天空に、届け




ル、と。
奇妙な音が、神塚山山頂に響いていた。
耳を劈くような轟きが、びりびりと大気を震わせる。
文字通り天を仰ぐような大きさにまで膨れ上がった、砧夕霧の咆哮だった。
丸太を束ねたような指で大地を握り締め、四つん這いになった巨大な夕霧は太陽を見つめ、鳴いている。
解放への歓喜にも、哀切に満ちた慟哭にも聞こえる、それは朗々と響く唄だった。

やがてふっつりと、唄がやむ。
四つん這いの格好のまま、夕霧がゆっくりと眼下に広がる沖木島の光景を見渡した。
その巨大な額が、次第に光を帯びていく。
直視を許さぬほどに光量を増した額から、爆発的な光条が迸った。
雲間から射す陽光とも見える白光は、そのまま音もなく島の西側、菅原神社の辺りに着弾し、
そして一帯を薙ぎ払った。

少なくとも着弾の瞬間において、火の手は上がらなかった。
ただ、大地を抉る漆黒の帯だけがそこに残されていた。
草木は燃焼を許されず、一瞬にして炭化させられていたのである。
ほんの少しの間を空けて、爆風の吹き戻しがくる。
赤熱した炭が充分な酸素を得て、そうして改めて炎が噴き上がった。
荒れ狂う風に乗った火の粉が、延焼を拡げていく。
砧夕霧の作り変える世界の、それが最初の領土であるとでも主張するかのように、
そこには炎熱の地獄が現出していた。

ル、と。
再び咆哮が響いた。


******


時は数分を遡る。

「―――仕掛けるぞ小僧、遅れるな」
「自分の心配してろ、爺さん!」

山頂に顔を覗かせた巨大な人型、砧夕霧に向けて、古河秋生と長瀬源蔵は走っていた。
踏み出した足の下で砂礫が舞う。機先を制し、畳みかける狙いだった。
それを逃せば勝機は薄いと、二人は状況を正しく理解していた。
消耗戦に持ち込むだけの余力など残されているはずもなかった。
もはや傷口から流れ出す血液すら、殆どありはしなかった。
矜持と意志、そして魂と呼ばれるものだけが、二人を突き動かしていた。
皹の入った骨、断裂した筋肉、破れた臓腑。そのすべてを無視して、駆ける。

夕霧の巨体が迫る。
山頂付近の同胞をも喰らい尽くし膨れ上がった巨躯の、膨大な質量に耐え切れず、
地面のそこかしこに亀裂が走っていた。
亀裂を飛び越して走る源蔵に、夕霧が重々しく腕を伸ばす。
長い年月を経た大木の如き重量と容積をもった腕が、さながら小さな嵐のような暴風を
巻き起こしながら源蔵を叩き潰そうとする、その動きを阻止したのは赤い閃光である。
伸ばされた夕霧の肘を、外側から撃ち抜く一撃。
夕霧の巨大な眼球が、己に痛打を与えた原因を探すべく、ぎょろりと左右を睨んだ。
一瞬だけ動きが止まる、その隙を逃すことなく源蔵が夕霧の足元へと辿り着いた。

大地に突き立てられた長大な槍の如き脚は、身じろぎ一つで半径数メートルにクレーターを穿つ。
常軌を逸したその威容にも表情を動かすことなく、源蔵が握った拳を解き放った。
まずは左、ジャブ気味に放たれた一発で距離感の補正と手応えを測る。
得られた感触は人間の皮膚。但し重量は無限大。
刹那の間を挟んで、源蔵の拳が輝いた。
食い縛られた歯の隙間から苦しげな呻き声を上げる源蔵。
限界を超えて搾り出された闘気を乗せて、電光石火の右が唸った。

衝撃。
轟音と共に、地響きが辺りを揺るがす。
踝を打ち抜かれた夕霧が、大きくバランスを崩したのだった。
確かな手応えに、続けざまの一撃を叩き込もうと踏み込む源蔵。
しかしその表情は、次の瞬間、驚愕に歪んでいた。
眼前に、怪異があった。

「ぬぅ……!?」

源蔵の拳は、夕霧に確かな傷を与えていた。
人ひとりがすっぽりと入れるほどの裂傷。
しかしその傷痕から、鮮血は流れ出ていなかった。
代わりとでもいうように、皮膚の裂けた踝からずるりと何かがまろび出ていた。
まるで魚の鱗が剥がれ落ちるように大地へと零れたそれは、小さな人型。

