ヒト




獣は地を駆けていた。
言語にならぬ思考の中、ただ一つの思いに突き動かされるように、走っていた。
走る内、獣は己の身体に異変が起こっているのを感じていた。
しかし獣は足を止めない。
まるでその異変を当然と受け止めるかのように、唸り声一つ漏らさず、ただ矢のように大地を往く。

大地を踏みしめる獣の四肢が、ぴしりと硬質な音を立てた。
美しく白い毛に覆われた脚が、先端から黒く染まっていく。
しなやかな筋肉を包み込むように、黒曜石の如き煌きを放つ鱗のようなものが、獣の脚から生えていた。
疾駆する際には露出せぬはずの爪が、その威容を誇示するかのように四肢の先から顔を覗かせている。
大地を抉るその鋭く伸びた爪の色は真紅。
沖木島の土に染みた数多の鮮血を吸い上げたかのような色だった。

そしてまた、飛ぶように駆ける獣の背後、その姿を追うように、小さな呼気が響く。
赤と黒の斑模様をした体を獣の尾に絡みつけるようにして、ちろちろと細い舌を出し入れするそれは、
鎌首をもたげた、一匹の蛇であった。
否、蛇は獣の尾に絡みついているのではなかった。
その細くうねる腹の先は、尾の生えているはずの場所、獣の尻へと融けるように、埋め込まれている。
まるで獣の尾から全ての毛が抜け、中から蛇が生まれ出でたとでもいうようだった。

漆黒の四肢と毒蛇の尾、二つの異様をその身に宿しながら、獣はただ走る。
と、その足が大地を食む音が、唐突に乱れた。
瞬間、たわめられた漆黒の足が巨躯を跳ね上げる。跳躍。
刹那という間を置いて、獣のいた場所が前触れなく陥没した。


***


「今のをかわす……か。さすがに一筋縄ってわけには、いかないみたいね」

音もなく大樹の枝に降り立った白虎を見上げ、少女が小さく舌打ちする。
その全身を荘厳な装飾を施された黄金の鎧に包んだ少女の名を、深山雪見という。
猛牛を象った兜の下、鋭い視線が白虎を射抜いていた。

「大蛇の尾を持つ白虎……さしずめ、その黒いのが鬼の手、ってわけかしら」

反則みたいな生き物もいたものね、と口の中で呟いて、雪見が腕を組む。
思考のためではない。牡牛座の黄金聖闘士、それこそが必殺の構えであった。
居合の要領で抜き打つ掌と、それが巻き起こす拳圧による遠近両用の打撃。

「グレート―――ホーン!」

解き放つ。
視線の先、白虎がその身を預けていた太い枝が一瞬にして粉砕される。
しかしそこには既に、白虎の姿はない。

「……そこっ!」

雪見が視線を移したのは上空。
太陽を背にして降り来る影を認めると同時、再び掌を放つ。
恐るべき破壊力を秘めた拳圧の波が、逃れようのない空中で白虎を捉えたかとみえた。
しかし響いたのは獣の悲鳴でも、骨の砕ける音でもなく、ひどく硬質な音だった。
金属の板を無理矢理に捻じ切るような、生理的な嫌悪感を催させる音に顰められた雪見の表情が、
次の瞬間、驚愕を示すそれへと変わる。刹那、雪見が全力で大地を蹴った。
なりふり構わずステップバックしたそこへ、文字通り間一髪の間を置いて、巨躯が激突していた。

「……ッ!」

大気を断ち割るような衝撃。
かわしきれず掠めた雪見の腕、黄金の手甲に、真一文字の裂け目が走っていた。
眼前、ゆらりと白虎が身を起こす。
その牙の間に、ギラリと光るものがあった。
木漏れ日の中、陽光を反射する銀色の刃。

「まさか、刀を使う……とはね。随分と知恵の回る獣だこと」

背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、雪見がそれでも笑みを浮かべて言う。
白虎が鞘に収められた刀のようなものを銜えているのは、最初からわかっていた。
しかしそれを攻防の道具として使うというのは、まったくの想定外といっていい。
あの一瞬、白虎は中空で頭を一振りするや、器用に刀身を抜き放ち、その斬撃をもって
拳圧の波を切り裂いてみせたのだった。
そしてまた、その巨躯に伴う重量を利用した天空からの一太刀。

