憎しみを呼ぶ音




「ちくしょうっ! 弥生さん…何て早まった事を!」
消防署を飛び出した冬弥は全力疾走のまま森の中へと逃げ込んだ。
こちらはほぼ丸腰、対する弥生はほぼ新品同様のP-90が手元にある。はっきり言って戦力差は絶望的だ。反撃するなんてとんでもない状況だった。
七瀬留美や折原浩平と見解の相違があったとはいえ別れてきてしまったのは大失敗だったのだ。それと、安易に余計な事を話してしまった自分の愚かしさにも。
いつ如何なる時でも冷静に、現実を把握して理にかなった行動を起こす弥生ならば、そんな与太話なんて信じないと決め付けていたのだ。
今さらながらに、冬弥はこの島に巣食う狂気と言う名の悪魔の恐ろしさを理解できたような気がした。
「く…しかし」
今は腐ってる場合ではない。何とかして目の前の脅威から逃げ切る必要があった。相手はアサルトライフル。一度でも止まってしまえば、いやそれどころか一直線上に並ばれただけで終わりだ。今はまだ森の中にいるし、ジグザグに走っているから易々と当たりはしないはず。
弥生もそれを理解してか、見失わない程度に後ろにぴったりとマークしている。今は、安全。だが――
体力のあるうちは、まだいい。だが所詮冬弥は一般人…限界は必ず来る。いかに弥生が女性だとは言ってもジグザグに走っている冬弥と見失わない程度に直線上に尾けてきている弥生では体力差など簡単にひっくり返されてしまうはずだ。
寧ろ、弥生はそれを狙っていると冬弥は思った。この殺し合いに時間制限なんて概念はないのだ。即ち、走り疲れて足の止まったところを一発、軽く撃ち込めばいい。
P-90が高性能でも銃である以上弾切れという事を忘れてはならない。冬弥一人を倒すためだけに全弾を使い切るほど、弥生は頭が悪くない。
だからこそ、今こうして冬弥は生きているのであるが――それは『生かされている』に過ぎない。
そう思うと、冬弥はまるで、囲いの中を走り回る野ウサギのような気分になった。どんなに逃げてもいずれ追いつかれるのではないか――
そう考えた次の瞬間、冬弥の足が何かに掬われ大きく体がバランスを崩す。余計な事に気を取られ、足元への注意を怠ったせいだった。
足を掬ったものが木の根だと気づいた時には既に、冬弥の体が地面に打ち付けられていた。同時に、まるで死神の鎌が振り下ろされるような感覚が冬弥を覆った、いや、覆いきる前にもはや本能だけで体を叩き起こした。
しかしそれでも遅く――P-90の銃声が数発聞こえ、放たれた銃弾という矢が冬弥の足に突き刺さった。
「あぐっ!」
起こしかけた体が再び倒れる。二度地面と熱い抱擁を交わした冬弥の服は見るも無残に汚れる事となった。

