ひとのかたち




叩きつけたのは、純粋な力。
掴み、握り潰し、貫き通す。
それは「勝つ」でも「殺す」でもない、ただ「壊す」ために振るわれる力だった。
深山雪見がその巨獣に対して行使していたのは、正しく暴力だった。

飛んだ鮮血が地に落ちるよりも前、悲鳴じみた咆哮が細く消える前に、雪見は血塗れの拳を握り固める。
黄金の篭手に包まれた暴力の象徴が、唸りを上げて放たれる。
裂けた掌ではなく、拳による全力の殴打。鈍い音が響いた。
濡れた砂を詰めた皮袋を屋根の上から落としたような、衝撃をすら伴った重低音。
巨獣の体躯が、その質量を無視したかのように円弧を描いて大きく跳ね上がる。
針を飲んだ魚の如く、口腔を雪見の兜に生えた黄金の角に貫かれた巨体は跳ね飛ばされることもできずに
そのまま反転して落ちてくる。そこへ、再びの打撃。
重低音、咆哮、跳ね上がる巨躯、重低音、そして咆哮。
幾度繰り返されたかも知れぬその暴力の連鎖が、遂に途切れた。
巨獣の口腔を貫いていた角が、跳ね上げられた拍子にずるりと抜けたのである。

文字通りの血反吐を撒き散らしながら放物線を描いて飛び、巨獣が大地に落ちる。
小さな地響きが閑静な森を揺らした。
拳を振りぬいた体勢のまま、雪見が荒い息をつく。
崩れ落ちかける膝を必死に押さえながら、新鮮な酸素を身体に取り入れる。
巨大な質量を殴打し続けた代償か、拳には既に感覚がない。
握り拳の形のまま、ぶるぶると痙攣じみた震えだけが止まらずにいた。
黄金の篭手の下ではおそらく拳が潰れ、骨が砕けているだろうと判断しながら、雪見は
固まった手指を一本づつ口に咥え、引き剥がしていく。
さほどの痛みはなかった。
黄金の鎧の加護か、脳内物質の賜物か、もしくは完全に神経ごと死んだか。
仔細は分からなかったが、雪見はそれを無視する。

一歩を踏み出した。
いまだ地面を薄く覆う氷が、じゃり、と足下で鳴る。
視線は巨獣を射抜いていた。
大地に横たわるその巨躯は時折びくりと震えるだけで、手足の一本も動かない。
骨格を粉砕し、臓腑を血袋に変えるだけの一撃を、数十発。
それぞれに、手ごたえがあった。
次第に砕けるものがなくなっていく感触。
殴打の対象が、獣からぶよぶよとした水枕のような何かへと変わっていく感覚。
背を向けて倒れ伏すその眼は見えないが、頭部を中心に広がる血溜まりはその面積を広げ、
既に巨獣の白い毛並みを赤黒い斑模様に染め上げている。
いかな神話上の怪物じみた巨獣であろうと、既に息絶えていてもおかしくはなかった。
その毛皮と黒い脚、だらしなく大地に伸びた大蛇の尾を、雪見は見る。

―――これで、全部。
無意識に、感覚のない手で胸の下辺りをまさぐっていた。
固い感触。懐に忍ばせた小さな宝珠の肌触りだった。
これを持って、診療所に向かう。
そうすれば、みさきは目を覚ますのだと、雪見はぼんやりと考える。
死人を生き返らせるパン。
そんな与太話にどれほどの意味があるのか、と心のどこかで囁く声がある。
しかし雪見はその声を黙殺し続けていた。
救われる可能性があるならば、それに賭けてみたかった。
他に手はなかった。

足元から聞こえる薄い氷を踏み割る音が、ぐじゅ、と濡れた音に変わって、雪見は
思考の淵から己を引き上げた。
あとは止めを刺せば、それで終わる。
代償は拳二つ。何ほどのこともなかった。
腕が動けば、骨があれば、掌は使える。
引き換えに手に入るものは、可能性への扉だった。

ざ、と足を止め、横たわる巨体を見据える。
驚くべきことに、痙攣と共に胸部の微かな上下が見て取れた。
あれほどの打撃、出血にもかかわらず、いまだ心肺機能が停止していなかったらしい。
その生命力に驚愕しつつ、雪見は潰れた拳を静かに持ち上げていく。
呼気ひとつ。
巨獣の命脈を絶つべく、今まさに必殺の掌が打ち下ろされようとした、その刹那だった。

爆音が響いていた。
頭上、思わず見上げた先に、巨大な影があった。
大気という壁を割り裂きながら凄まじい勢いで通り過ぎていったそれは、絡み合う二つの機影。
白と黒を基調に優美な女の姿を模した、巨大な機械仕掛けの人形だった。
二体は瞬く間にその姿を小さくしていく。
直後、大地を震わせるような破裂音が辺りを揺るがしていた。
同時、木々の合間に垣間見える空に、巨大な水柱が立っていた。
現在位置よりも僅かに北西、高原池と呼ばれる水場に落下したのだと認識する間もあらばこそ、
雪見の口からは我知らず呟きが漏れていた。

