最後の招待客




ヘリ空母「あきひで」。
沖木島で行われているプログラムの監視・統括を行う艦隊のフラグシップである。
その艦橋に設置された一室、コントロールルームに一人の男がいた。
プログラムの現最高責任者、長瀬源五郎である。
軍艦特有の狭苦しい室内において、その纏う白衣が異彩を放っている。

「……なかなか頑張るじゃないか、元司令も。
 そう思うだろう、栗原君?」

薄笑いを浮かべながらモニタを見ていた長瀬に突然視線を向けられ、傍らに立っていた女が
びくりと肩を震わせた。
気弱な小動物を思わせる、挙動の落ち着かない女を栗原透子という。
幾度か視線を左右に走らせ、そこにいる軍服を着込んだ人間たちの誰一人として自分と目を
見交わしてくれないことにうっすらと涙を浮かべてから、透子がおどおどと口を開いた。

「あ、いえ……、は、はい」

それが精一杯だった。
返事にならぬ返事に、目の前の人物が機嫌を損ねたらどうしよう、と怯えの表情を浮かべる透子。
しかし長瀬はそんな透子の様子に目を細めると、満足げに頷いていた。

「現在の生存者の半数近くが神塚山周辺に集まろうとしている。
 何人が死に、誰が場を制するか……今回のプログラム、最大の見どころだろうね」

実際のところ、長瀬にとって栗原透子の言動などは完全に興味の対象外である。
彼女の存在意義は一重に榊しのぶに対する人質であり、それ以上でも以下でもない。
その言葉など、艦の隅を這いずり回るネズミの鳴き声ほどの価値しか持たなかった。
自分の命令ひとつで発砲される銃口に囲まれて怯えていれば、それでよかった。
視線を移せば、艦橋の外には晴れ間が広がっている。
雲の切れた青空の下、波の合間に殺戮の島が見えていた。

「神機の様子はどうなっているかな」
「……現在、原因不明の障害により詳細なモニタリングできておりません。
 目視観測によればアヴ・カミュ、アヴ・ウルトリィ共にD−4地区にて戦闘を継続している模様です」

ワンテンポ遅れた返答に、長瀬は微かに表情を険しくする。
精度の悪い報告の内容もさることながら、何より気に入らないのはその態度であった。
現在は自分が司令の立場にあるというのに、艦橋の面々は嫌悪感を隠そうとしない。
これだから軍人というものは、と内心で毒づいて、長瀬は鼻を鳴らす。

と、澱んでいた室内の空気が微かに動いた。
小さな音がして、背後の扉が開く。
入ってきた靴音が、軍靴の硬い音ではないことに違和感を覚えて、長瀬が振り向く。
そこに立っていたのは、冷厳と呼ぶにふさわしい表情を浮かべた、一人の女であった。

「……おや、これは榊君。誰が外出許可を出したのかね?」

神経を逆なでするような長瀬の声にも眉筋一つ動かさず、榊しのぶが静かに口を開く。

「―――長瀬源五郎。貴方を解任します」

その声は、狭い室内に凛と響いた。


***


沈黙を破ったのは、低い笑い声であった。
亡者の呻きのような声で笑っていたのは、長瀬源五郎である。

「榊君、榊君……官僚というのは冗談の通じない人種と思っていたのだがね」

可笑しくて堪らぬといった様子で、長瀬が肩を震わせながら言う。
目尻には涙すら浮かんでいる。

「……冗談を申し上げたつもりはありません」
「身の程を知れと言っているんだよ」

ぴたりと笑い声がやむ。
長瀬の細い目の奥に、暗い情動の炎が宿っていた。

「私を解任する? ……君に何の権限があってそれを口にするのかね。
 いや君だけではない、この場の誰も私にそれを命じることなどできない。
 そうだろう?」

傍らに直立したまま微動だにしないどころか、二人のやり取りに視線すら向けようとしない軍服の男に
長瀬が厭らしく細められた目を向ける。
無言を肯定と受け止めたか、長瀬は満足げに頷く。

「今現在、このプログラムの最高責任者は誰かね? 君か? 久瀬君か?
 ……そう、私だよ。長瀬源五郎が命令系統の頂点にいるんだ。君も、」
「貴方の後ろ盾に関しては存じ上げております」

