insane girl




水瀬秋子は気絶したままの娘、水瀬名雪を抱きかかえたまま血にまみれ、死臭に満ちた部屋を見渡していた。目と鼻の先に春原陽平の遺体が、そしてそのすぐ後方に上月澪の遺体が転がっている。
酷い事をしてしまった――そんな言葉では済まされない。尊い人命が、守ると誓ったはずの、未来ある生命が一度に二つも奪われてしまった。それも、他ならぬ秋子自身の娘に。
これを行ったのが秋子なら、まだ自分に言い訳のしようがある。娘を守るため、生き残らせるため――だが、前述の通り二人を殺したのは名雪だ。明確な意思を持った殺意の元に二人は殺されたのだ。
秋子は心中で葛藤する。狂ってしまった娘を前に、どのようにすればいいのだろうかと。
秋子がこれまで保ってきたスタンスは『娘に害を為す者を排除し、それ以外は保護する』というものだ。このスタンスを保つためには名雪が『他者に害のない存在』であることが前提条件として必須だった。
しかし今はどうだ。その名雪が一転して『他者に害を与える存在』、つまり敵となってしまった。
勿論秋子の選択肢には名雪を殺すといったものはない。あくまでも我が子の、名雪の命が最優先だった。
なら名雪と共にゲームに乗るか? その考えは色濃く秋子の中に渦巻いていたが頭を縦に振りきれない理由が目の前にあった。
澪の遺体だ。物言わぬ彼女の残骸が秋子にこれ以上過ちをさせるなと言っているように思える。
彼女の笑顔を思い出すだけで、春原達と共に一緒に行くと伝えた時の顔を思い出すだけで、秋子の内にあるドス黒い意思はなりを潜める。たとえそれを押しとどめてこのゲームに乗ってしまったとしても、まだ生きている者の希望を持った顔を見るたびにそれを思い出してしまうだろう。
結局の所、水瀬秋子は修羅にはなりきれなかった。今までに積み重ねてきたものが大きくなり過ぎていたのだ。
最後に出した答えは、二人で人目のつかぬ所へ隠れて名雪の精神が落ち着くまで待とう、というものだった。消極的な案ではあるがこれ以外に方法を思いつかなかったというのが現実だ。
ジェリコ941は名雪の手に余る代物なので没収することにした。こんな物を持っていてはおかしくなってしまう。
ついでに春原や澪の遺品も纏めておくことにする。本人たちには申し訳ないと思うが武器は持っていかせてもらう。
名雪の体をゆっくりと壊れ物を扱うようにフローリングの床に寝かせて、春原や澪のデイパックから荷物を回収していく。まずスタンガン。これは持っていくかどうか迷ったが、万が一また名雪が誰かを襲った時の為に気絶させるための道具として持っていくことにした。
フライパンは持っていても使う機会はないだろうからここに遺しておくことにする。続いてスケッチブックが秋子の目にとまった。名雪が斬りつけた時に落としてしまったのであろうそれは、表紙の所々に澪自身の血液によって赤黒い染みを作っている。
秋子はそのスケッチブックを拾い上げてページを広げる。中身の至るところに澪の残した言葉が満面の星空のようにちりばめられていた。

「…ごめんなさいね」
ただ一言、しかし深い慈しみと悲しみを込めた言葉を呟く。秋子はスケッチブックを閉じ、静かにそれを胸に抱いた。まるで、懺悔をするように。
そうして少しの時間を過ごした後、また作業を再開しようと思った時、秋子は不意に自分の後ろに誰かが立っている気配を感じた。のそりとした、まるで幽鬼のようなゆらゆらとした気配だった。
「お母さん」
一瞬、誰の気配かとも思ったがその声で相手が誰なのかという事をすぐに理解する。振り返ると、そこには名雪がしっかりとした足取りで立っていた。どうやらスタンガンによる後遺症のようなものはないようだ。
ただ一つ思ったのは、いつの間にか名雪は手に包丁を持っていたことだった。包丁自体は秋子が持っていたものであるし、恐らくそれは起き上がってから持ち出したものであることは理解できる。
けれども、どうして今それを手に持っているのだろう?
まだ意識が興奮しているというのだろうか? あるいは、外部から身を守るために本能的に武器を持ったということなのだろうか?
どういうことか答えを図りかねていると、名雪は秋子の顔を見て、こう言った。
「嘘」
何を言ったのか、秋子には理解できなかった。けれども、その次に名雪がとった行動は情報としてすぐに脳に送られてきた。
名雪が包丁を振り上げて、秋子の胸を刺し貫いたのだ!
言葉も何も出せないまま、血の流れてくる胸から焼けるような痛みが鉄砲水のように押し寄せてきた。呆然とするあまり悲鳴も出せなかった。
何故? どうして? あれほど深い絆で結ばれていたはずの、自分だけは何があっても信頼してくれていたはずの名雪が、どうしてこんな事をしているのか、痛みによる混乱が原因ではなく、心の底から本当に分からなかった。
「な、なゆ、なゆ…?」
だから答えを求めて口を開こうとした。すると名雪は胸から包丁を引き抜くと今度は腹部を、それも何ヶ所もメッタ刺しにした。
先程とは比べ物にならない、体中に焼けた鉄の棒を押し当てられたような感覚に、今度こそ秋子は悲鳴を上げた。
「あああああああああァァァァーーーーッ!」
上体のバランスが保てなくなり頭から床に倒れこむ羽目になった。後頭部が勢いよく床にぶつかり、頭の後ろでチリッと火花がはねたような感触がする。
それと共に、秋子の視界から名雪が消える。途端に不安になった秋子の手が虚空を右往左往する。早く、早く名雪を見つけて何故このような事をしたのか問いたださなくては――秋子の頭には、そんな思考しか残っていなかった。

