風が、泣いていた。 空から吹き荒ぶ風はとても冷たく、とても悲しく、無機質な音だけを孕みながら通り過ぎる。 その中を走ってゆく二人の少女の姿があった。 彼女らに思考はない。頭の中は買ったばかりのカンバスのように空白で、何も考えられなくて。 走れ。 絶叫と共に銃弾の嵐の中に消えた少年の声だけに従って、十波由真は伊吹風子の手を引っ張りながら走っていた。 後ろには機関銃の足音はない。今はまだ、七瀬彰は追っては来ていないということらしかった。 だが仲間の死を目撃してしまった二人には、そんなことを考える余裕さえ残されてはいない。 全力で走り続けてもはや体力が殆どなくなりかけているということさえ認識できているかどうか怪しいものだった。 それでも走り続けた。 路傍の石につまづきそうになりながらも、足をもつれさせながらも、二人は坂の上にあるホテル跡まで必死に辿り着いた。 ホテルの目前に到着した由真が、荒い息もそのままにしばらくそこで立ち止まる。 かつての姿はそこにはなく、剥げてしまった塗装と所々割れてしまっている窓がその凋落振りを示していた。自動ドアも開きっぱなしになっている。 見ているうちに、ようやく由真の頭の中に思考が戻ってくる。 そうだ、こんな所でぼーっとしている場合ではない。まだあのマシンガン男が追ってきている可能性があるのだ。一刻も早く、この中に逃げ込むべきだった。 再び由真は風子の手を引っ張って歩いていこうとする。 「ひぐっ、えぐっ…」 その時、隣から誰かが泣きじゃくる声が聞こえてきた。振り向く。 「うぅ…岡崎さん…」 風子が顔を俯かせて、大粒の涙を流していた。 走っていたときから泣いていたのか、それとも今になって仲間が目の前で死んでしまったショックが思い出されて泣いているのかは、由真には分からなかった。 だがこんなところで泣いていても仕方がない。早く行動しないと、由真も風子も再び危険に晒されるかもしれないのだ。 「伊吹さん、行こう? 早くしないと、またあの男が来るかもしれないのよ」 しかし風子は泣くばかりで全く動こうとしない。仕方なく無理矢理引っ張って中に連れて行こうとするがまるで梃子のように動かない。 「こんなところで突っ立っててもしょうがないでしょ? ほら、早く!」 何度も引っ張るがまるで反応がない。業を煮やした由真が怒鳴った。 「いい加減にしなさいよ! 今の状況分かってるの!? こんなところにいるとまた襲われちゃうかもしれないんだよ!? ねえ、話聞いてる?」 激しい言葉を重ねるものの一向に聞く様子がない。次第に苛立ちも募ってゆく。 「泣いてたって何もならないのよ! 今は逃げるしかないの! 何をすればいいかくらい分かるでしょ!? 泣いてないで何か言ったらどうなのよ!」 仲間を殺した彰への苛立ち。泣くばかりの風子への苛立ち。そして仲間を置いて逃げてしまった自分への苛立ちが一緒くたになって感情をぐちゃぐちゃにさせていく。 やり場のない怒りは次第にどうしようもない情けなさに変わり、声も涙声になっていった。 「ねえ、何かいいなさいよ…何か言ってよ…泣きたいのは…あたしだって同じなのに…でも、岡崎さんがあんたのことを『守れ』って…言われてないけど、頼まれたんだから…だから、泣くわけにはいかないじゃない…」 荒々しい語気はとっくに消え失せ、消え入りそうな弱々しい声になっていた。 それからようやく、風子が顔を上げる。目が真っ赤に充血し、三角帽とも合わさってまるでピエロのようになっていた。 「ぐす…十波さん」 「…何よ」 すんすんと鼻を鳴らしながら風子は言葉を続ける。 「…十波さんだって…泣いてるじゃないですか…ウソつきですっ…」 そこで由真はようやく自分も泣いてしまっていることに気付いた。慌てて取り繕う。 「ち、違うわよ! これは汗、汗が目に入ったの!」 ごしごしと袖で涙を拭って誤魔化す。それを見た風子も同じようにして涙を拭く。 