「んっ……」 身体に異様な重みを感じて、七瀬彰は目を覚ました。 そこは狭く、薄暗い場所だった。 周りを囲むのは剥き出しの岩壁。低い天井と、淀んだ空気。 洞穴、というのが最初に彰の脳裏に浮かんだ単語だった。 辺りを見渡そうとした目に、眩しい光が差し込んだ。陽光だった。 どうやら、洞穴の中でもごく浅いところに寝ていたらしい。 そこまでを考えて、思い出す。 ―――そもそも自分は、どうして目を覚ましたのだったか。 ぎしり、と体が軋んだ。 洞穴の入り口から差し込む陽光を背にして、一つの影が、彰に圧し掛かっていた。 「な……!」 思わず大声を上げようとして、それができないことに気づく。 上に乗った影は正確に彰の横隔膜の上に体重を乗せ、その腿はがっちりと彰の両わき腹を押さえ込んでいた。 息が上手く吸い込めない。 「ひぅ……」 影が、ゆっくりと手を伸ばす。 冷たく湿った感触が、彰の咽喉を撫でた。 浅い呼吸の中、切れ切れに彰の声が漏れる。 「な、に……するのさ、たかつ、き……」 名を呼ばれた影が一瞬その動きを止め、しかしすぐにまた何事もなかったように、手を彰の咽喉に這わせはじめた。 その感触のおぞましさに身を捩ろうとするが、しっかりと保持された影の姿勢はこ揺るぎもしない。 縮れ髪の下から覗く瞳はどろりと濁った色を湛え、半開きにされた口元は何も答えようとしなかった。 「やめ、ろ……、何でこんなこと、するんだよ……」 彰は混乱していた。 状況についていけない頭で必死に考える。 浮かんでくる断片的な記憶をつなぎ合わせようとするが、咽喉をさする手の感触が気になって思考がまとまらない。 学校。鬼。硝子の割れる音。炎。……そして。 咽喉を撫でさすっていた湿った手が、そっと彰の頚動脈を押さえた、その瞬間。 彰は、己が気を失う寸前の記憶を取り戻していた。 掴まれた腕と、無言の高槻。迫り来る少女、輝く額。 絶対的な死の具現を前にして、高槻はただどろりとした瞳で自分を見つめ、逃げることを赦さず押さえ込んでいた。 それは、彰の死を望む、明確な意思だった。 今度こそ声を上げようとした刹那、万力のような力で、高槻の手が、彰の頸を締め上げていた。 「がっ……ぇえっ……」 瞬く間に、あらゆる器官が悲鳴を上げ始めた。 視界が小さな白い粒に満たされていく。 目尻に浮かんだ涙の感触が消えていく。 鼻の奥がじんじんと痛む。 放送を終了したテレビのような雑音が、聴覚を埋め尽くしていく。 手が無意識に咽喉へと伸ばされ、締め付ける高槻の手を掻き毟る。 暴れる脚が何度も岩に叩きつけられるが、痛みが感じられない。 酸素を求めて大きく開いた口から、舌が伸ばされる。 大気を舐め取ろうとでもするかのようなその行為には、勿論意味などない。 ただ、必死だった。 七瀬彰の全身が、死に抗っていた。 いつしか彰は、やめて、と声にならない悲鳴を上げていた。 声の漏れぬ叫び。 (やめて、やめて、高槻……お願いだから、やめて……!) 叫びの中で、彰の意識が再び、そして今度は覚めることのない闇へと落ちようとした、その刹那だった。 彰の上で、高槻の身体が、びくりと跳ねた。 瞬間、彰の頸に回された手に込められた力が、ほんの少し、緩んでいた。 (……ッ!) 正真正銘の全力だった。 閉じかけた意識の中で、あらゆる筋肉、あらゆる関節、あらゆる細胞がただ一つの動きに同調した。 猛烈な勢いで身を捩り、上体を跳ね上げる。 眩んで見えない視界を気に留めることもなく、そこにあるだろう障害物へ向けて、全体重を叩きつけた。 額に鈍い感触。同時に、ぬるりと冷たい何かが額を流れ落ちていくのを感じた。 痛みは感じなかった。それどころではなかった。 重みが消えた瞬間、彰は五体を丸め、大地へと預ける。 「が……げ、げぇっ……げほ、げふっ……うぇ……はぁっ、げほ、」 全細胞が、酸素を熱望していた。 必死で取り込もうとして、咳き込む。 呼気と吸気が入り混じり、彰の気管を混乱の坩堝に叩き込んだ。 