「どこで仕込まれた芸か知らないけど……」

笑みを消す。
崩れた体勢は、既に立て直されていた。

「こっちにも事情ってものが、あってね―――!」

掌底を放ちながら叫ぶ。
距離を取るように飛び退った白虎へと、立て続けに拳圧が飛ぶ。
ギ、と嫌な音がして拳圧が切り裂かれるが、雪見は更なる掌を繰り出し続ける。
居合―――掌を抜き放ち、構えに収める一連の動作を、雪見は左右両の手で交互に行っていた。
微かな狂いでたちまちに途切れてしまうであろう精密な身体制御を、寸毫の差異もなく繰り返す。
黄金の鎧から、無数とも見える拳圧の嵐が白虎へと叩き込まれていた。
対する白虎は銜えた白銀の刃で、迫り来る拳圧の悉くを切り裂き、あるいは受け流すことで
致命的な打撃を入れられることなく捌き、しかし、

「動けない、でしょう……?」

機関砲の如き破壊力の乱打によって釘付けにされた格好の白虎を見て、雪見が口の端を上げる。
じり、と黄金の足甲が地面を摺り、動いた。
緻密な動作で無数の掌を放つが故、大きくその歩を進めることはできない。
しかし、大地に轍の如き跡を残しながら行く黄金の少女は、一打ごと着実に、その間合いを縮めていた。
数センチの摺り足を重ねて一歩と成し、じり、と近付いていく雪見。
彼我の距離が縮まるごとに、白虎を打ち付ける拳圧の弾幕は密度を増していく。
受ける白虎の刃の閃きは視認の限度を超え、それでもなお拳圧は数と速度を増し、そしてついに、
捌き損ねた一発の打撃が、白虎の黒い前脚を打ち貫いた。
均衡が、崩れた。
その一打を境に、白刃を縫って白虎へと届く打撃が、続いた。
硬質な金属音の代わりに、鈍い打撃音が場を支配していく。

「―――!」

小さな音が響いた。
猛烈な連打の中、白虎がついに銜えていた刃を取り落としたのだった。
地に落ちようとするその刃を、雪見の拳圧が弾き飛ばす。
白刃がそのまま飛び、大樹の一本に突き立てられるのを省みることもなく、白虎は打ち据えられている。
大樹を粉砕する打撃の嵐をまともに受けながら、なおも倒れる様子のない白虎の強靭さに内心で驚愕しながら、
しかし雪見は勝利を確信していた。
一方的な打撃は続いており、そして相手は武器を失っていた。
獣がいかなタフネスを誇ろうと、このまま打ち続ければ、いずれは力尽きる。
あとは両の掌による抜き打ちの制御を誤らなければいい。
それすらも、雪見に不安はなかった。
黄金聖衣の加護があれば、それは充分に可能だと確信していた。
打撃は続く。テンポのいい音もまた、続いている。
獣の巨躯を打つ鈍い音と、掌が風を切る細く鋭い音。
そして、獣の低く重い咆哮。

(―――咆哮?)

刀を取り落としたときから、獣はずっと唸り声を上げていた。
痛みに堪えかねての悲鳴だと思っていた。
しかし、数十発、数百発の打撃を受けてなお、唸り声は一定の低さと、重さを保っていた。
何かがおかしいと、思考が脳裏をよぎったときには遅かった。
獣が、雨粒のように降り注ぐ打撃の中、顔を上げていた。
爛々と輝く真紅の瞳の下、重い唸りを漏らす鋭い牙の間から、白い霧が湧き出していた。
その霧に当たった獣の髭が、瞬く間に白いものに覆われる。

「霜……!?」

認識した瞬間。
轟、と白虎が吼えると同時、周辺に、文字通りの嵐が吹き荒れた。
獣の咽喉から、白く輝く霧が凄まじい勢いを持って吐き出される。
その吐息が吹き抜けるや、世界が白く染まっていく。
草木、大樹、岩盤に泥濘、そのすべてが、銀世界を構成していく。
何もかもが、凍りついているのだった。

