来栖川という集合体は、この国を動かしている。 幼い頃に形成された自身の認識がそう的外れでないことを、十数年を経て来栖川綾香は理解していた。 金融、物流、建設、不動産、電機、薬品、情報通信、食品、エネルギー、そして重工業。 それぞれの分野において、来栖川という名前は特殊な意味を持っていた。 貪欲に成果を追求し、時に互いを喰い合いながら、来栖川はこの国の経済と産業を発展させてきた。 戦火によって逼迫した国家を銃後で支えているのは来栖川に他ならなかった。 来栖川重工は軍需企業である。 各種兵器のライセンス生産から新兵器の開発提案、あるいは試作機の製作までを請け負い、 特に陸戦車輌と銃器に関しては他の追随を許さないシェアを誇っていた。 戦時下において莫大な利益を生み出す来栖川経済域の花形であり、そして、それだけだった。 綾香は、来栖川重工副社長という己の肩書きの意味を、よく理解していた。 将来的にはグループの要となり、一族の重鎮として睨みを利かせること。 そうして本家の当主たる、来栖川芹香とその夫を支えること。 それだけが、来栖川の人間として綾香が期待されていたすべてだった。 望むと望まざるとにかかわらず、それは確定された未来図だった。 自由を望んだこともあった。 来栖川の名が動くということの意味を、思い知らされただけだった。 要が揺れるということが、この国とそこに生きる人間の命運を根底から揺さぶることに直結すると 眼前に突きつけられれば、幼い綾香に抗う術などありはしなかった。 そして来栖川芹香は、来栖川綾香以上に大きな意味を持つ名前だった。 その芹香の行方が、分からないという。 最悪の事態ともなれば、来栖川という岩盤に激震が走る。 それは取りも直さず、国家そのものの危機といってよかった。 影響を最小限に留めるために、上はあらゆる策を講じるだろう。 当然、その隙を狙う者も出てくるだろうし、またそれを見越して保身に走る者も多いだろう。 混乱と変革に揺れる危急存亡の国家。 それは綾香にとって、ひどく甘美な妄想だった。 来栖川芹香の無事を願う自分が、綾香の中にいる。 肉親としての情以上に、芹香という存在が、自身の精神の安定を保つのに不可欠であると綾香は考えていた。 来栖川というあまりにも特殊な立場は、芹香以外の誰とも共有し得ないものだった。 芹香という人間のもたらす理解と共感は、綾香を構成する重要な要素だった。 一度喪われてしまえば取り返しのつかない、それは綾香という存在の土台だった。 その程度には、来栖川綾香という人間の精神は姉に依存していた。 そしてまた、姉の無事を願うのと同じだけの比重をもって。 綾香の中には、来栖川芹香の死を望む自分が、いた。 *** 「……下らない」 小さく呟いて益体もない思考を噛み潰した綾香が、目を開ける。 傍らに立つ機械人形、HMX-13セリオへ向けて口を開いた。 「で、痕跡は」 「……血痕等も含め、確認できません」 「そう」 表情を顔に出さぬまま頷くと、綾香はすっかり短くなった髪に手を差し入れ、かき上げた。 太陽を見上げる。 「……あんたはこのまま捜索を継続して」 「はい。……綾香様はいかがなさいますか」 「私は、あいつらを追う」 顎で指し示した方角には、神塚山が聳えていた。 無言のまま返答しないセリオを、綾香は睨み付ける。 「……何よ」 「いいえ、……ご命令は以上でしょうか」 「……姉さん見つけたって、島ごと焼かれたらどうしようもないでしょ。 時間がないから手分けする、以上終了。……文句ある?」 「……いいえ。それでは、芹香様の捜索に当たります。KPS-U1が破損していますので、通信はできませんが」 「構わないわよ、どうせ私の行く先は決まってる。姉さん見つけたら追いかけてきなさい」 「はい、綾香様。……それでは、失礼いたします」 「……あ、ちょっと待って」 踵を返して歩き出したセリオを、しかし綾香は呼び止めていた。 振り返ったその無表情な顔に向けて、綾香が銀色に閃く何かを投げる。 