「……芳晴、ストップ」 「え?」 いきなりかけられた静止の声に戸惑う芳晴を他所に、ルミラは真っ直ぐ目の前に存在する森を睨みつけていた。 気配を窺うよう、一点だけを狙いつけるその目つきは獲物を狙う獣の類とも思えるくらいの迫力を秘めている。 そんな彼女の様子に、ゴクリと唾液を飲みながらも芳晴は恐る恐るルミラが見やる先へと視線を這わせた。 暗闇の中黙々と歩いていた芳晴は、視界の関係でただルミラの後ろをついて行くだけだった。 正直この森林部ではどんなに闇に目が慣れたとしても、一寸先ならまだしもその先までを把握することが芳晴は叶わなかった。 人の気配が感じられることもない、しかしルミラから読み取れる雰囲気は油断なく気を張り詰めているであろうものであり芳晴もずっと気を使っていたのだろう。 足手まといにだけはなりたくない、何も手出しはしないことが一番であろうと芳晴は結論付けていた。 この状況では。 左手を水平に上げ芳晴を押し止めるようにするルミラの背中には、威厳が溢れている。 何が起きたかは分からない、しかし彼女に任せていれば大丈夫だろうと。芳晴は、特に追及せぬまま彼女の意に従った。 しばらくはただ静かな時間が流れるだけで、それはまるで嵐の前触れを示しているかのようにも見えただろう。 そんな中、小さく吹いた風がルミラの髪を揺らしていた。 黒に同化されそうになりながらも、その紫の輝きは独特の流れを持って芳晴の視界を占領している。 月の光は届かない。もし反射するような場面に出くわせたら、それはさぞかし美しい光景になっただろうと芳晴は一人妄想した。 「芳晴!!」 ぼーっとなりかけた芳晴の頭に、突如凛とした声が響く。 次の瞬間押し倒されるような形で、芳晴はルミラによって地に押さえつけられていた。 「る、ルミラさんっ?!」 瞬間カッと熱くなる頬、上ずった声が自分でも恥ずかしく芳晴は思わず固まってしまう。 しかし、その表情も長くは続かない。 ぽたぽたと垂れてくる暖かな液体が、芳晴に現実を思い知らせた。 「ルミラさん……?」 この近距離なら、さすがの芳晴にも理解できただろう。 芳晴の顔に降り注いだ液体は、ルミラの左肩から漏れ出たものだった。 肉が抉り取られてしまっているような患部に、芳晴の目が点になる。 ルミラは芳晴をその状態で放置したまま、肩を庇いながらもゆっくりと体を起こした。 「気配だけは分かってたのに……まさか、こんなに速いなんて。計算外だわ」 ルミラの声、独り言の類だろう。 それを聞いてはっとなった芳晴は、慌ててハンカチなどの応急処置ができるような物を探した。 自分のデイバッグを押し開け芳晴は中身を確認し出すが、この暗闇でそれは難しい。 そんな中何か皮のような感触を芳晴は感じ、芳晴は勢いのままそれが何かも分からずデイバッグから取り出していた。 「!! 芳晴、それ貸してもらえないかしら」 声で振り返る芳晴の瞳に、とチラチラとこちらを見やるルミラの姿がぼんやり入り込む。 ルミラにはこれが何か分かるのだろうか、芳晴は即座にそれを彼女の方へと差し出した。 再び茂みの奥へと目をやりながら、ルミラは芳晴から受け取ったそれを手にして勢いのまま両手で横に払う。 月の光がほとんど入らないこの森で、しかし芳晴は確かにその正体を見た。 鈍く輝くシルバーは、この暗闇の中否が応でも目立つ存在となり芳晴の視界を支配する。 ごつい作りのナイフ、通称アーミーナイフ。芳晴が手にしていたのは、その刃を覆っていた皮カバーだったのだろう。 カバーを放り、ルミラは左手でナイフを構えると体勢を低く取り「準備」を整えた。 何の準備か。芳晴には、伝わらない。 ルミラの怪我を何とかするために芳晴はデイバッグの中を調べていたのだが、彼ももうその事は忘れてしまっているのかもしれない。 場を包む緊張感に、芳晴はごくりと大きく息を飲んだ。 そんな、いまだ地に腰を落としたままの芳晴が次の瞬間目にしたのは、大きな影と交差するルミラの姿だった。 飛び出してきた茂みの奥に隠れていた白い虎、その姿を目視する前にルミラは既に地を蹴っていた。 手にしたアーミーナイフを振るうが手応えがルミラの手に伝わることは無い、同じくルミラ目掛けて牙を向いてきた虎が飛ぶ時に軌道をずらしわざと陣地に彼女を取り込もうとしたのだろう。 ルミラが着地し体勢を立て直すまでのコンマ数秒、虎はそのタイミングを目掛けて彼女に向けてタックルを放った。 「く……っ?!」 予想以上に機転のかかる虎の動きに、ルミラも思わず声を漏らす。 思い体を引きずりながらも倒されるわけにはいかないと反射的に横に飛び、ルミラは虎の巨体を避けた。 瞬間鼻をつく生々しい異臭に、思わず顔をしかめるルミラ。 それは先ほどルミラが虎と交差したときも、嗅ぎ取れた臭いでもあった。 