『……やれやれ、もう一人のお姫様はすっかりアンニュイモードだね』 ざ、と耳障りなノイズの後で、薄暗い部屋に声が響いた。 少年のような声に、その部屋の小さな主が答える。 「神奈おねえちゃん?」 『そうだよ、汐。……ま、今回は念願の母上とも再会したようだしね。 物思いに耽るのも仕方ないことかもしれないけど……』 と、声が何かに気づいたように途切れる。 『おっと……これは、よくないな』 「どうしたの?」 『そっちでも見えるだろう? 神奈に近づいている人間がいる』 「へ? ……あー、うん」 言われて初めてモニタを覗き込み、曖昧に頷く幼い少女。 「……だれだっけ、これ」 『旅人さ。長い長い時間、ずっと一人の少女を追いかけている』 「……?」 少年の声に、珍しくどこか感慨深げな色を感じて、少女は首を傾げる。 『……神奈は、僕たちとは少し違うからね。色々とあるのさ』 「ふーん……」 しかし僅かな間を置いて放たれた言葉にはもう、影は感じられなかった。 『残念だけど、僕たちにハッピーエンドは似合わないからね。 神奈にもそれを思い出してもらおう』 「いじわるだねえ」 『優しさといってほしいな』 声はそれきり途切れた。 薄暗い部屋の中で、少女はたった一人、モニタの光景をぼんやりと眺めている。 興味なさげなその瞳に、背から翼を生やした少女の姿が映っていた。 ****** ぼんやりと、その神を象った白い巨躯を眺めていた。 座り込んだまま、どれほどの時間が過ぎたのだろう。 雨に打たれながら、母の言葉を反芻していた。 生きよ、と母は言った。 その意思があるならば、罪を背負い、罪を犯してでも生きよ、と。 だが、と思う。 それは、これまで歩んできた道だ。 己が業から目を逸らし、呪いを恨み、世を恨み、人を恨み、殺してきた。 罪ならば既に、背負いきれぬほどに背負っていた。 それを認めて生きよとは、酷な話だった。 認めてしまえば、己が存在の罪深さに押し潰される。 押し潰されれば、私は消える。 消えてしまえば、これまで何度もそうしてきたように、ただ空の彼方で漂い続けるのだろう。 罪を増やしながら、世界の終わりを見届けるのだ。 そうしてまた、同じことを繰り返す。 それは、生きるということではないと、思う。 これまでと同じ道筋を歩みながら、なお生きるということがどういうことなのか、 それを母は教えてくれない。 教えてくれないからわからない。 わからないから、ずっと空を眺めていた。 いつしか雨がやみ、雲が晴れて、探していた白い神像が天にその姿を現しても、 ずっと膝を抱えたままでいた。 天を駆け、観鈴の元に辿り着いたとして、何をすればいいのかわからなかった。 観鈴を滅し、観鈴の母を殺し、そうしてまた独りに戻るのか。 それは、罪を背負って生きるということではないと、それだけはわかっていた。 進めず、退けず、歩めず、飛べず。 こうしてずっと、空を眺めていた。 思考が溶けていく。感覚が揺らいでいく。 過去が、言葉が、何もかもが真っ白に消えていく。 余計なものがぜんぶ風に流されて、自分の中の一番奥の、小さな丸い芯だけが残るような、 そんな時間が、過ぎていった。 だから、その白い神像が動き出した瞬間。 伸ばした手と放った言葉が、自分の真実なのだと、素直に感じられた。 ―――待って、と。 背の翼を、広げる。 雨に濡れ、重かったはずの翼は、既に乾いていた。 飛び立とうとした、その瞬間。 「お前、その翼……!」 背後からの声に振り向いて、刹那、言葉を失った。 あるはずのない姿が、そこにあった。 「神奈―――」 「神奈さま―――」 千年の時を経て、始まりの二人が、そこにいた。 *** 幾度も別れ、出会いなおし、それでもあの月夜の後には一度として聞くことのなかった声。 千の思いと、万の言葉が、泡沫のように消えていく。 そうしてたったひとつ残ったのは、 ―――ようやく、来てくれた。 それだけだった。 定命の人間が千年の時を越えた、その理屈などどうでもよかった。 いつか来ると、いつか出会えると信じた彼らが、今そこにいる。 理由など、必要なかった。 口を、開こうとした。 『―――おめでとう、我らが高貴なる姫君!』 声は、我ならぬ虚空から響いていた。 それは嫌気が差すほどに聞き覚えのある声。 同時に、この瞬間には最も聞きたくない声だった。 だからその声を聴いた瞬間、悟った。その意図を。その悪意を。その嘲笑を。 必死に言葉を絞り出す。 眼前、突然降ってきた声に戸惑っている二人に声をかける余裕もなかった。 ただ審判の時を引き延ばす猶予がほしかった。 「待て、待ってくれ、余は……!」 『願いは、叶っただろう?』 声は、無情だった。 『彼ら……千年の向こうからはるばる旅をしてきた想い人には会えたのだろう? ならば、ここまでさ。君の願いは、遂げられた……契約は履行された! さあ、今度は君が代価を支払う番だ』 違う、と言いたかった。 だがすぐ目の前、手の届く場所にいる懐かしい二人の顔を見て、言葉に詰まる。 