「じゃあ風子だって…風子だって同じです…ひくっ、これも汗なんです」 精一杯強がりを見せる風子。しかしまぶたにはまだ涙が溜まっていた。それには言及せず由真が言う。 「そ、そう。じゃあ歩けるよね? 行こう? ここでこうしててもしょうがないでしょ?」 風子は頷くと、由真の手をしっかりと握った。少しは持ち直したということらしかった。 「…すみません、手間をとらせて」 「あ、謝らなくたっていいわよ…あたしだって、その…とにかく、あたしも怒鳴ったりして悪かったわ」 風子と面を合わせず謝る由真。なんとも言えない気持ちは残っていたが、風子への苛立ちは消えていた。風子も由真も謝ったお陰かもしれない。 開けっ放しの自動ドアをくぐってロビーに入る。 中は薄暗く、まるで幽霊屋敷にいるような気分になった。床に敷き詰められた赤いカーペットがそれに拍車をかける。 だが目の前で朋也とみちるが撃たれたのを目撃したことに比べれば些細なものだった。ごくりと喉を鳴らしながら早足で進んでいく。 やがて二人は、妙な匂いがしていることに気付いた。 それは死臭。かつての生者の、命の残り香であった。それは即ち、この場において惨劇が繰り広げられたことを意味していた。 よく足元をみると、赤いカーペットの一部にさらに赤黒い斑点がついている。ここで怪我を負っていたのか埋葬された後なのかは分からなかったが、誰かが血を流したのは間違いないということだった。 「ここでも…殺し合いがあったのね」 由真の一言が、重くロビーに響いた。島のそこかしこで殺し合いは繰り広げられている。二人はその事実を認識しながらそこを通り過ぎた。 それからしばらく歩き、二人はエレベーターを発見したがボタンを押しても降りてくる気配はなかった。やはり電気は途絶えているということらしい。 「仕方ないか…階段で上に行きましょ」 階段へと続く暗い廊下を指差す。風子も頷いた。 * * * 伊吹風子です。今は十波さんと一緒にホテルの中を歩いています。 さっきまで、ちょっとだけ取り乱してましたけど…もう平気です。これからは、泣かない。泣きません。 ホテルに入る前に十波さんが怒ってた時に…泣いてないって言ってましたけど、とても悲しかったはずです。辛かったはずです。 ですけど、風子も十波さんも泣いてしまったら岡崎さんとの約束が果たせないですから…泣くわけにはいかなかったのだと思います。我慢したんだと思います。 ですから、風子だって泣きません。風子は十波さんより年上のお姉さんですから…お姉さんが泣いてはいけないんです。しっかりしなきゃいけないんです。 今まではいつも通りにヒトデを彫って、いつも通りにヒトデを渡していればいい、風子はいつものことをすればいいって思ってましたけど…もうそんなことはしません。 でないと、また風子の知ってる人がまたいなくなってしまうかもしれません。そんなのは…これっきりにしたいです。 だから、もう泣きません。みんなのことを考えて、みんなのために行動するって、決めました。 …岡崎さん。風子、元々大人ですけど…もっと大人になったって…ほめてくれますか? 「伊吹さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 などと風子が反省していると、十波さんが横から顔を出してきました。 「武器についてなんだけど…どこから調達するのがいいと思う? ほら、あたしたちってまともな武器がないし」 確かにそうです。風子はナイフの柄しかありませんし、十波さんは双眼鏡しかありません。これは問題です。大問題です。 お姉さんとしていいアイデアを考えなければいけません。理想は風子特製のヒトデがあればいいんですけど、材料がないのでその案却下です。 ホテルにあるものって言うと… 「ええと…レストランになら包丁みたいなのがあると思います」 「それはあたしも考えたけど…ほかに思いつくものがないかなぁ、って。