ルミラからしてみれば「最高の美酒」と例えてもいいかもしれない類のものであるが、この場では決して望まれないものである。 その指し示すモノが、この虎の辿ってきた道程を表していた。 「ははーん、成る程。そういうことね」 今度は大きく口を開け飛び込んでくる虎の牙目掛けナイフを振るう、そんなルミラの表情には確信めいたものがあった。 腕力では圧倒的な差があるだろう、しかしルミラはいなすようにナイフを払い虎の勢いを落としていく。 そのまま落ちゆく虎の瞼に、ルミラは躊躇も持たずナイフの切っ先を突き入れた。 唸り声、獣の上げる悲鳴が場に響く。 時間にしたら一分もかかっていない、冷静に対処するルミラの姿に焦りの色は無く彼女は自分のペースを崩すことなく大きな敵を地に伏せた。 そんな虎を足蹴にしながら、ルミラは改めて芳晴へと視線を送った。 「これだけの重装備を与えているっていうことの意味。やっと分かったわ」 「ルミラさん……?」 呆けるだけの芳晴に、距離できてしまったルミラの表情は窺えないだろう。 しかし、その自信のたっぷり込められた声で彼女の心理は芳晴にも何となくは伝わっていた。 バサッと髪を掻き揚げながら、ルミラは芳晴に向かって言い放つ。 「つまりこれは、島に放たれた虎を退治をするためのものなのよっ」 「な、何だってーっ!」 「正直、ここまで頭のいい虎って私見るの初めてなのよ。 動きも力も申し分ないわ、剥き出しの殺意から人に調教されたようにも思えない。 ……ここからは推測の域になっちゃうけど、きっとこの島にはこんな獣がたくさんいるんじゃないかしら。 ふふっ、何でそう思ったのか気になるかしら。あれよ、私の鞄に入っていたデータブック。 支給品のデータがこれだけあるということは、それだけアイテムを支給された人間がいるということでしょう? さすがにこの虎一匹に対し、これだけの人間が導入されるとは思えないわ。 この虎からする血の臭いは間違いなく人間のもの、人間と虎の争いは間違いなくあった。これは現実ね。 ここまで凶暴な虎は、確かに並大抵の人間では敵わないでしょう……頭もいいわ、それこそこの島を統治してもおかしくないかもしれない。 それで、もしこの島に住んでいた人間を駆逐して虎達が島を占領しようとしたら……芳晴だったら、どうする? 黙っている訳にはいかないでしょ、島を取り戻さなくちゃって思うでしょ? それで集められたのが、このアイテムを支給されたている人間達。 ……ん、でも虎退治なら、武器以外のアイテムなんて必要ないわね。矛盾がでちゃったわ」 「それ以前に無茶苦茶だーっ!!」 芳晴はやっとつっこめた。 「ああ、でもそうね。……これは、ゲームなのよ」 芳晴の言葉を無視し、ルミラはナイフを握りながら手をポンッと叩き納得がいったという感じで言葉を漏らす。 「そう。一匹でも多く虎をやっつけた人が勝者のゲーム。 賞金はないのかしら……って、イヤだわ、やっぱり現実を見ようとしてしまう自分にちょっと自己嫌悪」 「だから無茶苦茶ですって!!!」 「とにかく、賞金が出るならともかくこのゲーム自体に関して無知な私達が長くいることが得策ではないことだけは確かね。 エビルもとんだ所にノートを落としてくれたものだわ、さっさと見つけて離脱するのが一番ね」 「最後は納得だけどもうどこをつっこんでいいやら……って、ルミラさん!!!!」 芳晴が声を荒げたと同時に、ルミラの体は横転していた。 唸りを上げながらせり上がってきた虎の顔は真っ赤に染まっている、芳晴がその色を判断できたのはいつの間にか木々の隙間から漏れ出てきた月の光の影響だろう。 僅かな光源を頼りに見えるその景色、尻餅をつくルミラに向かって大きく口を開ける虎の姿に芳晴は思わず目を瞑る。 「……ごめんなさい、遊んでいるような時間はないのよ」 恐る恐る目を開けた芳晴の視線の先……ルミラの上半身は、なかった。 ルミラの上半身は埋没していた。真っ赤に染められた毛皮に包まれた、虎の口内に。 それは奇妙な構図であった。上半身が埋もれているはずのルミラだが、何故か右手だけは芳晴も捉えることが出来ていたのだ。 どこからか。 芳晴の目が見開かれていく、そのタイミングで吹き出る血の出所は虎の首周辺だった。 虎の毛皮と同じく、真っ赤に染まっているルミラの腕。その先端には握られた芳晴の支給品でアルアーミーナイフがきらきらと輝いている。 ゆっくりと崩れていく虎から這い出るように立ち上がったルミラの姿、毅然としたその背中は虎の体液と血液でべとべとになっていた。 「さ、これで本当に終わりよ」 芳晴へ振り返り、微笑むルミラの表情にはいつもの彼女の余裕があった。 