Ardente veritate(後編)





その瞬間は、訪れなかった。


***


巳間晴香が静かに目を開ける。
その瞳がまず写したのは、蒼という色。
霧島聖の命が燃える色だった。

徐々にその焦点が、透き通る焔を通り抜けた向こう側へと引き絞られていく。
そこにあったのは、日輪を背にして立つ、一つの影だった。

世界の色が変わっていく。
幻か、と晴香は働かぬ頭で思う。
否、幻などではなかった。
晴香の赤を圧倒して世界に満ちていた蒼が、影へと引き寄せられていた。
始めはせせらぐ小川のようだった蒼い力の流れが、次第に勢いを増していく。
奔流と化した蒼が影へと吸い込まれるように消える。
すると影から新たな色が染み出すように現れ、代わりに周囲を満たしていくのだった。

「青……」

我知らず、晴香が呟く。
揺らめく焔の如き蒼を吸い込み、代わりに影から湧き出していた色は、青であった。
逆巻く波濤の荒々しさを、風吹き荒ぶ天空の激しさを、蒼という色の持つ棘をすべて抜き去ったかのような、静謐の青。
音もなく揺れる水面の色だった。

「―――駄目だよ、キリシマ博士」

無音の世界に、声が響く。
影が、言葉を放っていた。

「その力は、使っちゃいけない。
 それを使った人がどうなったか、見ていたはずだよ……先代BLの使徒、霧島聖は」

声と共に、蒼の奔流がやむ。
同時、晴香を抱くようにしていた聖が、がくりと膝を落とした。
絞り出すような声で、言う。

「マ、ナ……どうし、て……」

崩れ落ちようとする身体を必死に支えながら、聖が影―――観月マナをその視界に捉える。
視線はマナの掲げる一冊の本に向けられていた。

「その……輝き……、そうか……君は……」
「うん。―――聞いたんだ、この子達の声。これまでのこと……そして、これからのこと」

少女らしからぬ、ひどく深い眼差しをして、マナが頷く。

「だから……」

言いかけた瞬間、怒声が響いていた。

「私を……ッ、私を、無視するなぁッ!」

世界を満たす青に抗するような、一点の赤。
先刻とは正逆の状況で立っていたのは、巳間晴香である。

「観月マナ……BLの使徒! 私は貴様を待っていたのだ……!」

瞳に憤怒、両の拳には激昂。
相討ちによる死の覚悟と、そこから脱した安堵。
救われたという屈辱。真の獲物を見出した歓喜。
正と負の感情がない交ぜになって、晴香の心を荒れ狂わせていた。

「何のつもりかは知らんが……好都合だ、二代まとめてこの鬼畜一本槍の力に沈めッ!」

足元から涌き出た赤黒い光が、瞬時に長槍へとその姿を変える。
それを手にするや、目にも止まらぬ速さで投擲。
轟と唸りを上げるその穂先が正確にマナを射抜かんと迫り、そして、その寸前で砕けた。

「そ、んな……!?」

観月マナの眼前を漂う、紫色の光。
それが、一瞬前まで渾身の殺意を乗せてマナを貫こうとしていた、晴香の力の成れの果てであった。

「完全に、相殺された、だと……!」
「……あなたの力は鬼畜攻」

呆然と立ち尽くす晴香の耳朶を、静かな声が打つ。

「ならば、天然受で世界は閉じる。……それが道理」
「何、を……」
「百合では未分化な、攻と受の力……その構図と可能性。BLはそれを追い求め続けてきたんだよ。
 あなたたちの型は、その模倣。それではもう、今のBLには追いつけない」

言葉と共に、マナの手にした本が輝きを増す。
晴香の目には、世界を包む青が濃くなったように見えた。

「たとえば攻には、こんな使い方もあるんだ」

マナの掲げる本が、どくりと脈を打ったように感じられた。
思わず一歩を退いて、晴香は己が背にべったりと汗をかいているのを知った。
掌もじっとりと湿っている。

「……下克上攻の力は、受攻を逆転させる。あなたの攻が強ければ強いほど、それは激しく受に転じる」

言葉の意味は、よくわからなかった。
戦慄と困惑、先刻感じた死のイメージとは別の恐ろしさ、根源の恐怖が晴香を支配していた。
あれは、絶対に喰らってはいけないものだと、精神のすべてが全力で警告を発していた。
全身の筋肉が錆付いたように重い。
精神の過負荷が、肉体の挙動を妨げていた。
あれは、ダメだ。
あれは、ひどくいやなものを呼び起こす。
なにか、思い出してはいけないもの。
思い出しては。いけない。過去。教団。いけない。
男。苦痛。絶望。いけない。いけない。いけない。
断裂した思考が、一つの像を結ぼうとする。
全力で拒絶。拒絶。拒絶。失敗。
過去が、現在を侵食する。
咽喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、精神が強引に意識のスイッチを落とした。

