Ardente veritate(前編)




ご、と鈍い音がした。
巳間晴香の突き出した槍の石突が、受けに回った霧島聖の鉄爪を掻い潜ってその腹にめり込んだ音だった。

「か……は……っ!」

鉄の味が混じる唾液を口の端から垂らしながら、聖は鉄爪を振るう。
引いた槍を己の肘を支点として縦に回転させ、頭上からの一撃を狙う晴香に対応した動きだった。
すぐに鈍い手ごたえが返ってくる。
遠心力を利用した重い打撃を真正面から受け止める聖の瞳は、ただ一つの感情だけを浮かべていた。
対象を滅の一字をもって焼き尽くさんとするその感情を、憤怒という。

「おお、怖いこわい。更年期障害か?」

ぎしり、と受け止められた槍に体重を乗せながら軽口を叩く晴香の顎目掛けて、飛ぶものがあった。
聖の足先。上から掛かる力を逆手に取り、カウンターとして跳ね上げられた蹴りだった。
拮抗していた力を急に抜かれ、つんのめりかける晴香。
自らの爪で大きく裂け目を入れられたタイトスカートから伸びる白く長い脚が、晴香の顎を
捉えるかとみえた瞬間。
にぃ、と笑んだ晴香が、ほんの寸毫、その首を傾けた。
晴香の笑みのすぐ脇を、聖の蹴り足が真っ直ぐに駆け上がっていく。

「その程度で―――」

言いかけた晴香の頭部が、揺れた。
脳天に食い込んだ聖の踵が、そのまま振り抜かれる。
瞬きするよりも早く、晴香が顔面から地面に叩きつけられていた。
脚を振り上げる動きをフェイクとした、垂直落下式の踵落とし。
勢いを殺さず、地面にめり込んだ晴香の後頭部を踏み抜こうとした聖の足が、しかし瞬時に引かれる。
そのまま二歩、三歩を飛び退って、ようやく聖が動きを止める。
視線の先、ゆらりと立ち上がった晴香が、泥の混じった唾を吐き捨てて、ぐいと頬を拭う。

「……やってくれるじゃない、ロートル風情が」

噴き出すような怒気が、形をなしたとでもいうように。
その足元に落ちた影から、赤黒い光が、どろりと漏れ出していた。
光はまるで粘液質の液体でできているかのように、時に波打ち、時にふるふると揺れながら
晴香の足元に溜まっていく。
手にした槍を片手でゆっくりと回転させながら、晴香が聖をねめつけていた。

「―――教えてやろうか、霧島」

憐憫の一片すら湛えぬ瞳をして、晴香が静かに口を開いた。
赤黒い光が、うぞりと晴香の足を這い上がっていく。

「お前の友人は、戦おうとしたんだ。私と」
「……!」
「何を勘違いしたんだろうな。ただの無力な人の身で、私をどうにかできると思ったらしい」

聖が表情を変えるのにも眉筋一つ動かすことなく、晴香が続ける。

「たったの、一打ちだ」

くるくると回る槍の穂先が、風を切る。
赤黒い光は晴香の腰周りを、蛇が身をくねらせるように登っていく。

「一打ちで、理解できたようだった。何もかもが。
 滑稽だった。自分を待つ運命というものを知って、ひとが壊れていく様は。
 きっと、自分が恐怖に涙を流すことなんてあるはずがないと思っていたんだろう。
 ……なんて可哀相で、なんて幸せで、なんて愚かな女」

光が、どろりと晴香の胸を舐っていく。

「逆らうこともできず。誰の助けもなく。ただ泣き叫びながら私を受け入れていた。
 希望が潰えたとき、ひとは本当に簡単に、暴力に屈するんだ。
 見せてやりたかったよ。醜く女を晒しながら腐り果てていく豚の泣き顔をさ」

