「理科室は良かった」 蒼天の下、少女は白い歯を見せて笑う。 「私ではなく薬品棚を狙ったのには驚きました。 もう少しで大火傷をするか、ガスで気管をやられるところでした」 瞳に暗い煌きを宿して、 「三階の廊下も素敵でした。あれ全部の角度を計算したんですか? 避ける隙間を与えなければいいっていう発想は、正しかったと思います」 歪に笑う。 「でも」 照りつける太陽を嘲笑うように、少女の表情には一片の輝かしさもなく。 「あれじゃ、死ねないですよ。……もう少しだけ、足りないです」 澱んだ風のように、濁った水のように、薄暗く。 「もう少しだけ鋭く。あと少しだけ激しく、ほんの少しだけ容赦なく、私を蹂躙してください」 ちろちろと、人の脂で燃える焔のように、陰惨に。 「そうでなきゃ、私、死ねないです」 少女は、笑んでいた。 *** ―――午前十一時四分、鎌石小中学校。 校舎のいたるところに大穴を開け、そこから盛大に炎と煙を上げる西棟の、倒壊しかけた屋上に、 二人の少女が向かい合っていた。 だらりと下げた手に、最早動くこともない砧夕霧の遺骸を掴んで笑む少女の名を、松原葵。 対して風の中、巻き上がる火の粉を避けることもなく、どろりと濁った眼で葵を見返す少女の名を、月島瑠璃子といった。 「鬼ごっこは、終わり。……ようやく、ようやく殺してもらえるんですね」 ぱちぱちと炎が爆ぜる音の中、うっとりと、葵が呟く。 熱風を愛でるように拳を固め、黒煙をいとおしむように片脚を踏み出す。 「何を用意してくれてるんですか? どんな絶望を、どんな惨劇を、どんな奇禍を?」 うっすらを頬を染めさえしながら、葵がじり、と歩を進める。 右の拳を引き、半身のまま摺り足を進めるその耳朶を、奇妙な音が打った。 ―――ころころころ。 土鈴を転がすような、高く、それでいてどこか篭った、歪んだ音。 音は、正面から。 見れば俯き、口元に手を当てた月島瑠璃子が、肩を震わせていた。 それは、笑みだった。弓形に細められた、どろりと濁った目が、葵を見据えている。 ころころころ。 奇態な笑い声を上げる瑠璃子に、一際強い風が吹き付けた。 短い髪がばさばさと風に靡く。 それを片手で押さえながら、瑠璃子が、奇妙な一言を口にした。 「終わり」 「え?」 「……」 「今、何て……?」 あまりにも短いその言葉の意味を理解できず、葵は思わず聞き返してしまう。 その様子を見て、ころころと、瑠璃子が笑う。 「だから、終わり」 「それは、どういう……」 「ここで、終わり。これで、終わり」 ころころころ。 「ええ、だから私を、終わらせてくれると、」 「そうじゃないよ」 それは、ひどく鋭利な声音だった。 葵の問いを斬り捨てるような響き。 「そうじゃない。……私はもう、何もしない。何もできない」 「……な、」 ころころころ。 言い終えて笑む瑠璃子の眼前で、葵は思わず絶句していた。 奥歯を噛み締めながら、どうにか声を絞り出す。 「冗談は……やめてください」 「冗談なんかじゃないよ」 「あ、……あなたは、私を終わらせるために、いるのだから、」 「―――揺らがないあなた」 陽炎と黒煙に包まれる世界の中に、瑠璃子の声が響いていた。 「あなたは揺らがない」 「え……?」 「終わりを求めるあなた。踏み躙られて死ぬことを望むあなた。この世の苦しみのすべてを目指すあなた。 そんなところを目指して、ただ真っ直ぐに転げ落ちるあなたは、もう揺らがない」 「何、を……」 ころころころ。 「―――だから、私はあなたを、終わらせてあげない」 白く歪んだ笑顔が、強まりゆく炎熱の中で、葵を射抜いていた。 轟と吹く熱風の隙間を埋めるように、ころころと笑い声が響く。 だん、と鮮烈な音がした。葵が、その脚を強く踏み出した音だった。 泣き笑いのような表情で、瑠璃子をねめつける。 「いや、……そんな、そんなことって、ないじゃないですか」 ようやくにして葵の口から出たのは、ひどく弱々しい、線の細い声だった。 淀んだ熱を切り裂くように、固めた拳を真横へと振るう。 「あなたは、私を壊してくれる、って、だから、」 「―――あなたは、終わらない」 ころころころ。 「あなたは、強くなれずに、生き続けるんだよ」 「そんな、でも、私を壊すために、」 ころころころ。 「残念だったねえ。