瞬間、網膜が現実を映し出す。
青、一面の青。
それを最後に、意識が、途絶する。


***


ぱん、と小さな音が響いた。
それがすべての合図だったかのように、世界から色が落ちた。


***


一つの骸と、横たわる三つの姿。
それが、一瞬前まで観月マナが見ていたものだった。

霧島聖は精魂尽きて倒れ伏し、巳間晴香は意識を失ったまま下克上受の力に飲み込まれる。
そのはずだった。

小さな音が、世界を一変させていた。
青も赤も、周囲から消えていた。

草木は緑に、大地は黄土色に、空には雲の白。
世界が、その本来の色を取り戻していた。

一つの骸と、横たわる三つの姿。
そしてもう一人、眼前に立つ人物。
その白く小さな両手が音を立てて打ち鳴らされた、ただそれだけで、青も赤も、世界の支配権を失っていた。

「―――そこまで」

低く淀み、高く澄み渡るような、少年とも少女ともつかぬ、不思議な声だった。
声も出せぬマナの眼前で、その人物が優雅に会釈をしてみせる。

「はじめまして、BLの使徒……観月マナ」

霧に煙るような、妙に光を映さぬその瞳が、マナを見据えていた。
底知れぬ雰囲気に呑まれるマナに、薄い微笑が返される。

「天野美汐と申します。……以後、お見知りおきを」

ただ手の一打ちで世界を覆した人物の、それが名乗りであった。


***


「ああ、そう警戒なさらず。私は貴女の敵……GL団と称する方々に与しているわけではありません」

BLの使徒、という言葉にマナの緊張が高まるのを感じたか、天野と名乗る人物は小さく肩をすくめてみせる。
そのどこか捉えどころのない、茫洋とした仕草にマナは警戒の度を強める。
一見して自分とそれほど年齢の変わらない、少女のような外見をしてはいるが、漂わせる雰囲気が
決して油断のならぬ相手だと如実に告げている。
そんなマナの内心を知ってか知らずか、天野は奇妙に抑揚のない声で言葉を続ける。

「先ほどは水を差すような真似をして申し訳ありませんでした。もう少し早く声をかけさせていただくつもりが、
 盛り上がっておられたようなのでつい見入ってしまいました」

笑みともつかぬ形に口の端を僅かばかり歪め、天野が目を細める。
その人を苛立たせるような調子に惑わされてはならないと、マナは直感していた。
心中の平静を保つために一呼吸。口を開く。

「……それで、その天野さんが何の用?」
「いえ、用というほどのことでもないのですが……」

そこで言葉を切り、天野はたっぷりと間を開ける。
静謐というにはあまりにも粘度の高い沈黙の後、天野がゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ごく簡単なこと―――そのお二人の身柄、私が預からせていただこうかと」
「……!? あなた、やっぱり……!」

GLの新たな刺客か、と思考するより早くマナはBLの力を発動させる。
手の図鑑から青い光が溢れ出すのを鎖の形と成し、放つ。
相手の出方に合わせる危険を察知したが故の、先手必勝で拘束を狙う動きだった。
が、その思惑は果たされずに終わることとなる。

「……貴女が、先ほど仰ったことですよ。攻と受は一体の型……仕組みを理解すれば、相殺は容易」

天野が、静かに片手を掲げていた。
一流の指揮者が振るうタクトの如き迷いなく美しいその軌跡から、赤い光が紋様を描くように浮き出してくる。
赤の紋様が飛来する青い鎖を受け止めるや、両者はまるで初めから存在しなかったかのように、空中で掻き消えていた。