ああ、これ結構高かった服なんだよな――
いや、と冬弥は思う。こんなときに服のことを気にしてる俺ってば余裕のある人間だな、おい。
失笑ともとれる声が漏れ、今度こそ殺されるんだろうな、と冬弥は思った。
まさにミイラ取りがミイラになったって感じだ。それだけじゃない、由綺や理奈、はるかの敵を討てないままこうして一人で死んでいくのだ。
殺し合いの結末としてはあまりにありふれた、しかし無常な結末だった。
「鬼ごっこはここまでのようですね」
天から見下ろすような弥生の声がして、ぐりっと硬いもの(P-90に間違いない、というかそれしかないな)が頭に押し付けられた。外さないためだろうが、そんな事をしなくてももうこっちには逃げ切るだけの体力が残っていないというのに。
相変わらず、念には念をいれる人だった。
そんないつも通りの弥生を前に、冬弥が息も絶え絶えに返答する。
「ええ…ですがもう、俺に逃げる役は回ってこないんでしょうね」
「はい、残念ですが。そして、追いかける役も」
平板な声。どこまでも事務的な、黙々と仕事をこなすような感情のない声だ。情にすがる、なんてのは持っての外だろう。
「ですが、安心して下さい。由綺さんの敵は必ずこの私が取ってみせます」
平板な声に隠れて見え辛いが、きっと心の奥底では復讐の炎が燃え盛っているのだろうな、と冬弥は思う。いっその事、このまま理奈やはるかの敵討ちも頼もうか、とも考えたが元々由綺以外には無関心な弥生の事だ。きっと断られるだろう。
「…弥生さん、最後に一つ忠告しておきます」
だから、これからも無慈悲な殺戮を続けるであろうこの女性にきっとこれも聞き入れられないんだろうなと思いつつアドバイスをする。
「無闇矢鱈と人は襲わない方がいいですよ。恨みを買って、何人もの人間をたった一人で相手にすると勝ち目はありませんから」
恐らく、弥生は味方を作る気はないだろう。ならばせめてこの人には一人でも殺す人数を抑えて欲しいと思ったからだ。
お人好しだなと今度は自嘲する。こんな調子だからこんなところで殺されるのかもしれない。
弥生は「…考慮に入れておきます」と少しだけ間をおいてから言った。
言葉だけかもしれない。だがきっぱりと断られるよりはまだ救いがあった。だから冬弥は「ありがとうございます」と謝辞を述べた。
後は引き金が引かれるのを待つだけ――そのはずだった。
「あ…あなた! 藤井さんに何してるのよっ!」
つい何時間か前に聞いた声。けれども、とても懐かしく感じられる声。姿を確認できないまでも、冬弥には声の主が誰だか、ハッキリと分かってしまった。
「な…七瀬、さん?」

銃口で頭を地面に押し付けられたまま、冬弥は言った。そう、幸か不幸か、そこにいるのは。
七瀬留美、その人だった。
     *     *     *
遡ること数十分前。七瀬留美と柚木詩子のコンビは自転車を二人乗りしつつ平瀬村へと向かっていた。
沖木島は十分に道が整備されていないため、疾走を続けている自転車は上下に激しく揺れる。当然の事ながら、後部の荷台に乗っている詩子はただでは済まない。
「お、おうっおうっ! お、お尻、お尻痛い! 七瀬さん、もうちょっとマイルドに走ってよ」
「仕方ないでしょ、急いでるんだから。これくらい我慢して」
「いや、キツいんだってホントに! あ、あうあうっ! 痔が!痔ができるぅっ!」
絶叫とともに恥ずかしい言葉が虚空へと飛ぶ。七瀬は心中で「よく素でそんな事が言えるなあ」と思いながら仕方なく速度を落とした。
振動が緩やかになり、ようやくの安息を得た詩子が肺の中の空気を全部吐き出すようにため息をつく。
それにしても随分漕いで来たように思うが今自分達はどこにいるのだろう、と七瀬は思ったので後部にてリラックスしている詩子へと向けて自転車を漕ぎながら声をかけた。
「ねえ柚木さん、もう結構進んできたように思うけど今どのあたりにいるのかな?」
ん、と返事して詩子はデイパックから支給品の地図を取り出す。それからたっぷり時間をかけて見回した後、逆に七瀬に問うた。
「七瀬さん、あたし達ってホテル跡って通り過ぎたっけ?」
「ホテル?」と自分で言って、それらしいものは見つけても通ってもいない事に気づく。真っ直ぐ下れば平瀬村へ着けるのではないかと思っていたのだが…
「うん、道なりに進むんだったら必ずホテルの前は通り過ぎるはずなんだよね。けど…」
「…通ってない」
シーン、と静まり返る二人。きこきこという自転車のペダルを踏む音だけが不規則に響く。
「あの、七瀬さんさ、あまり言いたくないんだけど…ひょっとして、あたし達…」
詩子の声が、自信なさげなものへと変わる。もちろん、その先など言わなくても七瀬には分かる。方向を間違えたのだ、自分達は。
それはある意味、仕方のない事でもあった。土地勘がまったくない上、冬弥云々の件で心に焦りがあった七瀬たちが道に迷ってしまうのは当然とも言える。
「…どうしよう?」
七瀬の口から出てきたのはそんな言葉だった。よくよく考えてみれば、道なりに進んできたと言ってもほとんど舗装などされておらず悪路を通り越して獣道に近い道を通ってきたのだ(だからこそ自転車があんなに揺れたのだが)。
しかもこの地図だって大まかな道が描かれているだけで細かい道までは網羅していない。ここに描かれていない道を通ってきている可能性だって、十分にあった。

