芳野祐介は、呆然とその光景を見つめていた。 草木を彩る鮮烈な赤の波、漂う異臭をぽつりと垂れる僅かな雨水が拡散させている。 それでも、その赤い水の量は雨水なんかを遥かに凌駕するものだった。 それこそ雨水のおかげでさらに濃度の薄まったそれが広範囲に広がっていく様は、見ていて吐き気を催させるものである。 己の手で自分の口を押さえながら、芳野はその中心を食い入るように見つめていた。 そこに転がっているものが何なのか、見定めようとしていた。 ……信じられないだろう、しかし芳野の目の前の現実はそうとしか表せない。 そこに転がっているのは、『下半身』としか呼べないものだった。 泉の中心にて足を大きく広げ寝そべっている姿、人のものに間違いないだろう。 しかしそれは、途中で途切れてしまっている。 ないのだ。胸部より上の部位が、ばっさりと切り取られているのだ。 ……切り、とられた? 近づき、赤い水溜まりを気にせずそれを覗き込んだ芳野の中に不信感が生まれる。 その部位に値する場所は、「切る」なんて生易しい表現で済むようなものではなかった。 千切った。周囲の皮をも巻き込んだ力技にも思える肉の異様な流れ、そのグロテスクさにその場で胃液を芳野は漏らす。 何故こんなことになったのか。 何故こんな様が、目の前で晒されることになったのか。 一体この下半身は誰のものなのか、芳野は軽く痛みを訴える頭を使い考え込む。 薄暗い夜明け前のこの様子では、色の判断は難しかった。 しかし着衣されているものはどうせ真っ赤に染められていて、そもそも色で識別を図ろうなんてことを考えること自体が馬鹿げているのだろう。 なら何を参考にするか。簡単である、この下半身が着衣している服のデザインで考えれば良いことだ。 短パンにパレオといった特徴的なそれ、一晩一緒にいたことから勿論芳野にとっても見覚えのあるものである。 何故か短パンのチャックが下りていて男性器がさらされていた、シチュエーションとして意味は不明である。 芳野が視線をさらに下の方へ送ると、しなやかな筋肉のついたふくらはぎにはすね毛が男の勲章として君臨しているのが彼の目に入る。 柳川祐也で、間違いないだろう。 外に排泄をする場所を探しに行った男の無残にも変わり果てた姿が、この芳野の前で横たわる肉の塊だった。 長森瑞佳をトイレまで案内し、芳野は再び見張をするべく先ほどまでいた場所へと戻った。 静かな時間が順調に流れる、このような自分一人の時間を満喫することがなかった芳野にとっては良い気分転換であろう。 ……伊吹公子を失った悲しみが芳野の胸を締め付ける、何だかんだで瑞佳や柳川の大きな存在感というのは芳野の心を暗い方面へと持って行く暇など与えないでいた。 それは救いだったかもしれない。 自暴自棄になり、公子を殺した参加者を始末するべく誰彼構わず襲い掛かる可能性というのも芳野は所持していない訳ではなかった。 瑞佳という少女は足かせではあったが、そういう意味では抑制になっていた。 柳川と合流してからは緊張感のない騒がしさのおかげで、芳野は殺し合いに参加させられていること自体忘れかけていた。 馬鹿馬鹿しいと思うものの、それはさりげなく存在した一つの日常であった。 ―― では、芳野が目にしたあの光景は何か。 柳川が外に出てから一時間程経っても、彼が戻ってくる気配は一向になかった。 会っていないという意味でなら瑞佳もそれに当てはまるが、彼女についてはそれこそトイレの後また部屋に戻り再び眠ったと考えるのが自然であろう。 だから、芳野も不信には思わなかった。 ……だが、柳川は違う。 頑なにトイレにて排泄をするという行為を拒むという頭のおかしい行動をとった柳川の思考回路を、芳野が理解できるはずはない。 そこまで遠くに探しに行ってるのか。それとも、何か弊害でも起きたのか。 どうすればいいのか、まどろっこしくなりそうな事に対し芳野も重い腰を上げる。 下手に考えることで時間を潰すよりも、行動に移ったほうが効率的だと判断したのだろう。 駆ける芳野の力強い足音が廃墟に響き渡る、外に出ると同時にエコーも消え芳野の耳に静けさが戻った。 