右手に長槍を携え、左手からは肩を這い、腕に巻きついた赤黒い光の大蛇をどろりと垂らしながら、
晴香が口だけを笑みの形に歪める。

「そんな顔をするなよ、霧島。お前が見捨てた女の話だろう?」
「……ッ!」

何かを言い返そうとした聖だったが、それは声にならなかった。
なんとなれば、

「動けないのが悔しいか。己の無力が歯痒いか。
 だけど、だけど霧島、お前にはどうすることもできない。
 ―――お前には、誰も守れない」

聖の手といわず足といわず、無数の赤い糸とも見える何かが、その全身を貫いていた。
貫かれた場所からは出血もなく、痛みがあるわけでもなかったが、しかしいかに力を込めてもがこうと、
標本に縫い止められた蝶の如く、聖には指一本すら動かすこと叶わなかった。

「とうの昔にBLの力を失ったお前には、その戒めは外せない。
 力の名残で、お得意の手品でもしてみせる?
 あの恥ずかしい格好で嬲られる趣味があるというのなら、だが」

晴香の手から、俯く聖に向けて光の蛇がするすると伸びていく。

「悦べ、この鬼畜一本槍の力で―――臓腑ごと犯し抜いてやる」

赤黒い蛇の先端が、まるで醜い舌を伸ばすように、聖の頬を撫でた。

「お前はどんな顔をして泣くんだろうな?
 痛みに耐えて、恥辱に耐えて、その果てにとうとう許しを請うとき、お前は涙を流すのかな?
 楽しみだ、楽しみだよ、霧島聖」

心からの愉悦を堪えきれないとでもいうように、晴香が小さな笑い声を漏らす。
晴香の笑い声に合わせて揺れる醜悪な光の蛇に撫でられながら、霧島聖はしかし、じっと目を閉じていた。


***


―――お前には誰も守れない。


声が響いていた。
黒一色の世界を背景にして、霧島聖の瞼の裏に映っているのは、振り切ったはずの過去だった。

一人の女が、聖に背を向けている。
必死に声を振り絞るが、女は振り向こうとはしない。
手を伸ばす。届かない。
女が歩を進める。叫ぶ。届かない。
女が、小さく何事かを呟く。
それが別れの言葉だと、よく聞こえもしないのに確信する。
踏み出そうとして、足が動かないのに気づく。
足首に、青白い光でできた鎖が巻きついていた。

何故、と叫んだのだろう。
何故、去っていく。
何故、私を残していく。
何故、私の言葉に答えてくれなかった。
何故、何故、何故。

幾つもの言葉がのど元までこみ上げ、涙になって溢れ出した。
歪む視界の中で、女の背中が遠ざかっていく。
女の歩む先には、穴、とでも呼ぶより他のない何かが、口を開けていた。
穴の向こうには小さく蠢く醜悪な肉色の塊が、みっしりと詰まっている。
女が歩を進めるたび、穴は歓喜に震えるようにその身を広げていく。
中に詰まった肉色の塊もまた、女を手招きするように醜く蠕動していた。

見上げるほどに大きくなった穴へと、女は真っ直ぐに歩いていく。
歩みを緩めることのないその背に灯る光があった。
闇の中に咲く鬼火のような、それは幻想的な蒼い灯火。
燃え立つようなその蒼い光を目にして、聖はかぶりを振って叫んでいた。
明確な言葉にはできなかった。
それでも、何かを燃やして輝く炎のような光は、違うと思った。
女の使う光は、もっと静かな、広い夜の湖面のような、綺麗な光が相応しいと思った。
だから、叫んだ。
けれど、女は振り向かない。
蒼い炎はいつの間にか、女の全身を包み込んでいた。
女自身が燃えているように、見えた。

絶叫の先で、女が、炎を身に纏ったまま、穴へと踏み込んでいく。
瞬く間に炎が、拡がった。
穴の向こうで、ぎっしりと詰まった肉色の塊が炎に炙られて燃えていく。
蒼い炎に照らされて、穴全体が青白く輝いているように見えた。
穴が、震えた。
見上げるほどに大きかった穴が、震えるたびに縮んでいく。
巨大な肉食獣が腹の中を焼かれて苦しんでいるかのようだった。