涙と鼻水、唾液が鼻と咽喉を満たそうとするのを、恥も外聞もかなぐり捨てて辺りに吐き散らす。 べとべとに汚れた顔を拭うことすらしなかった。 呼吸という行為、ただそれだけが彰の優先順位の第一等を占めていた。 しばらくそうしていると、ほんの少しだけ、余裕がでてきた。 同時に、彰の脳に警戒信号が打ち鳴らされる。 今の今まで頸を絞めていた男がまだすぐ近くにいることを、彰の思考がようやく認識していた。 高槻は今や、疑いもなく、自分を殺そうという意思を持った敵だ。 数秒、数十秒、あるいは数分、転げまわって呼吸を整えている間、あの男は何をしていたのか。 戦慄と共に視線を動かす。 目的の影は、すぐに見つかった。 「……」 高槻は、静かに立ち尽くしていた。 洞穴の入り口側、逆光になって彰の位置からはよく見えなかったが、鼻血を出しているようだった。 静謐な瞳の輝きだけが、彰の目に映っていた。 どうしてだか、その瞳の色を、ひどく長い間見ていなかった気が、彰にはしていた。 「……俺、さ」 高槻が、呟くように口を開いていた。 それはひどく静かな、告解だった。 「これまで俺、どうしようもねえ人生、送ってきたんだ」 「え……?」 「胡散臭え宗教がカネ、出してくれるっていうから……好きな研究、してさ……やりたい放題、やって……」 「た、高槻……?」 「女、とかも、さ……散々、犯して……」 一瞬だけ言いよどむ。 「そんなだから、恨みなんか、数え切れないくらい買っててさ。 ……いつ刺されて死んだっておかしくねえって、わかってて。 けど、そんなの知ったことかって、思ってた」 「……」 「楽しく、生きてさ。楽しいこと、やりたいことだけしてさ、そんで死ぬなら本望だとか、考えてた。 ……けど、けどよ」 逆光の中、高槻が小さく口の端を歪めた。 まるで泣き出す寸前の子供のような、それは表情だった。 「なのに……どうして今、こんなに怖いんだろうな」 「何、を……」 何を言っているのか、と問いたかった。 高槻の一人語りは不可解で、断片的で、何より仄暗かった。 どこまでも必死な声音が、怖ろしかった。 先を聞きたくないと、そう思った。 しかし、彰が問い返すよりも早く、高槻の言葉は続いていた。 「……決まってる。ああ、ああ、そんなの決まってる。決まってるよな」 「た、か……つき……?」 何度も何度も頷きながら、高槻は独り言じみた口調で早口に呟く。 その異様な雰囲気に、彰が思わず一歩を退いた、その瞬間。 「―――死にたくねえよなあ!」 高槻の声が、弾けていた。 「ああ、死にたくねえ! 好きな奴がいるのに、死にたくねえよ! 目の前に、守りたい奴がいて、どうして死ねるかよ! 畜生!」 高槻は、泣いていた。 目尻から涙をぽろぽろと零しながら、叩きつけるように叫ぶ。 「彰、彰、彰! 好きだ、誰よりも、何よりも、愛してる! クソッタレな俺の人生を最初ッからやり直して、もう一度お前に逢いてえよ、彰……っ!」 「ひっ……」 血走った目で、腕を振り回しながら叫ぶ高槻に、彰が小さな悲鳴を上げる。 更に一歩を退いたその背中が、狭い洞穴の壁に突き当たった。 「聞いてくれ、俺、クズみてえな男だったけど、お前のことだけは、本気で……! ―――ああ、畜生、まだ出てくるんじゃねえよ、クソが……ッ!!」 奇怪な光景だった。 高槻は突然、自らの胸を掻き毟りながら、何もない虚空に向かって叫んでいた。 その特異な振る舞いに、彰は声も出せない。 逃げ出そうにも出口は一つで、高槻はそちら側に立っていた。 「クソが……人が、ヒトがコワれるの、は……、畜生が、ああ、楽しい、タノシイ、楽しいな……ッ! 待ってろ、もう少しだ、畜生め……!」 叫ぶや、虚空に向けられていた高槻の視線が、唐突に彰を捉えた。 ふるふると奇妙に揺れる眼に、彰は思わずへたり込んでしまう。 端的に言って、それは狂人の瞳だった。 荒い息をつきながら、高槻が搾り出すように彰へと語りかける。 「ああ……クソ、怖がらせちまってるよな……、ごめんな、彰……。 ……俺、俺さ、俺ン中に、おかしな俺がいて……うるせえ、黙ってろッ……! ああ、ごめんな、彰……お前のことじゃねえよ……クソ、時間、ねえな……」 座り込んだまま、彰は声も出せずに高槻を見上げていた。 何をきっかけに激発するか、知れなかった。 呼吸の音や鼓動ですら、高槻を刺激するのではないかと思われた。 両腕で自らを抱きしめるようにして、彰はただ震えていた。 「うるせえ! うるせえな! すぐだ、すぐに壊してやる! 待ってろ、それでいいんだろうがッ! 黙ってろ、誰でも、コワせりゃ誰でもいいんだろうが、手前ェはッ!」 「……ひッ……!?」 彰が、小さく悲鳴を上げた。 瞬く間に、目尻に涙の粒が溜まっていく。 見上げた高槻の手、そのぶるぶると定まらない手に、何かが握られていた。 掌に乗るほどの、小さな持ち手。尖った先端には、何かの汚れが染み付いている。 「そ……れ……、僕、の……」 高槻が握り締めていたのは、小さなアイスピックだった。 乾いた血で汚れたそれは、紛れもなく、彰の隠し持っていたものだった。 どうして、と考える余裕もなかった。 彰の視線はまるで吸い込まれるように、その鋭い先端から離れない。 がたがたと、歯の根が鳴っていた。 「たす、け……や、め……」 「―――うるせえッ!」 「ひぁぁ……っ!」 凶器を振り回しながらの大声に思わず身を竦める彰だったが、高槻は既に、彰を見てはいなかった。 何もない空中を切りつけるように、まるでそこに誰かがいるかのように、叫び、凶器を振るっていた。 「黙れ、黙れ、黙れ……! 俺はもう、お前に身体を使わせたりしねえ! これ以上、彰を傷つけさせるかよ! 俺は、畜生、黙れ、俺に戻ったんだ、畜生……! ようやく……! ようやく、見つけたってのによ……! 彰、彰、彰、―――愛してる」 一瞬。 それは、ほんの一瞬の出来事だった。 高槻の瞳が、彰を真正面から映していた。 充血した眼から止め処なく涙を流しながら、それでも、その表情は微笑を浮かべていたように、彰には感じられた。 「たかつ、き……?」 高槻の手にしたアイスピック。 その鋭く尖った先端が、高槻自身の方を向いていた。 止める間は、なかった。 絶叫だけが、狭い洞穴を満たしていた。 「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――」 それは、混じりけのない呪詛だった。 掴めない未来への羨望であり、愛する者を前に息絶える失意であり、内側から己を蝕む何者かを呪う声だった。 「あ……ああ……」 ぷつり、と高槻の喉が裂けるその瞬間。 彰の目には、不思議な光景が映っていた。 それは青と灰色の、斑模様の空。 そして、それを背景にして立つ、一人の少女だった。 白い少女が、どろりと濁った目で、笑っていた。 少女の笑みが、真っ赤な血で染まっていく。 ぴしゃり、と鮮血が顔に飛ぶのを感じながら、彰の意識は、もう何度めかも分からない闇の底へと、沈んでいった。 ****** 「なん……だ、こりゃ……」 藤田浩之は、その光景を前に絶句していた。 気を失ったままの彰を高槻に任せ、傷ついた柳川と共に、水や医薬品を求めて近辺の民家を捜索していたのは、 ほんの短い時間のはずだった。 その間に、洞穴は惨劇の舞台と化していた。 「何で、だよ……」 「タカ、ユキ……?」 「どうしてこうなっちまうんだよ……!?」 天を見上げて叫んだ浩之の問いに答えるものなど、ありはしなかった。 【時間:2日目午前11時ごろ】 【場所:C−5 鎌石村郊外・洞穴】 高槻 【状態:彰の騎士・死亡】 七瀬彰 【状態:気絶・右腕化膿・額に傷・発熱】 藤田浩之 【所持品:鳳凰星座の聖衣・柳川】 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士・重傷(治癒中)】 柳川祐也 【所持品:俺の大切なタカユキ】 【状態:鬼(最後はどうか、幸せな記憶を)・重傷(治癒中)】 - BACK