ニタニタと笑う長瀬の言葉を遮るように、しのぶが声を上げた。
その眼差しは些かも揺らぐことなく、長瀬を刺し貫いている。

「―――内閣総理大臣、犬飼俊伐」
「……ほう」
「技研時代には貴方の上司、でしたね」

しのぶの口から発せられた名に、長瀬の表情が変わる。
国家の最高権力者がバックについていると知りながらあくまでも強気を崩さないしのぶの態度を、
長瀬は訝しんでいた。

「それを知っているのなら、話は早いと思うんだがね」
「……ええ、仰る通りです」
「理解できたら自室へ戻りたまえ、榊君。ここは最早、君の入っていい場所ではない」

自室、という単語を強調する長瀬。
突然の状況についていけず、長瀬としのぶをおろおろと見比べている小動物のような女をちらりと見てから、
顎で出口の扉を指し示す。
その表情は優越感と余裕に満ちていた。
しかし、しのぶは動かなかった。
その厳しい表情にも寸毫の変化もない。
眉を顰めた長瀬が何事かを言おうと口を開いたその鼻先へ、一枚の紙が突きつけられていた。

「……何かね、これは」
「ご覧の通り単なる連絡書面です、長瀬―――前司令」
「何の冗談かと聞いているんだ」
「ですから、冗談を申し上げているつもりはありません。ご覧いただいているのは単なる、
 正式な貴方の解任及び新司令の着任辞令書面です、前司令」

だん、と大きな音が狭い室内に反響した。
長瀬の固めた拳がデスクを叩いた音だった。

「口を慎みたまえ、役人風情が」
「失礼いたしました。ご気分を害されたようであればお詫び申し上げます」

小さく頭を下げるしのぶ。
慇懃無礼という言葉を具現化したような口調に、長瀬の表情がますます険しくなる。

「ですが私は通達をさせていただいただけです、前司令……いえ、長瀬博士」
「もういい」

挑発するような物言いをするしのぶを睨み付けながら、長瀬が首を振る。
狭い室内に立つ軍服の男たちに視線を向けた。

「誰か、彼女をつまみ出してくれ。これ以上、妄言に付き合っている暇はないからね」

言葉を受けて、直立不動を保っていた男が無言のまま動き出す。
しかし、

「……何をしている?」

男はしのぶではなく、腰掛けていた長瀬の方へと向き直り、何かを促すように見下ろしていた。
見渡せば、周囲の男たちはいつの間にか、長瀬を取り囲むようにして立っていた。

「君たち……これは重大な服務規程違反にあたると理解しているのかね。
 営倉入りでは済まなくなると、」

そのとき、コントロールルームの扉が静かに開いた。
かつ、と硬い音を響かせながら一人の男が入ってきた瞬間、室内の空気が一変していた。
周囲の男たちが、一斉に背筋を伸ばし敬礼する。
それを片手で制しながら、白の軍装に身を固めた男が口を開く。

「―――その先は、吾輩が説明しよう」

その男を見て、長瀬が呻くような声を漏らす。

「九品仏、大志……!」

色眼鏡の向こうで、瞳が不敵に輝いていた。


***

「九品仏大志……犬飼博士の懐刀と呼ばれる男が、何故……」
「着任の挨拶が遅れたな、長瀬前司令」

大志と呼ばれた男が、軍靴の踵を打ち鳴らして敬礼する。

「貴様の後任にあたることとなった九品仏大志である。これまでの任務、ご苦労だった。
 ……同時に、貴様にはいくつかの越権行為に関する嫌疑がかかっている。
 抵抗せず、速やかに取調べに応じるように。以上だ」

口を挟む隙を与えない流れるような弁に、長瀬がぽかんと大志を見つめる。
が、その表情はすぐに険しいものへと戻っていく。

「犬飼博士はこのことをご存知なのかね、九品仏君。
 独断でこのようなことをしていると知れれば、いくら君とて……」
「血のめぐりが悪いな、長瀬博士」
「な……」

斬って捨てるような言葉に、長瀬が二の句を継げずに大志を睨む。

「吾輩が連絡を受けて本土から来たとでも思っているのか。
 最初からこの艦隊に乗り合わせていたのだ。……不測の事態に備えてな」
「……!」
「年端も行かぬ少年や戦の何たるかも知らぬ民間人にすべてを委ねると、本気で思っていたわけでもあるまい」