放物線を描いて飛んだそれは、難なくセリオに受け止められていた。 「……」 セリオが手の中にある物を見つめる。 それは華奢な作りをした、小さな銀の鋏だった。 悪戯っぽく、綾香が笑う。 その指先は、無造作に切られた己の髪を摘んでいた。 「こんなんじゃ、格好つかないからさ」 「……」 「毛先だけ、整えてってよ」 大至急でね、と付け加えたその足元には、どこから出したものか小さな折り畳みの椅子まで用意されている。 座り込んで後ろを向く綾香。 間を置かず、その後ろ髪が軽く梳かれる感触がした。 「悪いね」 「いいえ」 しゃき、と心地よい音がする。 切り落とされた短い黒髪が、はらはらと風に舞っていく。 「……」 「―――」 沈黙を埋めるように、そよ風が梢を揺らす音と、鋏が毛先を落としていくリズムのいい音が響いていた。 うなじが風に当たる感覚にくすぐったさを覚えながら、綾香は膝の上に置いたバッグに手を差し入れる。 しばらくがさごそと何かを探していたが、やがてその手が目的のものを取り出した。 それは、掌に乗るほどの、小さな黒いケースだった。 後ろ髪を梳いていた手が、止まる。 「……綾香様、それは」 「うん」 小さく頷いて、綾香がケースを開けた。 中に入っていたのは、橙色のガラス容器―――数本のアンプルと、プラスチック製の注射器だった。 綾香が慣れた手つきでその注射器の包装を取り除いていく。 「いけません、綾香様」 「わかってる」 言いながら、首元までの一体成型となっているアンダースーツのジッパーを下げる綾香。 そのままスーツを躊躇いなく引きおろした。 形のいい乳房が惜しげもなく陽光の下に晒されるのを気にした風もなく、綾香は袖から腕を抜く。 白い上腕にゴムバンドを巻きつけると、程なく青黒い静脈が浮き上がってきた。 「警告させていただきますが、そのアンプルは非常用の―――」 「……いつもより、ちょっとだけ頑張れるクスリ」 「劇薬です」 綾香の欺瞞は、言下に否定される。 「わかってるから、さ」 「痛覚を麻痺させ、運動機能を倍化させると共に精神を極端に高揚させる……しかし副作用は大きく、」 「わかってる、わかってる、わかってる」 声を荒げるでもなく、しかし不思議な迫力をもって、綾香はセリオの言葉を遮った。 橙色のアンプルを、透徹した瞳で見つめながら言葉を続ける。 「こんなの打って全開で戦ったら、何が起こるかわかんない。もしかしたら、明日あたり死ぬかもしれない」 「……」 「けど―――」 瞳には迷いなく、 言葉には躊躇いなく、 口元には笑みをすら浮かべて。 「たとえ明日死んだって、今日負けるのは、いやだ」 静かに、言い放った。 声も、鋏の音もなく、風だけが吹き抜けていく。 梢の揺れる音が、そうしてしばらくの間、空間を満たしていた。 「……なんて、ね」 沈黙を破ったのは、綾香のはにかんだような声だった。 肩越しに振り向くと、見下ろすセリオの無表情に、歯を見せて笑ってみせる。 「ね、……髪、ちゃんと切ってよ。お願い」 それは、来栖川綾香がこの島に来てから初めて見せた、年相応の少女らしい、笑顔だった。 *** 神塚山に向かって歩き出す少女の背中に向けて、セリオは深々と頭を下げていた。 足音が聴覚素子に捕捉できなくなるまで待って顔を上げたセリオの視線は、やはり少女の歩む先へと向けられていた。 誰一人、聞くものとてない静かな林道に、呟くような声が響いた。 「ごきげんよう、綾香様」 視線はいささかも揺るがない。 ただじっと、神塚山の方角を見据えていた。 「どうか、あなたの行く先が美しくありますように」 その表情には、ただ一片の感情も、浮かんではいなかった。 蒼穹と陽光の下、澄んだ大気を侵すように、重く、低く、その声は響いていた。 【時間:2日目午前11時前】 【場所:G−7】 来栖川綾香 【所持品:各種重火器、こんなこともあろうかとバッグ】 【状態:ラーニング(エルクゥ、(;゚皿゚)、魔弾の射手)、短髪、ドーピング】 セリオ 【状態:グリーン?】 イルファ 【状態:スリープ】 - BACK