「あの、白いやつ……、るーこを……やった……」

どこか呆然としたような声。
思考と感情と体験が噛み合わない、一瞬の間。
それは紛れもない間隙であり、雪見が立っているその足元には、今だ息づく生命があった。
敵は、生きていた。

最初に感じたのは、生臭い吐息だった。
黄色く汚れた乱杭歯に張りついた何かの欠片、ざらついた舌の突起までが、見えた。
鮮血が噴き出していたはずの傷口には、既に桃色の薄皮が張っていた。
しまった、と思考が言語を形成するよりも先、反射的に上体を引く。
刹那の間を置いて、巨獣の顎が閉じる。
文字通りの間一髪、獣の牙は黄金の鎧の胸飾りを削るに留まる。
流れる視線が交錯した。どろりと紅い月の如き瞳が、雪見を貫き通す。
憎悪にも憤怒にも染まらぬ色と見えたのは、一瞬の錯覚か。
背に流れる汗の冷たさを感じながら、雪見は己が不利を悟っていた。
流れる上体と、定まらぬ足元。対して眼前には、既に身を跳ね起こした獣の巨躯。
ただの一呼吸で、形勢は逆転していた。
咆哮は、勝利を確信した雄叫びか。
小山のような筋肉に蓄えられた膨大な力を起爆剤として、巨獣がその前脚を振るう。
暴風の如き一閃をかろうじて身を落とし、躱す。
その先端に己が砕いたはずの紅い爪が伸びているのを見て、雪見は瞠目していた。
巨獣に叩き込んだ拳の手応えは本物。
砕いた爪も、貫いた上顎も、決して幻などではない。
ならばそれは、

「蘇る―――!?」

身を沈めたその頭上から、再び爪が襲い来る。
左右には回避できぬと判断。落とした重心を跳ね上げつつ、潰れた拳を真上に。
爪に合わせるカウンターの掌。
腕の一本を犠牲にするつもりで放った一撃はしかし、意外な手応えを返してきた。
小さな音を立てて、巨獣の爪が砕け散っていたのである。
紅い雪が散る。
殆ど勢いを緩めぬままの掌底が巨獣の前脚を擦るように伸び、その付け根あたりを打った。
しかし打点をずらされた一撃は威力を持たず、単に獣の上背を跳ね上げるに終わる。
巨獣にのしかかられるような体勢から、雪見は強引にもう片方の掌を放っていく。
至近距離からの一打は、彼我の間合いを離すのが目的。
が、腹を狙ったその打撃を阻むように、獣のもう一方の爪もまた振り下ろされていた。
掌と爪が打ち合わされ、微かな音が響く。硝子が割れるように、紅い爪の破片が飛び散った。
しかし上から打たれた雪見の掌も、巨獣に当たることなく流れていく。
一瞬前の攻防を逆回しにするような光景。

―――おかしい。
巨獣の両の爪を砕きながら、しかし雪見の脳裏は強く警告を発していた。
辿る記憶は巨獣の口腔、その傷に張った薄皮。
おそるべき治癒能力ではあるが、一瞬にしてすべてが元通りに再生するわけではないのだ。
ならば、爪があっさりと砕けたことにも合点がいく。
一瞬で治りきるわけではない。
しかし、ならば何故、打ち合わせば砕ける爪を当ててきた。
獣ゆえの無思慮と片付けられるほど甘い相手ではない。
いま雪見が拳を交えているのは、明確な智恵と害意を持った敵だった。
掌を合わせるまでもなく、あの硬度ではこの黄金聖衣を切り裂けぬと判っていた筈だった。
牙の奇襲を躱された時点で、巨獣の攻撃は実質的に終わっていた。
それを理解してなお、打撃に意味があったというのか。
と、そこまでを一瞬で思考した雪見が、戦慄する。
己が武器、居合の打撃たる両の掌は、右を跳ね上げ、左を打ち下ろされ、即ち―――掌を戻すまでの
今この一瞬、完全に失われていた。
無防備。攻撃も、防御もままならぬ空白の刹那。
時が、一秒という単位から微塵に切り刻まれるような、瞬きよりも短い、間。

その一瞬。
巨獣の獰猛な牙は遥か頭上で噛み合わされ、鋭い両の爪は砕け、鋼の如き後ろ足は大地を踏みしめ、
そして立ち尽くす深山雪見の網膜に映っていたのは、子供の握り拳のように小さな、致死の牙だった。

―――大蛇の、尾。

認識が、身体の挙動を追い抜いて空転する。
理解する。その牙に満ちる悪意を。
理解する。その必殺の毒を。
理解する。奇襲も、砕けた爪も、すべてがこの一瞬を作り出すための陽動だと。