「死んでおる……のか……?」

細く、小さな身体。それは山頂に向けて犇いていた、砧夕霧と呼ばれる少女の、本来の姿。
まるで何かに轢き潰されたかのようにひしゃげ、青黒い痣に全身を覆われた、それは遺骸であった。
怪異は続く。
同胞の亡骸を放り捨て、ぽっかりと空いた皮膚の裂け目が、ぐにゃりと歪んだ。
傷痕に向けて、周りの皮膚がぐずぐずと寄り集まっていく。
瘡蓋の如くおぞましくも醜く膨れ上がった傷痕が、刹那、ざわりと融けあった。
水泡とも肉芽とも見えるその醜悪な塊の表面に、一瞬だけ無数の夕霧の顔が浮かび上がり、消えた。
まるで欠損した古い細胞を取り替えるが如く、巨大な夕霧の傷は、癒えていた。

「―――爺さん、何をボヤッとしてやがる!」
「……ッ!」

我に返ったときには遅かった。
あまりに醜悪、あまりに奇怪な夕霧の異様に、足が止まっていた。
見上げた源蔵の眼に、全天を埋め尽くすようにして、巨大な顔が映っていた。
端から端まで、視線を動かさなければ視界に入らないほどの広い額が、光を帯びていた。

「ぬ……ッ!」
「馬鹿野郎……!」

秋生の舌打ちと共に赤光が数発、宙を翔ける。
視界を埋めた巨顔に対していかにも細い赤光はしかし狙い違わず、夕霧の顔面に吸い込まれていく。
嫌気するように、夕霧が小さく首を振った刹那。
極大の閃光が、神塚山山頂に閃いた。


******


ル、と。
咆哮が響いていた。
島が燃えている。

「畜生……好き勝手、やりやがって……!」

咆哮に掻き消されそうな呟きが漏れる。
途端に咳き込んだその口元から、濁った血が零れた。

「……最近の若造は、辛抱が足りぬの」

応えた声にも張りがない。
土気色の肌に、生気はなかった。

「くたばりぞこないの爺いに言われちゃあ、おしまいだな……」
「……ふん」

岩陰に凭れるようにしていたのは、古河秋生と長瀬源蔵である。
乾きかけた血と泥に塗れたその姿は、ややもすれば骸のようにすら見えた。

「小僧、貴様の弾……あとどれだけ撃てる」
「……くだらねえこと聞くなよ。日が暮れるまでだって、……撃ち続けてみせるぜ」

こみ上げてくる喀血をどうにか飲み下しながら応えた秋生の言葉に、しかし源蔵は静かに首を振った。

「……あの、とっておきとやらのことを聞いておる」
「何だと……?」

秋生が表情を険しくする。
源蔵の指しているものが何であるか、悟った表情だった。
先刻の一騎打ちの際、極大の威力をもって放たれた一撃。

「無茶言うなよ、爺さん……あいつは」
「泣き言は聞かん」

断じられ、秋生が二の句を継げずに口を閉ざした。

「豆鉄砲で埒が開かんことは、貴様にも分かっておろう」
「……」

小さく舌打ちをして黙り込む秋生。源蔵の言葉は事実だった。
先程の超回復。否、巨体を構成する無数の夕霧を細胞と見立てた、欠損修復能力。
現状において相対するには最悪に近い能力といえた。
消耗戦に持ち込まれれば、勝機は完全に潰える。

「……何か、考えでもあるのかよ……?」
「うむ……」

秋生が苦々しげに口を開くのに一つ頷いて、源蔵が掠れた声で言う。

「気づいておるか、小僧? あれの傷の治り方……」
「時間がねえんだ、さっさと本題を頼むぜ」
「……これまで、あれに与えた打撃は三箇所。腕、脚、そして……」
「顔だろ……それがどうした」
「……それぞれの傷の治りに、差があるようだの」
「どういうことだ……?」

岩に凭れたまま、秋生が怪訝な顔をする。
記憶を辿るが、源蔵の言葉を追認することはできなかった。

「……あれの顔は完全には治りきっておらん。傷痕が残っておった」
「ん? そいつぁ……」

言外に問い返す秋生に、源蔵が首を縦に振ってみせる。

「頭が弱点なのか、さもなくば……あれの回復にも、限りがある」
「かもしれねえ、って話だろ」
「他に掛札は残っておらんからの」
「違えねえ、がよ……それで、俺のとっておきか」

