63番目のマルタ




「なあ」

あくび交じりの無気力な声が、狭いコクピットの中に響いた。
ブーツの足をどっかりとコンソールの上に投げ出し、自ら腕枕をして寝そべっている女性、神尾晴子の声だった。

「なあ、て」
『―――何でしょう』

理知的な声が、どこからとなく問い返していた。
神像、ウルトリィである。
半眼になって目やにを掻き落としながら、晴子が顎をしゃくる。

「撃たれとるで」
『そのようですね』

打てば響くような声。
ほぼ間を置かず、閃光が迸った。
全方位モニタに映るその光は直下、神塚山山頂からの砲撃だった。
高空からでも補正なしで視認できるほどの巨大な何かが、間断なく周囲に光線を放っている。
その内の幾つかは、上空に浮かぶウルトリィを目掛けて飛んでいた。

「ええんか」
『問題ありません。生半可な術法ではオンカミヤリューの結界を抜くことなど叶いません。
 まして光の術法で、このウルトリィを狙うなどと』
「ほぉ……ご大層なもんやな。さっすが神さんや」

どこか得意げなウルトリィの声に、晴子はぼりぼりと頭を掻きながら答える。
狭いコクピットに隔離されて数時間。
さすがに語彙の限りを尽くしたスラングをがなり立てるのにも疲れたか、悪口雑言は鳴りを潜めていた。
朝方、開き直ったように一眠りした後からは、投げやりな言動ばかりが目立っている。

「なら……アレも心配いらんねんなあ?」

はだけたシャツの胸元に鼻先を突っ込んで顔をしかめながら、晴子が言う。
つまらなそうなその視線の先、モニタに映っていたのは、黒い影だった。
島の北西部、高原池の畔に佇むそれは、跪いてなお周囲の木々より頭一つ抜きん出ている。
木々の緑と紺碧の池、そして漆黒と銀の機体という色彩のコントラストはまるで一幅の絵画のようで、
その周辺だけ時間が静止しているかのようにも感じられた。

「キレイなもんやなー、……ぴくりとも動かへん」

にたにたと気味の悪い微笑みを浮かべる晴子。
すぐにウルトの声が返ってくる。

『……カミュにも大神の加護というものがあります。それに、あの子ならこの程度の術法、
 容易くかわしてみせるでしょう』
「せやから動かへんねやろ」
『……』

沈黙が降りる。
狭いコクピットの中に小さく、奇妙な音色の咆哮が響いていた。
直下、巨大な少女たちの哭く声だった。
額にかかるほつれ毛をかき上げた晴子の視線の先で、光が膨れ上がっていく。

「ハ、ええ感じで気合入っとるやん。……黒んぼの方は、顔上げようともせぇへんな」
『……まさか、カミュの身に何か……』
「どうやろなあ。盛大にぶっ壊れてくれたら笑えるんやけどなあ」

言って、晴子が乱杭歯を見せて笑んだ瞬間。
太陽を思わせる光が、爆ぜた。
絶対の死を内包する蒼白い光芒が、その行く手に存在する何もかもを焼き尽くしながら、黒い機体へ向けて迸る。

『カミュ―――!』


******


その狭いコクピットの中には、沈黙だけがあった。
嗚咽も慟哭も、既にこの場から消えて久しい。
モニタは光を落としていた。
幾つかのランプが点灯しているだけで、あとは闇に包まれている。
外の陽射しも、この漆黒の空間を照らすことはなかった。
そんな中で、柚原春夏はかれこれ数時間もの間、抱えた膝に顔を埋めたまま、じっと動かずにいた。

『……』

その様子を、カミュは黙って見ている。
泣いて、暴れている内はまだ良かった。宥め、慰めることもできた。
だがこうして己の内に閉じこもられてしまえば、もうカミュにできることはなかった。
危険な状態だと、わかってはいた。
泣くにせよ、怒るにせよ、それは感情を発散するということだ。
既に起こってしまったことを、過去として処理するために必要なプロセスだ。
しかし、沈黙と抑鬱はいけない。
それは感情を渦巻かせる行為だ。渦巻かせ、どこにも逃がさないという行為だった。
行き場のない負の感情は沈殿し、やがて腐臭を放つ。
染み付いた臭いは、呼吸の度に全身を駆け巡り、容易くその人間を侵す。
それは端的に、破滅と呼ばれる状態の兆候だった。
手遅れになる前に、外部から、あるいは内部からの刺激で風穴を開けるべきだと理解していた。

しかしカミュには、声をかけることすらできなかった。
春夏の心中は、察するに余りあるものだった。
柚原このみという存在は、正しく春夏の生きる意味だったのだろう。
世界のすべて。己の半身。存在意義。それが、潰えた。
生きる意味、などと軽く言えてしまう自分には何を言う資格もないのだと、カミュは認識していた。
長い長い時間の中でも変わらぬ、否、長すぎる時間を旅するからこそ変われぬ己を、
これほど恨めしく思ったことはない。
だから声もかけられず、それでもただ春夏の傍にだけはいてやろうと、身動き一つすることなく
湖の畔に佇んでいた。