あなた、は―――」 瑠璃子の言葉が、そこで途切れた。 葵の正拳が、瑠璃子の鼻骨にめり込み、粉砕していた。 瑠璃子の華奢な身体が、紙くずのように吹き飛ぶ。 「……そんな」 拳を振りぬいた姿勢のまま、葵が呟く。 粘性の高い瑠璃子の鼻血を拳にまとわりつかせながら、それを拭おうともしない。 「そんな、そんな、そんな」 からり、と音がした。 瑠璃子が、その白い貌を鮮血で汚したまま、ゆっくりと立ち上がろうとする音だった。 瞬間、葵が動いていた。 爆発的な踏み込み。一瞬にして距離を詰めると、右足を軸に上体を捻る。 軸足、蹴り足、腰、上半身、肩、肘、手首。 捻りきった身体がほんの刹那、静止し、そしてすべての動きが反転する。 全体重と遠心力を乗せた拳が、下から瑠璃子を直撃した。 身を起こしかけた瑠璃子の上体を抉るようなアッパーカット。 ご、と硬い音がした。 骨と骨がぶつかり、片方が砕ける音だった。 なす術もなく吹き飛び転がった瑠璃子の右の眼窩が、大きく陥没していた。 「それじゃ、困るんですよ」 か細い声で呟きながら、葵が加速する。 疾走の勢いのまま、倒れた瑠璃子の腹を蹴りつけた。 けく、とおかしな声を漏らしながら、身体をくの字に曲げて瑠璃子が転がる。 階下の炎に熱されたコンクリートの床で擦れ、瑠璃子の白い肌が見る間に赤くなっていく。 「殺してくださいよ」 その襟首を掴んで、強引に引きずり起こす。 ゆらりと後ろに傾いた葵の頭が、猛烈な勢いで振り下ろされた。 顔面を砕かんとする頭突きに、嫌な音がして、瑠璃子の前歯が何本かまとめて折れた。 潰れた瑠璃子の鼻が、べしゃりと血と粘液を撒き散らしていた。 「ちゃんと、終わらせてくださいよ」 瑠璃子の歯に当てて切ったか、額からだらだらと血を流しながら葵が言う。 襟を掴んだまま、空いた拳で瑠璃子を打ち据える。 ごつ、ごつ、と短いスパンで硬い音が響く。 「ねえ、私、負けたんですよ」 青黒く膨れ上がった瑠璃子の顔を見つめながら、葵が言葉を紡ぐ。 その声音は痛切で、どこか泣き声のようにも聞こえた。 「正義も大義もないあなたに、負けて、それで、だから」 絞り出すようなその声を、遮るように。 ごろごろと、奇妙な音が、瑠璃子の咽喉から漏れていた。 込み上げる血と気泡の混じった、それは瑠璃子の、濁った笑い声だった。 ごろごろごろ。 「……ああ、」 瑠璃子の、ズタズタに裂け、醜く膨れ上がった唇が、震えた。 咄嗟に葵が顔を寄せた。 一言一句さえ聞き漏らすまいとするその目尻には、涙さえ浮かんでいる。 奇跡を信じる磔刑の受刑者のような、託宣を受け取る敬虔な信者のような、それは表情だった。 蹂躙を待望する少女が、悪意の少女の言葉を、待つ。 ごろごろごろ。ごろごろごろ。 濁った笑い声の後で、瑠璃子が口にしたのは、ただ一言。 「―――ヒトがコワれるのは タノしいねえ。」 それが、月島瑠璃子の最後の言葉だった。 ごろごろという笑い声が、やがてぶくぶくと泡立つような音に変わる。 肺と気管に、血が満ちているのだった。 やがて泡立つような音も、消えた。 *** 蒼穹の下、炎と煙の中で、葵は動かなくなった瑠璃子の身体を揺さぶっていた。 「待ってよ、ねえ」 瑠璃子は答えない。 ぱちぱちと炎の爆ぜる音だけが、葵の耳に届いていた。 「そんなの、おかしいよ」 瑠璃子は答えない。 じんじんと、煙が目に染みる。 「それじゃ、話がおかしいじゃない」 瑠璃子は答えない。 がらがらと嗄れた己の声だけが空しく響く。 「私は、ここで、」 瑠璃子は答えない。 ちりちりと、頭が痛む。 「ここで、終われるはずだったのに、」 瑠璃子は答えない。 ちりちりと、身体が痛む。 「ねえ、何とか言ってくださいよ」 瑠璃子は答えない。 ちりちりと、心が痛む。 「ねえ。ねえ、ねえ、ねえ、ねえ……ねえってば……、答えてよ……答えて、答えて、答えてよ……ッ!」 瑠璃子は答えない。 しかし、 ―――ほぅら、コワれた。 聞こえるはずのない声が、燃え落ちる校舎の上、蹲る松原葵の中に、ちりちりと響いていた。 【時間:2日目午前11時ごろ】 【場所:D−6 鎌石小中学校・屋上】 松原葵 【所持品:なし】 【状態:瓦解】 月島瑠璃子 【状態:死亡】 砧夕霧 【残り8978(到達・142)】 【状態:進軍中】 - BACK