのか。
化け物の嗜好など想像もつかなかったが、いずれまともではあるまい。
舌を噛んで死のうか、とも思う。
流れる景色を眺めるうちにそれが案外といい考えに思えてきて、試してみた。
ずたずたに切れた舌に折れて尖った歯が触れた瞬間に諦めた。
殴られるのとは別種の痛みに、とても耐えられなかった。
死を選ぶこともできないまま、ただ化け物の塒に運ばれていく。
そんな扱いすら今の自分には相応しいと、彰は自虐に身を浸す。
それが一種の逃避だということも、理解していた。

「タカ、ユキ……」

だから、その低くしわがれた声が何を指しているのか、自らの思考に耽溺していた彰が気づくのには
僅かな間を要した。
おぞましい声音が紡いでいたのは、人の名。
だが歩調を緩めることもない化け物の周囲には誰もいない。
それは他でもない、彰に対する呼びかけだった。
真紅の眼が、抱えられたままの彰をじっと見下ろしていた。
禍々しい容貌に慄きながらも、しかし彰の中に何か小さな塊が生まれていた。
閃きとも、違和感とも呼べる何か。
触れれば砕けて消えてしまいそうな、脆く淡い道筋。
絡まった細い糸を手繰るように、彰は慎重に記憶を整理していく。
タカユキ。
その響きに、覚えがあった。
あれは初めてこの化け物に出遭ったときのこと。
そう、確かこの化け物は少年、藤田浩之のことをタカユキと呼んでいた。
直後、人間に化けてみせたときには浩之と呼んでいたにもかかわらず、だ。
加えて、先ほどの浩之と化け物の言い争い。
激昂する藤田浩之の表情。
そこに垣間見える可能性に、彰はそっと手を伸ばす。
どの道、当てが外れたところで今より状況が悪くなることはなかった。
苦しんで死ぬか、些か楽に死ねるかの差でしかない。
ならばせめてこの生を弄ぼうと、そう思った。

痙攣する指先をどうにか持ち上げて、こちらを見下ろす化け物の顎に這わせる。
びくりと、化け物が震えたような気がした。
顎の下を撫でるようにしながら、太く硬い腕に髪を擦りつける。
化け物の生臭い吐息が、一際荒くなったように感じられた。
その反応に確信を得て、彰は化け物の胸の中で小さく身を起こす。
澱んだ血溜まりのような眼球を覗き込んで、そっと囁いた。

「ねえ、……名前を、きかせてもらえる?」

真紅の瞳に映る七瀬彰は、宵闇のように笑んでいる。




【時間:2日目午前11時すぎ】
【場所:C−4 鎌石村】

七瀬彰
 【状態:全身打撲(重度)・右腕化膿・裂傷多数・高熱・衰弱】

柳川祐也
 【所持品:俺の大切なタカユキ】
 【状態:鬼・タカユキの騎士・軽傷(治癒中)】

藤田浩之
 【所持品:鳳凰星座の聖衣】
 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士・重傷(治癒中)】
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