「な……っ!?」
「そんなに不思議ですか? GLの力を使う者が、BLの型を知ることが」

言いながら、天野はその白い指を宙に走らせる。
次々と生み出されていく光の紋様が、互いに手を取り合うように繋ぎあわされていく。

「攻には受、受には攻―――変幻自在のスタンス、『パーフェクト・リバ』……。
 その名で呼ばれることも、久しくありませんでしたが」

対抗するようにマナもBL力を展開しようとするが、光はその都度、小さな赤い紋様にかき消される。
万華鏡のように展開した赤と青の光が、しかし次の瞬間には赤一色へと変わっていく。
あらゆる攻の型、受の型が瞬時にして相殺されていくのを、マナは戦慄をもって見る。
恐るべき精度、恐るべき反応の速さであった。
気づけば、周囲は赤い光に埋め尽くされていた。

「……っ!?」

無数に展開した細かな赤の紋様の配置に目を走らせたマナの目が見開かれる。
単体では小さな紋様が、しかし確かな規則性をもってそこに並べられていた。
複雑に絡み合ったそれが、巨大な一個の紋様を形成している、と理解した瞬間、天野の言葉が厳かに響いていた。

「BLに、GLの及ばぬ領域があるように……百合にもまた、あなた方の踏み入れぬ世界があると知りなさい」

赤の光がその輝きを増し、その中心にいるマナを真紅に照らし出した。
紋様が、収縮していく。

「相克の理を越え、終に至った道―――」

全力で展開するマナのBL力が、次々に相殺されていく。
赤が、迫っていた。

「貴女に、薔薇の花冠を」

言葉と共に。
赤の紋様が、完成していた。
マナの前後左右に長く展開したそれは、

「十字架……ッ!?」

神性をすら備えた、圧倒的なGL力の波濤がマナを包み込んでいた。
真紅に塞がれゆく視界の中、天野の手が聖へと伸ばされるのが見えた。
待て、と叫ぶ余裕すらなかった。
自身の肉体を、精神を染め上げようとするGL力に抗するべく力を振り絞るより他に、
何一つとしてできることはなかった。
手にした図鑑の脈動だけが、今のマナに感じられるすべてだった。


******


「やはり怖ろしいものですね、使徒というのは」

遥か背後、天を焦がさんばかりに噴き上がるBL力を感じて、天野美汐はひとりごちる。
運命という無形の力に護られているものを、正面から相手にすることはない。
そう考えてはいたが、初見の型を力づくで返すほどの化け物じみた底力には驚愕を通り越して
呆れてしまう。

「それでも、充分な時間稼ぎにはなりました」

言って足を止め、振り返る。
赤い光の十字架に磔にされたような、ぐったりとした二人の女性。
巳間晴香と霧島聖の姿がそこにあった。

「贄は……私が活用させていただきます」

その言葉は、先ほどまでの独り言じみたそれではなく、それを聞くものがいると信じる確かさで紡がれていた。
視線もまた、進み行く方向、歩み来た方向でもない傍らの森の中へと注がれている。

「そう何もかもが思い通りにはいかないと、貴女も知ったほうがいいでしょう。
 ……黙示録は因果の外側を記しはしないのですから」

しばらくの間、無言で深い森の闇を見つめていた天野が、ふと視線を逸らして溜息をつく。
そのまま再び歩み出す。連れて、背後の十字架もまたゆっくりと動き出した。
まるでもう、そこには誰もいなくなったというようだった。

「それにしても、あの方……」

歩きながら思い出したように呟かれるその声は、誰に聞かせるでもないものに戻っていた。

「可能性を呼び起こす―――いえ、繋ぐ力……でした、か」

口の中で呟かれるその声は、海辺を吹き抜ける風に紛れて消えていく。

「初めて見る力……やはり今回は何かが違う、ということですか。
 それが予兆だとすれば、」

風が、強くなる。

「あの方の繋ぐ声は、おそらく―――」

その先は、誰にも聞こえなかった。




 【時間:2日目午前11時半ごろ】
 【場所:E−1】

天野美汐
 【所持品:様々なゲーム】
 【状態:異能パーフェクト・リバ、遊戯の王】

霧島聖
 【所持品:なし】
 【状態:気絶中、元BLの使徒】

巳間晴香
 【所持品:なし】
 【状態:気絶中、GLの騎士】


 【場所:G−4】

観月マナ
 【所持品:BL図鑑・ワルサーP38】
 【状態:疲労、BLの使徒Lv3(A×1、B×4)】

長岡志保
 【所持品:不明】
 【状態:気絶中、異能・ドリー夢】
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