もう泣かないで




温度を感じられぬ風の中、少女は静かに黒翼を広げていた。
細い銀髪が音もなく靡く。
白くしなやかな手指が、風を愛でるように天へと向けられていた。

「カ、ミュ……?」

そんなはずはないとわかっていて尚、声が出た。
黒翼の巨神像はまるで眼前の少女をモチーフにして造形されたかのようではあったが、
生身の少女と巨像の間には差異がありすぎる。

『……私はムツミ』

案の定、否定された。静かな声。
背に翼を生やした人ならざる少女は、天へと向けていた指を緩やかに下ろしていく。
瞬間、周囲の景色が変わった。


***


移り変わった光景は、緑も疎らな岩場だった。
そこに、人と、人であったものが、ひしめいていた。
立ち尽くす者と斃れ伏す者、生者と死者がただ渾然と入り混じり、そこにいた。
そのすべてが同じ顔をしているのを、私は何の興味も浮かべずに眺めていた。
悉くが少女だった。眼鏡をかけている。
傷を負う者がいた。白い肌を無残に晒す者がいた。己の腹からはみ出した臓物を眺めながら息絶えている者がいた。
誰一人として、口を開くこともなく、そこにいた。
死の価値も生の価値もない、それは地獄と呼ぶにふさわしい光景だった。
多すぎる生と多すぎる死が、私の心から熱を奪っていく。
一瞬煮えたぎりかけた感情が、また元の暗い淵へと沈んでいくのを感じた。
陽光に照らされた世界が不快で、目を閉じようとした。
だがそれを赦さないものがあった。

『―――――――――――――――』

音だ。
瞼を閉じようとした瞬間、凄まじいまでの音が、私を包んでいた。
高く、低く、大きく、小さく、遠く、近く、無数に響く音。
咄嗟に耳を塞いでも意味はなかった。
音の波は私の全身を殴りつけるように響いていた。
眩暈を通り越して吐き気を覚えるような、実体を持った音の暴力。
のた打ち回りたくなるような衝動。
思わず、声が出ていた。搾り出すような絶叫。聞こえなかった。
空間を埋め尽くす無数の音は、私一人の叫び声など容易く掻き消してしまっていた。
叫んでも、叫んでも聞こえない。
咽喉が痛い。咳き込んで、苦しくて、音はそれでも私を責め苛む。
苦痛のあまりに涙を流しながら、音にならない絶叫を上げ、咳き込んで身を歪める。
音という集合体に飲み込まれて消える、私自身の絶叫。
そんなことを繰り返す内、気づいた。

―――これは、声だ。
この猛烈な音の塊を構成しているのは無数の声なのだと、感じていた。
幾千、幾万の声を集めて練り合わせ、いちどきに解き放ったのがこの音なのだ。
そう考えた瞬間、唐突に音が止んだ。

気がつけば、辺りは再び新緑の森へとその景色を変じていた。
黒翼の少女が、私をじっと見下ろしていた。
まとまらない思考の中、とにかく何かを問いかけようと口を開こうとした矢先、少女の手が動いた。
何もない空中で、しかし何か、箱のようなものにかけられた幕を取り払うような仕草。
瞬間、三度景色が変わった。


***


そこは、紅い世界だった。
木々の緑を、大地の朱を、透き通る大気をすら、紅く染めるものがあった。
絶え間なく飛沫をあげる鮮血だった。

その中心にいたのは、二人の少女だった。
一人は長い槍のような武器を手に、もう一人は薪を割るような鉈を持って、真紅の森を駆け抜けていた。
返り血に濡れた長い髪が重たげに靡き、手にした刃が閃く度、眼前に立つものが真っ赤な血を噴きながら倒れていく。
同じ顔をした無数の少女たちが十重二十重に取り囲む中、少女たちはまるで燎原の草を刈るように得物を振るい、
その手を、顔を、既に血に塗れていない部分などないような服を、更に赤で塗り込めるように、返り血を浴びていく。
取り囲む側の少女たちは、しかしこの場においては、逃げ惑うこともせずただ諾々と死を待つだけの存在であるかのようだった。