「く……ぁぁぁ……ッ!?」

雪見の、食い縛った歯の間から、小さな悲鳴が漏れた。
絶対の耐久力を誇る牡牛座の黄金聖衣が、軋みを上げていた。
煌く鎧の表面には薄く霜が浮き、既に凍りついた大地に接する足元からは刺すような冷気が
徐々に這い上がってくるのが感じられた。
震える足を強引に動かし、凍結した地面から足甲を引き剥がそうとする。
しかし、

「動か……ない……!」

視線を落とした雪見の目が、驚愕に見開かれた。
黄金の足甲は、既に分厚い氷によって覆われ、大地に繋ぎ止められていた。
戦慄する間もなく、雪見の耳朶を奇妙な静寂が打った。
咆哮が、止んでいた。
見れば、獣の口元から吐き出されていた輝く息は既に止まっている。
銀世界の中心で、煌く真紅の瞳が雪見を射抜いていた。
べぎり、と音がした。
獣の、黒い鱗に覆われた肢から伸びた血の色の爪が、薄く張った氷を踏み割る音だった。
巨躯が、跳ねた。

「―――ッ!!」

迫り来る断頭の刃を、雪見はコマ送りの映像を見るように、眺めていた。
足は凍りついて動かず、居合の構えは崩れ、死は、目前に迫っていた。
恐怖は、浮かんでこなかった。
ただ、幾つかの記憶、その断片が、くるくると雪見の脳裏を廻っていた。

(―――)

それは、懐かしい教室だった。声を失った少女が笑っていた。
それは、風の吹く屋上だった。夕陽が沈んでいくのが見えた。
それは、皆で囲む焚火だった。揺らめく炎と、闇があった。
それは、陽も射さぬ洞穴だった。たいせつなものが、眠っていた。

「……める、な……」

小さな声が漏れた。
声は、活力だった。
小さくとも、それは、確かに響いた。
その事実が、雪見の全身を駆け巡る。
どくりと、鼓動を感じた。
血液と共に、触れば火傷をするような熱い何かが、雪見に満ちていく。
目前に迫っていたはずの死が、遠のいていく。
足先にまで満ちた熱い何かが、腹から咽を昇ってくる。
口を、開いた。

「女神の聖闘士を―――なめるなァァァァッ!!」

大音声と共に、煌く鎧を覆っていた氷が、爆ぜた。
居合の構えはない。
不可避と迫る真紅の爪を、しかし、雪見は、

「おおおおォォォォォ―――!!」

素手をもって、迎え撃った。
風を切り裂く刃が、雪見の掌に食い込む。
鮮血が飛沫き、黄金の装飾に新たな彩りを加え、そして、刃が止まった。

「が……ぁぁぁッ……!」

両の掌をざっくりと断ち割られ、だらだらと血を流しながらも、雪見は必殺の刃を受け止めていた。
静止した二つの影の周りを、風が渦を巻いて吹き抜けていく。
砕けた氷の粒が舞い上がり、美しい風花を描いた。

「―――」

疾風の速度と巨獣の重量、その二つをして仕留めきれなかった敵の姿を前に、白虎の赤い瞳に
戸惑いのような色が浮かんでいた。
力の均衡を崩す、それが決定打となった。
雪見が、金色の鎧に覆われたその腕に力を込める。
びき、と硝子の割れるような硬い音がした。
一瞬の間を置いて、白虎の爪が砕け、周辺に飛び散っていた。
オォ、という咆哮は、白虎の苦痛と驚愕によるものであったか、それとも少女の裂帛の気合が
知らず漏れ出したものであったか。
次の瞬間、大きく開かれた白虎の口腔に、黄金の猛牛の角が、深々と突き刺さっていた。




【時間:2日目午前11時ごろ】
【場所:F−4】

深山雪見
 【所持品:白虎の毛皮・ヘタレの尻子玉】
 【状態:牡牛座の黄金聖闘士・残りの材料を集める】

川澄舞
 【所持品:なし】
 【状態:ムティカパ・エルクゥ・魔犬ポテト融合体】
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