契約の条件は、たしかに満たされていた。 哀しみに満ちる空で壊れ続けるこの身体と心を現世へと引き戻す、絶対の契約。 この身に蓄えられた呪の力を譲り与える条件は、たったひとつ。 ……もう一度、柳也と裏葉に巡りあうこと。 たとえ幾千年の時を経ようと、ただ一目であろうと、構わない。 それだけを対価として願った。 決して叶わぬはずの、そして心の底から成就を願った、条件だった。 『千年の悲哀と孤独―――その世界を終わらせる力。 それは、君の望みでもあったはずだ。違うかい?』 神経を逆撫でするような優しげな声を振り払うように、声を張り上げようとする。 叫びたかった。叶わなかった。 気づけば足元に、黒い穴が開いていた。 穴。終わる世界に続く入り口。懐かしい牢獄へと続く一本道。 穴は瞬く間に広がり、沼と見まがう大きさにまで膨れ上がった。 『帰ろう、孤独の蒼穹の果て……久遠の雪原を越えて、約束の花畑へ』 すべてを呑み込む真黒き穴に、抗うこともできず落ちゆく。 足が、身体が、沈んでいく。 なす術もなく、視界までもが呑まれそうになる、その刹那。 思わず伸ばした両の手に、触れるものがあった。 「神奈……!」 「お手を、離さず……!」 それは、遠い記憶の彼方にも色褪せず輝いたままでいる、小さな温もりだった。 二人の名を呼ぼうとして、気づく。 「柳也、裏葉……、そなたら……!」 二人は足場とてない広く暗い穴の上、それぞれがこの手を取ったまま、宙に浮いていた。 静かに頷いた二人が、小さく笑む。 「左様でございます、神奈さま。わたくし達の身はとうに」 「だがこの心は、こうしてここに辿り着いた。お前の傍に」 言葉を遮るような柔らかい笑みに覗き込まれ、だから何も言えずに口を噤んだ。 沈黙の中、徐々に身体が引き上げられていく。 足先までが黒い穴から抜け、陽光の下に戻っても、なお二人はこの手を握っていた。 導かれるように、天を目指して羽根を広げる。 三人で手を繋いで歩くような、それはひどく懐かしい記憶に似た、静かな時間だった。 やがて、微かな温もりを残して、手が離れた。 気がつけば、既にそこは遮るものとてない高さだった。 *** 吹く風に靡く髪が、二人の姿を時折覆い隠そうとする。 それが辛くて、かぶりを振った。 何故だか、涙が溢れていた。 次第に薄れ行く二人の微笑みに、堪えきれなかった。 その笑顔が次に発する言葉が、わかってしまっていた。 「行け、神奈」 思った、通りだった。 その声、その口調、その目の光までが、この心に思い描いたものと、寸分違わぬ。 それが切なくて、それがおかしくて、涙が零れる。 「どこまでも飛べ。哀しみに囚われぬ、お前の空を!」 頼もしい笑顔が、背中を押す。 「たとえ何処におわそうと、わたくしたちの心は神奈さまと共におります……。 それを、それをどうか、お忘れなきよう―――」 優しい笑顔が、翼に宿る。 ひとつ、頷く。 羽ばたけば、そこは空だった。 *** 『……どこへ行くんだい、我らが姫君』 声が聞こえる。 もう、怖ろしくはなかった。 『契約は果たされた。報酬をいただこうか』 風が、声を置き去りにする。 羽根は力に満ちていた。 だから、答える。 世界を終わらせようとする声に、力強く。 「―――断る!」 天を、駆けた。 『な……』 驚いたような声が、背後に消えていく。 もう迷いはなかった。 ただ一点を目指して飛ぶ。 *** その小さな姿が、見えた。 この身を疾風と準え、突き抜けるが如く、往く。 刹那の間をおいて、豆粒のようだったその姿がその大きさを増していく。 二つの身体、二対の翼。 白と黒の巨躯が、迫る。 「余を……余を受け入れよ、翼の者よ!」 言葉は意志。 叶えと命ずる思いだった。 眼前、視界一杯に広がったその漆黒の翼へと、飛び込む。 「―――!」 いくつもの声が、驚きと共に上がった。 そのすべてを無視して、ただ目の前の白い翼へと、手を伸ばす。 時が、惜しかった。 「観鈴、我が呪いを継ぐ、最後の子……! 共に行こう、空へ……!」 戸惑ったようなその手を握る。 羽ばたけば、辺りの木々を薙ぎ倒すような暴風が巨大なこの身を空へと浮かべる。 翼は二対。 高く、高く飛ぶ。 悲しみの空を越え、悲しみの星を越えるほどに、高く。 【時間:2日目午前11時すぎ】 【場所:静止軌道上、高度36000km】 神奈 【状態:アヴ・カミュと同化】 【所持品:なし】 柚原春夏 【状態:不明】 アヴ・カミュ=ムツミ 【状態:不明】 神尾晴子 【状態:不明】 アヴ・ウルトリィ=ミスズ 【状態:不明】 少年? 【状態:詳細不明】 【場所:東京某所】 岡崎汐 【時間:すでに終わっている】 【場所:幻想世界】 【場所:G−6 鷹野神社】 国崎往人 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)、化粧品ポーチ、支給品一式×2】 【状態:唖然】 柳也 裏葉 【状態:消滅】 - BACK