納得したように頷く秋生。
手の中の銃を見る。

「細かく当てて傷が残る、ってえんなら―――」
「一度に消し飛ばしてしまえば、さて、どうなるかの」
「なるほど、確かに面白え」

傷だらけの顔で悪戯っぽく頷く秋生。
しかし僅かな間を置いて口を開いたときには、その表情は苦々しげなものへと変わっていた。

「……面白えけどよ、そいつはちっとばかし望み薄かもしれねえな」
「……今、何と?」

秋生の口から出た言葉に、源蔵が瞠目する。
厳しい視線を前にして、秋生が苦笑した。

「おいおい、怖え顔すんなよ爺さん。……どうもこうもねえ。
 あんたの考えにゃ、幾つか無理があるんじゃねえかって話さ」
「……聞こうかの」
「まず、第一に」

割れたサングラスの奥で目を細めながら、秋生が人差し指を立ててみせた。

「俺のとっておきは、撃ててあと一発。……そいつも厳しいかもしれねえ。不発ならそれまでだ」
「……」
「で、第二に」

中指を立てる。

「アレは意外とじゃじゃ馬でな。狙ってから撃つまで、時間がかかっちまう。
 ほんの何呼吸分か……化け物姉ちゃんがレーザーぶっ放す方が、確実に早ぇな。
 この時間をどう稼ぐか、ってことだがよ……そいつに絡んで第三の、ついでに言やぁ
 こいつが一番ヤベえ、ってえ問題がある」

薬指を立てた秋生が、胡坐をかいて岩に凭れた姿勢のまま、苦笑の色を濃くした。
空いた手で、滲んだ血が乾き、ごわついたズボンの上から、組んだ脚を軽く叩く。

「……実はよ、さっきので足をやっちまった。たぶんもう、動かねえ」
「小僧……」

途端、源蔵の表情が険しさを増す。
思い起こしたのはつい先程の出来事。巨大な砧夕霧の、最初の砲撃であった。
発射の瞬間に夕霧が顔を振ったことで源蔵への直撃こそ避けられたものの、逸れた閃光は
災厄を撒き散らしながら山頂を駆け巡っていた。
膨大な熱量と爆風、崩落する岩盤と乱れ飛ぶ瓦礫が恐るべき凶器と化す中、
源蔵と秋生がどうにか逃げ込んだのがこの岩陰だった。

「……だからよ、ま、ちっとばかし苦しいな」
「……」

自嘲気味に笑う秋生の顔を、しかし源蔵はこ揺るぎもせずに見据えていた。
土気色の顔で、眼だけは爛々と輝かせたまま源蔵が口の端を上げる。

「つまり小僧、貴様はこう言いたいわけだの―――問題ない、と」
「な……!?」

あまりにも堂々と言い放たれた源蔵の言葉に、秋生が気色ばむ。

「耄碌してんじゃねえぞ爺さん、人の話を聞いてなかったのか……!?」
「やかましい」

一言で斬り捨てられ、思わず言葉の継ぎ穂を失う秋生に、源蔵が
骨と皮ばかりの指を立ててみせた。

「第一に」

狼狽する秋生を嘲笑うかのように、源蔵が先程の秋生の仕草を真似てみせる。
放たれる言葉はしかし、奇妙な威厳に満ちていた。

「一撃あれば事足りると胸を張れ。それが、男子というものだからの」
「ぐ……」
「第二に、そして第三に―――」

言葉に詰まる秋生。
源蔵が、皺だらけの中指と薬指、二本をいっぺんに立てた。

「時間と射界は、わしが作る。貴様はそこで座っておればよい。
 ただ引き金を引く程度なら、腰の抜けた小僧にも務まると考えて構わんの」
「む……無茶苦茶言ってんじゃねえ!」