受けた外傷は最初の左肩のもののみ、噛み砕かれる直前に止めを指したことで口内に飲み込まれた際にルミラが受けたダメージというのもほとんどなかったのだろう。 芳晴は、心の底から安堵していた。 一歩間違えればルミラの命は失われていたのだ、緊張に満ちた時間が本当に終わったという事実に芳晴の気が抜けてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。 こちらへと向き直るルミラの凛々しさが眩しくて、芳晴は高鳴る鼓動に自身でも酔いしれそうになる。 しかし次の瞬間、ルミラの体は芳晴の佇む方向へとぐらっと傾いていた。 「ルミラさん!!」 崩れ落ちそうになるルミラの体を支えるべく芳晴は駆け、地につく前の間一髪といった所でその赤く染まった肩に手を添えた。 しかしルミラの体は沈む一方である、ゆっくりとした速度で芳晴はルミラと共に地面へと座り込んだ。 「ルミラさん……?」 ルミラの体は獣の血で濡れそぼっていた。 その温度自体もグロテスクに感じ、漂う生臭さも交わり芳晴は胃液が込み上げそうになるのを必死に抑えながらルミラへと声をかけた。 そっと呼んだ彼女の名前、しかし芳晴の声にルミラからの反応は返ってこない。 ルミラの肩に手をやっていたため、既に芳晴の手のひらも血液でベトベトになっていた。 もう気にしていては仕方ないだろう、芳晴はルミラの背後へと手を回しその女性特有の細さがよくでている背中を撫で始めた。 気分を害してしまったのかもしれないと、芳晴なりの気遣いの一つである。 その間も、ルミラはピクリとも動かなかった。 しばらくの時間が過ぎさすがの芳晴も事のおかしさに気づいたところで、改めてルミラの表情を確かめようと俯く彼女の顔を覗き込もうとする。 月の光が多少ましには入るようになったと言えど、それでも薄暗い景色の中行われる芳晴の行為には多少無理があった。 ただ、眠っているかのような全くの反応の無さだけが不気味に感じさせ、それは芳晴の心を戸惑わせる。 「ルミラさん」 小さく、掠れた声でもう一度芳晴はその名を呼んだ。 その中で思う、奇妙な一つの事について考えながら芳晴は声を漏らしていた。 ……芳晴が肩に手を当てていた時に比べ、妙な生暖かさが今彼の手を包んでいる。 それは、ルミラの背中に回している芳晴の右手が得ている感覚だった。 恐る恐るルミラの体を抱き込むようにしながら、芳晴は彼女の背面を覗き込もうとする。 何も考えられず、起こりうることへの余地もできないまま芳晴は現実を直視することになる。 見開かれる芳晴の瞳に映ったのは……ルミラの首に刺さっているのは、一本のナイフだった。 何も考えられず硬直しかける芳晴の思考回路の循環、それを戻したのはガサッと小さく鳴った草木を踏みしめる音だった。 「……おやおや、何やら一人でブツブツしゃべってると思ったらもう一人いたのかい」 全く聞き覚えのない可愛らしい声。 思わず振り返る芳晴は、その視線の先にいた人物とお互い見つめ合うように視線を交わすことになる。 茂みの奥、一筋の光が表すその場所には一丁の拳銃を手にした少女が一人佇んでいた。 着用している衣服が全く持って場にそぐわない、赤を基調としたデザインの服に芳晴は呆けそうになるが……それは、一点の疑問で止められる。 彼女の着用しているシャツは、本来白やオフホワイトのような色調でできているはずだった。 似たようなデザインの制服が使用されているファミレスを芳晴も利用したことがあり、それは間違いないであろう。 白いシャツには、首部分から腹部辺りまでに大量の「何か」が染みこまれた様な跡があった。 微かに確認できたその色調が、今抱きかかえているルミラの体を包むそれと同じことだと認識できた時……芳晴の現実は、さらに揺れることになる。 「悪いねぃ、見つけちゃったからには狩らねばいけない。それがあちきの道理なワケよ」 少女の手にする拳銃の先が、芳晴に向けて固定された。 芳晴はその様子を、まるで他人事のように見つめるしかなかった。 城戸芳晴 【時間:2日目午前5時半】 【場所:H−9】 【持ち物:名雪の携帯電話のリモコン、他支給品一式】 【状況:エクソシストの力使用不可、他のメンバーとの合流、死神のノート探し】 【備考:バトルロワイアルに巻き込まれていることを理解していない】 朝霧麻亜子 【所持品:某ファミレス仕様防弾チョッキ・ぱろぱろ着用帽子付、SIG(P232)残弾数(1/7)・バタフライナイフ・制服・支給品一式】 【状態:貴明とささら以外の参加者の排除、着用している制服にはかなりの血が染み込んでいる】 ムティカパ 死亡 ルミラ=ディ=デュラル 死亡 ルミラの持ち物(アーミーナイフ、全支給品データファイル、他支給品一式)はルミラの死体傍に放置 投げナイフはルミラの首に刺さったまま - BACK