『……?』

違和感を感じたのは、そのときである。
見られている。どこからか、ねっとりとした視線を感じる。
ねめつけるような、舐りつくすような、生理的な嫌悪感を催させる視線。
反射的にセンサーを走らせる。
捕捉。視線の方向は神塚山山頂。そこに、巨大な熱源があった。

いつの間に、とカミュは内心で舌打ちする。
少し前に、山頂で大規模な戦闘があったのは観測していた。
それが収束した後、多数の熱源が再び山頂に集いつつあることも分かっていた。
しかしカミュはそれらに特段の注意を払うことはなかった。
高密度の思念体は先刻の戦闘で消えていたし、集まりつつあるのは極小規模の熱源体だった。
どうとでも対処は可能だと、高を括っていた。
それよりも春夏にこれ以上余計な負担をかけないことの方が重大だった。
判断を誤ったかもしれない、とカミュは苦々しく考える。
山頂には再び高密度の思念体が存在していた。
原理は分からないが、あの群れが変貌したと考えるのが妥当だった。

とはいえ、とカミュは己の身体機能をチェックしながら思考する。
今、己を見つめる思念体は先刻のものよりも一回り小さい。
先ほどの戦闘観測によれば、思念体の攻撃手段は光の術法に近いものだった。
攻撃自体は単調で、直撃を避けることは難しくない。
万が一被弾したとしても、現状では正面から受ける限り被害は軽微で済む。
春夏がこの状態では操縦は不可能だろう。
ならば一時的に制動権を己に戻し、自律稼動で回避を行う。
距離さえ取れば問題はないだろう。
と、思考と並行させていたチェックが終了する。

『え……?』

一瞬、カミュの思考が凍りついた。
返ってきた結果は、明らかな異変を示していた。
システム、オールレッド。

駆動系異常。飛行系異常。循環系異常。接続系異常。術法系異常。異常。異常。異常。
思考と、感覚。それ以外のあらゆる系統が、完全に沈黙していた。
回避機動どころか、指の一本、羽根の一枚に至るまでが自分のものではなくなったように、動かない。
どくり、と。
既に存在しない筈の心臓が鷲掴みにされたような感覚を、カミュは覚えていた。
背後に、熱を感じていた。

山頂の思念体は、確かにこちらを見ていた。
光の術法に似た力を振るう、それは敵だった。
無防備な背に、光が、迫っていた。


***


『死んでいく』

静寂の支配する暗闇に、声が響いていた。
ぼんやりと目を開けた柚原春夏が、小さく口を動かす。

「……」

拒絶を口にするはずの言葉は、しかし声にすらならず消えていく。
乾いた舌とひりつく咽喉が不快だった。
いつから口を開いていないだろうと考えて、春夏は思考を閉ざす。
何も考えたくなかった。
時間の感覚も曖昧なまま、春夏はただ膝を抱えていた。
このまま色々なものが曖昧になって、自分と自分でないものも曖昧になって、何も考えないまま
消えてしまえたら、いくらかは楽になるだろうか。
そんなことを思い、しかし思ったことは端からシャボンのように弾けて消えた。
何もかもが億劫だった。
感情も思考も、あらゆるものが不快で、曖昧で、苦痛だった。
ただ、微睡むように静寂の中にたゆたっていたかった。
再び目を閉じようとする春夏。

『死んでいく』

声は、はっきりと春夏の耳に届いていた。
ぴくりと小さく、本当に小さく、春夏が首を振る。
放っておいてくれという、それは意思表示だった。

『沢山のものが、死んでいく』

声は、止まない。
耳を塞ぐのも労苦に感じて、春夏は静かに目を閉じた。

『生まれるよりも早く死んでいく』

抱えた膝の間に、より深く頭を埋めた。
聞きたくなかった。

『生き終わる瞬間は、唐突に訪れる』

春夏の眉根が寄せられた。

『誰にもそれは止められない』

春夏の奥歯が、小さく鳴った。

『戻らず、戻れず、ただ押し流されるように生き終わる』

爪が、掌に食い込んで血を滲ませた。

『望むと望まざるとにかかわらず』

呼気が、小さな音を立てる。

『それは永劫続く、定命のさだめ』

……て、

『生まれ、生き、生き終わる』

……めて。

『誰の上にも訪れる、それは―――』
「やめてッ!」

叫ぶような、声が出た。

「もうやめて、カミュ! いったい何のつも……」

跳ねるように顔を上げた、その視界。

「……ここ、は……?」

つい先程まで春夏を包んでいたはずの暗闇は、どこにもなかった。
代わりにそこにあったのは、どこまでも冴え冴えと広がる蒼穹。
燦々と照りつける陽射し。風にそよぐ深緑の梢と大地の朱。

『はじめまして、契約者』

そして、その背に黒翼を戴く、一人の少女だった。




【時間:2日目午前11時過ぎ】
【場所:D−4】

 柚原春夏
【状態:絶望】

 アヴ・カミュ
【状態:システムオールレッド・焦燥】

 ムツミ
【状態:異常なし】


【場所:G−6上空】

 神尾晴子
【持ち物:M16】
【状況:軟禁】

 アヴ・ウルトリィ=ミスズ 
【状況:自律操縦モード/それでも、お母さんと一緒】
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