秋生が、ようやく言葉を発した。
三本の指を立てたままの源蔵を睨みつける。

「何を言い出すかと思えば……ボケたかよ、爺さん!
 時間を作る? ……あの化け物相手に、一人どうしようってんだ! それに、」
「―――誰に」

冷ややかな声に、秋生の言葉が途切れる。
夕霧の咆哮だけが響く奇妙な静けさの中、源蔵が真っ直ぐに秋生の目を見据えながら、言う。

「誰に口をきいておる、小僧」

空気が張り詰める。
それは、聞く者を総毛立たせるような声音だった。

「来栖川が大家令、長瀬源蔵がそれを為すと言っておる。―――ならば、それは成るのだ。必ず」

瞬間、秋生は己の目を疑う。
ひどく霞む視界の中、既に力を失い、歳相応の老体へと戻っているはずの源蔵の姿が、ひどく大きく見えていた。
白髪と、刻まれた皺と、整えられた髭はそのままに、しかし先ほど拳を交えた全盛期の姿をすら超える、それは
長い長い道の果て、遂に結実した一人の男の姿のように、見えた。

「……仕損じるなよ、小僧」

それだけを秋生の耳に残し、源蔵が動いた。
ゆらりと、一見覚束なげな足取りのまま、岩陰から歩み出る。

「お、おい、爺さん……!」

秋生の声にも、振り返らない。
ただ、静かに歩いていく。
その先には、いまだ唄ともつかぬ咆哮を上げ続ける、砧夕霧の巨躯があった。


******


陽炎の揺らめく岩場に、二つの影があった。
ひとつは、一糸纏わぬ少女の人型。唄は、やんでいる。
山頂そのものを抱きすくめるように四つん這いになった、砧夕霧だった。
その巨大な濃灰色の眼球が、二つ目の影を映していた。
少女の体躯からすれば豆粒ほどの大きさのそれは、吐息で己を吹き飛ばしかねないその巨体を前にして
些かも動じた様子なく立っている。
小さな影、長瀬源蔵が、文字通り視界を埋め尽くす夕霧に向かって静かに言葉を紡いだ。

「来栖川の罪……恨みはあらねど、討たずば主名に傷がつく」

優しげにすら聞こえるその声が、再び戦いの幕が開いたことを告げていた。
ゆっくりとした動きで、夕霧が地面についていた手を振り上げる。
同時に源蔵が動いた。一歩めから全力をもって地を踏みしめる動き、疾走。
一瞬遅れて、源蔵の立っていた位置に影が射した。
続いて辺りを揺るがす、轟音と地響き。
夕霧の平手が叩き付けられた大地の引き裂ける悲鳴、そして衝撃だった。

一抱えほどもある岩塊が砂埃のように舞い上がる、その隙間を縫って源蔵が走る。
自身に近づくその小さな影を振り払うように、再び夕霧の手が大地を離れる。
大質量に引きずられて、風が渦を巻いた。
横殴りの暴風を伴った夕霧の腕は、何もかもを呑み込む津波の如く襲い来る。
飛び越すも左右に避けるもかなわぬ圧倒的な容積を前に、源蔵が疾走の方向を変えた。
夕霧の身体に向けた疾走から、迫る腕へと正対する動き。
風に巻き上げられた鋭い石の角が、源蔵の顔にいくつもの傷を作る。
血すら流れず肉を剥き出す傷を気にも留めず、源蔵が疾走のまま、右の拳を引いた。

「長瀬が伝えるは名に非ず、ただ志士の心意気―――」

言葉と共に、握り込んだ拳から黄金の霧が立ち昇りはじめた。
きらきらと光り輝きながら流れる金色が、源蔵の拳から腕を包み込む。
胸を反らし、左の腕を前に、右の腕を後ろに引いた、さながら槍投げの助走のような体勢。
防禦を、そして体の流れを無視した極端な姿勢のまま、源蔵が城壁の如き夕霧の腕に肉薄する。
食い縛られた歯の隙間から鋭い呼気が漏れた、その瞬間。
目一杯に引き絞られた弩から放たれる矢にも等しい、黄金の一撃が奔った。

一瞬の静寂と、爆発的な衝撃。
大地を抉る夕霧の巨腕が、金色の破城槌によって打ち破られ、跳ね上げられる。
反動で皮が破れ、肉が裂けて燻る右腕を省みることなく、源蔵が反転した。
夕霧の身体へ向けて疾走を再開する。
中空から、幾つもの影が山頂に落ちて弾けた。
片腕を砕かれた痛みに思わず立ち上がろうとする夕霧の巨躯、その腕を構成していた、
小さな夕霧たちの遺骸だった。
地に落ちて無数の赤い花を咲かせるそれらに、源蔵は視線すら向けない。
源蔵の目はただ一点、逆光に影を落とす夕霧の額へと向けられていた。
その額が、ぼんやりと光を放ち始めていた。