縮んでいく穴の中で、しかし女は逃げようともせずに立ち尽くしている。
依然として勢いを弱めることのない炎に身を包んだ、それはある種の決意を見せ付けるような背中だった。
いつしか聖は叫ぶのをやめていた。
いくら声をかけたところで、女の背中を汚すだけと悟っていた。
代わりにその口から漏れていたのは、小さな呟きだった。
それは恨み言だった。
それは繰り言だった。
それは、諦念であり、未練であり、憎悪であり、恋心だった。


***


「―――っ」

それは、小さく漏れた吐息だった。

「……ん?」

巳間晴香はそれを聞きとがめ、眉根を寄せる。
一歩を踏み出したその先に、音が続いた。

「っ……っく、っくく……」

それは、忍び笑いだった。
おかしくて堪らないというような、堪えきれず吹き出したというような。
小さく、確かな笑い声だった。

「……ッ! いい度胸だ、霧島……!」

それは晴香をして、一瞬で激昂せしめるに充分だった。
しかし聖の笑みは止まらない。
俯いた目尻に涙をさえ浮かべ、何事かを呟いている。

「くく……そうか、そういうことか……くく、はは……っ」
「いい加減にッ……!」

衝動に任せて、晴香が手から伸びた赤い光の蛇を振り上げる。
腕の一本も落としてやれば、大人しく泣き叫ぶか。そんな算段だった。
蛇を光の刃と化し、今まさに叩きつけようかという、その瞬間。

「はは、ははは……! これが……貴女の辿り着いた答えか、先代……!」

高らかな、しかしどこか奇妙に捩れた声と共に。
赤い世界に、蒼が生まれていた。

「なん……だと……!?」

晴香が思わず一歩を退く。
それは己が目を疑わざるを得ない光景だった。

「馬鹿な……! 霧島……貴様、BLの力を失ったはずではなかったのか……!?」

晴香の足元から際限なく湧き出す赤黒い光の泉は、今や周囲のすべてを埋め尽くしていた。
草を、木々を、両断された相楽美佐枝を、横たわる長岡志保の半身を、ゼリーのように震える
粘性の液体が包みこもうとしていた。
それは正真正銘、巳間晴香の作り出した絶対の空間だった。
圧倒的なGL力をもって何もかもを蹂躙し陵辱する、そのはずだった。
しかし今、その赤の空間の中心に、犯されることのない色があった。

「……ああ、ああ、私は失ったよ、巳間晴香。もうBLは私に力を貸してはくれない」

訥々と、赤に囚われたはずの女が言う。
高々と差し上げたその手に宿る色は、天空の蒼。
その蒼が、晴香の振り下ろした赤の刃を掴み止めていた。

「なら、……なら何だ、その力は……!?」

己の声が震えていると、晴香は感じていた。
意のままに操れるはずの赤い光。
しかし霧島聖に掴まれたそれは、ぴくりとも動かせない。
聖の手に宿る蒼の光は、周囲に遍在する赤の光を睥睨し従えるように煌々と瞬いている。
揺らめく焔のような、それは力の色だった。

「BLが私を愛さなくとも……私がBLに殉じることは、できるんだ。
 私にも、ようやくわかったよ」

理解不能な言葉を吐きながら薄く笑う聖の表情に、本能的な戦慄を覚える。
そんな己を鼓舞するように、晴香は強い口調で叫んでいた。

「わ……笑わせるなッ! 貴様の手品に惑わされる私ではない!
 何が魔法か、所詮はBLの使徒だった頃の力の残り火だろうがッ!」
「そう……だな。確かに、そうだ」

自嘲気味に呟く聖。
しかしその声に含まれる笑みが、どこか晴香の胸をざわつかせる。
今、目の前に立つ女は先ほどまでの、晴香の知る霧島聖とは明らかに違っていた。
得体の知れない力だけではない。
言葉に、表情に、奇妙な陰が纏わりついていた。
重く粘つくようなその口調を、晴香は知らない。
何度も対峙してきた霧島聖とは、何かが違う。
ひどくよくないものと向かい合っているような威圧感が、晴香の不安を掻き立てていた。