言われた詩子は、「どうするったって…」と自分も困ったように顔をしかめると「戻るしかないんじゃない?」と提案した。
「戻るったって、どこから出発したのかも覚えてないんだけど」
七瀬たちと美佐枝たちが別れた地点は森の中。目印なんてあるわけないし、あっても覚えてない。つまり、七瀬たちは完全に立ち往生。もちろん誰かに道を聞くなんて事も出来ない。あらあら、待ちぼうけですか、かわいそうに。
「ま、まあ、下ってけば取り敢えずどこかの麓には出られるよね? うん」
誤魔化すように詩子がぽんぽんと七瀬の肩を叩き、あははと大げさに笑った。
「そうね、そうよね…うん、黙って突っ立ってるよりはまず行動よね! よし、行こう柚木さん!」
「おっけーべいびー!」
無理矢理にテンションをあげて再び自転車に乗り込む二人。勢いのままにペダルを漕ぎ出そうとして、七瀬の耳にたたた、という軽い音が聞こえてきた。
「!? 止まるわよ柚木さん!」
「はい?」と詩子が疑問を投げかけるまでもなく勢いのついた自転車を急ストップさせる七瀬。
「のわーっ!」
いきなり自転車の勢いが削がれたせいで慣性をもろに受けバランスを崩す詩子。そのまま七瀬の背中に顔をぶつけ、自転車から転落した。
「いった〜…ちょ、いきなり何なのよ七瀬さん!」
怒る詩子だが、七瀬の顔はそれ以上に険しい顔つきであった。その雰囲気に、詩子の怒りはすぐに削がれてしまう。その七瀬は音の聞こえてきた方向を指して、
「ねえ、今あっちから銃声みたいなのが聞こえてこなかった!?」
言われて、ようやく詩子はああ、そう言えばそんな音が聞こえたような聞こえなかったような、と間抜けな答えを返した。
「いや、あれは銃声よ、間違いなく! それに…あの音、以前聞いたことがあるような気がするの」
銃声の種類なんて分かるのだろうかと詩子は思ったが、今はそんな事を気にかけている場合ではない。
「け、けどさ、銃声ってもあたし達を狙ってるんじゃないでしょ? だったらこのまま無視しても…」
「気になるのよ」
そう言うが早いか、七瀬は一人で自転車に乗り込むと音のしたと思われる方向へと漕ぎ出した。
「あ! ちょ、ちょっと七瀬さん! 危ないし、平瀬村はどうすんのよ! 行かない方がいいって!」
慌てて追いかける詩子だが七瀬に止まる気配はない。まったく訳が分からなかった。
今の詩子と七瀬にとって優先するべき事項は平瀬村へと向かう事だ。わざわざ危険に身を晒す必要性はないのだ。
さっきの銃声の張本人が七瀬の探している藤井冬弥だという可能性もなくはないが、その考えは詩子の頭には無かった、というより、思いつかなかったのだ。
詩子にとっての第一目的は親友の里村茜や折原浩平の探索であり、冬弥や柏木千鶴の説得はその次に過ぎない。