源蔵が、跳ぶ。
立ち上がりかけた夕霧の、砕かれず残った左の掌が源蔵を叩き落とさんと迫る。
しかし崩れた体勢から振り回された腕に、先刻の津波のような勢いはない。
それを見て取って源蔵は空中で身を捻り、反転して足を向けた。接触。
膨大な質量に轢き潰されるかに見えた瞬間、源蔵の身体が弾丸のように飛び出した。
速度に劣る夕霧の腕をカタパルトと見立て、衝撃を受け流すと同時に莫大な慣性を加速力に転化していた。
飛びゆく方向は夕霧の足、膝関節。

「一心、以て打ち込めば牢固の巌、砂礫と帰し―――」

闘気の霧が、今度は源蔵の左腕を包んだ。
黄金の弾丸が、峰を大地に縫い止める杭の如き夕霧の脚を、撃ち貫いた。
着地。人体の限界を超えた速度を殺しきれず両の膝が砕けるのを感じながら、源蔵が身を引きずるように振り向く。
正面、夕霧の脚を構成していた小さな夕霧たちが源蔵の吶喊で崩れ、流星雨のように大地へと散っていく。
巨大な影が、片足を砕かれて傾いでいた。
凄まじい質量の偏重に耐え切れず、夕霧がその足元の岩盤を踏み砕きながらゆっくりと倒れこもうとする。

「―――万丈の山峰、悉く平らかならん」

爆発にも等しい烈風を巻き起こしながら傾いでいく夕霧の、その上半身が落ち行く先に、源蔵はいた。
見上げる視線の先に、光が射していた。
―――光。
巨大な夕霧の半身に抱きすくめられるような格好で倒れこまれ、陽光を遮られながらも、
しかし源蔵の周囲に影は落ちていなかった。
日輪をすら圧倒する光源が、源蔵の頭上にあった。
源蔵の全身を包む黄金の霧を霞ませる、膨大な光量。
源蔵に向けて倒れこむ巨大な砧夕霧の額が、光を放っていた。
辺りに散乱する小さな夕霧の遺体から飛んだ鮮血が、熱された岩に焦げて嫌な湯気を上げた。

「長瀬は終焉に臨みて屈せず、故に―――」

視界の意味を喪失させる莫大な光の中で、それでも源蔵は真っ直ぐに夕霧の方を見やり、言葉を紡ぐ。
全身を覆う黄金の闘気の下、皮膚がちりちりと焦げて捲れ上がっていくのを感じた。
白髪の先に、小さな炎が灯っていた。
膝の砕けた脚は既に大地に立つ用を為さず、両の腕はひしゃげている。
背に開いた穴からは折れ砕けた肋骨の先端と乾いた臓腑の切れ端が覗いていた。
力なく大地に斃れ伏す筈の長瀬源蔵は、しかし。

「―――故に生涯、不敗なり―――!」

その摂理の全部を無視して、立っていた。
地上に現れたもう一つの太陽が、大地を灼熱の炎で彩り、飾り立てる。
その中心、純白の光の中に、一筋の黄金が煌いた。

砧夕霧の頭部が、弾かれたように跳ね上がった。


******


真っ白な光の中から、巨大な黒い影が飛び出していた。
青空の下、奇妙な咆哮を上げながら天空へと躍り出たそれは、紛れもなく砧夕霧の顔をしていた。

血で固まりかけた髪をはためかせる風の中、古河秋生は静かにそれを見ていた。
大地に片膝をついた、跪射の姿勢。
伸ばされた両手の先には真紅の光があった。
愛銃に灯った赤光を、秋生は深い呼吸の中で意識する。
光はふるふると震え、明滅を繰り返していた。

天空に舞った夕霧の顔が、その上昇速度を落としていく。
息を吐いた。
光が震える。
片目を閉じた。
光が震える。
じっとりと噴き出した汗が、風に吹かれて冷えるのを感じた。
光が、次第にその震えを鎮めていく。
大きく息を吸う。
光の明滅が、止まった。
呼吸を止めた。
赤光が、膨れ上がる。
心臓の鼓動が、両の手を通して銃へと伝わり、赤光と一つになる。
片目を開けた。
夕霧が放物線の頂点に達していた。
その運動が、ゼロになる。