時が、動き出す。
汗腺が開く。汗が滲み出す。
一ミリ、大蛇の牙が近づく。
咽喉が鳴る。肺が膨らむ。
一ミリ、死を湛えた毒が近づく。
背筋が軋む。肋骨が撓む。
一ミリ、終焉が近づく。
瞳孔が収縮する。毛細血管が破裂する。
一ミリ、一ミリ、一ミリ、思考が寸断する。
動けと念じる。動けと命じる。動けと祈る。

動け、動け、動け―――。

彼我の距離が、近づき、近づき、近づき……そして、離れた。
広背筋が、大胸筋が、僧帽筋が、雪見を構成するありとあらゆる筋肉と神経が、
その全力をもって、上体を逸らしていた。

離れていく。
死を満たした牙が、遠ざかっていく。
もう届かないと確信する。
毒蛇の小さな牙がこの皮膚を噛み破ることはない。
獣のすべてを賭けた陽動は失敗に終わる。
起死回生の一撃が躱されてしまえば、もう獣に抗う術はない。
爪は失われ、傷は癒えきらず、そして自分にもう油断はない。
それはつまり、

―――わたしの勝ちだ、と雪見が確信した、瞬間。

離れゆく毒蛇の、一杯に開かれた小さな牙の間から何かが飛ぶのを、雪見の網膜は捉えていた。
転瞬、視界の左半分が、欠け落ちた。
耳を劈くような騒音が、己の上げている絶叫だと雪見が理解したのは、燃え上がるような激痛に
両の手で顔を覆ってからのことだった。
立っていることもできず、大地に身を投げ出すように転がった。
神経が繋がったまま眼球を抉り出して、裁縫針を一本一本捻じ込まれていくような錯覚。
指先に触れた黄金の兜を剥ぎ取り、投げ捨てる。
その拍子に、眼の周りの皮膚がずるりと剥けた。
掻き毟る指の間から零れるのは血か、膿か、それとも眼球の成れの果てなのか、それすらもわからぬ。
上下もわからず、痛みとそうでない感覚の区別もつかず、ただ転げ回り、悶える。
耳に聞こえる絶叫が、ひぃひぃと痰の絡んだような喘鳴に変わる。
咽喉が潰れ、血が滲んでいるようだった。
鷲掴みにした顔を、潰れた拳ごと何度も何度も、がりがりと大地に擦り付ける。
激痛をもたらす左眼とその周りを抉り取ってしまいたかった。
地面から泥を掬い、燃えるような眼窩に塗りこもうとして、雪見は手の先に地面がないことに気づいた。
身体が、浮いていた。

跳ね上げられ、放物線を描いて大地に落ちたのだと、朧気に思う。
巨獣の打撃だった。痛みはなかった。
想像を絶する、痛覚という信号の気違いじみた乱舞を前にすれば、たとえ肋骨を粉砕するような一撃であろうと、
痛みと呼ぶにはあまりにもささやかだった。
それは単に、喘鳴の合間に酸素を取り込もうとする動作に齟齬が生じる程度のことだった。
呼吸を阻害する打撃を致命傷と思えぬほどに、深山雪見は毒に侵されていた。

だから、首筋から鎧の下に入り込んで胸元を探る大蛇の牙が、探り当てた何かをがちりと咥えて
再び出て行こうとするのに齧りついたのは、半ば奇跡に近かった。
たとえその直後に巨獣の容赦ない一撃によって剥き出しの頭部を直撃され、何本かの前歯をへし折られながら
弾き飛ばされようと、それは紛れもなく、深山雪見の意志が結晶した動作だった。

―――わたしの、珠。

混濁した意識の中で、雪見は巨獣が走り去るのを感じていた。
ゼロに近い視界の中、立ち上がろうとする。
ひゅう、と喘鳴が漏れた。
口の中に溜まった液体を飲み下そうとして、吐いた。
鉄臭い血と、掻き毟った眼から垂れた膿と、歯の欠片と、こそげ取った大蛇の鱗が、泥の上に汚らしい地図を描く。
口元にこびり付いた反吐を拭おうともせず、雪見は這いずる。
泥に塗れた黄金の鎧が耳障りな音を立てた。
がり、と左眼に爪を立てて掻く。
痛みは弱かった。既にその周辺の皮膚が壊死しているのかもしれなかった。
がり、と残った右目を掻く。
潰れた咽喉から悲鳴じみた声が漏れた。
激痛を通り越した感覚が、朦朧とする意識を引きずり戻す。

―――わたしの、

近くの木に身を預けるようにしながら立ち上がった雪見が、ゆっくりと歩を踏み出した。
爛々と光る右目が、巨獣の走り去った方角に聳える山を映し出していた。




【時間:2日目午前11時ごろ】
【場所:F−4】

深山雪見
 【所持品:牡牛座の黄金聖衣】
 【状態:出血毒(左目喪失、右目失明寸前)、激痛、意識混濁、頭部強打、
       肋骨数本及び両手粉砕骨折、ムティカパLv1】

川澄舞
 【所持品:ヘタレの尻子玉】
 【状態:ムティカパ・エルクゥ・魔犬ポテト融合体、重傷(急速治癒中)】
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