けれども、こうして七瀬を追いかけている詩子は、やはり冷たくなりきれぬ人間であった。それを分かっているのか純粋に早く行きたいためか、七瀬は振り向かずに叫ぶ。
「柚木さんは先に村に行ってて! 誰がやりあってるのか確認したらすぐに追いつくから!」
「だ、だから、それが危ないんだって〜! ぜぇ、ぜぇ…」
懸命に走る詩子だが足と自転車では速度が違う。次第に二人の距離は離れていく。
「ごめん柚木さん、これは勘だけど…ものすごく嫌な予感がするの! だから私、行かなくちゃいけない!」
そう言い残すと、七瀬はさらにスピードを上げて詩子との距離を離した。これではいかな俊足の詩子でも追いつくことなど到底不可能である。それでも走る詩子だったが、息切れと共に七瀬の姿が森の中へと消えていった。
完全に見失ってしまうと、詩子は額から汗を流しながら荒い呼吸を何度も吐き出した。そして、またポツンと一人、森の中で立ち往生することになった。
「…七瀬さん、バカだよ」
それはわざわざ危険に飛び込んでいったものに対してか、一人で行ってしまった事に対してなのかは、詩子本人にも分からなかった。
さて、詩子を一人残してきた七瀬は彼女の事を気にかけながらも思考を銃声の主について切り替えていた。一体、犯人はどこに?
全力で漕いでいるからか、息が荒い。動悸が激しい。女性とはかくもこのように体力が無かったのかと七瀬は落胆する。
かつての剣道部が、このざまか。
半ば吐き捨てるように自らに毒を吐く。し、同じような風景が続く森を血眼になって見回す。半分余所見しているようなものなので転んでも文句は言えない。けれども、そんな事を気にしてはいられない。
これは詩子にも言った通り、勘だ。勘にしか過ぎないが、確かに、あの時聞いた銃声は以前冬弥がたった一発だけ放ったP-90――かつての七瀬の支給品――のように思えた。
当然の事ながら、それが間違いである可能性は大いにある。むしろ間違いである可能性の方が遥かに大きいのだ。
しかし、それでも七瀬は確かめずにはいられなかった。それが冬弥に繋がるものならばたとえ1%でも可能性のある限りそこへ向かわねばならないのだ。
そして、その想いが生み出した奇跡か偶然か、七瀬の耳がある言葉を捉えた。
「…弥生さん、最後に一つ忠告しておきます」
「…! 今の声は、藤井さん…間違いない、藤井さんよ!」
しっかりと聞き取れた。懐かしい声。しかし、ついさっき聞いたような声。
俄に七瀬の心が昂る。ようやく見つけたという喜び。人の死を招く銃弾が二人を合わせたというのは皮肉な事であるが、けれども、とにかく、見つけることが出来たのだ。

だが聞こえた言葉から推測するに、冬弥は今この瞬間、誰かを殺そうとしている。それも名前を呼んでいた事から、知人だ。
冬弥が見せたゲームに対する姿勢から、能動的に無抵抗な人間を攻撃しているとは考えにくい。だとすればすなわち、冬弥は知人が『乗って』いるのを確認してしまい、已む無く射殺しようとしているのだ!
「駄目…そんなの、私が許さないからね、藤井さん!」
出会った時に、共に行動している時に見せてくれたあの優しさは嘘偽りなんかじゃない。
優しいから、こんな事をしているんだ。
七瀬は冬弥にこれ以上の過ちを犯させないため、勢いをそのままに自転車で冬弥の方向へ突っ込んだ。
だが、しかし――そこには七瀬が予想していたような光景とはまったく逆で…
見えたのは…
「あ…あなた! 藤井さんに何してるのよっ!」
倒れている冬弥に銃口を突きつけ、すぐにでも引き金を引かんとしている女の姿があった。
「な…七瀬、さん?」
地面にうつ伏せになっている冬弥が、苦しげに声を吐き出す。よくよく見れば足元からは赤い血溜まりが形成されている。きっと、さっきの銃声の所為だろう。
あまりにも想像と違う光景に困惑しながらも、七瀬は怒りを包み隠すことなく言葉をぶちまける。
「藤井さんから離れなさいっ! 離れないと…撃つわよ」
自転車から飛び降り、大型拳銃であるデザート・イーグル(.44マグナム版)を構える。だが銃口を向けられているはずの長髪の女、篠塚弥生はまったく臆する事無く、それどころかいきなり目の前に現れ、冬弥の名前を呼んだこの第三者を鬱陶しくすら思った。
弥生にしてみればいざ止めを刺す段階になって水を指したこの七瀬留美は邪魔者以外の何者でもない。たとえ藤井冬弥の知り合いだろうが何だろうが、邪魔をすれば殺すのみ。
幸いにして冬弥の足は奪ったも同然であるしその上丸腰だ。殺すのを後回しにしたところで問題など無い。
寧ろ武器、それも銃を持っているのだ。殺して装備を奪い、生存確率を高めるのは当然。
いち早く思考を切り替えた弥生はP-90の銃口を無言で七瀬に向ける。
弥生の合理的な性格をよく知っている冬弥は、すぐさま静止にかかった。
「やめて下さい! その女の子は無関係です!」
だが当たり前のように弥生は聞く耳を持たない。ならばどうすればいいか。答えは――身体を張る、それしか無かった。
指が引き金にかかる寸前、冬弥が上半身の力だけで起き上がり弥生に組み付いた。
「七瀬さん! 逃げてくれっ! この人はもう誰にも容赦しないんだ!」
言い終わると同時に二人の体がバランスを崩しごろごろと地面を転がっていく。
思わぬ反撃に僅かながらに苛立ちの表情を見せた弥生が底冷えのするような冷徹な声で囁く。

