迷いの中




「……! おい、お前!!」
「あ、勝平さん」

暗い廊下にポツンと一人、彼女は周囲をキョロキョロと見回しながら佇んでいた。
血相を変えて走り寄ってくる柊勝平のその様子、神尾観鈴は彼の勢いに押される形でその場で硬直してしまう。
息を切らし汗を垂らす勝平の姿は、先ほど観鈴が見送った頃のものとは全く違っていた。
その変化に戸惑いが隠せないのだろう、観鈴はおろおろとしながらも口を開くことなく黙っていた。

一方勝平はというと、全力疾走による胸の痛みを堪えるように俯き加減で肩を上下させていた。
膝に手をやり猫背になったことで、勝平の視界が捉えることが出来るのは観鈴の足元のみとなる。
上がった息が元に戻る気配はない、弱った体に苛立ちを覚えながらも勝平はゆっくりと視線を上げた。
眉をハの字に寄せた少女、勝平の見たところ観鈴の様子に異変はない。
滴る汗が邪魔だった、勝平は着用している上着の袖口でゆっくりを額をこすりながら改めて観鈴と向き合った。

「勝平さん、顔色悪い……大丈夫?」

声、勝平の正面にて佇む観鈴のものである。
不思議そうに、痛ましそうにこちらを見やる彼女の表情に思わず勝平の鼓動は高鳴った。
それと共に勝平の中で甦ったのは、相沢祐一が気を失う直前に発した台詞である。

(何で僕がこんな気にしなくちゃいけないんだよ……)

しかし勝平の意思はそれを鵜呑みにしようとはせず、ひたすら拒むような苛立つ情念を沸き上がらせていた。
体が勝手に動いていた、それは勝平自身が意識した物ではない。
何故か。理由を考えようとするだけで勝平の喉元に胃液が込みあがってきそうになる。

―― 神尾観鈴は、日常の象徴だった。
殺し合いの舞台でも幼さの残る笑顔を絶えず浮かべる彼女の存在は、異端でしかなかった。
―― 神尾観鈴は、甘さでしか成り立っていなかった。
それは優しさという一言では表せない。表してはいけないレベルのものである。
お人よしにも過ぎる彼女は、出会っていた人間に恵まれただけの弱者に過ぎなかった。

だが相沢祐一は、彼女のそこに価値があると言った。
勝平はどう思ったのか。あの時勝平は祐一の弱気な発言に一人怒りを噴出させた彼に、そんなことを思う余裕などなかっただろう。
しかしここ、観鈴の佇む校舎二階の廊下に来るまでに彼の結論は既に出されていた。

「勝平さん……?」

おずおずと伸ばされた観鈴の手、視線で追うだけの勝平の背へとそれは静かに回された。
ふわふわとした感触が勝平の背中をなぞり上げる、観鈴がさすっているのだと思うとその箇所のくすぐったさに思わず勝平は身をよじった。

「大丈夫かな、どこか痛い?」

あくまで心配そうに、観鈴は気遣うような声かけしかしかしてこない。
勝平の頭に再び軽い痛みが走る……そういう意味では、勝平は分かっていなかったのかもしれない。
相沢祐一の語る観鈴の価値を。
名倉由依とすれ違い、彼女を一人残してきたことを後悔した思いの根底を。
四人で学校に来た際に感じた、彼女の甘さのくすぐったさの理由を。

理解していなかった。それは、復讐鬼となることを望んだ勝平にとっては障害以外の何物ではなかったからである。
だから、理解してはいけなかった。
理解した時点で、階段は踏み外れてしまう。

「僕は……」
「え?」
「僕は、あいつ等を……邪魔したあいつ等を、虫以下の扱いで弄びたかったんだ」

勝平自身が受けた屈辱を返すために。
土壇場でめちゃくちゃにされたあの痛みを、報復するために。

「僕の受けた苦しみ以上のものをあいつ等におみまいしたくて……それだけ、だったんだ……」

勝平の行動理念は、彼の中に埋め込まれた記憶の断片によるものである。
それは、勝平自身を雁字搦めに縛りつけ彼を離そうとしなかった。
そのことに勝平自身も疑問を持っていなかった、そう。ここまでは。
いつからだろうか、彼が自分の行動に迷いを感じるようになったのは。

相沢祐一を殺すべく、職員室を飛び出したときだろうか。
絶好のチャンスを得たものの、虚しさしか残らなかった藤林杏を殺害した時だろうか。
いや。それよりもっと前ではなかろうか……勝平は小さく頭を振り、自分の行動を反芻する。
学校までの道のり。
四人での会話は価値のある話題が出ることもなく、その内容は勝平自身も思い出せなかった。
緒方英二に名倉由依から受けた電話の件を相談した時のこと。
いつの間にか話の輪に加わっていた祐一と杏に驚いたことを勝平は懐かしく感じた。
名倉由依から電話を受けた時のこと。
結局勝平自身は助けを求めてきた少女の声は聞き取れなかった、観鈴の要領の悪さに腹を立てたことを勝平も覚えている。