鼻の頭に落ちてくる水滴、芳野が見上げるとポツリと振ってきた雨水がもう一滴垂れてきた。 ……雨の勢いは、決して強いものではない。 それこそ数秒間に一滴づつというレベルなので、雨自体が本格的に降ってくる様子も現状では確認できないだろう。 そんな違うものに気を取られた芳野の意識を掴みあげたのが、例の赤い惨状だった。 雨はほんの五分程度しか続かなかった。 見上げた雲の色は白い、再び降ってくる様子もないだろうと芳野は思った。 そんな、余りにも短い時間。この雨の存在に気づいた参加者は何人程いるだろうと、芳野はこっそり考えた。 それは、言うまでもなく現実逃避だった。 とぼとぼと廃墟内へと再び入り例の見張をしていた場所に戻ると、芳野はその場にどっかりと座り込んだ。 そのまま、頭をくしゃっと抱え込む。芳野は混乱していた。 『柳川を探しに行こうと思ったら、遺体となって転がっていた』 冗談でも何でもなかった、何故このようなことが起こったのか芳野でなくとも不思議に思うだろう。 残された下半身、さらけ出された男性器、すね毛。 意味が分からなかった。あれが何を指しているか、芳野は想像すらできなかった。 首輪が爆発した? 芳野は小さく頭を振る。 部位には肉が焦げた痕などなかった、それ以前にこんな近距離で爆発などしたら芳野の耳にも間違いなく届いたであろう。 それはない、可能性を一つ潰す。 何者かに襲われた? これが妥当なものだろうと芳野は小さく首を縦に振る。 しかし、芳野は柳川から彼自身の経緯を耳にしていた。 柳川曰く、彼は現代日本にて僅かに存在する「鬼」の末裔らしい。 このファンタジーな話を聞き流した芳野は、柳川のことを頭のおかしくなってしまった可哀想な人だと即座に判断した。 が、実際柳川の戦闘能力は決して低いものではなかった。 これはたまたまであるが、つっこもうとして裏拳を突き出した芳野の腕を反射的に捕らえた柳川は、それを当たり前のように渾身の力で捻りあげてきた。 突然のことだと加減ができない。そう口にするクールな眼鏡の奥に在る瞳、柳川のそれは全く笑っていなかった。 そんな男が、いかにしてあのような状態になったのか。 考えれば考えるほど、芳野の頭はこんがらがっていくばかりである。 ……一人で煮詰まっていては仕方ない、芳野の心は件を他者である誰かに相談したい思いで膨れ上がった。 再び腰を上げ、とぼとぼと芳野が向かった先は瑞佳が休んでいるベッドのある客間であった。 小さく扉をノックする芳野、しかし反応は返ってこない。 瑞佳は多分眠っているのだろう、それを起こしてしまうのは可哀想かもしれないと芳野の良心が少し痛む。 しかし考えてみれば起きた事実を早急に知らせる義務もあると言い聞かせ、芳野はそっとドアノブに手を伸ばした。 握ったそれに違和感はない、鍵はかけられていなかった。 ゆっくりとドアを開け、芳野は細い隙間から部屋の様子を窺った。 埃やカビの類である古くさい臭いが瞬時に芳野の鼻をつく、明かりの灯っていない部屋の様子は簡単に目視できるものではなかった。 部屋の中に設置されている窓にはカーテンがかかったままなのだろう、芳野はそのままゆっくりと扉を開け廊下の窓から差し込む月の光を部屋の中にも導いた。 静まり返った部屋の様子が、芳野の視界に晒される。 しかしそこは、いくら確認しようとも人がいる気配など一切なかった。 ゆっくりと、部屋の隅に位置するベッドへと近づいていく芳野。 乱れたシーツは人が使用した痕跡をまざまざと見せ付けてくる、だが肝心の主がそこにはいない。 手を差し出し芳野も直に触れてみたが、そこに温もりは全く残されていなかった。 ……おかしい、それならば瑞佳は一体何処へ行ったというのだろうか。芳野の眉間に皺が寄る。 その時だった。 部屋を出て、廃墟の中を探索しようとした芳野の脳裏に柳川の言った言葉が蘇る。 馬鹿な。ありえない。芳野は即座に首を振った。 だが芳野の心とは反し、彼の足は真っ直ぐその場所へと向かおうとしていた。 