「藤井さん…邪魔をするならあなたから先に殺しますよ」
上等だよ。冬弥は心中で啖呵を切る。どうせ殺される予定だったのだ、なら女の子の一人くらい助けたっていいじゃないか?
「ふ、藤井さんっ! やめて! 殺されちゃうよ!」
七瀬が悲鳴に近い声を上げる。未だにデザート・イーグルを向けているが冬弥と弥生はかなり密着しているのだ。撃てば間違いなくどちらにも当たる。
「頼む、逃げてくれよ…俺なんかのために七瀬さんが死ぬことはないんだ!」
弥生がP-90を振り上げようとするのを必死で押さえつける。だが体勢がまずい。今の体勢は弥生が冬弥にマウントを取っているような格好だ。これでは力が入らない、それに下半身も力が入らない。
弥生の拘束が解けるのに時間はかからないはずだ。P-90を握っている腕を放せば――肉塊になるのは火を見るより明らかだった。
クソ、牛か豚かの解体ショーだ、まるで。ご覧ください、世にも珍しい人間の挽き肉です――
一瞬想像して、冬弥は吐き気を覚えた。
いや、それよりも七瀬留美だ。七瀬留美は、もう逃げたのだろうか?
視線だけを七瀬のいる方向へ向ける。だが、冬弥の思い通りにはいかず七瀬留美はまだデザート・イーグルを構えて立ち止まっていた。
どうしてなんだ、と冬弥は落胆を越して怒りさえ覚える。どうして逃げてくれないのか。
だが、七瀬にとって、藤井冬弥はこの狂気に包まれた島でよくしてくれた数少ない人間であり――本人はまだ気づいていないが――想いを寄せている人間だったからだ。
「だめ…だめ、逃げることなんて出来ないよ、藤井さん――」
どうしていいのか分からず、ただただ立ち尽くすだけの七瀬。だがこんなことをしていても喜ぶのは篠塚弥生ただ一人だけ。逃げてもらわなければ意味が無いのだ!
「…そろそろ、終わりにしましょう? 藤井さん」
弥生の腕に更に力が入る。冬弥の筋肉が悲鳴を上げ、今にも千切れんばかりの苦痛が走った。
ああ、もうちょっと鍛えておくんだったな、と後悔する。しかし後悔したところで何が変わるわけでもない。今出来る事を、自分一人に出来る事をするしかないのだ。
この膠着をどうにかしたいのは冬弥とて同じ。もはや冬弥一人の体力ではどうにもできない。
何とかできるものはないか。弥生の銃を掴むのはそのままに、少しでも突破口を開けそうなものは無いかと周囲の地形を見渡す。
ふと、冬弥は視界の隅で、地面が途切れているのを見つけた。違う、途切れているのではない。崖か、あるいはそれに近い形の地形になっているのだ。
という事は、一度落ちてしまえば上ってくるのには苦労するはず。いや、そんなに高さはなくとも七瀬が逃げるのには十分な時間が稼げる。
七瀬さんが迷っているのは、俺がまだ生きているからなのだ、たぶん。
俺のようなどうしようもない奴を、七瀬さんは助けようとしてくれている。それはとても嬉しい事だ。