……観鈴と過ごした、見張の時間のこと。
彼女にとっては何でもない質問だったのだろう、しかし勝平はそこで改めて恋人である藤林椋のことを思い出したということ。

きっかけは、こんな前にもうあった。
そしてそれは、勝平自身も自覚していたことだった。
では、何故その迷いは……ここまで、放置されることになったのだろうか。

「勝平さん、それで勝平さんはどうするの?」
「え?」

澄んだ声、不意にかけられた観鈴の声ではっとなり勝平は思わず顔を上げた。
目の前の少女の瞳に他意はない、責める色など微塵もないそれは純粋な疑問に染まっていた。
そんな観鈴の疑問に、勝平は言葉を詰まらせるだけだった。
いや、考え事をしていた彼は彼女が何を指してその言葉を吐いたのか。それすらも分かっていなかったのだろう。

「勝平さんは、その……勝平さんが嫌いな人達に仕返しした後、どうするの?」

ああ、と納得したような調子で勝平の表情が引き締まる。
勝平が思い出を反芻する前に口にした台詞、観鈴の疑問はそれに対してのものだろう。
それは勝平自身も感じていた疑問だった。
杏を手にかけた勝平が、とぼとぼと一人静かな廊下を歩んでいた際に沸いた自身に対する問いかけだった。
あの時答えを出せず投げ捨てたもの、胸の中に仕舞い込んだ勝平の疑問を観鈴は真っ直ぐな視線で貫こうとしてくる。
……そう考えると、勝平は逃げてばかりだった。
論理付けなければいけない重要な事に対し、勝平はそれらをことごとく後回しにしていた。
そして目先の欲望だけを、ただ彼は求めていたのだ。
迷いも疑問も掻き捨てるくらいの覚悟がそこにはあったから、その「記憶」を勝平は持っていたから。

「勝平さん、そんなの意味ないよ」

観鈴の言葉に勝平の痛覚が刺激される。
それは、あまりにもストレートな言葉だった。

「残らないよ、何も。せいせいしたーって言って、それで終わりだよ」

勝平が求めたのは行為であり事後ではない、その行いが終わった後のことを彼は考えていなかった。
それが目先の欲望だ。

「不毛だよ」

そんな勝平の目先の欲望を、観鈴は一刀両断にする。
……これが勝平が気づかない内に放たれた台詞なら、観鈴はこの瞬間彼の手にする電動釘打ち機によって蜂の巣にされていただろう。
しかし勝平は気づいていた。自覚もしていた。
その上で、答えを出すのを先送りにしていた。
だから勝平は、何も答えられなかった。

『お前にこの苦しみが、痛みが分かるのか』
『お前も分かる、あれだけの屈辱を味合わされたなら、絶対分かるはずだ』

そんな風にいきがう余力も、彼にはなかった。
吐くべき台詞はいくらでも浮かんだだろう、だが勝平はその不毛さに勝平は気づいてしまっていた。
生き恥としか表せない記憶の断片がもたらした狂気、そのむなしさの意味が勝平の全身を駆け抜ける。
一つ大きく息を吐き、勝平は改めて観鈴を見つめた。
珍しく彼女の表情に甘さはなかった、そこに観鈴の必死さを勝平は垣間見る。
彼女は何に対して必死になっているのか。

「私、勝平さんのためを思って言ってる」

ドクン。勝平の鼓動が再び跳ね上がる。
瞬間カッと熱くなる頬を、勝平は隠せなかった。
それと同時に胸の奥が痛み出し、思わず勝平は自身の胸部へと両手をやった。
右手には電動釘打ち機が握られていた、しかし勝平は気にせずそれを胸に抱え込んだ。
熱、痛み、全身に走り抜ける感情の波がもたらした震え。
もう逃げようとは思わなかった、勝平は観鈴から目を逸らさずその意味を考えようとする。
今度こそ、問題を後回しにしないために。
今出せる、出さなくてはいけない思いを言葉にするために。



―― 見つけたぞガキが、さっきはよくも馬鹿にしてくれたなああああぁ!!



静かな校舎に不釣合いな派手な爆音が響く、男の怒声と共にそれは辺りの空気を巻き込んでいった。
勝平の目の前、幼い顔立ちにキリリとした表情を浮かべていた観鈴の瞳が見開かれる。
月の光の下、舞い散る雫の色は確かに赤だった。
崩れる少女の体のその向こう、闇に紛れそうな暗いいでたちの男が目に入り勝平は呼吸が止まりそうになる。
その男の手には、勝平にも見覚えのある拳銃が握られていた。




神尾観鈴
【時間:2日目午前3時半】
【場所:D−6・鎌石小中学校二階・廊下】
【所持品:フラッシュメモリ・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:腹部被弾】

柊勝平
【時間:2日目午前3時半】
【場所:D−6・鎌石小中学校二階・廊下】
【所持品:電動釘打ち機11/16、手榴弾三つ・首輪・和洋中の包丁三セット・果物・カッターナイフ・アイスピック・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:岸田と対峙】

岸田洋一
【時間:2日目午前3時半】
【場所:D−6・鎌石小中学校二階・廊下】
【所持品:カッターナイフ、拳銃(種別未定)・包丁・辞書×3(英和、和英、国語)支給品一式(食料少し消費)】
【状態:観鈴、勝平を襲う】
-


BACK