どこか淡々と、つまらなそうに告げる大志。
一方の長瀬は座り込んだまま、顔を伏せてぼそぼそと呟く。

「犬飼博士は……」
「ん?」
「犬飼博士は最初から、私を信用していなかったというのかい」
「不測の事態に備えたということだ。吾輩の出番など来ないほうが良かったのだがな」

嘆息する大志。
俯いたまま動かない長瀬に向けて、しのぶのヒールが硬い音を立てた。

「ご同道願います、長瀬博士……いえ、長瀬源五郎」

冷水を浴びせるが如き声音にも、長瀬は立ち上がろうとしない。
訝しげに更なる一歩を踏み出そうとするしのぶの耳に、小さな呟きが聞こえてきた。
ぼそぼそと聞き取りづらい、しかし耳朶にまとわりつくような、粘り気のある声。

「機械に、心が宿ると思うかね」
「……は?」

意図を量りかね、しのぶが足を止める。
これから逮捕拘束されようという男の口から発せられる言葉ではなかった。
しかし長瀬の言葉は続く。

「模造品でない心は、生まれるんだ。いつか、必ず」
「……」
「だが今はまだ、その萌芽があるに過ぎない。まだまだ無数のトライアンドエラーを繰り返す必要がある」
「一体、何を……」
「想像がつくかい、HMシリーズの試作機にどれだけの最先端技術が組み込まれているか。
 そのために、どれだけの金が費やされているか」

長瀬の白衣が、小さく震える。
その背は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。

「運動性能は人間を圧倒している。演算機能も比較にならない。器は完成しつつあるんだ、既に。
 だが、だがまだ足りない。心を収めるには、まだ足りないものが多すぎる。
 技術も、資金も、設備も、何もかもが足りない。……私に与えられた時間もだ。
 だから私は、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。……わかるだろう?」

すう、と長瀬が立ち上がった。
どこか幽鬼じみたその気配に、しのぶが思わず後ずさる。
首だけで振り返る長瀬の、その奇妙に歪んだ表情に凍りつくしのぶ。
と、その腕が突然強く引かれた。
たたらを踏んで飛び込んだ先には、白い軍装。
九品仏大志が、しのぶの腕を掴んでいた。

「何を、」

何をするのか、とは問えなかった。
言葉は、驚愕の前に途切れていた。

「え……?」

刹那の間に、狭い室内の様相が一変していた。
無機質だった床に、壁に、天井に、鮮やかな色彩が加わっていた。
一面の赤。
その塗料が何なのかを理解するよりも早く、しのぶの目に飛び込んできたものがあった。
まるで百舌の早贄のように、鋭い何かに串刺しにされ、いくつも宙吊りにされた何か。
潰れた蛙のような声を漏らすそれらは、軍服を纏っていた。
ぼたり、ぼたりと垂れるものが、床の赤を広げていく。
軍服の男たちは、既に死んでいた。

「ひ……!」

つい一瞬前まで人間であったものたちを刺し貫く、その凶器は、人の手指の形をしていた。
優美で整ったその指先が、鮮血に染まっている。
粘り気のある赤い液体が指を伝い、手首を流れていく。
肘の辺りは人間であったものに隠されて見えない。
細い二の腕も、垂れ落ちる血に染め上げられていた。
血は肩へと流れ、破れて穴の開いた白衣を汚していた。

「ああ……紹介が遅れたね」

その細く優美な凶器の持ち主が、小さく笑む。
自身の腕に加えて、左右それぞれ二本づつ、計四本の細い機械の腕。
それはまるで、巨大で醜悪な蜘蛛のような姿。

「開発コードHMX-17bミルファ、同じく17cシルファ―――私のかわいい娘達だ」

肩口から三対六本の腕を生やし、長瀬源五郎が呵っていた。


***

「人機の融合―――」

長瀬の返り血に塗れた顔が、言葉を紡ぐ。

「それは通過点に過ぎない」

ぐじゅ、と濡れた音が響く。
突き出した機械の腕が、刺し貫いた軍服の遺骸の一つを掻き回す音だった。

「鉄の身体に人の肉……そして欲に塗れぬ心を得たとき、私の娘は人を超える。
 より高次の存在へと昇華するんだ」

練り固めた小麦粉を指先で捏ね回すように、長瀬の肩から伸びる腕が人間だったものを肉の塊に変えていく。
あまりに現実離れした光景に嘔吐感すら覚えられず、しのぶはそれをただ凝視していた。