そこは、一時間程前に芳野も訪れた場所だった。 休んでいた瑞佳が目を覚まし、この場所を求めたからである。芳野は彼女をこの入り口まで案内した。 一時間。その間に再び尿意をもよおしたと考えれば、別に複数回訪れても全く違和感のない場所ではある。 目を瞑り邪念を払う、芳野はそのま無言で扉をノックした。 ……反応は、ない。 試しにノブを手にしてみる、しかし力を込めても回らないことから鍵が中からかけられていることは芳野にも簡単に想像できた。 中に誰かがいるという可能性は、ここで一気に肥大したことになる。芳野はもう一度ノックを繰り返した。 と、何やら芳野の鼻が中から漂ってくる異変を感じ取った。 生々しい、それはそんな言葉でしか表せない臭いだった。 そして、それはつい先ほど芳野が嗅いだ物と全く同じ類のものだった。 芳野の鼓動が一際速く鳴り響く、焦る気持ちを隠そうともせず芳野は瑞佳の名前を呼びながらひたすらトイレのドアを叩いた。 終いには血すら滲んでくるものの、芳野は気にせず拳をドアへと打ち続けていた。 しかしどんなに芳野が叩いても、叫んでも。扉の向こうから、何か返ってくることはなかった。 このままではいけない、一刻も早くドアを開けなければいけない。芳野の思いは、その一点に集中する。 拳では駄目だということで、今度は芳野は足を使い始めた。 鈍い音が響き渡る、間髪いれず蹴りを放ち続けることで芳野はこの扉を破壊しようとした。 そもそもこの建物自体、初期に参加者を収容する施設に使われていたことにより強度自体は大分下げられているものだった。 仕掛けられた爆弾を爆発させられているからである、ただでさえ年代物の建物である故それこそこの中で銃撃戦でも繰り広げてみれば倒壊させることもできるだろう。 そんな建物、みしっと嫌な音を立てながらドアのネジが外れるのはそれからほんの数分もかからなかった。 できた隙間に指をつっこむ、芳野はそのままドアを力任せに引き開けた。 ドアの先、そこは洗面所の類は存在せず、トイレの個室が構えられているだけだった。 質素な作りの一室、置かれた様式の便器には芳野が探し求めていた少女が座り込んでいる。 しかし、芳野の表情がそれで晴れることは無かった。 嫌な予想が当たってしまったということが、芳野の心をさらに傷つけた。 少女は……瑞佳は、全裸だった。 幼なじみでもある折原浩平にも見せたいと言っていた、あの可愛らしい制服は影も形もない。 その代わり、彼女自身のものであろう真っ赤な血が瑞佳の体を染めていた。 血は、瑞佳の首から垂れたもののようだった。 口を半開きにしたまま眠るように固まっているそれは、間違いなく遺体だった。 ぐしゃり。瑞佳へと近づこうとした芳野の足が、何かを踏みつける。 視線を下に向ける芳野、そこには丸まった布が放置されていた。 無言で、恐る恐るその布地を芳野は掴み上げる。 下水のような汚臭を放つそれを広げると、形態から着物の類のものらしいことが窺えた。 何故こんなものが。 それを再び地に放ると、芳野はそっと瑞佳の頬へと指を這わせた。 冷たかった。どう考えても、死んですぐの人間の体温ではないだろう。 何がどうなっているのか。 蘇る柳川の言葉、突きつけられた意味の分からない現実。 トイレの側面に作られている窓、開け放たれたそこから入ってくる風の冷たさが芳野の体を冷やしていく。 頭も、心も。何もかも。 芳野祐介 【時間:2日目午前5時半】 【場所:H−7、元スタート地点の廃墟】 【持ち物:某ファミレス仕様防弾チョッキ、フローラルミント着用・繋ぎ・Desart Eagle 50AE(銃弾数4/7)・サバイバルナイフ・支給品一式】 【状態:呆然、両手軽傷】 朝霧麻亜子 【所持品:某ファミレス仕様防弾チョッキ・ぱろぱろ着用帽子付、SIG(P232)残弾数(1/7)・バタフライナイフ・投げナイフ・制服・支給品一式】 【状態:既に離脱済・貴明とささら以外の参加者の排除、着用している制服にはかなりの血が染み込んでいる】 長森瑞佳 死亡 着物(臭い上に脇部分損失)はトイレの床に放置 - BACK