「魔法、か。新たな使徒を見出すまでの時間稼ぎとはいえ、な。
 君の言うとおり、我ながら、未練がましいことだったと思うよ。
 だが、だが巳間晴香。これは、違う。手品でも、目くらましでもない。
 もう私にそんなものは必要ない。これは純然たる―――力、だよ」

言ったその手が、一瞬輝きを増したのと同時。
掴まれていた赤の刃が、弾けて消えた。
否、

「や、焼き尽くされた、だと……!?」

呆然とその光景を眺めていた晴香の口から、知らず言葉が漏れる。
己が操っていたはずの力の結晶は、今や忽然と姿を消していた。
聖の手に宿る蒼い焔がその勢いを増したとみるや、焔はまるで赤い刃に燃え移るように、
その版図を広げていた。
そして次の瞬間には焔に焼かれた部分の刃、それを構成するGLの力が、消えてなくなっていた。

「終わらせようか」

言葉は短く、瞳は昏かった。
ぷつり、ぷつりと小さな音が聞こえる。
聖の全身を貫き止めていたはずの赤い糸が、蒼い焔に炙られて焼け落ちていく音だった。

「あ、ああ……」

聖が、一歩を踏み出す。
その足が踏みしめたところから、燎原の火の如く、蒼が拡がっていく。
瞬く間に己の力が相殺され、消えていくのを感じながら、晴香は迫り来る聖を見つめていた。

「心残りは幾つもあるが」

聖の静かな声が響く。

「私如きの命で巳間晴香、君を止められたことでよしとするさ」
「な……、命……!? 貴様、まさか……!」

中身のない、虚ろな笑みを浮かべた聖の言葉に、晴香は悟る。
力を失ったはずの霧島聖から溢れる、蒼い焔の正体。
その奇妙な陰の意味。

「貴様、私を道連れに……!?」

させじと、晴香は残る力を振るう。
足元の影から湧き出した赤い光を無数の槍へと変え、放つ。
しかし、

「無駄だよ」

そのすべてが、聖の身体に届くよりも前に焔に焼かれ、消えていく。
蒼い焔は今や、聖の全身を包んでいた。
それは聖自身を灯心として燃える松明のようにも見えた。

「く、来るな、来るな、来るな……!」

更なる一歩を退こうとした晴香の足が、何かに引っかかったように止まった。
思わず足元を見た晴香が瞠目する。

「ひっ……!」

足首までが、燃えていた。
否、蒼い焔が、枷のように晴香の足首に絡み付いていた。
反射的に繰り出した光槍に、焔が燃え移る。

「クソ……がぁっ!」

驚愕と困惑をない交ぜにしたような感情に、晴香は胸の内側を掻き毟りたくなるような衝動に駆られる。
それが恐怖というものだと認めるのが嫌で、ただ赤い光の刃を聖に向けて放っていた。
その悉くが消えるたび、聖が一歩、また一歩と近づいてくる。
速まり続ける鼓動と、それに合わせた喘ぐような呼吸が限界に達したとき。

「いこうか、巳間晴香」

眼前に、聖が立っていた。
蒼く燃え盛るようなその手が、伸ばされる。
肩に、腰に腕が回されるのを、晴香は抵抗もできずに受け入れていた。
霧島聖にかき抱かれて、共に蒼い焔の中で燃え尽きていくのだと、それが避けられぬ定めと、悟っていた。
目を、閉じた。




 【時間:2日目午前11時すぎ】
 【場所:G−4】

霧島聖
 【所持品:ベアークロー(魔法ステッキ互換)、支給品一式】
 【状態:元BLの使徒】

巳間晴香
 【所持品:長槍】
 【状態:GLの騎士】

長岡志保
 【所持品:不明】
 【状態:異能・ドリー夢、気絶中】
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