あしたの勇気/受け継ぐもの




空が、悲しみに包まれたような青色になっていた。
すっかり夜も明け、太陽の光が、まばらになっている雲の隙間から差し込んでいるというのに決してそれは温かみのあるようには思えない。
少なくとも彼女、るーこ・きれいなそらにとってそうは思えなかった。
るーこは泣いていた。泣きながら走っていた。
ここに来てから、いやこの星に来てから一度たりとも流した事のないはずの涙が、後から溢れて仕方がなかった。
あの民家から逃げ出して、もうどれほど時間が経っただろうか。永遠よりも長い時間が過ぎたようにさえ思えるが、実際は数十分かそこらだろう。まだ少しひんやりとした空気の匂いが、その証拠だ。
せっかく着替えたはずの衣服は涙と汗でまた濡れていた。以前着ていた服に比べれば防水性能は良かったので、身体に服が張り付くということはなかったがそんな事をとやかく思う余裕はるーこにはない。ただただ彼女はどこへともなく走るだけだった。
けれども、るーこの身体は限界を感じていたようで。
走る速度がだんだん落ちていって、最後には歩くくらいの速さにまでなってしまっていた。
歩き始めると、途端に肺が空気を求めてるーこに呼吸を催促する。それに伴って動悸も激しくなり、たちまち激しい疲労感が彼女を覆った。肩にかけられたデイパックが、訳もなく重く感じる。
走るために前を向いていた顔が徐々にうなだれていって、寥々とした黄土色の地面が視界を占拠する。たまに見える緑色の雑草が、やけにもの寂しく感じられた。
「…うーへい」
つい先程まで共に行動していた、お調子者で、少し臆病なところもあって、だけどこんな無愛想な自分にも良くしてくれた仲間の名前を口にする。感じてしまった寂しさをどうにか紛らわせる為だった。
「…うー…へい…」
けれども、それは彼女にとって逆効果だった。口に出せば出すほど、春原陽平の姿、仕草、表情、声…そして僅かな時間だったが共に過ごした思い出が蘇ってくる。
そして、その人を呼ぶ声は、もう届かない。届けられるとすればそれは遠い先の、空の向こうの世界へと行かなければならないのだ。
つたなく歩いていた足も少しずつ歩幅が狭くなって…そして、とうとう一軒だけぽつんと寂しく佇んでいる倉庫の前で足を止めてしまった。
涙は、未だに止まらなかった。
「…るーは…どうすればいい…?」
地面へと顔を向けたまま誰に言うでもなく問う。答えてくれる仲間が、みんないなくなってしまった(正確には、浩之とみさきはまだ生きているが)。ここに来た当初の自分ならそんな事を尋ねもしなかっただろうが、るーこは知ってしまったのだ――
「教えてくれ…うーへい、うーへい…うーへいっ…!」

――自分が、春原陽平という人間を好きだったという事を。
けれども、全てが手遅れだった。
何もない。大切なものをなくしてしまった。
大事にしていた宝物を、奪われてしまった気持ちだった。
「…休もう」
一時間前まで眠っていたというのに、一日中重労働していたかのように心身ともに疲弊していた。
運がいい事に目の前の倉庫には鍵がかかっていなかった(そこは夜が明ける前まで坂上智代と里村茜が使っていた倉庫で、今はもぬけの空だ)。
ぎぃ、という重苦しい音と共に薄暗い倉庫の中へと入る。誰かがいるかもしれないとも思ったが、今のるーこにはたとえ誰かがいたとしても逃げるだけの余力がなかった。
いっそのこと、ここに誰かが潜んでいて、自分を襲って殺してくれてもいい――そんな風にさえ思っていた。
ところが、倉庫の中には人の気配が感じられない。もう既に出て行ってしまったのかあるいは開けっ放しになっていただけなのか――るーことしては、もうどうでも良い事だった。
少しだけ死ぬ時間が遅くなった、その程度の事である。
とぼとぼと歩いていき、見るからにみすぼらしいソファに身を投げ出すようにして寝転がる。安物らしく、寝心地はよろしくなかった。
るーこは仰向けになり、シミのついた倉庫の天井を眺める。とても空虚で、静かな空間だった。

『そう言えば自己紹介がまだだったね。僕は春原陽平。君は?』
『るーの名前はるーこ。るーこ・きれいなそら』
『るーこちゃんか。これから先よろしくな?』
『るー』

『やめなよ』
『……うーへい?』
『こいつ…泣いてるよ。 そんなやつが殺すわけ無いよ。……少なくとも、こっちの女の子は』

『僕はこういうのには慣れ…いやいや、風邪を引かない鋼鉄の肉体なのさっ! バカは風邪を引かないってね…って、僕はバカじゃねぇよっ』
『ああもうとにかく! しばらく着てていいから! ほら行くよ! こうなったら、まず着替えから探すぞっ』
『…ありがとう』