『―――素敵な恋がしたかった』

声がしたのは、断ち割られた眼鏡を陽光に反射させながら、新たな少女が血に塗れて倒れたときだった。
黒翼の少女が口にしたものと思い、反射的に周囲に目をやる。
しかし翼を羽ばたかせる少女の姿は、どこにも見当たらない。

『物語を書いてみたかった』

新たな声がした。
眼鏡の少女が、磔刑に処されるようにその身を貫かれ、傍らの大樹に縫いとめられた瞬間だった。
刃を引き抜かれ、ずるりと地に落ちるその姿を見ながら、悟る。
これは、

「……この子たちの、声」

口にした瞬間、吐き気がした。
朝から何時間も泣いて、泣いて、吐き尽したはずの胃液がこみ上げてくる。
舌の奥に感じる苦い味と刺激臭。
堪える気もなく、吐いた。

『馬に乗ってみたかった』

声は続く。
それは取りも直さず、眼鏡の少女の内の誰かが刃の犠牲になったということだった。
口の中に残る苦味に鉄臭さを感じて、顔を覆う。

『外国の街並を歩いてみたかった』

ずきずきと、頭が痛む。
滲んだ涙は温く粘ついて、私はそれを乱暴に拭う。

『古い映画が見たかった』

蹲っても、声は消えない。
爪が額とこめかみに食い込む痛みだけが、私を支えていた。

『思いきり、歌をうたってみたかった』

幾つも幾つも繰り返されるそれは、ひどくささやかで、どうしようもなく子供じみた、

『しあわせに、なりたかった』

度し難い、生への渇望だった。


「――――――」

声もなく、私は泣いていた。
乾ききった体から最後の一滴までを搾り出すように、涙を流していた。
悲しかったからではない。
ただ、悔しかった。
散り行く少女たちは、最後の瞬間に、幸福を望んでいる。
それは手を伸ばしても届かない希望への、儚い賛歌のはずだった。
ならば、しかし、どうして。

『しあわせに、なりたかった』

幾つも続く、最期の望みを告げる声は、こんなにも。

『だから―――早く殺して』

こんなにも、絶望に満ちている。

「――――――ッ!」

胸の中に、たった一つの名前を思い浮かべる。
生きることは幸せだ、と。
私はずっと、そう教えてきた。
その歩む道が幸せに満ちるようにと願っていた。
曇りのない笑顔がいつまでも続くようにと、祈っていた。
散り行く少女たちの声が、やがてたった一つの、小さな声に変わっていく。
それは、私が心から望み、そして二度と耳にし得ぬ、声だった。

『殺してください』

このみ。
その名を思い浮かべてしまえば、あとはもう堪えきれなかった。
喉も嗄れよと、叫んだ。

―――刹那、声が爆ぜた。


『しあわせになりたい』『殺してください』
『しあわせになりたい』『殺してください』『しあわせになりたい』『殺してください』
『殺してください』『しあわせになりたい』『殺してください』『しあわせになりたい』『殺してください』『しあわせになりたい』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』
『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』『しあわせになりたい』
『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』『殺してください』

「……死なせて、あげる」

ひどく自然に、声が出た。
周囲の景色はいつしか、元に戻っていた。
蒼い空も、木々の緑も、大地の朱も、日輪の白も鮮血の紅もなく、ただ暗く狭いコクピットだけがあった。
小さな光が、いくつか明滅していた。
黒翼の少女の気配はもう、どこにも感じられなかった。

「そんなに苦しい思いをしてるなら、私が殺してあげるから、だから」

囁くような声は、しかし世界を埋め尽くす少女たちの断末魔をかき消すように、響いた。

「―――だから、しあわせになりなさい」

操縦桿を握る。
同時に、計器類が一斉に光を灯した。




【時間:2日目午前11時過ぎ】
【場所:D−4】

柚原春夏
【状態:覚醒】

アヴ・カミュ
【状態:自律行動不能】

ムツミ
【状態:不明】



【場所:E−6】

天沢郁未
【所持品:薙刀】
【状態:戦闘中・不可視の力】

鹿沼葉子
【所持品:鉈】
【状態:戦闘中・光学戰試挑躰】

砧夕霧
【残り9815(到達・7911相当)】
【状態:進軍中】
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