だから、と冬弥は考える。
その優しさを、他の助けを必要としている奴に向けさせてあげなければならないのだ。
七瀬留美はここで死なせるべき人間ではない。
ここで死ぬのは、藤井冬弥という恨みに取り憑かれた馬鹿な男一人で十分なのだから。
「そうですね、もう俺達の殺し合いを終わらせましょう…弥生さん!」
冬弥が雄叫びを上げる。次の瞬間、もう動くことの無いはずの、P-90に撃ちぬかれた冬弥の両足が弥生に牙を向いた。まるで、テリトリーに侵入され敵を追い払おうと必死になる野犬のように。
「ぐっ!?」
真下からガード不可能な蹴りが弥生の腹部に突き刺さる。その魂を込めた槍が弥生の力を緩め、同時に冬弥の足にも更なるダメージを与える。
諸刃の剣。そんな言葉がぴったりだと冬弥は思う。そんな武器を装備して戦っているのだ、負け犬の自分は。
間髪入れず手の力を真横に傾けて弥生を巻き込みながらあの向こう、途切れた道の向こうへと転がっていく。
「あ…っ!」
転がっていく二人の、その先を見た七瀬が慌ててそれを止めに行こうとしたが、一歩遅かった。
二人の身体が転がり落ちていく。
     *     *     *
「藤井さん…あなた…!」
弥生の顔が驚きと怒りで歪む。初めて、弥生の顔色が変わった。それは英二でさえも中々出来ない事であろう。
「このまま二人で心中っていうのもちょっとロマンチックじゃないですか、弥生さん?」
「冗談を…!」
たまったものではない、と弥生は思う。落ちる直前にチラリと確認したが高さはそれほどでもない。
だがまともに受身も取れずに落ちたならば少なからず傷を負う。
英二に一度手傷を負わされているのだ、傷口が開かないとも限らない。
緒方英二。
藤井冬弥。
どうして揃いも揃って邪魔をするのか。
冗談じゃない。
このまま冬弥の思い通りにさせてたまるものか。手傷の一つも…このような一度死んだ男に負わされてたまるものか!
生き残って、由綺さんを生き返らせて、スターダムにのし上げるのは…この篠塚弥生だ!
弥生の執念が、腹を括った冬弥の底力を捻じ伏せる。
「死ぬのは貴方一人で十分です…ぉああっ!」
誰もが聞いたことのない弥生の叫び。森の木々をも震わすような裂帛の雄叫び。それに僅かながら冬弥の力が緩んだのを、それでいてなお冷静な弥生が見逃すはずも無い。

時間にして1秒もなかっただろうが、それは決定的な1秒になってしまった。
力任せに身体を捻り、空中で冬弥の上を取って、無理矢理にP-90の銃弾を下――即ち冬弥の身体に――ぶちまけていった。
「がはっ……!!」
乱射気味だったとは言え、超至近距離から発射された銃弾が本当の、決定打を与える。
ほとんど即死だった。内臓の殆どをぐちゃぐちゃに荒らされた冬弥の体が、急速にその機能を失う。それに伴い、意識も散大してゆく。まるで、砂糖が水に溶けてゆくように。
最後の声を上げることすら出来ず、感覚がなくなりつつある中で冬弥が感じたのは。
地面に落ち、また同時にその体が弥生のクッションとなり残っていた内臓が醜く散らばる、グチャリという汚い音だった。
――ゲームセットだ、青年。
そんな英二の声が、聞こえたように思った。
     *     *     *
「…ふぅ」
服と顔を血に染めて、見るも無残な死体と化した冬弥から立ち上がったのは、篠塚弥生。
血まみれではあるが、傷は一つも負ってはいなかった。
だが冬弥の死は無駄ではない。結果として一方的な弥生の勝利であるが、七瀬留美を仕留める事は出来そうになかった。
それどころか、上から狙撃される恐れすらあるのだ。口惜しいが、ここはひとまず退散して次に備えるべきだ、と弥生は判断し素早く森の奥へと駆けていった。
それから数分が経った頃だろうか。ぼろ布のようになってしまった、かつて藤井冬弥と言われた男の目の前で一人の少女が呆然と立ち尽くしていた。
七瀬留美。この絶望しか存在しない島で冬弥と出会い、しばらくの間ではあるが行動を共にし、そして少しづつ心惹かれていた少女。
そんな七瀬にとって、今目の前に広がるこの光景はまさに地獄としか言いようがなかった。
「ウソ…ウソでしょ…どうしてこうなっちゃったの?」
やっと逢えたはずなのに、もういなくなってしまったという絶望。
本当は助けてやれたはずなのに、何も出来なかったという無力感。
そして、その原因である篠塚弥生への怒りと憎しみ。
その全てがミキサーで掻き回されたように、感情が七瀬の頭でぐるぐると回転を繰り返している。
これがただの悪夢であってくれたら――何度そう、切に願っただろうか?
まばたきさえもする事を忘れた目から止め処なく涙が溢れてくる。
「…どうして?」
反芻する。答えはない。
「…ねえ、教えてよ藤井さん」