「……その悪趣味なサイバネティクスが、貴様の辿り着いた答えか」

唾を吐き捨てるような声。
九品仏大志だった。
答えるように、長瀬が笑みの形に口の端を持ち上げる。

「言っただろう、こんなものは通過点に過ぎないと。だが、これはこれで便利なものでね。
 ……こんな使い方もできる」

言ったと同時。
ぶぅん、と低い音が室内に反響する。
蝿の羽音のような不快な音に眉を顰めたしのぶの顔に、飛沫がかかった。
霧雨に降られたような感触に何気なく頬を拭ったしのぶが、声を失った。
拭った指が、真っ赤に染まっていた。

「タンパク質は重要な資源だが、よく噛まないと胃もたれを起こすのが難点だ」

長瀬の言葉が終わるか終わらないかの瞬間、軍服の遺骸が、すべて床に落ちた。
否、それらは、

「融け……てる……」

つい先ほどまで人間の皮と肉と骨であったそれらは、今や赤黒い沼と化して床に零れ落ちていた。
酷い生臭さに満ちた沼の中心に、軍服だけが浮いていた。

「あ……、あ……」
「少し分解してやらないと、吸収効率が悪くてね」

惨劇の中心に立ちながら、平然と笑みを浮かべて長瀬が言う。
その機械の掌から、チューブのような何かが静かに垂れ下がっていく。
細い筒のようなそれは、赤黒い人間のスープに突き立てられたストローのように、しのぶには見えた。
ず、と音がしたとき、しのぶは固く目を閉じていた。
己の想像が的を得ていたのだと、理解していた。
それは正しく、成分分解した人間を吸い上げるための機関だった。
目の前で人が殺され、食われていく光景を、これ以上見ることに耐えられなかった。
それは日常に存在してはいけないものだった。
それはモニタの向こう側、書類の文字列の中にのみあるべきものだった。
それはあり得べからざるもので、だから目を閉じたというのに、

「ひ……ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

聞こえてはいけない悲鳴が、聞こえてしまっていた。
その声は日常のすべて。
その声は世界のすべて。
その声は、榊しのぶのすべて。
その悲鳴を上げた女を、栗原透子という。
部屋の隅で腰を抜かしていれば、惨劇に気を失っていれば、あるいは見逃されていたかも知れなかった。
だが、その愚鈍な女は常に最悪の選択をする。
しのぶには分かっていた。
怪物と化した長瀬源五郎の注意を引く行為が、今この場においてどのような結果をもたらすか。
べしゃり、と音がした。
百舌の早贄のような何かが脳内に思い浮かべられるよりも早く走り出した足が、赤黒いスープを踏んで
飛沫を上げた音だった。

「透子……!」
「いかん……!」

大志の制止を振り切り、この世の地獄を横切って走る。
見えぬ背後に死を告げる機械の腕が迫っていることなど、考えなかった。
ただ目の前の大切なものだけを見ていた。
むっとするような鉄錆臭の中、涙を浮かべて座り込む女に覆いかぶさるように、手を伸ばす。
掻き抱いた。
温もりがあった。
震えていた。
それが、栗原透子の命の営みが、この世で最後に感じられるものであることに、感謝した。


***

鈍い音がした。
固い金属同士を擦り合わせたようなその音が、自身と透子が刺し貫かれる音でないことを
しのぶが理解するまでに、数秒を要した。

驚愕に振り向いたその瞳が映していたのは、軍服に包まれた一つの背中だった。
細くしなやかな、しかし確かな力を感じさせる背は、どこか密林に棲む豹を思わせる。
その手に握られていたのは、しろがねに輝く一振りの日本刀。
脇構えにされたその太刀の煌きが、しのぶにはひどく頼もしいものに見えた。