古河秋生が風の中、トリガーを、引き絞った。



雄々、と。
真紅の極大光を追うように、裂帛の気合が秋生の口から迸っていた。
その精根尽き果てる寸前の身体から何もかもを振り絞るような、それは轟きだった。

「ぉぉ―――ぉぉおおおおおオオオオオオオオォォォォッッ!!」

貫けと、ただそれだけの想いを乗せた絶叫に背を押されるように。
天空に伸びた赤光が、吸い込まれるように砧夕霧の頭部へと命中し―――撃ち貫いた。

音もなく、砧夕霧の巨大な頭部が、弾けた。
ほんの一瞬の間を置いて、中空を舞う夕霧の巨躯が、割れ砕けた。
手指の先から、幾体もの夕霧が欠け落ち、ぼろぼろと落ちていく。
残る片足が、頭部を喪った首が、腹が、乳房が、肩が、骨が、内臓が、砧夕霧を構成するありとあらゆる部位の、
そのすべてが、小さな砧夕霧の本来の姿へと戻り、落ちていく。

天空から雨となって降り注いだ砧夕霧は、その悉くが大地へと落ちて物言わぬ骸へと変じていった。
山頂を、山腹を埋め尽くす、真紅の絨毯。
その凄惨な光景を、秋生は息を殺して見つめていた。

「これで……、どうだ……」

知らず、手が震える。
もしも大地に落ちた少女たちの骸が、再び起き上がり、互いを喰い啜りあって復活したら。
そんな悪夢のような想像が脳裏をよぎるのを必死に押し殺しながら、秋生は固唾を呑んで夕霧の骸を睨んでいた。
一秒が過ぎ、二秒が過ぎた。
永遠にも等しいような何十秒かの後、堪えきれなくなって息をついた。
それを何度か繰り返して、そうして古河秋生はようやく、己が勝利を確信したのだった。

「は……はは……」

全身から、力が抜ける。
どうと地面に倒れ、大の字に寝転がって、深く息を吸い込むと、叫んだ。

「やった……! やったぞ、やってやったぞ、畜生め!
 俺たちの……勝ちだ、馬鹿野郎ッ!!」

叫んで、笑う。
ひとしきり笑い終わると、秋生は腹這いになったまま、腕の力だけで移動し始める。
匍匐前進。足はもはや、何の感覚も返してこなかった。
遅々としたその移動の最中に、時折小さな愚痴が混じる。

「ぅ熱ィッ! ……くそったれ、鉄板焼きじゃねえんだぞ……」

進み行く先では、いまだ地面から陽炎が立っていた。
そこかしこで煙が上がり、小さな炎が燻っているところもあった。
ずるずると身体を引きずりながら、秋生はゆっくりと目的の場所へと近づいていく。
熱さは、すぐに感じなくなった。
尖った岩に顔をしかめ、焼けた斜面に血痰を吐きながら、秋生は進む。

「……ちったぁ、バリアフリーってもんを考えやがれ、ってんだ……なぁ?」

長い時間をかけてようやく辿り着いた目的の場所で、秋生はそう毒づいた。
上体を起こす。見上げた視線の先に、立ち尽くす人影があった。

「はン、ノーリアクションたぁ、冷てえな」

苦笑して、項垂れる。
身を起こしているのすら、ひどく億劫だった。
喉がひりつくのに苦労しながら息を整えると、傍らを見やる。

「まぁ、いい。……どうやら俺たちの勝ちみてえだぜ、爺さん。
 ……どうする? 勝負の続きと、洒落込むかい?」

言葉は、返ってこなかった。

「……おい、爺さん? おい……」

伸ばしかけた手が、止まる。溜息を一つ。
戻したその手で尻ポケットをまさぐると、秋生が何かを掴み出した。
くしゃくしゃによれた紙箱のような物から、細長い何かを一本、摘んで口に銜える。
それは、ぼろけた煙草だった。
銜え煙草のまま寝転がると、先端を焼けた地面に押し付けて息を吸う。
小さな炎が灯り、紫煙が立ち昇った。
胸一杯に紫煙を満たし、すぐに咳き込んで身を捩る。唾と一緒に血を吐いた。
たん、と小さな音がした。
秋生が、力なく地面を叩いた音だった。

「最後まで……小僧呼ばわりかよ……!」

風が、吹き抜けた。
細かな塵が舞う。
黒い粉塵は、秋生の傍らに立つ人影から、舞い散っていた。
右の豪拳を天空へと突き上げた格好のまま立ち尽くす人影。
膨大な熱量に焼き尽くされたその骸は、黒く炭化してなお、そこに立っていた。
それが、長瀬源蔵という人物の、最期の姿だった。