「嘘、嘘、嘘」
単語が三つ。しかし録音した声を三回リピートしたような、まったく同じ声がして、名雪が秋子の視界に顔を覗かせる。それと同時に現れた手には、床と、つまり秋子の体と垂直になるようにして包丁の刃が向いていた。
「こんなお母さんなんて嘘」
そう言ったかと思うと秋子に言葉を返させる暇も無く血のついた包丁が秋子の肩に振り下ろされた。痛みを感じる間もなく刃が引き抜かれ、今度は脇腹に、次は腕に、太腿に、手に、次々と包丁が振り下ろされてゆく。
「わたしの言うことを聞いてくれないお母さんなんてニセモノ」
血があらゆる方向へ飛び散り全身の感覚が瞬く間に消え失せてゆく。始めに聞こえていた悲鳴は、徐々にひぃ、ひぃというか細いものへと移り変わっていた。
「こんなお母さんなんてわたしのお母さんじゃない」
全身を何十ヶ所と刺されながらも、かろうじて秋子は息をしていた。いや、まるで死なせないように、嬲るためだけにこうしているのだとさえ感じさせる。
「だから、この人はニセモノ」
名雪の目が秋子の顔を捉えた。目と目があった瞬間、にたぁ、と薄気味悪く笑う名雪の顔が秋子の瞳に映った。
「ひ…!」
今度は悲鳴すら出せなかった。出す間もなく名雪の包丁が秋子の頬肉を削ぎ落とし、口を裂き、目を抉る。その時にはもはや秋子の声は人間のものではなく、醜い化け物のものへと成り下がっていた。
目を抉られ視力を失いながらも未だ痛みは消えない。そして聞こえてくる名雪の声も止まない。
「お母さんのニセモノなんか死んじゃえ、死んじゃえ、死んじゃえ」
暗闇の中で聞こえてくる呪詛の声は、もはや秋子に恐怖しかもたらさなかった。助けを求めて、秋子は命乞いの言葉を発しようとするが、それはもう声にすらならなかった。
「さよなら、ニセモノ」
ゾッとするほど怜悧な声が秋子の耳に届いたのを最後に、彼女の意識はぷっつりと途絶えた。

     *     *     *

水瀬名雪は、かつて彼女の母親だったもの、水瀬秋子の体が動かなくなるのを確認した後、秋子が整理していた荷物を改めて確認する。
見たところ有効そうな武器は拳銃のジェリコ941しか見当たらない。弾薬はどうなっているのだろうとあちこちいじくり回してみるがさっぱり分からない。
何か説明書のようなものはないかと秋子のデイパックをさらに探ると、奥のほうにくしゃくしゃになったジェリコの説明書があった。早速開いて扱い方を確認する。

今や相沢祐一以外の人間を全て殺すという思考以外残っていない名雪にはいかにして素早く、正確に人を殺すかということのみが重要になっていた。それは即ち、殺戮以外には意識を向けない、言わば戦闘マシーンへの変貌を意味していた。
一通り見渡した後、改めてジェリコを弄る。説明書通りに操作すると、果たしてジェリコの弾倉があっけなく出て名雪の手へと落ちた。マガジンの中身を確認するとそこには弾薬がフルロードされている。
デイパックの中にはまだ三つほどマガジンがあるので当面の心配はないと名雪は思った。
自分一人でも手軽に持ち運べる程度の荷物に整理しなおして名雪は民家を後にする。民家から出た瞬間、眩しいほどの太陽が名雪を照らし出したがその目は黒く濁ったまま、さながらその部分だけ夜の様相を呈していた。
拳銃と包丁を手に持って名雪は進む。ただ一人、相沢祐一を守って二人の世界を守るために。




【時間:2日目7時30分】
【場所:F−02】


水瀬秋子
【所持品:木彫りのヒトデ、支給品一式】
【状態・状況:死亡】

水瀬名雪
【持ち物:IMI ジェリコ941(残弾14/14)、予備弾倉×3、包丁、GPSレーダー、MP3再生機能付携帯電話(時限爆弾入り)、赤いルージュ型拳銃 弾1発入り、青酸カリ入り青いマニキュア、殺虫剤、支給品一式】
【状態:肩に刺し傷(治療済み)、マーダー、祐一以外の全てを抹殺】

【その他:スペツナズナイフは刃が抜け、床に放置されています】
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