「……手間をかけて済まんな、同志光岡」
「いえ」

どこか安堵したような九品仏大志の声に、背を向けた男が答える。
寸毫も動かないその太刀が、光岡と呼ばれた男が素人目にも相当の遣い手であることを示していた。

「君は……強化兵、かね」

光岡の背の向こうから、長瀬源五郎の声がする。
値踏みをするような声。

「ふむ……あくまでもバイオの観点から人間の限界を追及した試作品……。
 結果を出せずに失敗作揃いと聞いていたのだがね、なかなかどうして……」
「語るな、賊が」

光岡の声は、手にした刃の如く冷たく、鋭い。

「如何いたしますか、閣下」
「閣下はよしたまえ」

几帳面に髭の剃られた顎をひと撫でして、大志が頷く。

「……そうだな、博士には色々と聞きたいこともあったが、事ここに及んでは仕方あるまい。
 確保は断念、排除を許可する」
「拝命いたしました」

言うが早いか、光岡の背が掻き消えた。
次の瞬間には既に長瀬に肉薄している。
振り抜かれた刃が、銀の弧を描いた。

「チィ……!」

鈍い音と、小さな舌打ち。
舌を鳴らしていたのは光岡である。
長瀬の胴を両断するかに見えたその刃は、十字に交差された鋼鉄の腕ががっちりと受け止めていた。
しかし続く光岡の動きに迷いはない。
刃を引かず、軍靴の底で長瀬の腹を蹴りつけるようにして距離をとる。
重い前蹴りも上体を揺らすことなく受けた長瀬が、微かに笑う。

「筋力、瞬発力共に常人とは比較にならないな。判断力も優れている。
 優れた素体に恵まれたこともあるのだろうが……研究が破棄されたのは惜しいね」

独り言じみた呟きを続ける長瀬に答えることなく、光岡が再び疾走を開始する。
八相からの振り下ろし、鋼鉄の腕を避けた袈裟懸け。
しかし長瀬の腕はそれを予期していたかのように刃を受け止める位置に遷移する。

「もっともその程度で私の娘たちの演算速度を越えることは……」

余裕に満ちた長瀬の口調が途切れた。
鋼鉄の腕に阻まれるはずの刃が、唐突にその軌道を変えていたのである。
肩の力だけで強引に引かれた光岡の刀が、腰溜めから肘を支点として放たれる。
振り下ろしをフェイクとした、神速の突き。
狙い違わず放たれた一撃が、吸い込まれるように長瀬の心臓を目掛けて閃く。
しかし。

「ふぅ……怖い、怖い」

長瀬のわざとらしい声。
刃は確かに鋼鉄の腕を掻い潜り、長瀬の胸を突いていた。
だが刃が貫いたのは長瀬の纏った白衣とその下に着込んでいたシャツ、それだけだった。

「貴様……服の下に何を仕込んでいる」

突きが効かぬと悟ると同時に飛び退りながら、光岡が問う。
対する長瀬はにたりと笑うと、大仰に首を振って答える。
まるで出来の悪い学生を前にしたような表情。

「仕込む? ……失礼なことを言わないでくれるかね」

言いながら、シャツの破れ目に自身の手をかける長瀬。
び、という音と共に一気に引き裂かれた、その下に。

「さあ、ご挨拶しなさい―――ミルファ、シルファ」

二つの、顔があった。
瞬間、その場にいた全員が言葉を失っていた。
長瀬の両胸から、女の顔が浮き出している異様さにではない。

「……外道が」

搾り出すような大志の声が、全員の声を代弁していた。
その人形たちの表情は、まるで無念と絶望に塗れて死んだ者の断末魔を写し取ったような、
紛れもない呪詛と怨嗟に満ちていた。
彫像のように整った顔立ちが、より一層の凄惨さを引き立てる。

「可哀相に、シルファ……顔に傷がついてしまったね」

言いながら己の胸に浮いた顔を撫でる長瀬の指はひどく優しげで、醜悪だった。
それは、機械仕掛けの人形にすら不幸と絶望は例外なく降りかかるのだと雄弁に語る光景だった。