******


源蔵の骸の傍らに寝転がったまま、秋生は空を見上げていた。
そうして、自分の命の炎が消えていくのを待つつもりでいた。

どれほどの時間、そうしていただろうか。
その瞬間、吹きぬけた風に小さな音が混ざったような気がして、秋生は視線だけを動かす。
脆くなった岩盤が崩れたか。
それとも、生き残った参加者の誰かが、先程の戦闘を目にして寄ってきたか。
派手な戦闘だった。夕霧の咆哮は島の全域に響いていた。
そこへ光と熱の乱舞だ。気づかないわけがなかった。

「だがよ……ちっとばかり、遅かったな……」

掠れた声で口に出し、小さく笑う。
この山頂では、既に何もかもが終わっていた。
ただ一人生き残っている自分すら、もうすぐに死ぬ。
誰だかは分からないが、この骸の山を目にして、己の登山が徒労に終わったことを知るのだろう。
少し底意地の悪い、悪戯めいた想像に僅かながら気分が良くなる。

「ざまあみろ、だ……」

言いかけたその言葉が、途切れた。
表情からも、笑みが消えていた。

吹き過ぎる風は今やはっきりと物音を伝えてきており、それが自然現象などではないことを主張していた。
寝転がった身体に、小さな振動が伝わってくる。
定期的に響くその振動は、どうやら足音のようだった。
神塚山の山頂に近づいてくる足音は、一つではなかった。二つ、否、三つ。
三つの足音が、地鳴りめいた音を立てて近づいてきていた。

―――風は、ル、と。
咆哮とも唄ともつかぬ声を、秋生の耳に届けていた。

「……おい……おい、勘弁してくれよ、なぁ……」

心胆が、冷えていく。
青空の下、目の前が漆黒に染められていくような錯覚を覚える。
身を起こすだけの気力も体力も、残されてはいなかった。
寝転がったままの低い視界、その向こうに。
三つの、巨大な顔があった。

「爺さん、寝てる場合じゃないぜ……畜生……」

山頂に、咆哮が響き渡っていた。
その声は互いに共鳴し、奇妙に旋律めいて秋生の耳朶を揺さぶっていた。

『―――愛してください。私を。渚を。
 もっともっと、誰にも負けないくらいに、強く愛してください』

不意に、懐かしい声が聞こえた気が、した。
ほんの何日か前に聞いたはずなのに、ひどく懐かしく、遠く、いとおしい声。
ずっと傍にいた、声。
今の今まで戦闘にかまけ、思い出しもしなかった声。

「俺は、どうしようもねえ亭主だったな……」

山頂が陽光の下、白んでいく。
光源は三つ。
互いに反射し合い、増幅された光が、放射される前から山頂の気温を絶望的に押し上げていく。
霞む視界の中で、秋生は己が手の中に残された銃を見やった。
既に殆どの力を使い果たした愛銃。
眼前の脅威に抗すべくもない、ほんのひとかけらの力だけが残された、銃。
光と熱と、音の中で、秋生は目を閉じる。

「なあ、俺は……」

大切な笑顔を、思い浮かべた。
泣き、笑い、その命のすべてで抱きしめてきた、笑顔だった。

「―――俺は、お前のヒーローで、あり続けられたかよ……?」

小さく呟いて、古河秋生はその身に残されたただ一発の光弾を、白みゆく空へと、放った。
同時に閃光が、他のあらゆるものを圧していく。
岩を沸騰させる熱量すら、原初の光の前に膝を折ったかのように、感覚から消え去っていた。
そこには光だけが、あった。

「頼んだぜ……早苗と渚を、守ってやってくれよ……」

それが、最期の言葉だった。
遥か天空へと飛びゆく赤光を、その目に映しながら。
古河秋生は、その生涯を閉じた。




 【時間:二日目午前11時すぎ】
 【場所:F−5、神塚山山頂】

古河秋生
 【状態:死亡】
長瀬源蔵
 【状態:死亡】

融合砧夕霧【3812体相当】
 【状態:死亡】

融合砧夕霧【1584体相当】
 【状態:到達】
融合砧夕霧【2851体相当】
 【状態:到達】
融合砧夕霧【1996体相当】
 【状態:到達】

砧夕霧
 【残り14892(到達0)】
 【状態:進軍中】
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