地面に膝をついて、今にも千切れそうな冬弥の体を必死に揺さぶり答えを求める。けれども、答えはない。
狂乱して、七瀬は冬弥の体を叩きつけるように持ち上げては落とす。しかし気味の悪い水音がするばかりで何も反応はなかった。
「いや…いやよ、そんなの、何でこんなことにならなくっちゃいけないの? だって、わたしも、藤井さんだって、何も」
ぶちっ。
そんな音がして、冬弥の千切れかけていた体が今度こそ二つに分かれる。下半身は地面に。そして上半身は、七瀬の腕の中に。
「あっ、あ、ああああああああああああ…」
覗いた肉から赤い染みが広がる。生々しい鮮血の匂いが新たに作られていく。
そのべったりとついた冬弥の血が。
七瀬の鼻腔をくすぐるかつての生者の名残が。
目を閉じて死ぬことさえ叶わなかった、虚ろな瞳が。
彼女を、二度と戻れぬ闇の世界へと誘った。
「…そうか、そうよ、それしか…ないのよ、私には」
答えは得られない。ならば自分で答えを導き出すしかなかった。
未だに涙を滴らせながら、だがそれは悲しみの涙ではなく。
「殺す…殺してやる…! あの女…絶対に! 優勝なんかさせやしない!」
憎悪の涙を湛えて。
「この私を殺さなかった事を後悔させてやる…! なめないでよ、七瀬なのよ、私はっ!」
藤井冬弥の願った彼女の優しさは、もう誰にも向けられる事はない。
充血した目は、まるで鬼のよう。
食い縛った歯は、まるで吸血鬼のように尖っていて。
浮き上がる血管には、夜さえも染めるような赤黒い血が流れて。
「誰にも邪魔はさせない…それでも邪魔する奴がいたら…片っ端からブッ殺してやるわ!」
そう、その姿を、何と表現すれば事足りるだろうか?

それは――悪鬼。




【時間:2日目8:00】
【場所:E-05】

篠塚弥生
【持ち物:支給品一式、P-90(34/50)】
【状態:ゲームに乗る。一時撤退。脇腹の辺りに傷(痛むが行動に概ね支障なし)】

藤井冬弥
【所持品:支給品一式】
【状態:死亡、支給品は崖の上に放置】

柚木詩子
【持ち物:ニューナンブM60(5発装填)、予備弾丸2セット(10発)、鉈、包丁、他支給品一式】
【状態:置いてけぼり。とりあえず平瀬村へ向かおうかな?千鶴と出会えたら可能ならば説得する】

七瀬留美
【所持品1:折りたたみ式自転車、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾6/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、H&K SMG‖(6/30)、予備マガジン(30発入り)×4、スタングレネード×1、何かの充電機、ノートパソコン】
【所持品2:支給品一式(3人分)】
【状態:弥生の殺害を狙う、邪魔する者も排除、激しい憎悪】
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