「―――!」

無言のまま、光岡が走っていた。
長瀬源五郎という男の命脈を一秒でも早く断ち切らんとする動きだった。
横薙ぎの刃が閃く。
耳障りな音を立てて、長瀬の右胸についた顔の額に一文字の傷が走る。

「ああミルファ、ひどいことをされたね」

絶望に満ちた表情を慈しむように、長瀬が語りかける。
それを断ち割るような斬撃を放つ光岡。
左から右に流した刃を返しての一閃。
シルファと呼ばれた方の唇が切れた。
表情は変わらず、血が流れることもなかったが、ぱっくりと割れたその傷口から機械部品が覗くことはなく、
それはまるで、本当の死体が切り刻まれたかのようだった。

「……終わりだ、外道」

光岡の声。
どん、と長瀬の背中が何かにぶつかる。
コントロールルームの、乾きかけた血で褐色に染まる窓だった。
狭い室内で刃を避けるように下がり続けていた長瀬の挙動を、光岡は冷静に見ていた。
剛弓が一杯に引き絞られるように、光岡の全身に力が込められていく。

「……ふむ」
「―――ッ!」

表情のない長瀬の、鋼鉄の腕ごと断ち斬るような、裂帛の気合を込めた一刀。
だが、その刃が届かんとする刹那。
長瀬の背にした窓が一面、びしりと曇り―――爆ぜた。

「何ッ……!?」

光岡の一刀が長瀬源五郎を両断することは、なかった。
その刃が銀色の三日月を描いた瞬間には、長瀬の姿は窓の外にあった。

「自決する気か……?」

戦況を見守っていた大志が呟く。
コントロールルームは艦橋の高い位置に存在していた。
埋め込んだ機械部分の耐久性は知れないが、この高さから落ちれば残った生身の部分がただでは済まない。

「―――ご心配なく。そんな気はないよ」

そんな思考を読み取ったような声が、窓の外にあった。
長瀬源五郎が、宙に浮いていた。
否、それを正しく言い表すとすれば、長瀬源五郎は空を飛んでいたのである。

「貴様……!」

翻った白衣から、巨大な翼が顔を覗かせていた。
羽毛に包まれたそれではなく、ぬめる桃色の薄皮にも似た材質でできた、蝙蝠を思わせる羽。

「摂取したタンパク質には、こういう使い方もあるんだよ」
「そこまで人の道を踏み外していたか……!」

眉尻を吊り上げる大志を一瞥した長瀬が、小さく翼を羽ばたかせる。

「戦争犯罪人に言えた義理かね。……さて、私はそろそろ行かせてもらうとするよ。
 これ以上やりあって、可愛い娘たちに傷をつけられても困るからね。
 ……また会おう、諸君」

言うや、蒼穹に舞い上がる長瀬。
追うように懐に手を入れた光岡が拳銃を取り出したときには、既にその姿は遥か遠くに消えていた。

「待て……!」
「構わん、放っておけ」
「しかし閣下……!」

言い募ろうとした光岡が言葉に詰まる。
光岡を制する大志の目は、長瀬の飛び去った方角をじっと見ていた。

「あれの如きには、止められんよ」
「は……」

大志の見つめる方角には、一つの島影が見えている。
沖木島と呼ばれるその島を見つめながら、大志は言葉を続ける。

「あの島に集う力は、長瀬の如きに御せるものではないさ。……計画に変更はない」
「は、それでは……!」

大志の言葉に、はっと顔を上げる光岡。
腕を組んだまま静かに頷く大志。
割れた窓から吹き込む海風を受けて、前髪が揺れる。

「―――我々の手で時代を動かすときだ、同志光岡」

重々しく告げたその背後で、栗原透子の泣き声が響いていた。
愚鈍な女は、今まさに目と鼻の先で歴史の引き金が引かれたことなど知る由もなく、
ただ己と己を守った女のために、糸が切れたようにいつまでも泣いていた。




【時間:2日目午前11時ごろ】
【場所:ヘリ空母「あきひで」内コントロールルーム】

榊しのぶ
【状態:安堵】

長瀬源五郎
【状態:シルファ・ミルファ融合体、背に翼、沖木島へ】

九品仏大志
【状態:健康、新司令】

光岡悟
【状態:異常なし】

栗原透子
【状態:号泣】
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