じっとしていても、思い出すのはこれまでの事ばかり。思い出す度に、また涙が溢れる。
出来事は、だんだん現在へと近づいていく。

『くそっ! るーこ、こらえてくれっ! 僕が必ずなんとかするっ』
『好き勝手にされてたまるか!』

るーこの脳裏に描き出される、あの民家での惨事。この先の結末をるーこは知っている。
「やめろ、やめてくれ…」
思い出すまいとして耳を塞ぐが、響いてくる声を押し留める事など出来はしない。

『そんな…仕込みナイフかよっ…ついてねえや』

頭の中の春原が、ゆっくりと、まるで映画のスローモーションのように動き、そして床に倒れた。
床に広がっていく血の色と匂いが今もそこにあるかのようにリアルに蘇ってくる。
どうしてああなってしまったのか。
記憶の中の自分は、ただ立っているだけで何もすることが出来ない。
誰も守れない。
誰も――救えない。
澪も、春原も、放送で呼ばれてしまった雪見も。
あまりにも、自分は無力だった。
「もう…るーには何もない…こんなるーなんて…」
消えたい。この世からいなくなってしまいたい。何も出来ない、こんな無力な自分など――死んでしまえばいい。
るーこはソファからのそりと起き上がると、自分のデイパックを持ち上げて中にあったウージーサブマシンガンを手に取る。
特有の金属光沢が、やけに凶暴な光を放っているように見える。獲物を、欲しているのだ。
だが、その欲求はすぐに満たされることだろう。何故ならその標的は、るーこ自身なのだから。
喉にウージーの銃身を押し当てる。後は軽く、引き金を引くだけ。
トリガーに指をかけた瞬間の事だった。また、頭の中にあの出来事の続きが出てきたのだ。

『――言ったろ、好き、勝手に、させるか…って』

 + + +

――ああ、そうだ。うーへいは、死に掛けた身体を引き摺ってまでるーの命を救おうとしてくれていた。他の誰でもない、るーの為に。
無力なるーは、ただ駆け寄って意味を為さぬ言葉をかけるだけで…
『るー』の力も、使えないというのに…

ただ根拠もなく、助けると言っていた。
けど、うーへいはそれを知ってるかのように笑って、怒ったりもしないで、ただ一生懸命に伝えるべき言葉を伝えようとしていた。
そう、まるで、想いをるーに託したかのように…うーへいはこう言った。

『――最後まで、戦ってくれよっ』

その言葉を口に出すまで震えていた声が、その時ばかりはまるで震えず、明瞭な、強い意志を含んだ声になっていて、そして――また笑った。
このひとならきっとそうしてくれる。そんな期待と信頼を込めた笑いだという事のように、今は思える。
うーへいは、自分が為すべき事を、出来る限りの事をして死んでいった。
なのにるーは、その想いを受け止めようとせず逃げて、逃げて、最後には死のうとまで考えている。
悲劇のヒロインだと自分に酔って。
何もしていないくせに誰も守れないと言い捨てて。
そんなのは――あまりにも自分勝手だ。
「そうだ…約束した。生き残る、って」

  + + +

るーこは銃身を喉から放し、それを近くにあった机の上へと乗せる。木製の机の上で凶暴な光を宿していたウージーが、ほんの少しだけその光を弱めたかのように見える。
命拾いしたな――そう言っているようにも思えた。
「ああ、まったくだ…また、助けられた」
もう一つ、春原陽平には借りを作ってしまった。きっと、それは一生をかけても返しきれないほど大きいものに違いなかった。
「るーは、もうこれで2度も死んだ。…だからるーは、もう『るーこ・きれいなそら』じゃない」
いつもつけている髪飾りを外す。『るーこ』の名残だ。だから…それと、決別する。
最後に一度だけぎゅっ、と力強く握り締めた後、どこへともなくそれを放り投げた。
小さな花が二つ、くるくると空中で回転する。それは途中でちんっ、と小さな音を立ててぶつかり、しかしぴたりとくっつくようにして離れないまま落ちていった。
それを見届けてから、彼女は呟く。
「これから、ずっとこの地に足をつけて生きていく。あの人と出会った星で、生きていく。
私は…『ルーシー・マリア・ミソラ』だ」
デイパックを拾い上げ、ウージーを手に持ち、踵を返してルーシーは倉庫を後にする。その瞳にはもう、後悔や悲しみは残されてはいない。

澪と、春原の想いを宿して。
その目は、最期まで戦い抜く事を決意していた。
だけど――せめて、思い出の中のあの人だけは、『うーへい』と呼びたい。
一番、大切にしたい呼び名だから。
「…構わないよな、うーへい?」
倉庫から出たときには、眩しすぎるほどの陽光が世界を照らし出していた。
また、長い一日が始まる。
きっと春原がいるであろうその青空へと顔を向けて、ルーシーは微笑む。
「…行ってくるぞ、うーへい」




【時間:2日目7時30分】
【場所:F−02倉庫前】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(30/30)・予備カートリッジ(30発入×5)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。服の着替え完了】
【備考:髪飾りは倉庫の中に投げ捨てた】
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