う〜ん、やっぱりそれしかないかな」 十波さんがため息をつきます。選択の幅が狭いとやるせないものです。 ここが秘密の地下工場だったり悪の秘密結社の補給基地だというなら話は別ですが。 「…ま、けど今はそれよりあのマシンガン男から身を守る方が重要よね」 そう言うと、十波さんが階段を登っていきます。もちろん手をつないでいる風子も登ります。…考えてみれば、今日は登りっぱなしです。なんででしょうか。 二階につくと、十波さんはまず一番近い部屋の前に歩いていって言いました。 「まずここに隠れましょ。取り敢えず一時間ここで待ってから行動ね。一時間待てばきっとやり過ごせるだろうし」 『201』と書かれたプレートが風子の目に映ります。前におねえちゃんから聞いたことがあるのですが、ホテルとかには縁起をかついで『4』のつく部屋はないところもあるらしいです。 風子も気をつけないといけません。4のある部屋には泊まらないように後で十波さんに言っておきましょう。 「…あれ?」 ドアノブを捻る十波さんですががちゃがちゃという音がするばかりで開く気配を見せません。どうやら鍵がかかっているようです。案外セキュリティがしっかりしていますね。まるで風子みたいです。 「鍵がかかってるわ…ココはだめね。他の部屋に行きましょ」 それから他にどこか入れる部屋はないかと一部屋ずつドアを開けていった風子たちですが、どこもかしこも壊れてたり鍵がかかってたりで全然入れません。あ、ちなみに4のつく部屋はありませんでした。杞憂だったみたいですね。心配して損しました。 気が付くと、風子たちは『511』…つまり五階まで上がってきていました。十波さんは既にうんざりした表情になっています。風子も同じですが。 はぁ、とため息をついて十波さんがドアノブを捻ります。 がちゃ。 「…お?」 ノブがすんなりと回って部屋の扉が開きました。まさか開くとは思っていなかったので風子も十波さんも少しばかり感動してしまいました。もしかしたら誰か部屋にいるかもしれなかったのですが、うっかりして注意を怠っていました。 ですけど部屋の中には誰かがいる気配などなく、そこはもぬけの空となっていました。 部屋の中は特に何もなく、ベッドが二つに椅子、テーブルがあります。そこらの中古屋で売ってるようなボロい調度品でした。きっと貧乏ホテルに違いありません。だから潰れたのでしょう。 十波さんはというと、何かをやり終えたかのような、達成感に満ちた顔つきでじ〜んと感動していました。十波さんの頭の中では既に手段と目的が入れ替わっていたようです。 風子も今気づきましたが。 「やった…やっと開いた…! 伊吹さん、やったわ、あたしたちやったのよ!」 まだ感動しています。 「よし、これでようやく中に入って、一時間やり過ごすことが出来るわ。さ、伊吹さん入って入って」 十波さんに背中を押されながら風子も部屋に入ります。しかしそこで風子はふと気付いてしまいました。 「十波さん、風子、気付きました」 「え、何?」 「風子たちが入れる部屋を探してる間に、一時間なんてとっくの昔に経ってるような気がするんですが」 「…………あ」 十波さんの周りの空気が凍っていくのが、はっきりと分かりました。ひょっとしたら、言ってはいけなかったのかもしれません。 「あ、あは、あははははははは…はぁ〜あ…」 ヘンな笑い方をした十波さんはへにゃへにゃとへたり込んで何やらぶつぶつ言ってました。 岡崎さん、みちるさん、案外早くにそちらにお邪魔することになるかもしれません。 【時間:二日目 10:00】 【場所:F-4 ホテル内】 伊吹風子 【所持品:スペツナズナイフの柄、三角帽子、支給品一式】 【状態:疲労、武器を探す、彰から逃げる、泣かないと決意する】 十波由真 【持ち物:ただの双眼鏡(ランダムアイテム)】 【状況:疲労、武器を探す、彰から逃げる、風子を守る】 - BACK